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●「犯人に極刑を!」
ドラマ『天国と地獄』が、大昔の映画を丸写しする愚をいちいち具体的に書きだしてくれた恰好のブログを見つけたので以下引用する。
――今の時代で、高台に豪邸を構えているだけで恨みを持つ医学生など居るはずがないし、社長の運転手だけで生計を立てている中年なんかもいない。
当時より高速で走る特急の車掌室の窓から3億の現金入りの「でかくて重い物体」でしかないバックを線路に落としたら大事故になってしまう。
ナンバーディスプレーが当たり前で通話明細で相手の電話番号も後で簡単に調べられ、動画メールで子供の姿を見せる事も出来るようになった現代に、権藤から「橋の袂に子供を立たせて生きている顔を見せろ」といわれてその要求に応じる犯人の頭の悪さは白けるに決まっているのです。
オリジナルから貰うとしたら、誘拐されたのが自分の子供じゃなかったと言う部分だけにするべきでしょう?([『黒澤映画ゼミナール』〜黒澤映画的リーダーの条件]サイトより)
映画『天国と地獄』(1963年、東宝)には、もう一人主役がいた。『用心棒』(61年)、『椿三十郎』(62年)でスーパーヒーロー・三十郎の仇役を演じ、いずれ劣らず最後は派手に斬られるが、すでに主役の貫禄十分の仲代達矢。彼が演じる戸倉警部である。
捜査陣はついに誘拐犯人・竹内銀次郎を割り出す。医大のインターンまでは判明、共犯者2人を殺害したからには死刑も免れないが、それも確実ではない。
ここにきて戸倉の執念、否、妄念は並々ならないものがあり、部下を集めた捜査会議の場で異例の訓辞を垂れる。
阿部ちゃん戸倉。
「この男を今捕まえてはならない。
この男を今挙げても身代金誘拐で、最高で無期刑にしかならない。身代金を払った権藤さんも事実上の終身刑だ。犯人と被害者は同じ刑だ。これは我々としては断じて許せない……」
次に、仲代達矢演ずる戸倉(貫禄の違いはご容赦)。
「この男を今捕まえてはならん。
この男を今挙げても最高15年(註:当時)にしかならん。しかるに、身代金を払った権藤さんは事実上の終身刑だ。これは我々としては断じて許せない。このような犯人は極刑に値する!」
直前の記者会見場面では、共犯者死亡の事実を伏せてもらう上に、「身代金の一部が某所で発見」とのニセ情報を流してくれとの協力要請、それにまんまと従う記者たち。
さらわれた子はとっくに戻っているのに、世論も情も無視して権藤を放り出しにかかった冷酷ナショナルシューズに義憤を燃やし、新聞が警察に協力するという図式だ。
マスコミと権力が癒着している昨今、こんな場面設定は悪い冗談としか取れない。
捜査会議の場の、阿部ちゃん戸倉の指示もこう続く。
「このような犯人は極刑に値する!
ところがこの犯人を今挙げても、その殺人罪を物的に証拠だてることは不可能だ。この凶悪な犯人をその罪に相当する刑に服させることは一つしかない。犯人を泳がせて、犯行を再現することだ!」
この戸倉のキチガイじみた妄念は、じつは監督・黒澤明の意志に由来している。
というのも、
[黒澤は当時の誘拐罪に対する刑の軽さ(未成年者略取誘拐罪で3ヶ月以上5年以下の懲役(刑法224条)、営利略取誘拐罪で1年以上10年以下の懲役=刑法225条)に憤っており、劇場公開時のパンフレットでも誘拐行為を批判している(ウィキペディアから)]
映画は終盤、とんでもない展開を見せる。「竹内に死刑を!」の泳がせ捜査の結果、一人のコールガールを死なせたのだ。
前回殺人は、麻薬中毒の共犯者に純度の高いヘロインを与えての謀殺。それに味をしめた竹内がまたぞろ麻薬殺人の人体実験に場末のコールガールをたらし込み、まんまと成功したのだった。
本来なら違法な囮捜査で罪なき市民の死を招いたと大問題になる警察大失態。
だが竹内が捕まり死刑が確定、エンドマークが出るまで警察のミスに対するフォローはいっさいナシだ。「金で身を売るパンパン(娼婦)などに人権なし」とでもいうように。
『七人の侍』で見せた命への気配りは、『用心棒』以降初めての現代劇となる『天国と地獄』でも薄れてしまった。
正にハリウッド流「命の軽さ」だ。インディアンを虫けらの如く殺しまくった巨匠ジョン・フォードを師匠と敬愛した如く、クロサワにはアメリカ流儀が肌に合っているのかも知れない。
あるいは犠牲者を娼婦や麻薬中毒者に限定したのは、誇り高き武家を出自とすることに発する差別意識の所以か。それならば『七人の侍』における過剰なほどの百姓の卑屈、姑息、即物的描写の偏向性もまた別の意味で理解できる。
●たかがクロサワ! されどクロサワ!
