トップへもどる

車いすヒッチハイク__1976.8



 いまの若者にいいたいこと――障害のあるなしに関わらず、すべての未来ある若者にだ。
 黄泉がえり、生まれ変わりを信じている奴にはいわない。そんな連中は自堕落にも、好き勝手にも、刹那的にも生きれば良い。だが、「命も人生もたった一つ」と信ずる君に!
 俺のブログは、俺の過去自慢や過ぎた日の栄光、感傷を語る目的なんかで始めたのではない。君たちにも、できればこんな楽しい人生を歩いて欲しいからだ。といって難しいことではない。ちょっとした勇気くらいはあるだろう。
 アドバルーンを上げる勇気。しかも、それは出来るだけ大きいほうが良い。あとは恥を怖れ、途中で投げ出すことだけはせず、アドバルーン実現に向け一生懸命走り通すだけで良い。
 失敗を怖れたり、冒険にひるんだりしてはならない。そんなものは若さでもなんでもない。
 そもそもこのヒッチハイクさえ大上段に振りかぶった計画性に基づいたものではなかった。ミニコミ新聞を発行する俺がネタに窮して自分からネタに飛び込んだだけの、おっちょこちょいが飛ばしたアドバルーンに過ぎなかった。



上野駅14番線ホーム

 電車にさえ自由に乗ることの困難な時代、車いすでヒッチハイクなどずいぶん無謀な行為には違いなかった。
 しかし、障問(ミニコミ新聞、月刊障害者問題の略称 俺と同い歳の車いすスタッフ、今岡秀蔵君の命名)で、こともあろうにニューヨークタイムズに追いつこうなどと本気で考え、なにごとにつけても楽観的、というより向こう見ずの世間知らず、ヒッチハイクくらいやってやれないことはないという軽い気持ちだった。
 ただ、それも出かける前日までのこと。
 いざ、その日が来たとき、えらいことを言ってしまったと、大いなる後悔は不安に変わり、ひしひしとその胸を圧迫しはじめた。
 上野駅14番線ホームには俺を入れて9人、地元台東区のサークルぽっぽの仲間や、兄貴他、八木山印刷の同僚、それに障問発行が縁で知り合った短大生の井村さち子さんや、障害者運動の活動家で、ご自身重度障害者でもあるダンナさんを持つレイ子さんまで見送りにきていた。
「康ちゃん、無事帰ってきなよ」と同僚の忠さんが言えば、「旅じゃ水に気をつけるんだぞ」と兄貴がお袋みたいな口をきく。
「なーに、8日間なんて休みもらったけど、狭い日本だもの、長距離トラック何台か乗り継げば列島縦断なんて、すぐに帰って来れるかもよ」
 例によって大風呂敷を広げた。
「来月号は楽しみね」
 井村さんは心底障問の発行を毎月楽しみにしてくれるらしく、今度のヒッチハイクの企画も画期的なことと大賛成してくれた。
 障問では独白調エッセー『もうひとつの青春』を毎回のように連載していた。下町のアパートに暮らし、秋葉原の印刷会社に勤める日々の思いをほのぼのと、ときに赤裸々につづったその記録に、うまくすればヒッチハイクの冒険記を特集版として加えられるのだ。
 先々月号の特集で取材させてもらったNさんの奥さんレイ子さんが、ハンケチにくるんだ包みを手渡した。
「おにぎり……。旅の途中にでも食べて」
 印刷工のヒゲの荒さんもポンと肩を叩いた。
「トラックにひかれんじゃねえぞ」
 縁起でもないことを言われてドキッとした。
 やがて出発の時刻が迫った。
 仲間に押されてデッキに乗り込み、外から次々と荷物も手渡された。
 新聞の街頭販売でも行動を共にしてくれたぽっぽ代表の味岡さん、三浦真弓さんたちもいっしょだったが、ポリオで片足が不自由な洋服仕立て職人でもある広瀬さんが、年長者の貫禄を見せた。
「それでは不肖わたくしが音頭を取らせていただき……」と、手拍子のポーズを取り、
「本間康二君の出発を祝って、ヨーオ……」
 唱和を呼びかけ、ホームに広瀬さん以下バンザイ三唱の声が響き渡った。
 俺はなんだか古い日本映画の一場面を思い出し、特攻に旅立つパイロットの気分がこんなもんかなどと、バチ当たりな想像をした。
(見送る方は気楽なもんだよ)
 しかし言い出しっぺが自分じゃ、怨むのは筋違いというものだ。
 障問のネタに窮し、ネタがなければ自分からネタになれば良いと思いつき、調子に乗った結果がこれだった。
 しかし、そんな本音はいっさい隠し、「車イスが行く」と題した原稿は次の一文にはじまる。

