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●こんなはずでは……
世の中には往々にして「こんなはずではなかった」という結果がありがちだ。
黒澤明は1954年に『七人の侍』を作った。
野武士に襲われた村を、無償の戦いを買ってでた侍が命懸けで救う話だ。物語は侍を雇う前半と、立場の違う百姓・侍が結束して多数――といっても総勢30人ほどの凶暴な野武士を迎え撃つ後半とに分かれる。あいだに5分を入れた全上映時間3時間半弱。
7年後、黒澤は『用心棒』を作った。
立場と個々人の思惑の違いを乗り越えて結束し、困難と闘うプロセスを描いた映画は、ここに一人のスーパーヒーローの知恵と器量と超人ワザを駆使して、対立する街のゴロツキヤクザ双方を戦わせ、結果数百人のヤクザを単身退治る話に跳躍した。上映時間1時間50分。
ここではまた、殺人描写にも革命的変化をもたらした。斬殺する際、今ではあたりまえになった擬音を入れ、首筋から血が噴き出るビックリシーンも登場。続編『椿三十郎』(1962年)ではその殺陣はさらに見世物化した。上映時間は約90分。
こんなはずではなかった――黒澤はそう悔やんだだろうか。元は踊りのような東映時代劇にリアルさを、喝を入れる意味合いもあった。それが『七人の侍』で、一人倒すことの大変さを現わすリアリズム描写だった。
三十郎なるスーパーヒーロー登場は、元は軽い遊び心だったか。「よし、完全主義もいいが、ここらでみんなが面白がる活動大写真とやらを見せてやろう」それがテレビ時代劇の殺伐、見世物化する結果ともなった。
協調と寛容の精神を持って連帯する『七人の侍』の精神は滅び、ひたすら個人のしがらみを超えた、ただのテロリズム、集団アクションと化し、主役以外脇役の思考停止傾向もとどまるところを知らなくなった。
これが受けるということは観客層の思考停止化の証拠でもあり、内部の葛藤→対立→説得→連帯という図式もまどろっこしく、大衆は方針決定を急ぎ、結果を急ぎ、なによりも正義の勝利以外疑うことを知らなくなった。その正義とはなんぞかも知らずに。
テレビの衰退・劣化も似たようなものだ。
●TVサスペンスこそ我が娯楽
イラク戦争後の報道の偏向ぶりに腹を立て、新聞をやめて3年半になる。当然、テレビのニュースも見ない。
だが、ドラマだけは見ていた。
寝る前の一時を酒で愉しんでいた頃、軽い気持ちで見るにはドーンと重厚な映画よりはテレビが恰好だった。
また、ネット小説を書いてホームページに上げはじめた時期にもあたり、これが案外ためになる。見るのはサスペンスが主で、ストーリー展開の端々に触発されるなにかを見出すことも往々にしてある。
キャラクター設定の参考にもなる。
小林稔侍主演の「窓際税務調査官」シリーズにしても、市原悦子の「おばさんデカ桜乙女」シリーズにしても、主役というよりは脇役の妙、ゲスト女優の花に惹かれて録画を残し、何度もリピート見して愉しんでいる。
DVD録画機の普及と、CS衛星放送による過去の民放のサスペンスドラマ放映がそんなマニア熱にワをかけた。
チャンネルNECO(日活衛星)での出色はテレビ東京の「水曜女と愛とミステリー」作品放映だが、地上波分と違って最初からCM抜きなのが手間をかけず助かる。
日本テレビで再放送されることのなかった「火曜サスペンス劇場」モノは特にありがたいが、ここで問題なのはCMを抜く関係上、あの独特の「ジャジャジャーン」、そして、(タイトル文字がいったんバラバラに、それがまたくっつくという)CGを使ったオープニング部分がカットされることだった。
そのジャジャーンの入った伊藤かずえ主演、露口茂共演、梓林太郎原作の山岳ミステリー傑作『八甲田山 死の誘い』が、ちゃんと保存されている。長くベータ録画されたビデオが残っていたからである。
このようなベータ保存ビデオに、テレビ史に残る名作、フランキー堺主演の元祖『私は貝になりたい』もあれば、渥美清主演の土曜ワイド劇場第一回作品『時間(とき)よ止まれ』(もちろん両作品とも再放送録画)もまだ残ってある。
●欲ボケテレビの行き着く先
