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●変更と削除
残念でならないことがもう一つある。それは障害児殺しを2時間枠で放映するということで期待した、テレビ朝日のザ・スペシャル『太陽を見ず』であった。 水上勉の原作『ひみずっ子』はもっと淡々とした文章でつづられており、エリート行員の父親が精薄のわが子を殺すまでのプロセスがごく自然に描かれていた。親からの一方的な見方だと非難する向きもあろうが、主張が出ているならそれはそれで良いのである。 しかしテレビになった方の『太陽を見ず』を見ると、一体何が言いたいのか論点がハッキリしない。キレイごとに過ぎるのである。 「オール読物」12月号に載った原作と、「週刊文春」12月1日号に載った山内久のシナリオと、今度のテレビを見比べて初めてこの異いが指摘できる。 シナリオには主人公夫婦が子役しを肯定する意識があったと見られる重要な2つのシーンがあった。 一つは結婚後15年の間にすっかり変わってしまった夫の見せた態度、彼は「3人目の子供は生むなよ」ときつく言う。2人目の子供は障害児だった。3人目がもしそれと同じだったらどうする。だから絶対に生むなと言う。 そんな夫を「まるで以前あんなにも嫌っていた兄さんみたいだ」と非難するが、そう言う妻も一時期ぽっくり地蔵に願をかけに行ったのだった。そこで見たものは仏ではなく、孤老や病弱な人間の群れだった。 この二つの場面は、安楽殺を行なう夫と、それを擁護する妻の心情を描く上できわめて重要であったにもかかわらず、放送ではバッサリと切られ、代わりに平和な頃の生活をしのぶ甘いホームドラマ的場面が延々とつづく。 この番組で一番不思議だったのは、殺される側の子供の顔が一度も登場しなかったことである。ラストの池の水面で「パパ、パパ」と呼ぶ顔が一回出るきりで、大事な現実の場面では決して登場しない。 NHKには障害者をドラマに登場させてはならないかのような自主規定があるが、テレビに障害者が登場することすらタブーなのだろうか。 ●何が差別? テレビを見ても映画を見ても、どうも変だ、日本という国は。何かにおびえて、言葉を選んで、いい子にならなければ気がすまないものと見える。 目の不自由な方、足の不自由な人、耳の不自由な皆さんは、とにかくいつも特等席に押し込み、有難いことにNHK様などは高い聴視料まで免除してくれている。 アメリカにはまだ自由というものがある。 ハワード・ホークスの『エル・ドラド』では、ビッコでアル中のロバート・ミッチャム粉する保安官と、肩から片腕下げたジョン・ウェインの一匹狼が、まともじゃ勝てぬと小ずるい方法で五体満足な、仁義ある悪漢をやっつける。 『男たち』ではデビューのマーロン・ブランドが、車イスに乗り、恵み銭をする紳士を鉄拳で殴り飛ばし、アルコールかっ食ってハイウェイを車でぶっ飛ばす。 『ジョニーは戦場へ行った』のティモシー・ポトムズはやがて目も鼻も口も耳も手足もない肉の塊りとなり、枕に頭を打ちつけてSOSを打ち続ける。赤狩りでやられたダルトン・トラン謬替には、第二次大戦前から本当の人間を見る目を持っていた。 この国はどうだ。根情と偽善と涙を押しつけ、ただ「愛と死をみつめて」必死に人を恨まず、「吾ひと粒の麦なれど」も決して怒らず、「名もなく貧しく美しく」生きることのみ強要しているようだ。 モニターと称し、テレビやラジオ、新聞、雑誌、週刊誌など、その他あらゆるマスコミの音声、言語、字句の中から、あるひとつの言葉のみを探し出し、それを糾弾の材料にする等おろかなことと思わないのだろうか。俺はそういう人たちを、悪いと思うがそれでも敢えて「有害なるヒマ人」と呼ばせてもらう。 日本は何と言ってもまだ平和だ。核が空を飛んで、その内どこかの空で大音響と共に閃光が飛び散るかも知れないが、少くとも見かけだけは平和だ。ハイジャックしても射たれることもなく、泥棒に追い銭までくれて国外に逃がしてくれる。 ベイ・シティ・ローラーズが来たと言えば失神する女の子が続出する。汚職をやったってせいぜい田中か小佐野止まり。金大中がさらわれても、宮本顕治がさらわれる様な秘密警察が存在する訳ではない。 パンツの間からちぢれ毛が何本か見えたと言っては大騒ぎし、足のからみ方がいかがわしいと言えばそれだけで引っぱられる。 引っぱられたからと言っておとなしくしているわけではない。映画監督はポーズをとって笑っているし、本屋の社長と検察は法廷に入ってわいせつかけ合い漫才をやっている。世の中すべて茶番に見える。 そんな世の中じゃ自己の存在を立証しようとて、余程のことでもない限りそうはいかぬ。小説家がウィスキーのCMやヤクザ映画に出たといっても、それは小説が売れるからのこと。ヒマ人の存在を立証する為の「差別語糾弾」だとしたら、何とも情けなく恥ずかしいことではないか。 ●言い替え かなり以前のこと、70年安保が叫ばれ、華やかなフランスデモの行進が夜の官庁街に流れているころのことだった。 俺はそのころ赤坂で、TBSの台本のガリ版切り(筆耕)を仕事としていた。夕方6時ごろから翌朝の8時まで、ひどい時は昼の1時、3時までぶっ続けに働き、鉄筆を持つ指が痛くて判創膏を巻いてやっていたものだが―― ナントカいうドラマの初稿にかなり重要な位置を占めるワキ役が、日本の古典音楽をけなすくだりがあった。 「雅楽などという代物はメクラかカドヅケのするものだ」とか何んとか。 ペンペン、ピイヒャラという音楽など音楽の内に入らない、流し歩いて布施を乞う乞食か、アンマのするものだと馬鹿にしたものである。 台本には大抵、初稿、二稿、三稿、決定稿とあり、最後の段階で本番のセリフが決まる訳だ。当然、ガリを切って印刷された上に、次には「赤」が入れられて来る訳だが、二稿に至って早くも先程のセリフの上にバッサリ二本の線が入れられて来た。削除だ。 アレァレ脚本家さん気の毒にと同情し、俺はこの時以来シナリオ・ライターになぞなるものかと決意した。 マス・メディアを使うテレビやラジオとしては慎重にならざるを得ない訳で、故に差別語事件は今に始まったことではないのだ。 だが言い替えればそれで良い、ていねいにしたり特別扱いさえしていれば問題はないということではない。 天下のNHKでさえ、ひところは「身体障害者の〈人〉」とか「盲人の〈方〉」などというおかしな敬語を使っていた。これでは「馬から落ちて落馬して」という漫才で、落語のオチにもならない。 現職の美濃部東京都知事が知事初就任の時、盲人のことを「おメクテさん」と言ったという話を聞いたが、聞いていた盲人はかえってバカにされた感じを持ったと言う。奈良漬に〈お〉を付けたようなこっけいな話だ。 なるほど、同じような話が放送局の「言い替え」の中にある。「お巡り」では差別語になるが、「お巡りさん」と〈さん〉を付ければいいのだそうだ。 ちなみに4年前からNET(現テレビ朝日)が言い替え集として使っている「放送上さけたい用語」から、障害者に関係あるものだけを抜き出してみよう。 侮べつの言葉として、矢印以下に言い替え 以下は原則として不可(使ってはいけない) 要注意と言い替え
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