〈車イスに僕の他に5つの荷物が乗った。
 ハイキング用の大小のザック、着換えや懐中電灯など非常用の道具、それにフィルムや薬品、地図などが詰まっている。この2つは肩に掛けるかっこうで車イスの背にしょった。寝袋は両はしに輪にしたヒモを付けて手押しの所にひっかける。首からはブラック・ニコンと携帯用のテレコをブラ下げ、三脚は車イスの下に突っ込む。かなり重くなった。
 あとはGI帽を頭にのせて、ジョン・デンバーが車イスに乗ったようだ〉

 ジョン・デンバーは格好良すぎだが、とにかく首から下まで障害におかされている俺には重装備の荷物を車いすに抱え、1976(昭和51)年8月21日土曜日、16時、特急はつかり5号は不安と孤独と、ちょっぴり期待を乗せて、一路青森へとばく進をはじめた。

雨の国道7号

 列車の中ではほとんど眠れなかった。
 広瀬さんからの差し入れのウィスキーもあまり効果がない。そのうえ暑さでレールが伸びたとかで電車が混乱し、予定より1時間半も着くのが遅れたのだからたまらない。
 青森駅に着いたときは長旅の疲れと眠気でフラフラだった。駅員に連れられ、荷物用のエレベーターで地下道に降り、そこから外に出た。
 待合室は若い登山客でいっぱいで、ベンチはすべて彼らに占領されていた。眠気には勝てず、とにかくどこでもかまわず寝たかった。
 コインロッカーの前にビニール風呂敷をしいて寝袋を広げ、いっしょに持ってきた障問の宣伝用横断幕を体にかけて横になった。「愛よ情熱よ無償の旗の下に/月刊障害者問題/さわやかに かろやかに たからかに そして堂々と」のスローガンを、シンボルカラーである黄色の地の布に書いた派手なもので、それでなくとも目立つのに、さらに周囲の目を引いた。
 とにもかくにもそうして眠りについた。
 明けて日曜日の朝bb。
 朝になったら待合客がガラリと入れ替わっていた。目を覚まして周りを見回すと、広い待合所を埋めつくしている人の目が一斉に俺に向って注がれていた。
 遠い土地まで来て朝早くからクズ拾いのまねをしていた。トイレに敷く新聞紙を探してみたのだが、そうじをしたあとなのか駅のくず入れのどこにもなかった。しかたがないので登山客の敷いたダンボールの切れはしを集め、それをトイレに敷いて、その上へ車いすから降りて用を足した。
 顔を洗ったあと、国道7号線に出た。
 7号線は秋田を抜けて新潟へ出ている。ここで待てば新潟方面への車が通っているはずだ。
 青森の玄関口、商店が建ちならぶ古川の交差点で、通りかかる車の、それも大型トラックに目をつけて何度も手を上げた。
 信号が赤になり、スピードを上げていた車がゆるゆると目の前で止まる。今だと思い、大きな車体に向かって「ちょっとすみません」、声を上げて出て行く。しかしこちらが近づけば近づくほど、相手からは見えなくなる。
「つかまえるの手伝ってあげる」と言う女子学生が現われた時、晴れていた空から急ににわか雨が降り出した。
「あんたトラックばっかりなんてぜいたく言わないで、乗用車やライトバンにも手を上げて見なさい」と助言するおじさんも出た。
 一日一善運動の推進者とかで、作務衣姿で竹ぼうきを持ち、せっせと家の前を掃いていた。
「秋田までの車がいるかな。乗用車でも何でもつかまえていったん弘前に出たら? 弘前なら秋田や新潟に行く長距離が走ってるからネ」、「それがいいですよ、そうしなさい」とは言うものの、日曜の昼前では市内を走り回る車がせいぜいである。数少ない確率のなかから見つけても、邪険に手を振って断わられるばかり。
 一日一善のおじさんもついに見るに見かね、近所の知り合いにたのんでくれた。
「その代わり弘前までだヨ」と念を押され、きびしくおキュウまですえられた。
「もうこんな旅行はするんじゃないよ。人様に迷惑サかけるばかりだからネ」
 神妙になって頭を下げるしかなかった。
 弘前のガソリンスタンドの前に降ろしてもらい、そこで何度も手を上げた。古川とちがって同じ7号線でも道幅が狭かったので、車を止めるには苦労はしなかった。だが市内の車が圧倒的に多かった。
「行くんだば乗せてやるんだども、市内だ。悪いナ」
 人の好さそうな青年がそう答え、陽に焼けた横顔を見せて過ぎて行く。
 落胆していると、スタンドのお兄さんが力強く励ましてくれた。
「気長にやればつかまるヨ」
 そう言ってスイカまでごちそうしてくれた。甘いスイカだった。だがそれを食べている内に一度に疲れが出た。駅では3時間しか眠れなかったのだ。
「すみません。どこでもいいから邪魔にならない所で寝かせてください」
 スタンドの隅にゴザを敷いてもらい、寝袋の中に体をうずめた。
 眼が覚めると雨が降っていた。今度は一時的なものでなく、どんよりとした空からいつやむとも知れずに降っていた。
 ザックと寝袋を背負い、濡れないようビニール風呂敷をかけ、体に傘をくくりつけてトボトボと弘前の駅に向った。電車で帰ることを考えていたのだ。
 土地の人が出入りする弘前駅の前にたたずみ、ハンケチでくるまれた中からにぎり飯を出して頬張ると、その下から胃腸薬が出て来て、メモ書きまで添えられてある。
bbがんばって。土産話待ってます。  レイ子
 色白のふっくらした笑顔を思い出し、なぜか急に涙がこぼれた。
(いかん。まだ旅は始まったばかりじゃないか)
 気をとり直して、別の行動にとりかかった。
 うちわのこととして障問には書かなかったが、全国的に読者発掘をはかり、実は旅の途中街頭販売まで考えていた。そのため、ハンドマイクに障問の梱包したものと、荷物は最初に書いたものよりさらに多かったのだ。
 駅前の建物の壁にスローガンの横断幕をガムテープではりつけ、ハンドマイクを握った。
「こちらは月刊障害者問題です。東京から電車に乗り、ここ青森をスタート地点に日本列島をヒッチハイクで縦断するためやって来ました」
 いつもの調子でやったつもりが、どうも知らない土地に来て心細くもあり、雨のしょぼ降る中、先々の不安も思ってどうも冴えない。そんなときに成果が期待できるはずもなく、1時間も続けぬうちに荷物をたたんでしまった。
 再び雨の中を国道にひき返したとき、辺りは暗くなっていた。

