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国鉄上野裁判(後)
〜安全ブロックを付けろ!!〜

 見えないから闇なのではない。障害者だから不自由なのではない。その人格が、生命が正しく保障されぬ国にいることが問題なのだ。障害者でない人々もまた闇の中にいる。


 上野孝司さんが国電高田馬場駅のホームから転落し、帰らぬ人となってから四年たった。見えないことが直接の原因だとするなら、盲人は誰も電車を使えない。同じ人間であるのなら、その生命は等しく保障されなければならない。
 一人の人間の死の重みを無視し、国鉄はひたすら沈黙して来た。上野裁判の経過は国鉄が自らの責任を否定しつづけた長い経過でもある。

高田馬場周辺

 高田馬場駅の前にビッシリ敷きつめられた点字ブロック。そこから延々と続く点字ブロック。
 この近くには盲人のための点字図書館や、盲学校がある。昭和47年、東京都議会は高田馬場を盲人のためのモデル地区に指定、道路を整備した。一面張りめぐらされ、かえって区別がつかず不便との利用者の声も多く聞かれるが、都は国に先がけて一定の対策をしている。
 昭和47年というと上野さんの事故がある前の年だ。目の前に点字ブロックが敷かれても、国鉄は駅のホームに点字ブロックを付けようとはしなかった。ただ、盲人団体の強い要求で、高田馬場ホームの一部にキックラインテープが付けられていたようである。だがそれは点字ブロックとちがい、非常に識別がつきにくい。
 そうして昭和48年2月1日、高田馬場駅近くのヘレンケラー学院生上野孝司さんの不幸な事故は、起こるべくして起こったのである
(画像は高田馬場駅ホーム取材中の筆者=車イス。白い杖が佐賀君。後ろが上野正博さん)

運動はやがて大きな輪へと

 国鉄に対する訴訟が開始され、「上野裁判を支援し、国鉄利用者の生命と安全を守る会」(以下守る会)が結成された。昭和50年の10月20日である。
 11月、守る会は視力障害者事故実態調査のアンケートを始めた。その結果、盲人の二人に一人が、ホームから転落をする経験を持つという驚くべき結果が出た。(マスコミなどで四人に一人とされているのは、ここでの調査結果が誤って伝わったためによる)
 会には視力障害者だけでなく、国鉄の現場に働く労働者も参加した。それらの人々が一定の専門知識を身につけるべく、定期的に学習会を開催、裁判制度のあり方や、国鉄について学び合った。東京の会員は約500人。
 昨年の5月2日は以前大宮駅で死亡した埼玉県立盲学校生高橋節子さんの事故を契機に、「埼玉の会」が結成。
 たび重なる事故例と、運動の発展の急務から、大きな団体の大会での訴えも苦労が実り、6月6日、大阪での全日本視力障害者協議会第10回大会では支援を決議、7月12日、札幌での国労全国大会では新橋分会など一部が支援決議、7月24日の松島での日本国民救援会全国大会では再び支援が決議されている。
 9月24日は「大阪の会」が結成。11月3日は四つ目の「守る会・神奈川の会」の結成準備会が行われた。

これ以上犠牲者を出すな!

 全国には5200の国鉄駅があると言う。だが、その内、障害者に対する何らかの設備がほどこされているものは64駅、さらにその中で、盲人に対する点字ブロックの設備はわずかに76駅にしかとどまっていないということだ。
 事故はひん発する一方。
 新聞やテレビなど、表面に出て来るのは主に「死亡記事」、たまたま死なずに助かった事故例は数限りなくある。国鉄を使う盲人の中には、一人で六度も転落事故を経験している人がいる。
 孝司さんの遺族の上野正博さん(50歳)は、弟を失くして初めて弟の置かれた立場、盲人の実態が分かったと結成一周年の大会で述べている。これ以上犠牲者を出したくないという思いで運動に立ち上がっている。しかしその思いとはうらはらに、昨年の一周年をはさんで二件もの死亡事故が起こっている。
 「車イス用と併せ95ヶ所の改善をするとのことで一定の評価はできる。国鉄も周囲の動きに押されて少しずつ変わってきたようだ。今までは犠牲が出て初めて何らかの手が打たれたが、これからはそんなことのないように願いたい」上野さんはそう語る。
 点字ブロックが完璧という訳ではない。駅によってはそれに代わるものが必要な事もある。
 だが国鉄は国民すべてのものだ。利用者の安全が第一でなければならない。そのための安全ブロックが随所に敷かれるように、上野裁判もこのまま終わることはないだろう。
 上野裁判には「障害者問題の接点」が感じられる。障害者が安全に乗れる日が、国鉄が市民の手に還る日なのだ。
 今日もまた人々はスシ詰め電車に揺られている。

(1977.2.28 第10号より)
(「障害者問題の接点 その社会的課題」のシリーズ名で掲載)

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