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ベトナム戦争映画
『無人の野』を観て



 いつか見たいと思っていた映画、『無人の野』(1980)――グェン・ホン・セン監督作品をついに見ることができた。関心の深さは、それが被侵略国ベトナムがつくったベトナム戦争映画だったからだ。
 これまでベトナム戦争を描いた映画は侵略国アメリカから撮られたものしか見たことがなく、ハリウッド映画にでてくる日本人像よろしく時に同情的視点は感じるものの、作品から受ける印象は総じて嘘っぽさと不快感しか得られない、勝利者の優越意識と差別観に満ちたアメリカによるアメリカのための娯楽アクション戦争映画でしかなかったからだ。
 そこでのベトナム人は、かつてジョン・フォードが無邪気に殺しまくった名前も顔もない無数のインディアンたち同様、自由と独立の強い意志のもと、家族を守って戦った解放戦線兵士も北ベトナム兵士も、十把一からげに「ベトコン」と称し、さらには彼らヤンキー兵いうところの“ノロマのチビッコ野郎ども”でしかなかったのだ。
 放映が待てず、いち早く内容を知りたくてインターネット検索した。
 そのなかで、こんな記事が目についた。

 大国の作品が国際的に寡占しやすい映画状況のなかで国際問題が題材としてあつかわれた場合、必然的に強国の論理が理不尽にまかりとおることになる。国際紛争の一方の当事者である強国側がそれを題材として映画群を広範に配給する場合、うぬぼれ鏡・あるいは国際的弁明としての側面はさらに強まる。
『無人の野』などのベトナム側の映画はなかなか流通されない一方、米国側の多くの「弁明映画」がのさばる結果、当時の「べトコン」などという蔑称が無自覚に用いられ、一般名称化してしまうこととなる。
 本作はフィクションを免罪符に、まったく根拠のない相手国側の残忍な捕虜虐待をわざわざ捏造
(ねつぞう)し、「戦争の狂気」として一般化する。その主旨に合致するような自国側の野蛮行為の実例ならばそれこそ腐るほど確認されているにもかかわらず、である。
 民間人虐殺や捕虜虐待の常習犯はどちらの側か、先般のイラク侵略の例をみるまでもない。米国建国以来の侵略戦争の本質と相反するプロットは悪い冗談としか思えない。
(一部漢字をカナに、段落替えも付けました)

 これはJTNEWSという、いろんな映画に対するユーザーコメントと星評価を載せたサイトでの『ディア・ハンター』
(1978年アメリカ)に関する一文であり、HN(ハンドルネーム)ユーカラさんのコメント全文で、10点満点の評価はなんと0点。
 ただしかし、ネットにあふれるベトナム戦争評価のじつに過った情報の発信元が『ディア・ハンター』である以上、わたしだったら0点どころかマイナス5点は付けたいところだ。ユーカラさんとて、小数点以下評価が許されるならおなじ気持ちだったろう。
 あまりにも有名な『ディア・ハンター』の問題箇所は、ご存じの方も多いと思われ今回無視して、ここでは別のクズ映画を紹介しよう。

『英雄の条件』
(2000年アメリカ)は、オカルト映画「エクソシスト」を作ったウイリアム・フリードキン監督作品だが、中東で暴動化した反米デモの市民に向かって発砲を指揮、市民から多くの死者を出した特殊部隊の上官サミュエル・L・ジャクソンが、軍法会議で裁かれる。サミュエルの弁護人は、かつてベトナムの戦場で戦友だったトミー・リー・ジョーンズ。
 発砲理由にも問題はあるのだが、ここでは触れない。ただ、そのときの指揮官サミュエルの勇猛ぶりを物語るため、ベトナムでのエピソードが語られる。
 多数のベトコンに包囲され、孤立した部隊を助けるため、サミュエルは先に捕らえたベトコン捕虜の上官に、友軍の撤退を命じるよう脅す。当然そんなことはできないと突っぱねると、サミュエルはやにわに、いっしょに捕らえた部下の捕虜を射殺する。なおも拒否すれば、他の部下も同様だというわけだ。しかたなくこの北ベトナム軍上官は無線で撤退命令を出し、せん滅寸前のトミーら孤立部隊が助かる。
 まあ、ここまでだったら、戦争映画の常道だからと許すこともできる。
 しかし裁判で、あのおりのベトナム人元将兵を証人として呼び、「あっぱれ軍人のカガミ」「指揮官として適切な判断」と言わせるという設定はいかがなものか。さらにこのベトナム人、映画のラスト、記者団や米国民観衆に混じり、裁判所から出てきたサミュエルを迎えて拍手まで送る。
 アメリカはベトナム戦争でベトナム民衆を殺したうえ、映画でまたベトナムの心を殺す。いったいいつまでこのような横暴非道を繰り返せば気がすむのか。(当サイト「ロックのこの本――吉澤南の『ベトナム戦争』」より)