スナックの灯に誘われて

 広い国道沿いに、ぽつんと一軒スナックの明かりを見つけ、それに誘われ、アルコールの酔いに助けられたくもあり、つい立ち寄った。
 客はだれもいなかった。
 カウンターの向こうに、40年配のママさんが所在なげにしていたが、重い扉をうんこらしょと、やっとの思いで押して入りかけた客が車いすと知るや、あわてて中から飛び出しドアを引いて招じ入れた。
「まあー、凄い荷物……」
 車いすも珍しかろうが、それよりなにより車いすに付けた荷物を見て驚いた。
「あらまあ、ここにも」
 座席の下ものぞきこみ、つっこんである障問の梱包やカメラの三脚に、いったいどんな素性の客かと興味津々の目になった。
「ひとり旅ですか?」
「当たり。ヒッチハイク」
「え? これでヒッチハイク!?」
 今度はあきれたような目になった。
「雨の中、よくまあ……」
 さらには同情顔になり、ハンケチを出して傘でよけきれず濡らした足元や袖口をやさしく拭いてくれた。そしてカウンターの中にもどる。
 メニューを出すより先に注文を言った。
「ウイスキーのダブル、ストレートで」
 ウイスキーは好きでないが、スナックで日本酒はないと決めてかかった。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「酒、強いんだ。そういえばそんな顔してる」
 水割りは特に気持ち悪くて飲みにくい。それに早く酔いたかった。
「どちらから?」
「東京」
 ママさんはストレートのグラスと水を出しながら、俺の顔をじっと見つめ、
「東京は長いの?」と訊いた。
「え? わかるの?」
 地方の人には、相手が地方出の人間であるか根っからの都会育ちか、直感でわかるなにかが感じられるのであろうか。
「生まれは新潟、佐渡が島。お袋も親父も、2人兄弟の兄貴もみんな東京に出てきてるけどね」
 兄貴はそればかりか、一緒の会社に働く同僚でもある。
「ヒッチハイクなんて、なんでまた……」
「いろいろ挑戦してみたくてね」
 「へーえ」と、まじまじと見るママさんの目に、あきれたという色はもうなくなっていた。そして、そのときには、なにかほんわかとした温もりさえ感じられた。
 ウイスキーの水割りを、一気に半分ほどもあおった。ノドが焼けるように熱くなり、うっと顔をしかめたあと、今度はぐいっとコップの水を含んだ。
「中で水割りにするんだ」
 どこかで同じことを言われたと思った。あのときの相手は誰だっけか。
「お母さん、心配したでしょ?」
「心配なんかしてないよ」
 言っても理解してもらえないと思い、板橋に住むお袋にも親父にも、なにも言ってなかった。
「子どもを心配しない親がいるもんですか」
「ママさんにも子ども、いるの?」
 お通しの柿ピーナッツをかじりながら、今度は俺の方がまじまじとママさんの顔を見た。
「いるわよ。1歳と2歳の子が」
「ダンナさんは」と訊きかけて口に出すのをはばかった。
 お袋も佐渡にいる頃は夜の飲み屋勤めをしていたことがある。実の親父くらい歳の違う相手に死なれ、無学で手に職もないから水商売に身を染めたが、実の親父の本妻というのが俺の育ての親ともいうべきああちゃんという人で、そのああちゃんとは仲が悪く、長く別居していた時期があった。俺が、まだ幼い頃である。
 夜中にああちゃんに起こされ、眠い目をこすって起きるとお袋の顔があった。途中で買った生寿司を手にしており、それを食べて喜ぶ俺の顔を見たくて店がひけたあと会いに来るのだ。そんなことがよくあった。
「どうしたの?」
 ママさんがコップに水を足して訊いた。
「いえ、ちょっとね」
 妙にしんみりとした気分になってしまった。
 グラスの残り半分をあおり、また水を飲んだ。
「でも……なんか、貸し切りみたいで……」
 閑散とした店を見回し、いつもこんなにひまなのかと言いかけて、とっさに言い替えたことばだったが、
「雨降りじゃこんなものよ」
 くったくのない顔で言い放った。
「じゃ、そろそろ行くか」
 決心をつける時期と割り切った。
「お勘定」
「いいわよ。私のおごり」
「え? そんな……」
「同情だなんて思わないで。私からの元気薬。これからまた、車拾うんでしょ?」
 先に立ってドアを開けた。
「子どもを心配しない親なんていないのよ。気をつけて、元気でまた東京に帰りなさいよ」
「はい」
 叱られた気分になって素直に返事した。
「あ、そうだ。記念にいいですか……」
 俺はとっさに思い出し、荷物からカメラを出して三脚に組み立て、セルフタイマーでママとのツーショットを撮らせてもらった。そして住所を訊き、
「東京へ帰ったら手紙書きます。写真もそのとき……それから、旅の途中でお袋にハガキ出して様子知らせます」
「それがいいわ。そうしなさいね」
 ママさんは心からにっこりした。
「待って、私がトラック止めてあげる。こう見えて、私ってタクシー止めるのうまいんだから、トラックだって止まるわ」
「いえ、でもそれは……」
 せっかくの親切だが、車いすでのチャレンジなのだ。他人に止めてもらっては意味がない。そう思いつつ、むげには断りかねていると、
「そうね。自分でやらなきゃあね。じゃあ、離れたところで見ていてあげる」
 そう言ってドアを閉めて出たところへ、土地の者だろう。「よお」と、顔なじみらしい3人連れの男性客が親しそうに声をかけて近づいた。
「あ、ごめん。お客さん」
「いいですよ。ほんとうにどうもありがとう」
「じゃ、ほんとに元気で、気をつけてね」
 そう言ってまたスナックのママさんの顔にもどり、お客さんを迎えて店の中に消えた。
 俺は正直ほっとした。あのママさんの前でいつまでも車を拾えずにいたら辛すぎるもの。

