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国鉄上野裁判(前)
〜死者はかえらない!!〜

 国鉄bb国民の足と言われている巨大な公共交通機関である。日本国有鉄道bbれっきとした国営の企業だ。ストの時には「酷鉄」と呼ばれ、それでもスシづめの満員電車を、毎日何千万人もの人が利用している。
 だが障害者は、この公共機関からしめ出され続け、さらにその命まで奪われてきた。


 10月22日夜、冬の到来を思わせるハダ寒い中を、大塚駅から降りて来る白いツエの集団。互いに手をつないだり、付き添いに引かれたりしながら同じ方向に向っていた。
 この夜、豊島区の南大塚社会教育会館で、「上野裁判を支援し、国鉄利用者の生命と安全を守る会」の、結成一周年記念集会が開かれ、視力障害者を中心に、約200人が参加した。

上野裁判とは

 「上野裁判」は、ひとりの盲人の死によって生まれた。
 昭和48年2月、国電山手線高田馬場駅でのこと。近くのヘレンケラー学院々生である上野孝司さん(当時42歳)が、あやまってホーム上から転落、入って来た電車にひかれて死亡するという事故が起った。
 戦争中に勤労動員で作業中事故のため左眼を失明し、戦後10数年たって今度は残る右眼を労働災害で失った。
 失意の中から立ち上がった上野さんは新宿区にあるヘレンケラー学院に入学し、そこでハリ・マッサージ師の免許を取得し、前途は輝いていた。そればかりか、学院の後輩にあたる女性とも婚約しており、その年の春に結ばれることになっていたのだ。
 最大の不幸は一瞬にして彼をおそった。

事故の発生

 訴外孝司は昭和48年2月1日午後、渋谷で所用を済ませ、その帰途午後9時10分過ぎ、国電渋谷駅から山手線(外回り)に乗り、同9時25分ごろ高田馬場駅で下車した。
 同駅のホームは高架島型ホームであり、新宿方向から池袋方向に向って、左側が一番ホームで山手線外回り線、右側が二番ホームで内回り線の線路であり、ホームと地上(あるいは他社線)との連絡階段は目白寄階段(地上に連絡)、中央階段(西武線に連絡)、新宿寄階段(地上に連絡)の3ヶ所あり、いずれも一、二番線の中央部に位置している。
 訴外孝司は9時25分頃、同駅で前記外回り線電車を下車したのち、目白寄階段から地上改札口に出ようとしてホーム中央に向かったところ、盲人にホームの側端を認識させるべき設備がなく、かつ同駅員による警告もなかったため、池袋方向に向って同ホームの右側端を認識できないまま前進し、二番線々路上に転落した。
 同人は直ちに同線路からホームにはい上ろうとして、線路上からホームに手をかけたが、ホームが高くて自力では上れず、転落箇所付近の一般乗客らに手を貸してもらおうとして助力を求め、同乗客らが同人を引上げようとしたが、その最中に同線路上を目白方向から新宿方向へ進行中の国電が進入してきたため、同人の上半身がホームに引上げられた状態のまま、同電車とホームとの間にはさまれて、下腹部、左大腿部れき断、内臓破裂などにより同所において即死した。享年42歳であった。(守る会資料より)

上告

 訴えは

(1)事故の発生した高田馬場駅付近には、ヘレンケラー学院、点字図書館などの盲人施設があり、障害者の利用の多い駅のひとつ

(2)国鉄は公共輸送機関という性格上、乗車券、入場券などを所持する利用者に対し、その施設内においての安全を保障する義務がある

(3)この事故は盲人を誘導すべき設備が設置されていたなら事前に防止できた

(4)事故当時、ホームにはわずか一名の係員しかおらず、盲人の利用の多い駅であるにもかかわらず適切な人員配置を怠っていた

bbこの4点から国鉄の過失を告発し、責任を追及するものであった。
 しかし当の国鉄は、過去8回の公判の中で終始一貫し、「善管注意義務(善意又は好意で行なう管理上の注意義務)を負うことは認めるが……旅客は原則として自ら危険防止に心がけるべきであり……盲人とて例外ではあり得ない」と主張していた。自分の命は自分で守れという訳だ。