 本篇『無人の野』について語ろう。

 背景はベトナム戦争後期の1972年といわれる。南ベトナムのデルタ地帯入口のある場所――米軍は戦場にはさまれたこの地区を戦略上“無人地帯”にして、その後誰も近づけぬよう索敵ヘリでの偵察をおこたらなかった。
 川の水上家屋に解放戦線の連絡員をつとめる夫婦が、乳飲み子といっしょに暮らしていた。
 夫のバドー
(ラム・トイ)は、軍務以外は水位の上昇にそなえての床上げなど、あれこれ家事に精出す良きパパだが、閑なときにはギター片手の歌好きで、妻のソア(グェン・トゥイ・アン=監督の奥さんでもある)から「歌姫と結婚すれば良かったのに」とからかわれたりもする。
 ある日、ソアが米軍ヘリに見つかって銃撃され、危うく水中にのがれたものの、大事な小舟は爆破された。
 ヘリの乗員は基地に帰り、偵察写真の分析結果から付近に住民の生息を感知、司令官は徹底した破壊と住民探索を命じる。生け捕りを命じた中尉が、不敵に笑ってうそぶいた。
「こんなにされても生きてるとは……そのめずらしい“生き物”とやらをじかに見てみたい」
 一方、連絡員基地では解放戦線の隊長が、「独立と自由より尊いものはない」とのホー・チ・ミン大統領の言葉を引用、さらなる結束と抵抗戦の意志を同志たちと固めたばかりだった。そのなかにはスカーフを首に巻いた女性戦士の姿も目立つ。まだ十代といったあどけない笑顔も見られた。
 やがて解放軍に大攻勢の令がくだり、大部隊がバドー家近くの林に集まった。愛児を抱くソアにも緊張が走る。そして、米軍ヘリがこんどは編隊を組んで飛来し、迎え撃つ解放軍とのあいだに激しい銃撃戦が交わされ……

 ベトナム戦争映画と聞いて激烈な戦闘場面を予想したら肩すかしを食らう。が、しかし、乳飲み子を抱えた夫婦を主人公と設定すれば前述の内容になるのは必定、いやむしろ“生活史としての戦争”と位置づけた製作者の着眼は正解で、それだからこそ戦争がもたらす犯罪性、悲痛さがきわだつ。
 そもそも農耕民族であるベトナム人を、大国の横暴で屈服させ、隷従させ、ついには反旗をひるがえして戦わせた。ディエン・ビエン・フーを陥落させ、フランス軍に打ち勝つまで幾多の苦難と犠牲を乗り越えたか。にもかかわらず、またもやアメリカの侵略である。
 穀倉地帯をナパームで焼き払い、爆弾の雨を降らせて全土を焦土と化したジェノサイド=ベトナム戦争は、米国が直接的にかかわった8年間だけで投下した爆弾の量は、第二次大戦で使用された爆弾総量を上回るといわれる。そして戦争の全期間で失われたベトナム人の犠牲が200万人――。ただし、それに家族が加われば悲劇は何倍にもなる。
 リアルな戦場描写としての場面がいくつもある。
 なかでも索敵ヘリに追われて川に身を隠す際、そういうときの必需品なのだろう、とっさに袋を出し、先に赤ん坊を袋にくるんで沈めると同時に自分たちも潜る、その場面を息を呑んで見つめてしまった。
 夜陰に乗じて解放軍の大部隊が移動するにも、米軍のパトロールも往来する幹線道路を通過する際、まず細長い絨毯ようのものを道路のうえに渡し、全員がその上を走り抜ける、これは足跡を残さないゲリラ戦の知恵だ。また、経験不足な新兵が不用意に炊事の火を焚き、「煙で見つかる!」とあわてたバドーが2つの樹の幹と幹に足をかけ、それこそ忍者のように器用によじのぼって、こもった煙をまき散らすため梢を揺する場面も愕きだ。
 まず、このような場面はハリウッド製エセ=ベトナム戦争映画では見たことがなく、同時に、ああ、あの人たちはこのようにして苦難と闘い、その苦闘の克服によってフランス、アメリカという大国を打ち負かしたのだなあと実感、あらたな感慨と感動に胸打たれることにもなるのだった。