海照り映えて

 ゴォーオオオ……と、もの凄いエンジン音が響いてきて、遠くの方から輸送トラックの巨体が近づく。2つのヘッドライトがまるで怪物の目玉のようだ。
 懐中電灯を取り出して振り回す。しかしどのトラックもそっけなく通り過ぎてしまう。覚悟はしていたがこれほどとは思わなかった。
 交差点の信号が赤になるのを見計らって道路の中央に出て行き、手を振りながら止まっているトラックに近づいた。これなら確実で安全だ。
「秋田まで行きませんか?」
 下から大声で叫ぶ。
「行かねえナ」
 あとはそれまでだ。信号が青に変わり、またエンジン音を響かせて闇の中に消えて行く。
 ひどいのになると青になるかならないかの内にエンジンをふかして動き出す。こちらもあわてて逃げ出したものだ。
 明かりのついた所といえば目の前にさっき入ったスナックがあるだけ。雨もあがって、そのせいかさっきから何度も若い男女が出たり入ったりしている。
 フッと一瞬ため息を吐くと、その息が夜の闇に白いのだ。そんな寒さの上に一時止んでいた雨がまたポツリポツリと落ちてきて、心細さはつのる一方だ。
 また1台! 信号が変わって目の前でゆっくり止まった。手を振りながら運転席の方から声をかける。年配の男の人の顔がのぞき、
「富山まで行くけど」と言い、やっと乗せてもらえることになった。
「ずいぶん積んでるんだなあ」
 驚きながらまず荷物を先に乗せ、最後に俺をかかえ上げてくれた。トラックの席は高いものだとあらためて思った。車いすはたたんで座席の前へ。そしてバタンとドアを閉めた。

やったー! とうとう成功。(写真1)
 車がゆっくり走り出した。俺は窓の向こうに目をやり、スナックに向かって頭を下げた。
「北海道から出て来た僕に道を聞いてるのかと思った。まさか乗せて行けと言うとは思わなかった」
 走りながら半分あきれていたが、
「しかしまあそういう体だから、それくらいの気持で生きなきゃならんなあ」と感心もした。
 話してる内にだんだんうちとけ、夜中の旅じゃ何も見えないからと、わざわざ朝まで体を休めることになった。
「あんたも少し寝なさい。いろいろ大変で疲れたろうから」
 すすめられて体を横にしたが、目覚めたときにはトラックは疾走を続けていた。
「見なさい」といわれるまでもなく、窓外には視界いっぱい日本海が広がり、日の光が海に照り映えて、まばゆいばかりの明るさだった。
「これを見せたくてコースを変えたんだ」
 感謝の気持ちで胸が熱くなった。
「新潟なんだって?」
「はい。友だちや先生がいるんです」
「会えたら何年ぶりになるの?」
「えーと、先生とはだいぶ会ってないなあ」
「行ったら喜ぶよ」
 その言葉につられて、あの顔、この顔思い出していると、
「このまま新潟まで行っちゃおうっ」
「えーっ!?」
 というわけで、秋田で降ろしてもらうつもりが、そのまま新潟まで直行してくれた。途中なおも話が弾み、親しみはさらに深まった。
「いい車に乗せてもらいました」
「僕もあんたを乗せて良かったと思うよ。喜んでもらえてうれしい……」
 荷物といっしょに降ろしてもらいながら名残りはつきない。
「北海道に来ることがあったら連絡しなよ。迎えに行くから」
 そう言って渡された名刺には出口亮さんとあった。その出口さんとは今も年賀状のやりとりをし、ときどきは電話をかけて近況を報告しあっている。