こうして見ると、俺のテレビドラマ好き、サスペンス好きも筋金が入っている。だが、その筋金、嗜好・趣味に水をかけたのは、ほかならぬテレビ局側の営利一辺倒主義だ。
まず、断っておく。日テレ・火スペの番組テーマ曲は最初から設定されていたこと。それでレコード売り上げも狙う目論見があったにせよ、脚色はそれに則って立てられたから、脚本の出来にそつがなければ全作において違和感はないはずである。
ちなみに火曜サスペンス劇場第一回作品は1981年放映の『球形の荒野』(松本清張原作、恩知日出夫演出)。主演島田陽子、共演中村雅俊というよりは、ゲストに三船敏郎を据えたところに、シリーズ処女作に賭けた局側の並々ならぬ本気度が窺える。
祖国の崩壊を見かねて終戦工作に走った日本人外交官が、戦後しばらくはなりを潜め、懐かしさに駆られて日本に帰ってくる。だが、そんな彼を売国奴・裏切り者と狙う大物右翼。その刺客が外交官に、周囲をも危険に巻き込んで凶悪の牙を剥いて迫る。
三船敏郎、島田陽子が再会するラスト。童謡「七つの子」の父娘合唱が醸す情感の感動。ともすれば番組テーマ曲との不調和により惨憺たる幕切れとなる危険性を孕みつつ、なんの違和感もないどころか心に染み入る余韻。石松愛弘脚本の勝利だろう。
(余談ながらこの原作、1975年に松竹で映画化された時にも主演はおなじ島田陽子だったが、その際には相手役竹脇無我の大根ぶりも手伝って大いに点を落としている)。
「はじめにテーマ曲ありき」の火スペは別として、これに後続して番組にテーマ曲を入れることになったテレビ朝日の土曜ワイド劇場では、話はまったく違ってくる。
映画には映画音楽があるように、ドラマにも音楽が付き、時にテーマ曲が付き、これらは兄弟姉妹とも双子の関係ともいえる。ここに別の血が混じるなど考えられない。儲け主義のテレビは、その愚を怖れもなくやってのけた。
ファンなら分かる。ファンなら怒る。
土曜ワイドが初期の目的から外れて不粋なテーマ曲制をいつから導入したかは知らぬ。が、それ以前から森村誠一原作「『終着駅』シリーズ(ちなみに元祖主演は露口茂)」にも、高木彬光原作「『探偵神津恭介の殺人推理』シリーズ(同主演・近藤正臣)」にも、そのテーマ曲に乗ったエンディングがドラマの余韻を高める重要要素をなした。
それを制作のテレビ局自身が見事にぶち壊してくれた。
最近、これも松本清張原作の『渡された場面』という、水曜女と愛とミステリー枠で放映されたドラマを録画して、もう何度もリピート見している。これを過去なぜ残さなかったか、録画している最中は分からなかった。
理由は最後の最後で分かった。
導入にも、ドラマが進展する随所にも、男を一途に愛して裏切られ、殺されると分かりつつ死地におもむく女の哀切と調和した音楽がマッチしていた。それが最高潮に盛り上げるクライマックス――ところが一転、まったく調子のずれたエンディングに変わって、それこそずっこけてしまったのである。
脚本を壊してまで独自の世界を作る勝新太郎の例をひきあいにインタビューした際、山田太一さんは「わたしはそういう人の脚本は書かない」ときっぱり言い切った。力のある人はそれができるのだろう。だが、そうでない脚本家にとって、今のテレビ界とはいったいなんなんだろう。
そのうえ、最近は再放送放映の際の、あの酷い額縁番宣(番組宣伝告知)である。
この方式の先駈けはテレビ東京だ。女と愛とミステリーを日曜午後2時台に再放送する際、近日放映の同番組タイトルロゴを場面の左肩に入れつつ、テロップも下に流したように記憶する。
何十秒というレベルではない。各CMの後と前、数分にわたって延々と流す。時に主役の顔がロゴマークでかぶっても、まったく意に介さずその状態が続くのである。
こんなものを録画したいと思うだろうか。テレビ局はドラマを、作品をなんと考えているのだろうか。俺はこれを書いている今でさえ怒りで心が震えるほどだ。ドラマに心血を注いだ作者・脚本家の苦渋はいかばかりか。
●『天国と地獄』テレビ版の酷い“地獄”
テレビ朝日が黒澤明の名作『天国と地獄』(1963年、東宝)をドラマ化すると聞いて嗤った。