ピーター・バラカン、それに写真家の立木義浩がほとんど異口同音に発した「どの一場面を切り取っても一幅の上級絵画か芸術写真」との手放しの褒め言葉。これは事実だ。
人間を虫けらほどに思わぬハリウッド流時代劇と酷評すべき『椿三十郎』にしてからが、俺が繰り返し見たのはそのストーリーがさる藩のお家騒動であることを、2回見るまで気づかなかった不思議による。
それくらい黒澤映画の場面展開のキレの良さ、カメラワークの流麗さ、全編にみなぎるダイナミズムは誰も真似できない。アイデアの発想自体、常人離れしている。その職人技においては比類なき“巨人”なのだ。
映画『天国と地獄』も例外ではない。
横浜歓楽街のネオンの海を含む、はるか下界を見下ろす権藤邸。そこで繰り広げられる大企業人事の裏舞台。大金が右に左に動くどろどろした世界の一端での暗闘。
と、突然、誘拐というさらなる非日常の出現。巻き込まれ型犯罪に、標的違いというアクシデントが加わることによる人生の悲喜劇。人間のエゴとヒューマンの葛藤。弱さと強さ。卑屈と傲慢。それらが渾然一体を成す重厚な一幕モノ舞台劇のような前半部。
開巻55分を経過――。
パオーン!
轟音と警笛。横移動ワイプと共に、シネマスコープの横長大画面を疾走する新幹線。その車内。現金カバンを“命”と抱え込む主人公権藤。乾坤一擲の執念の警察陣。そして、列車は問題の酒匂川鉄橋に差しかかり……
という場面を新幹線1両借り切ってのノンストップ移動撮影。しかもぶっつけ本番。これでNGを出せば当時の金で2000万円の金がフイという1回こっきりの大勝負。撮る方も撮られる方も意気込みが違う。現場の緊迫感がスクリーンを通して伝わる。
映画史に残る名場面といわれる所以である。
そうして、物語は「犬になってでも犯人逮捕に漕ぎつける」という戸倉の執念と捜査陣の奮闘を描く後半に雪崩れ込む。
フジテレビ「踊る大捜査線」シリーズの脚本家でもある君塚良一氏の『天国と地獄』評。
――ストーリーがいろんな方向に行っちゃう。
その場で思いついたこと、閃いたことを平気で書いてしまう。それが黒澤流の映像に助けられて物語がうねって、そっちへ行かないはずなのにという方向にまで横に、上へとうねって行く。普通そんな脚本はいいものではないのに、黒澤さんの力と演出の強さによってドキドキ、ハラハラ意外な展開の素晴らしい作品になってしまう、その代表例が『天国と地獄』(CS日本映画専門チャンネル「トーキンギ・アバウト・クロサワ」より)。
これにも同感。
ストーリー性の好き嫌いを無視すれば、俺も『天国と地獄』の映画的真価には絶賛を惜しまない。
なんというバカな企画か。
しょせん学芸会芝居、またはネタに窮したテレビ局が黒澤の威光にぶら下がっただけの安易企画。こんなハリボテでも通常時間枠を拡大してまでの特別編。かけた金も半端じゃないだろう。
こんなものを地下の黒澤が喜ぶと思うか。
これなら、原作映画を丸ごと放映した方がよほど気が利いている。
そういえば、一点だけ原作と違う点に気づいた。映画ではコールガールが竹内に殺されるところ、テレビはそれに当たる配役をすんでのところで救っていた。
おい、久雄。なぜその部分だけ改変を許可したのか。
しょせんは、食い残しの砂糖に群がる蟻ども、巨匠の遺産を如何に有効に、便宜的に使おうかとの欲たかり。NHK衛星で黒澤懐古番組を放映するたび、したり顔して登場する裏方なども老残を通り越して醜い限りだ。
その黒澤プロといえばNHK大河『武蔵』騒動。第一話を『七人の侍』の盗作と訴えたという話を思い出す。久雄の賠償請求は却下されたようだが、あんなもの、元々ためにする言いがかりだと思っていた。
俺にいわせれば、あべこべだ。映画『七人の侍』の基本設定の一つ、侍が百姓に武闘訓練をして野武士と戦わすという発想自体が、じつは吉川英治原作『宮本武蔵』の「法典ヶ原」部分のパクリなのだ。俺はずっとそのことを主張しつづけてきた。
日本人なら「武蔵」を知らぬはずはない。にもかかわらず誰も指摘しない摩訶不思議。それはなぜか。
黒澤明など日本人総体は無視していた。ところが海外からの評価に驚き、実体のなんたるかも分析せず、ナショナリズムとして利用すべく、威光として照らし続けた。しょせんは日本人の卑しさの成せるワザだったのだ。
見ていれば分かる。久雄身内とさもしい取り巻き連中の成れの果てを。彼ら、彼女らが虎視眈々狙っているのは、いまや最後の砦たる『七人の侍』を、最も高く売りつける見切り時と相手先しか眼中にないはずだ。
●ビートたけしとは何者か?