故郷で障害者新聞を売る

 ドン、ドンと太鼓の音が鳴り響き、時おりパアン、パパパンと花火の音bb故郷に着いてみたら祭りの最終日であった。
 新潟祭りは、今でこそ毎年8月7・8・9の3日間と決められているが、1982(昭和57)年までは21・22・23日の3日間であり、出口さんのトラックで着いた24年前の8月23日は、夜には信濃川に花火が打ち上げられ、祭りのフィナーレを飾るというその日であった。
 しかし、祭り気分もそこそこに、俺は市内の喫茶店で一時体を休めた。
 冷房の利いた店内で紅茶をすすり、上野駅で見送りを受けた面々と、そして弘前のスナックのママさんと約束したように、ちゃんとお袋にも絵はがきの文面をしたため、そこを出るとポストにハガキを投函して市内白山にある西山旅館へと向かった。
 旅館の息子というのが、新潟養護学校では同級生だった西山昇君である。
「やぁー」
 格幅の良い体をカバのようにゆっくり揺すって、子ども時代からの「社長」というあだ名がぴったりの昇君が姿を見せた。
 越後平野のど真ん中に建つ新潟市海老ヶ瀬の新潟養護学校は、1964(昭和39)年の新潟地震では壊滅的な打撃をこうむったが、それまで全寮制だった養護学校は校舎の復旧とともに通学制もとられることになり、西山昇君はスクールバス通学する一人だった。
 金持ちの御曹司と冷やかされ、着る物でも持っている物でも確かに高級志向だった。
 昇君の思い出で忘れられないのは、中学3年の年、テレビで放映されていた海外ドラマの『逃亡者』が、消灯後の時間の放映で見ることができず、最終回のクライマックスだけでもなんとか見たいと思い、西山コレクションのお出張りとなったことである。
 彼は当時としては高給取りがひと月分の給料はたいても買えないというSONY製オープンリールデッキを持っており、ビデオが一般化してない時代、せめて音だけでも録ってほしいと頼み込んだのだった。
 下校時間、バスが発車するまでのあいだ流れるベートーベンの『田園』の曲にせかされながら、外マイクで録音した雑音まじりのドラマ音声に耳を傾け、「今の銃声はなんだ」、「ジェラードが片腕の男に撃たれたんだ」、「じゃあ、キンブルはどうした?」と、かたずを呑んで聞き入ったことを思い出す。
 しかしそれは子ども時代のことで、当時の昇君はその名もズバリ、「みんなで使える新潟駅をつくる運動」をすすめていた。
「運動の進展はどう?」
「やっぱりね、交渉するたびに厳しい状況が見えてくるばかりでね」
 少しトーンの高い声で話すものの、CP(脳性マヒ)者にありがちな言語障害はほとんどなく、ことばも明りょうだった。
「地方だと東京よりも取り組みがむずかしいということはあるんだろうか」
「もともと保守的な地盤だからね」
 俺は東京にいて、私鉄の小田急に対して車いすのひとり乗りを拒否したことに抗議し、付き添いがなくとも乗せろと運動して7カ月で要求をほぼ勝ち取ったことがあり、昇君の話を聞きながらそのことを振り返っていた。
「くじけず最後までやるこってね。本間君のがんばりが僕たちの励みになってるんだからね」
 そういわれると照れ臭い。
 しかし、それで得意がりはしない。小田急の前にも別の運動があり、その運動につながる別の運動もあり、そうして運動は連鎖していき、日本中の小さな運動が少しずつ影響しあって今の社会につながっているのだから……。
 その夜は旅館の湯につかり、ふっかふかの布団にくるまってグッスリと眠った。
 翌る日の古町商店街bb。
 主目的であるヒッチハイクの成果ははかばかしくなく、かといって転んでもただでは起きない性分。弘前駅ではほぼ徒労に終わった街頭販売を、新潟ではなばなしく挽回してやろうと思った。