いかなる犠牲の上に

 首都圏における一日の国鉄利用延人員は1140万人だという。いわゆる国労の全面ストの際、東京周辺の利用者のこれだけの足が一時に奪われる。また鉄道利用状況を見ても、国鉄44%、私鉄56%と、国鉄の占める割合は約半数bbそれだけ公共機関であることの重要性がうかがえる。
 障害者はこれまで一体何だったと言うのか。座敷牢のような小さな世界から、勇気をふるって人間の世界へ一歩踏み出し始めたのだ。ただ人間らしく生きたいから、同じ道を歩こうとしているだけではないか。なぜそれすら阻もうとするのか。

 教育大付属盲学校の三浦佳子さん(18歳)は、通学の際に利用する目白駅のホームから二度も転落を経験している。
 「一度目はかすり傷程度ですんだけど、二度目は救急車で運ばれ、頭を三針縫って10日間入院した。新聞社も来たということで大変だったらしい。病室でラジオを聞いていると自分のニュースを放送している。文化放送だったと思うが、変な気持だった……」
 落ちた時は意識があり、とっさに逃げることを考えた。しかし目が見えない。誘導してくれる人もいないので、ひたすらホームに手を差しのべて助けを求めたと言う。
 登校時の出来事で学校側から多少の見舞金が出た。しかし当然のことながら国鉄からは何の補償もありはしない。
 そしてこの時になって初めて目白駅に点字ブロックが備えつけられた。
 「でも生きていて良かった」
 bb二度も落ちてこりない?
 そう聞くと、笑いながら「学校へ行かなければならないから」と答えた。
 それでも点字ブロックの付いている駅はまだほんのわずか。他の駅のホームに立つ時、事故のことを思い出して思わず足がすくむと言う。

 上野さんが亡くなって三年目の冬がやって来る。遺族は「不幸な事故はこれっきりに」という気持で裁判に踏み切った。しかし悲しい事故例は決して後を絶たない。
 守る会の一周年集会をはさんで、同じ月に二件の死亡事故が発生した。
 10月9日、埼玉県鴻巣市の国鉄高崎線鴻巣駅で、上尾市柏座の熊谷盲学校生徒二人が、人ごみを避けようと手をつないだまま線路に転落、一人は即死、一人は重傷を負った。
 また23日には千代田区外神田の国電秋葉原駅二番線ホームで、電車を待っていた国立東京視力障害センター生徒が、入って来た山手線電車の風圧に巻き込まれ、30メートル引きずられて死亡。
 いたましい事故は増えこそすれ減ることはない。国鉄はどれだけ犠牲をくり返したら安全なレールを敷くのか。国民の命を預る国の機関が、「予算がない」ではすまされない。命は何よりも尊いのだ。

(1976.11.30 第7号より)
(「障害者問題の接点 その社会的課題」のシリーズ名で掲載)

守る会発足までの歩み
昭和48年
 2/1 上野孝司さん(当時42歳)国電高田馬場ホームから転落死亡(テレビ・新聞で報道)
 9/8 ヘレンケラー学院生、学友と家族語り合う
 10/12 語り合う「つどい」3回目
 11/16 「つどい」で国鉄の責任を問う方法を討議、弁護士参加

昭和49年
 2/1 命日 高田馬場駅ホームで追悼集会・献花
 5/2 埼玉県立盲学校生高橋節子さん、大宮駅でホームより転落死亡
 11/8 弁護士・家族、問題提起の話し合い

昭和50年
 1/21 被害者上野孝司さんの両親、国鉄に対し損害賠償請求を通告 期日に回答なし
 2/19 両親上野実・ヨシエ氏、国鉄に対する損害賠償請求を提訴 東京地裁民事27部へ訴状提出
 4/13 東京視力障害者の生活と権利を守る会総会で訴え
 5/6 「つどい」を「上野訴訟を考える会」に改組発展
 5/13 第1回公判 国鉄答弁書で「安全は注意力に依存するしかない」と主張
 6/22 亀戸駅で乗客、電車にふれて重体
 7/8 第2回公判 国鉄当局「安全設備設置」の釈明提出
 8/3 南柏駅でダンス教師、発車した電車のドアに腕をはさまれ、70メートル引きずられ重体
 8/28 国鉄藤沢駅で61歳の婦人、ホームから転落死亡
 9/16 第3回公判 原告、盲人の事故例を提出
 10/2 「考える会」を「上野裁判を支援し、国鉄利用者の生命と安全を守る会」に改組発足
 10/5 障都連都民集会で訴え
 10/20 港区の障害者福祉会館において守る会決起集会

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