『無人の野』には、ハリウッド映画のように派手なアクションや爆砕シーンはすくないものの、それで映画的迫力に劣るという感想は絶対当たらない。前述した戦場のリアルさももちろんのこと、ときにタルコフスキー映像をも彷彿させる流麗かつ躍動感あふれるカメラワークの迫力は、なにを効果要素として成り立つのか。
 赤子を抱えた夫婦が遭遇する敵は、たいていの場合ただ1機の索敵ヘリだが、その追跡は執拗で追われる者の恐怖感が見る者の心にひしひしと伝わる。川のなかを逃げまどう夫婦を追うカメラが緊迫感に満ち満ちている。美しい自然のなかでの、平和なたたずまいの静をしっかり見せている分、いったん戦争の渦中に投げ出された際の戸惑いと死を賭けた動の部分がすざまじい迫力で向かってくるのである。
 この映画を見ていて、15年ほどまえに見たNHK特集『社会主義の20世紀』のなかの第7集「ベトナム戦争・15年目の真実」を思い出した。爆弾の雨の下、弾雨の嵐の中をかいくぐって投入されたカメラマンの10人に一人は還らぬ人となったという、苛烈な戦場の記録フィルムである。

 延べ500万フィート1000時間分のフィルムから、放送で用いられたのはほんの一部でさえないが、そこには大自然を切り開いて構築された長大な兵站
(へいたん)ホー・チ・ミン・ルートはじめ、抜け穴にも隠れ家にもなるトンネルから、偵察の米兵を射殺して、またサッと忍者のように隠れるゲリラ戦の全貌も記録されていた。そして、そこに映っていた解放戦線少女戦士の服装からスカーフの柄まで、『無人の野』に登場するのとそっくりそのままだった。
 この稿を書くにあたって、資料としてネットでひろった記述――監督グェン・ホン・センのプロフィールを読んで「あっ」と思った。長篇劇映画はこれが79年の『季節風』につづく2作目であることのほか、「解放戦の記録映画を撮りつづけた人物」という、正に戦場“叩き上げ”だったという前身に触れて納得、目からウロコの思いだったからだ。

 欠点らしき部分を一つ挙げるとすれば、米兵が登場すべき場面で白人がまるででてこなかった点――パーティー会場で一人だけそれらしきエキストラが顔を見せたといえば見せたし、南と北でベトナム人同士血で血を洗う戦争をしていたわけだから米軍にベトナム人がいて当然だし、ベトナム系、いやアジア系アメリカ人なら米軍の服を着ていてすこしも不思議でないのだが、それにしても違和感はつのる。
 登場シーンにしてもセリフにしても、侵略側の残虐性、人間的ゆがみを表現したかったのだろうが、白人の調達が無理ならあえて白人=アメリカ人をだす必要はなかったろう。黒澤の『七人の侍』
(1954年東宝)では攻めてくる野武士側の視点にまったく立たなかった。それがためロケ見学に訪れた社会党書記長の女性秘書に「野武士にも立場がある」との感想を洩らさせ、監督を激怒させたというエピソードがあるくらい、徹底的に侵略者側を無視してあれだけのアクションと人間ドラマを作り上げた。『七人の侍』を下敷きにしたと思われる銃撃アクション『スズメバチ』(2002年フランス、フローラン・エミリオ・シリ監督)では、敵側無視の姿勢はさらに徹底された。