 故郷に錦の旗ならぬミニコミ新聞の旗を飾ることになった。
 アーケードの下の太い柱には「さわやかに かろやかに……」の例の旗の他に、その場で即席につくったもう一つの旗をはりつけた。

bb月刊障害者問題
    車イスで日本列島縦断キャンペーン

 模造紙にマジックインクで書きなぐり、その下に今まで発行された4号分の障問表紙部分を貼って宣伝効果を狙ったものだ。
 そして今回は、一人ではない。
 旅館からいっしょに行った西山君の他、電話で待ち合わせて合流した3人は、新潟養護学校の恩師にして理科担任でもあったノブ子先生、音楽担任だったユウ子先生、それにノブ子先生の9歳になる愛娘であった。
 しょぼ降る雨の中。しかし、この日はアーケードに守られて濡れることもない。
 俺はハンドマイクを握った。
「こちらは月刊障害者問題です。東京から故郷新潟に帰ってきました。佐渡が島で生まれ、新潟で育ち……」
 なんだか落語のこん平の口上をまねたようなおかしな宣伝文句をまくしたて、先生たち4人は道行く人に新聞を差し出し、売りかける。
 久しぶりに教え子の顔を見にきたつもりが、まさか新聞売りの手伝いをさせられるとは思ってもみなかったろう。
 ノブ子先生もユウ子先生も、これはと見定めた通行人にアタックし、新聞の中身をていねいに説明し、一部でも多く売って、一人でも多くの固定読者を得ようと懸命だった。
 特にノブ子先生には、目に入れても痛くないかわいい愛娘がついて回り、一部売れるごとに「待ってました」とばかりそのお客の前に近づき、首から下げた料金袋を広げて100円玉を迎え入れている。
「お母さんの生徒だった本間さんよ。あいさつしなさい」
 初対面したとき、紹介するノブ子先生の後ろに隠れるようにしていた恥ずかしがり屋の今日子ちゃん。母親のあとにぴったりとついて歩き、そこにはなんとも微笑ましい親子の情愛が感じられた。
 そのノブ子先生もユウ子先生も男みたいな歩き方をし、学校時代から妙な魅力を発散させる先生たちだった。
 ユウ子先生が体育担任とできてるなんて話もあったが、新卒で入った若い者同士ということもあり、なんでも面白い話にしたがる子ども心から出た噂話に過ぎず、当人たちはどこ吹く風でそれぞれ幸せの道を歩んだ。
「また売れたよ」と、ユウ子先生が報告にきた。
「それはひとえに先生の魅力のたまものでして……」
 歯の浮くのようなお愛想を言ったとたん、
「私がいくら魅力的だって、ブラさんがちゃんと喋んなきゃなんにもならないんだこってね」
「え?」
 久しぶりに子ども時代のあだ名で呼ばれた。
 ブラとはブラブラしているという意味ではなく、落語の「じゅげむ」からきている。「じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ」から始まり、途中「やあぶらこうじのぶらこうじ」に「こうじ」とあることから名前の康二にかけた、8歳から13歳までの療護施設、はまぐみ学園時代にギプス技師の一人に命名されたあだ名bb。
 しかしなにを非難しているのかと首を傾げていると、ノブ子先生が近づいて耳打ちした。
「ここでは角さん(註:田中角栄。このエッセー時点の半年前発覚したロッキード事件で“悪名”を馳せた郷土新潟出身“おらがクニの元総理”)の悪口は言わない方がいいよ。なんたって地元なんだから……」
 言われてはじめて、当時の世相にふれ、「ロッキード事件の田中角栄といえば今や政治腐敗の元凶でして、その政治が招いた障害者福祉の貧困は」と、ここぞとばかりムキになって得意満面まくしたてていたことに、はたと気づいた。