実はNHK衛星が『夢』(1990年、黒澤プロ)を、(映画はビスタのワイドであるにもかかわらず)スタンダードテレビサイズで放映した際にも「これで黒澤は死んだ」と思ったものだ。
まずもって(黒澤プロ社長でもある)息子の久雄が原作使用をよく許可したものだと驚いた。本人存命中なら、まず考えられないことで、これに至って「正しく黒澤は死んだ」という実感に達したのだった。
その上でなお、完成したドラマのお粗末さは見ないでも分かった。
放映は9月8日。見るつもりはなかったが、友人に勧められ、ついハードディスクの録画ボタンを押してしまった。
原作はエド・マクベインの小説、「87分署」シリーズから『キングの身代金』。
ナショナルシューズの次期社長の座を狙う重役・権藤金吾(ちなみにこの役名、原作ではゴードン・キング=w)。明日は株主総会、それをクーデターの場に変え、一手に会社の実権を握るべく見せ金、捨て金をばらまく所存、という固い意志を片腕の秘書にも敵方の重役連にもひけらかした時も時――。
最愛の一人息子が誘拐された。と、初めは驚愕した。「すわ、警察に!」
だがすんでのところで、それは息子と思い込んだ犯人の勘違いと分かった。脅迫電話にも「間違いだから返せ、今なら罪に問わん」と凄む権藤。ところが――
「間違いは怪我の功名。他人の息子なら誘拐罪は成立しない。したがって罪も軽い。だが、あんたは世間への体裁や道義から身代金を払わなければならない。どうだね権藤さん。あんたに子どもを見殺しにする勇気があるか」
犯人は意表を衝いた反撃に出たのだ。
発想が実にユニークだ。転んでもただ起きない、というより、意表を衝いて主人公を転ばせておき、その困難からどう立ち上がり、不可能を可能に転じて逆転、最後にひっくり返す。その展開を得意の映像と迫真の演出で魅せるのが黒澤映画の真骨頂だ。
しかし、この映画には問題が多い。
まず、第一に間違えられて息子を誘拐された運転手が卑屈すぎる。本来ならば、「間違えられたのは誰のためだ」と居直って当然の所為なのに、「息子を助けてくれるなら一生ただ働きする、息子にもそうさせる」と土下座し、床に額をすり付けて拝み倒す。
それに対して、社長権藤は、「そうしたいのは山々だが、今がどういう時かお前にも分かるはずだ」と逃げるしかない。これが、丸裸どころか借金覚悟で身代金を投げ出す後半、権藤のヒューマニズムと共に犯人への憎しみ、観客の警察へのエールへも繋がる。
だが、見失ってはいけない。
権藤は株主総会で自分への反対票を手に入れるため、身銭以上のものを張ったことになる。すでにこの時点、女房を、子どもを質に入れたようなものだ。元手のない博打を打つという愚を、黒澤の威光か権威か知らないが、後世誰も指摘しない摩訶不思議。
これを称して、俺は映画『天国と地獄』の怪と呼ぶ。
そんな欠陥映画だから、テレビ化にあたって、「原作を壊すつもりなら」との仮定で淡い期待も抱いた。だが、息子久雄の(バカが大半、姑息な計算わずか、したがって取るに足らない)意地は、すんでのところで踏みとどまってそれを許さなかった。
脚本をテレ朝の公式番組サイトで見ると、小国英雄・菊島隆三・久坂栄二郎・黒澤明と並び、映画とまったくおなじ共同脚本であることが分かる。
ちなみに配役を映画版・テレビ版見くらべる。役名の並び順はテレビ版にしたがった。
(権藤) 三船 敏郎/佐藤 浩市
(戸倉警部) 仲代 達矢/阿部 寛
(権藤の妻) 香川 京子/鈴木 京香
(犯人竹内) 山崎 努/妻夫木 聡
(馬場重役) 伊藤雄之助/橋爪 功
(田口刑事) 石山健二郎/伊武 雅刀
(青木運転手) 佐田 豊/平田 満
(権藤の秘書河西)三橋 達也/小澤 征悦
(石丸重役) 中村 伸郎/田口 浩正
(神谷重役) 田崎 潤/六平 直政
知る人ぞ知るこの歴然たる差異。これでどう太刀打ちせよというのか。
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(明日更新分につづく)
(画像は左:映画『天国と地獄』の一場面、右:テレビ版『天国と地獄』のイメージ画像) |
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