
(若尾眞一郎先生)
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創形美術学校は1969年創立以来、ファインアート分野でのユニークな専門学校であった。しかし同時に安定した受験生確保は大きな課題であったし、新しいイメージチェンジの発想も模索していた。デザイン科の新設はそのような状況の中で打ち出された。とはいっても油絵と版画の長い歴史の中でデザインの出現は、特に教員には相当の戸惑いがあった。共に担当した秋山孝(現多摩美術大学教授)と僕は故堀井英男先生や上野遒先生達の顔を恐る恐る見ながら、ルーキーのサービス精神を発揮してプレゼンテーションをこなしていた。例えば、ファインアート科の純粋美術に対して、デザインは不純美術(本当は応用美術)などといって、自らを下げすましていた。
さて、発足にあたってデザイン科にどのような特徴を持たせるかが最も重要であった。僕達は何回となく議論を重ねながら結論として都心から離れている創形に「デザインの現場と臨場感」を持ち込むことだった。他の専門学校や美術大学との差別化はこれしか無かった。はたして超多忙で名だたるクリエイター達が国立までわざわざ教えに来てくれるだろうか……?来てくれたのだ! 僕の営業外交(詳しくはマル秘)と説得が功を奏し、デザイナー、イラストレーター、コピーライター等が大挙来校となった。1991年4月デザイン科がスタートした。一期生に個性豊かな学生が大勢入学した。カリキュラムは基礎→専門というシステムを取らず一年の初めにいきなりブックデザイン やポスター課題を制作させた。授業は過激だった。特に講評会では僕と 秋山孝はいつも吠えていた。もちろん事前の打ち合わせはしていたが次第にエスカレートしケンカ講評になり僕達の間に入った藤掛正邦(現多摩美術大学講師)は、「まあ、まあ まあ」といつもなだめ役であった。生徒達には効果抜群だった。ギャラリーを開設したことも良かった。それぞれの科や先生達の作品交流、企画展による外に向けての発信は創形美術学校のステイタスになっている。ポスターコレクションも 秋山孝の提案で短期間に多くのポスターがコレクションされた 。ある日、副手の阿部智栄美さんと銀座の日本デザインセンターに行き、永井一正氏からオリジナルポスターを数十点寄贈され、大感激したことなど好意に甘えず今後も是非続けて欲しい。 デザイン科発足10 年!もう10 か、まだ10年か、でもあるが今「デザイン」が私達の生活全てを支配している。かつてデザインは人間が生き、生活するための豊かさを追求し続けてきたが、21世紀に入り様々なマイナス要素も多い。それだけに現代の若者はデザインに対しての認識が薄い。このような状況のなかで今後のデザイン教育は、なかなかむずかしいと思う
。新しいテクノロジーの発達もエスカレートしているがデザインすることはなくならないし個性的なデザイナーを社会は求め
ている。もとを正せば一人の人間の技の結果である。作家を育てて欲しいと思う。創形美術学校全体ではコンテンポラリーも
含めた、さまざまなアーティストを輩出してもらいたい。それには教える側の優秀な人材の多様さがキーポイントになるだろう。
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