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手塚治虫はなぜ障害者を描かなくなったか
漫画の“神様”を直撃インタビュー

 手塚さんの手もとには「俳優表」が保管されてあり、それには出演料までが詳しく記載されてある。それぞれのドラマに、それぞれ異った役割りで登場するワキ役陣からスーパースターまで、「手塚劇団」の名優たちが歩いた足跡は、全国の少年少女たちに夢と希望を与えている。長い年月をかけて生み出されたキャラクターは、主なものだけでも120を越えると言われている。
 「手塚劇団」に新しく加わったヒーロー、それは『ブラック・ジャック』だ。ブラック・ジャックとはどんな男だろうか。
 彼は医者である。だが医学界の異端児であるが故に免許を取り上げられ、正式なる資格を持たない。しかし腕は抜群の優秀さで、彼にかかったら治らない患者はないとさえ言われている。
 48年2月から連載を開始した。このブラック・ジャックの登場は快挙だった。障害者が初めて、それも前向きの形で、『ブラック・ジャック』の物語を通して漫画の世界に取り上げられたからである。血友病の少女が恋をしたり(「血がとまらない」)、人間社会に絶望した身障の女性が鳥になって空へ飛び去ったり(「人間鳥」)、サリドマイドの少年が舌を使って珠算大会で優勝したり(「何という舌」)という風にbb
 『ブラック・ジャック』は今年第1回講談社漫画賞を受賞した。栄誉ある反面、77年は、この作品が障害者団体など多くの団体から糾弾、抗議を受けた苦い年であった事もまた事実なのだ。
 6月中旬から約1ヶ月間南米の国々を取材した手塚氏が、帰国後しばらくの間急性肝臓炎をわずりってふせっていたが、健康をもち直して執筆活動を開始した。
 11月4日、その漫画家・手塚治史氏を取材した。あの「『ブラック・ジャック』抗議事件」が何を残し、どんな波紋を広げて行ったのか、手塚氏の語る言葉の中から新ためて思い知らねばならなかった。

(資料)『ブラック・ジャック』は、こんな漫画

アトム、車いすに乗る


 あれからちょうど1年たった。漫画の『ブラック・ジャック』が、全国青い芝の会など20団体の抗議を受けたのは、去年の今頃の事だった。『ブラック・ジャック』はその後も雑誌「少年チャンピオン」に連載され、それを発行する秋田書店から単行本の11巻、12巻が続刊されているが、果たしてあの抗議事件はどのような結果を生んだであろうか(下の画像は色紙を描く手塚さん。ミニコミ紙面をスキャンした再版)

「ロボトミーを美化」

 『ブラック・ジャック』は、手塚治史氏が漫画家生活30周年を記念して作り上げたキャラクター。

 
手塚 マンガに許される手法的範囲と、許されない思想的範囲がある。荒唐無稽なものであれば良いが、リアルな問題になると読む方も気負ってくる。これは俺達の問題だという事で弾劾されたり非難されたり。その辺の接点に『ブラック・ジャック』の問題がある。

 「手塚マンガにクレーム、ロボトミーを美化」と大きく出たのは、1月17日付朝日新聞の夕刊。
 ロボトミーとは脳の一部を切り取る手術で、興奮性を抑える反作用として人間らしい感情が奪われる。映画『カッコーの巣の上で』を見た人にはお分りだろうが、植物人間と化した主人公は最後に相棒のインディアン青年に殺される。
 ここに手塚氏の初歩的なミスがあった。

 
手塚 私の学位論文は解剖であり、医者であっても開業医ではなく、病気の治し方も知らない。ロボトミーなるものも本当はロボトミーではなく、私は開けただけでロボトミーと書いてしまった。

 ロボトミーを扱った作品は2つだけだと言う事だ。もう1つはかなり以前になるが、「頭蓋骨切開」という字に「ロボトミー」の仮名が振ってある。

「治る事が幸福か」

 もうひとつの抗議の主旨は、現代医学では不可能なはずのCP(脳性マヒ)が、手術によって完治した事である。
 これまでブラック・ジャックは、治す事を中心にメスをふるって来た。しかし治る事によって健全者に近づけて喜び、障害がある内は悲惨なのだとする事が正しいのか、読者にそう思いこませ、そういう傾向にしていく事が今の障害者をますますみじめにさせ、暗い方向にひきずり込んでいる、と言うのが青い芝の抗議の主流を行くものである。
 ところがマスコミとはいい加減なもので、こういう事実には一切目もくれない。

 
手塚 連載をやめる話が何回か出た。医者として残すにしても、研究室に閉じこもらせるとか、治さなければその人の生命があぶない、つまり救急病院のような所の医者に設定を変えるという考えもあった。

 ハガキで「障害者新聞」というミニコミ紙を発行している障害者の一人は、

「なぜ治る必要があるのか、障害者がその治療のために人生の大半を消費する事に意味があるのか、人生50年として、仮に障害者がその治療に45年をフルに使わなければならなかったとすると、障害者が健全者として生きられるのは最後のわずか5年、それでいいのか」

と厳しく間うている。
 だがそう思う障害者が多い事も事実であろう。手術によって体が棒のようになり、坐る事も寝返る事も不可能な状態になっても、それでも歩く事を望む障害者が多勢いる事をご存知だろうか。歩くと書っても名ばかりの、松葉杖を使って四点歩行で、それこそ亀のようにのろい歩みでも、それでも歩くどいう行為に必死の意味を持つ障害者も多いのだ。