 そうか、地元だから言うべきことではなく、言わない方がいいことがらだったのだ。「保守的な地盤だから」と言っていた昇君のことばも思い出し、以後ロッキード事件と角栄さんの名は2度とそこでは口にしなかった。(写真2)

「大きな親切や!」

 先生たちと別れたあとは、古町の喫茶店で待つ俺と西山昇君を、やはり同級生だったシゲルこと小林茂君が迎えにきて、彼の車で市内、鳥屋野(とやの)へと向かった。
 広い野原のようなところに民家が点在する場所で、行った先は新築間もない感じの家だった。養護学校時代から器用で、木工細工などお手のものだったシゲルはこの頃から設計技師として身を立てていた。
「おー、結婚して自分の家建てたんだー」
「これは、お袋の家だってばー」
 家には結婚して3年の奥さんが待っており、これがクラスでは一番の秀才とうたわれた悦重さん。
「やあー、久しぶり久しぶり」
「なんだブラさん、相変わらずガイコツみたいに痩せてるんだわね」
 かつての秀才は口の悪さも学校時代のまま。新潟の女はどうしてみんな、こうきついのか。
 冷や麦をごちそうになり、金沢行きを予定していた俺に、金沢ならその方向への長距離便が行き来する柏崎のはずれがいいと、シゲルが昇君とそこまで送ってくれることになった。
 深夜の国道、シゲルらが離れて見守るなか、またも長距離トラックにアタックした。
 友だちの前でいいカッコして、とにかくまた親切な運転手の車に乗せてもらい、目の前からさっそうと別れを告げて行こう……と、そんな図を想像していたのだが、結果はまことにみじめなもの。
 なぜか相手がだんだん利口になってくるようだ。信号が赤になると交差点から50メートルくらいの所で止まり、それ以上近づいて来ようとしない。こちらが進み寄る間に信号が青になり、あわててはじに寄けてる内にさっさと通り過ぎて行く。
 それならばと、信号が何であろうと突進して来る車にかまわず手を振って出て行く。対向車とのヘッドライトが交錯するなかでの決死行、あるとき後ろから追い抜いて来たトラックが目の前にあらわれ、一瞬ひかれるかと思った。
 2人が車から降りて来た。
「もうやめて電車で行った方がいいぞ」
「危なくって見てられないわね」
 