 とはいえ『無人の野』の映画価値と思想性、生活者としての視点で戦争をとらえた普遍性の豊かさは、すこしも見劣りすることなく後世まで語り伝えられよう。
 たしかに映画の技術や力がアメリカに集まっていることへの悔しさはある。だからといって『ディア・ハンター』などに対し、「それにしたって映画としては良くできてるでしょう」という反論にはそっくりノシを付けて返したい。
 わたしは俳優としての仲代達矢はあまり評価しないのだが、無名塾をおこして後輩を育てる彼、人間・仲代の考え方には共感するところが多い。「役者にたいせつなものは演技だけではない」とする確固たる姿勢は、かつて浦山桐郎(監督)が吉永小百合に、和泉雅子に教え伝えた人間的資質とも通ずる究極の真理である。どんなに見た目きれいな女優が絶世の演技をしたところで、血垢にまみれた所業はかならずボロを出す。
 映画にしてしかり。技術や娯楽的器量がなんになるか。ましてや、それが事実を無視し、ひたむきに生きて死んだ人々とその魂をおとしめ、傷つけ、笑うなどという犯罪的捏造などあってはならない。そんな厚顔無礼な映画など、その時点で失格である。評価にも類しない。

 これから見る方への配慮から『無人の野』の結末には触れない。
 ただ、しかし、映画では攻撃するアメリカ軍を迎え撃つ解放軍が、自動小銃で攻撃ヘリを撃ち落とす場面がある。これを見て、「マシンガンでヘリが落とせるか」「ご都合主義はハリウッドと変わらない」「しょせんは共産圏映画のプロパガンダ」という人たちへ、最後につぎの一文を送ってこの稿をしめくくることとする。

 ヘリコプターに対する銃撃で注目されたのは、ゲリラ側が飛行する物体の前方に狙いをつけることによって弾を交差させ、飛行機を弾幕の中に捉えようとしたこと、つまり「未来修正量」を計算して集中的に撃ってきたことである。こうした対空射撃のテクニックによる航空機の撃墜がこのアプバックで最初に起こったのである。このテクニックは、空爆(「北爆」「南爆」)が重要な位置を占めるようになる戦争の第二段階では、さらに慎重に訓練され、磨きがかけられた。そしてベトナム全土で、機関銃やブローニング自動銃(BAR)によって戦闘爆撃機すら撃墜されるようになる。
(吉川弘文館刊、吉澤南著『ベトナム戦争――民衆にとっての戦場』より)

(トップ写真は前記吉澤南著『ベトナム戦争―』より。
 撮影 中村梧郎)



 なお、ラスト「未来修正射撃」に関した部分での、小銃・拳銃で航空機を撃墜する記述に違和感をお持ちの方も多いと思われるが、以下、その事実は軍事的にも実証済みであることをリンクを貼付して付言します。(筆者)
 
http://www.tkfd.or.jp/publication/reserch/2006-2.pdf
――対空戦闘方法(全力射撃)を教えた。多数の小銃で一斉に撃つ。機関銃1挺よりも小銃.20挺の方が撃墜あるいは撃退の効率が高い。この方法で実際に仏軍機を撃墜したことも.ある。これは後年の対米戦争で米軍の地上攻撃機を相手にヴェトナム軍民の常用....

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/071/1020/07109191020030c.html
――高空をSA2対空、ミサイルでもって制するために、米側の航空機は高空を飛び得ない、低空を飛ばざるを得ない、低空を飛ぶと、従来の火器、ひどいときには機関銃ですらも撃墜され得る....

 もちろん地対空ミサイルでの撃墜が圧倒的主流だが、場合によって機関銃にて撃墜可能であることも事実。

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