 
手塚 医者が身障者を意識的に治すというのはおかしいんじゃないかと言われた。社会的地位の復帰というのは根本的に解決されなければならない。本人がどうしても治してほしいと言わなければ治すべきではないと言われた。開業医でないという事は言い訳にならないし、そういう事を無視して書いた事に弁解の余地がないので謝った。

 1月23日、東京・蒲田の日港福祉会館で開かれた話し合いは、抗議する側からは全国青い芝の会、ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会、東大精医連などの代表が参加し、対する手塚氏側は作品を掲載した秋田書店と共に全面的に非を認めた。
 そして彼らの要求通り、2月10目付の朝日、読売、毎日新聞などに謝罪文を載せたが、この抗議運動が得た収穫は何だったのか。

「描くべきではない」

 手塚 自粛している。色々な方からお叱りを受けた。身障者の方ばかりでなく医者からも。漫画をやめろ、書く価値がないと。そこまでいくと言論の弾圧になるので、とにかく自粛している。身障者の気持ちは健康体の者には分らない。その事は朝鮮人問題、アイヌ人問題、母子家庭の問題、同和問題でも同じ。その気持になっているつもりでも違ってくる、書き手が赤の他人だから仕方がないのだ。だったら書かない方が良い。

 当然の事かも知れない。しかしこの事の裏を返せば、だったら障害者には健全者の事が書けないという理屈にもなる。

 
手塚 実際に体験を持っている中沢啓治さん、この漫画には生の迫力がある。ところが石森章太郎が被爆手帳の事を扱った時、かなりの問題になり、彼は広島へ10回も足を運んで謝った。

 中沢氏は被爆の実体験を持つ漫画家で、『はだしのゲン』など、多くの原爆漫画を生み出している。だが、中沢氏が原爆の漫画しか書けなかったとしたら、中沢氏の作家性すら疑いたくなる。

 
手塚 南米取材の時、ペルーで人類博物館を見学した。館長の説明によると、古代ペルーではみつ口、目が見えない、耳が聞えない、水頭症などの人が逆に尊敬を受け、一般の人以上の地位を受けている。そして彫像とか、日用品の物の形に使われている。その頃の一般感覚の常識の中では、一般の人にない体を持っている事でスペシャリストだった。そして非常にいい生活をしている。人間が増えすぎ、世界が狭くなり、厳しく冷たく残酷な感情になり、そういう人間関係が生まれなくなった。ところが古代ペルーでは根本的に肉体は肉体、精神は精神という平等の中で、重い軽いの差別はなかった。その一体感に私はショックを受けた。意識的にのせようという事がまちがっている。同じ人間で、同じつき合いで考えないで分けた事を悩んでいる。これからは意識的にとり上げ、訴えてやろうという事はやめようと思う。

被差別者擁護の立場

 抗議事件が起こした結末は、手塚氏に障害者の姿を描かせなくなっただけにつきない。
 抗議の主流である治す、あるいは外形的に良くするという事も、よく読んでみれば決してそれだけではなかった。『ブラック・ジャック』の中に出て来る話の中で、「スター誕生」では、スターになるために整形美容しようとする女学生を最初は止めていたし、「友よいずこ」では初めてブラック・ジャックの過去が出て来る。
 ブラック・ジャックの顔はつぎはぎのようだ。顔半分の皮膚の色が異うからだ。子供の頃、交通事故に遭った時、心配してかけつけたはずの友達の誰一人として皮膚移殖に協力しなかった。いや、一人だけ、黒人の少年が皮膚を提供したのだった。以来その親友との友情を大切にし、わざわざつぎはぎの醜い顔で通して来たのである。
 「なんという舌」の中に描かれている事もそうだ。珠算大会で優勝したのは、結局のところブラック・ジャックが付けた新しい腕ではなく、長年手の代わりをしていた少年の舌だったからである。手塚氏の他の作品、たとえば、『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『地球を呑む』など多くの作品に描かれているのは、すべて被差別者の立場である。ロボット差別、動物虐待差別、女性差別と、差別の形態こそちがえ、立場を置きかえる事によって被差別者の悲しみが伝わってくるではないか。
 『人間ども集まれ!』は天才的な、人間そっくりのミュータントが子孫を殖やす話だが、人間人口を上まわった時に正常人間がバカにされるラストでは大笑いした。障害者と健全者の人口比がちょうどこんなになったら、やはり健全者の方が「片輪者」として扱われるのではないかと。
 手塚漫画に流れるヒューマンな思潮を、果たして抗議する側の人々はどこまで読みとっているのだろうか。
 『ブラック・ジャック』に流れる最も素晴らしい主張は「安楽死否定」である。「植物人間」では誰もが見放してしまった患者の母親と、母親と話がしたいと希望する息子の意識をつなぎ、植物人間が生ける屍でない事を証明する。また物語の中でしばしばドクター・キリコと名乗る人物を登場させ、安楽死を遂行しようとする彼と対決させて生命の尊さを訴えている。
 それを思えば残念で不思議な事は、あの『カッコーの巣の上で』の映画が喝采を拍していた時、植物人間をラストで殺してしまうインディアン青年の行為が、なぜ抗議されなかったかという事である。
 徒党をなしてする差別糾弾闘争は、時には健全者との接点をますます遠いものにし、障害者の立場を更に孤立化させる。何げなく登場した『ブラック・ジャック』の中の障害者たちは、再び特殊な世界に幽閉されようとしている。それは青い芝などが最も反対しているところのあの隔離収容施設と何ら変わりのない、一般の人々の目には触れられぬ特殊な世界なのだ。

(月刊障害者問題1977年12月15日発行・第20号より)

撮影 吉野正喜

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