シゲルと昇君に言われ、素直に従うことにした。(写真3)2時間近くねばって1台も止まらないのだ。それ以上やっても見込みはない。
 金沢までは夜行列車のデッキに乗り、着いたときにはヘトヘトになっていた。駅の貨物置場の軒下に寝袋を広げ、雨のしずくの音を聞きながら深い眠りについた。
 起きたら昼の2時だ。
 地図を開いたら兼六園とある。不覚にもその頃、兼六園を知らず、ただ名所のようだからと漠たる思いで訪ねることにした。
 ところが想像していた以上に道のりがある。重い荷物をしょっていたからイヤになった。肩は痛くなるし手には豆ができる。
 歩道というのがひどいカマボコで、まっすぐ行ってるつもりが片側に寄ってしまう。あまりしんどいので車道を歩いたが、車の方がびっくりしてよけてくれた。
 地図に見当をつけて行ったらとんでもない狭い路地に入り込んだ。子どもが3、4人遊んでいたので訊く。
「兼六園ったら、もっと先やでえー」
「それやったら大変やなあー」
 子どもたちが口々にそう言うので、困ったことになったと腕組みをした。
「よっしゃ、案内したる。小さな親切運動や」
 そういうわけで、子どもたちに押してもらって大通りに出た。
「だけど、あそこは急な坂があるしなあー」
「そこまで行ってやればいいねん。カンタンなことや」と、年上らしい女の子が言うと、また、「そやそや、行ったる」と衆議一決。
「こうなったら大きな親切運動やなあ」
 子どもは自分で言って感心した。
 かんじんの兼六園は入口の急な石段に阻まれて入れなかったものの、そばに建つ金沢城をバックに「大きな親切」の子どもたちと写真におさまった。
 金沢でもヒッチハイクは成功せず、半分開き直ったような気持ちになって電車で京都に向かった。
 駅のコインロッカーに荷物を放りこみ、カメラと三脚だけ持って遊びまわった。
 京都はどこへ行っても京都である。駅に降りればそこから東山大文字の山波が見え、市内には懐かしい市電が走っており、少し行くたびにお寺の門前が見える。それでもなければ艶やかな舞妓さんの「おいでやす」が聞えてくる。
 祇園の夜は歌舞伎町などというものではない。高級クラブやバー、スナックのネオンがびっしりとひしめき合い、酒と女のにおいの華を咲かせている。
 「いらっしゃい」と、派手なドレスを着込んだ美しい女が目くばせした。冗談ではない。5万円ぐらいの金でこんな所に入ろうものなら東京に帰れなくなる。カメラを置いていくハメにでもなったら目も当てられない。
「おっちゃん足どないしたんや」と可愛いい声がする。24の俺に「おっちゃん」はないだろううと、一瞬むっとしたが、振り向くとネオンの間に挟まれた家の前で、女の子が3人こちらを見ている。こんな所にも子どもがいるのかとビックリした。
「スナック探しとるんや」と言ったら、また子どもが案内してくれた。3つと5つと小学3年だが年の割にしっかりしていた。
「そやけど、これで入れるスナックあるんか?」
「これで入れるようなスナックを見つけなあかんな」と、何やらこっちまで関西弁になってそう言うと、一番上の子が、

「そやなあ。なんで階段なん作るんやろなあ。ウチかて小さいからけつまずくもん、階段やない方が楽や」とうれしいことを言った。(写真4)


旅の終わりに

 京都でも一日目は野宿を決め込んだ。
 大阪にも行くつもりだったが京都が離れがたくなり、翌日もその翌日も祇園の旅館に泊り、嵐山や時代劇のセットがそのまま町になっている太秦・映画村や、市内のあちこちをタクシーでまわった。
 そして帰りの新幹線はひかりの7号車、ここに当時国鉄が誇った身障者専用席があった。「7号車」とは「ラッキーセブン」のことだろうか。
 ちょうどデッキの横、トイレの向いにその個室があった。横に開くトビラにはガラスひとつない。ここに入ってしまったら入口に車イスのシンボルマークがあるくらいで、中にだれが入っているか外からは分らない。
 2人掛けの椅子があり、壁からはおあつらえ向きにベッドまで出るようになっている。2つの窓から景色を楽しむには好都合だった。しかし列車が一たん名古屋駅に停まったとき、ホームの多勢の客の目が一斉にこちらに注がれた。四方を仕切られた客車に乗る車いすがよほど珍しかったのだろう。
 その上いけないことは、この個室は一人で乗ったら全く不便で使えない。車掌は何かあったら連絡して下さいと言って出て行ったが、緊急用の電話もメガホンも一人で乗っているときの低位置からは届かないということだ。
 こんな特別室は、「精神的露出症」の俺にはふさわしくないと思いなおしてデッキに出た。
 個室に弁当を運んでくれた売店の女の子がキョトンとした。検札の車掌も不思議な顔をして通り過ぎた。
 目の前を色んな人が通る。着飾った婦人が、茶目っ気な子供が、足弱な老人が……。そして同じ人間としての俺もここにいる。
 懐かしい再会と心温まる出会いがもたらした胸一杯の思い出を手みやげに、新幹線は一路東京へとUターンを続けていた。(写真5)

(月刊障害者問題1976.9.15=第5号より) 
イラスト・今岡秀蔵(故人) 
 

コメントは掲示板へ

TOPへ