テレビ朝日が11月24日・25日の2夜連続で、松本清張原作の『点と線』を放映するという。
主演がビートたけしと聞いて嗤った。というのも、たけしは俳優なのか? という大いなる疑問からである。
ずぶの素人の演技もさることながら、あの顔のどこに魅力があるのか。顔は人生を現わすという。俺にはたけしの人生は、役者向きの人生とはとても思えないからだ。
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↑ この顔、見たくないんですけど……
(テレ朝公式サイトフラッシュ画像より) |
そういえば黒澤明も、たけし、たけしと持ち上げていた。
だが、あれは単に自分の映画を売り込むための、または映画製作の環境づくりのバックボーンとしたに過ぎない。ルーカス、スピルバーグとの交流もそんな腹づもりではなかったかと疑っている。
では、海外のたけし評価はなんとしたことだろう。それを思うとますます分からなくなる。
たけしとは、そも何者か。
きよしとコンビを組んだツービートをネットで検索すると、「ブスいじめ」「田舎者いじめ」「老人いじめ」といった語句が並んで嫌悪感が先に立つ。いわゆる“差別ネタ”が主流だったことを如実に見せつけられる。
暗い。陰湿だ。そのことからして、好きになれなかった。
結成、1974年。テレビ初出演がその翌年。それからめきめきと頭角をあらわす。
差別ネタ、いじめネタは、コロムビア・トップ、ライトが得意とした権力風刺ネタの対極をなすものである。差別することが本意でないのは当然ながらも、一歩誤れば差別となる危険性を孕んでいる。
この差別ネタが受ける背景には、部落解放同盟を中心とした差別語狩りがあり、その結果としてのマスメディア、大衆双方のフラストレーションにより、彼らが登場するレールが築かれた。つまりは、時代の歪みに乗じた“成り上がり者”的受けであったといっても過言ではあるまい。
不幸といえば不幸だが、ずるいといえばずるくもある。本来、笑いのネタにすべき事柄ではなかったのだ。その本質がいまのたけし像を形づくっているのは間違いない。
俺はコマーシャル役者に役者を語る資格はないと主張してきた。
その点、たけしは出自が強烈に過ぎた。差別ネタは元より、タケチャンマンというキャラ、フライデー乱入、バイクによる自殺未遂、そして過剰とも思えるバラエティー出演。それだけ出ていて役者など務まるはずがない。役者は本来、どんな色にも染まれる白紙であらねばならぬからだ。
芝居を舐めているというほかはない。
コマーシャル露出狂のタレント共が、いまの日本映画やテレビドラマを学芸会にしている。たけしはその尖兵だ。せっせとテレビを壊す一翼が、そのテレビに出てなおもドラマを、芝居の質を貶めている。
最悪である。
そしてその知名度におぶさるだけのテレビ局はテレビ文化破壊人の張本人といえる。テレビが壊れるだけならまだいい。役者がテレビと映画双方にまたがっている以上、やがては日本映画さえ危ないということだ。
このところの日本映画の不調は、それを雄弁に物語っている。つまりは、テレビがすべての破壊の元凶ということになる。その役割に寄与したたけしの罪もまた大きいということである。
それが清張ドラマなどとんでもない。たけしのどこに人情刑事を演ずる資質があるというのか。あとは嗤うしかないではないか。
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