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●失われた時の中で
小田急線を新宿から30分ほど揺られると祖師谷大蔵という駅がある。
世田谷区でも郊外に最も近い所で、昔は緑も多く静かなたたずまいを見せていたものだが、この頃では家が建てこんで来て心をなごませるものが少くなった。
駅から5分位歩くと、そこに白い小さな看板の家を見つけた。横書きで「二日市翻訳事務所」とある。
翻訳家二日市安(やすし)氏は昭和4年5月28日、兵庫県西宮市に生まれた。
先天的な脳性マヒで、脳性マヒによる歩行と言語の障害はこの時以来のつき合いだと言う。
壁につかまってやっと歩ける程度だったが、尋常小学校時代は友だちも多勢いた。
兵隊ごっこや隠れんぼ遊びもした。体操はやらせてもらえず、運動会はただのお客さまだった。遠足も始めのころは一緒に行ったが、学年が進んで遠くなると参加しなくなった。
それにしても、その後の約20年から比べると、この頃が花だったと言う。
尋常高等小学校(今の中学)には行かなかった。そこでやる軍事教練に参加できなかったからだ。
卒業してからは幽閉同様の生活をした。その間に二日市氏は英語の本を読みあさった。
日本が戦争の道一筋に歩んでいる時だ。敵国語を習ったら非国民と言われる世の中で、兄の古い教科書を使って英語を覚えた。
「今に米英は滅びる。そうなれば英語を使える人間がいなくなる」
兄は冗談まじりにそんなことを言っていたが、勝つはずの戦争に敗れて日本は終戦を迎えた。
昭和20年、二日市氏は両親と共に両親の実家である九州の大分に渡り、更に十余年の幽閉生活を続けた。母方のいとこに医者がおり、ゲーテやシラーなどの原書を何冊も持って来てくれた。
多感な少年期と青春期を外国語の独習に塗り潰した20年だった。
●わが恋わが歌わが闘争
「こんなことでは俺の生涯はダメになる」と、彼は親兄弟と大喧嘩して単身上京した。
昭和33年、新宿の身体障害者更生指導所(現、国立身体障害センター)に入所し、そこでガリ切りとタイプを習った。
大分にいた頃から地方の短歌の同人誌にも入っていたが、施設在所中は北原白秋門下の「中央線」の同人になり、「短歌研究」第1回新人賞に応募して10位に入った。
ここで昭和32年に『猫は知っていた』で江戸川乱歩賞をとった車イスの作家仁木悦子さんを知り、2人は親しくなった。
昭和35年6月、施設の卒業生が経営する印刷屋に就職した。
60年安保闘争の年、「我々も行かなきゃならない」と言う風勢のいい同僚に誘われ、プラカードを作って国会へのデモ行進の隊列に加わったこともある。
「あの時は労働者の力強い拍手を受けた」と、その時のことを、まるできのうのことのように得意になって話してくれた。
仕事の方は手先が不自由で、タイプの腕は思うように行かなかったが、外国語の能力を社長に見込まれ、翻訳の仕事を紹介された。
最初はヘリコプターのマニュアル(取扱説明書)だったが、大学出のパリパリが分らなかったものをスラスラと訳してのけた。無名の一障害者が、今なら7、80万円の仕事を見事仕上げ、彼の所に持ち寄る翻訳が徐々に増えて行った。
一方、仁木さんは両親に二日市氏との結婚を打ち合けたが、今以上に障害者同士の結婚が困難な時代で一時は反対に会った。しかし彼女は現在の世田谷区砧に車イス用の住宅を建て、そこに二日市氏を迎えた。そうして両人は昭和37年に結婚した。
施設卒業当時、車イスの俳人花田春兆氏の誘いを受けて二日市氏は「しののめ」の同人となったが、得意の短歌で結婚当時の気持を次のように詠っている。
金色の陽沈みきれば二人帰るべし
童話などより少し寂しく
●センター闘争
更生指導所は国立センターに改められ、60年と70年の安保の谷間の時代に有名なセンター闘争が起った。
それより1年半前から続いていたセンターの運営方針を変えた。当時の稗田正虎所長が「治療を必要とする障害者はもういない」と、それまで行っていた外科手術を廃止する方向を見せたので、歩けるようになることを希望していた障害者たちは一斉に怒った。手術すれば治る例が何十例もあったからだ。
厚生省に何度も陳情したがラチがあかず、そのうち所側の圧力により、「外出禁止」など、在所生の行動の自由が極度に圧迫された。
障害者たちは和田博夫医師を立てて闘ってきたが、昭和40年3月1日、センター前の広大な芝生の上に坐り込みの行動に出た。
午前中から支援の卒業生たちが続々集まり、二日市氏も当然その中にいた。
空は晴れていたが、吹きつける突風が身を刺した。玄関には「閉鎖」のハリ紙がしてあり、本館の周りは鉄条網が張りめぐらされ、無人のようにひっそりした建物の1か所に職員が数人立っていた。
やがて、
「開けろ! 開けろ! 俺たちをどう思ってんだ!」
と、中から激しい在所生の怒号が聞えた。
やがて代議士の口利きで胸に交渉団であることを示すバラの起草をつけた30人の代表が3階の会議室に向った。応対に出たのは稗田所長他4課長。
一部の障害者の治療だけで片をつけてしまおうとする所側に、代表団が激しく食い下った。
体育館では200名の仲間が坐り込んでいる。
給食係が何軒ものパン屋を回って食事の調達を行ったが、多勢のこととてなかなかはかどらない。
午後からの第2回交渉でも意見は空転、夜6時からの第三次交渉を約束しながら、わずかのスキに所長が車で逃げる一幕もあった。
やり場のない怒りに、在所生が杖で床を打ち鳴らす音が体育館中に響いた。その頃にはみんな体育館の方に集結していたのだ。
夜になって所長は戻り、運営方針を6月30日までに改訂すると約束した。
これで勝利したかに見えたが、約束のひと月前、突然和田医師を配転する決定が出て、和田氏も障害者の前から姿を消した。再び強い反発に会った所側は、センターの真向いにある配転先の国立東京'第一病院とのカケモチで和田医師に手術を担当させると約束したが、和田氏自身はセンターに残ることを希望しており、そうならない限り「一人の手術もしない」という気持を明らかにした。
その後、和田医師をセンターに戻す第二次センター闘争が起きたが、「自らの保全しか考えぬ和田氏に裏切られた」と、二日市氏はそれには加わらなかった。
●夕陽よ沈め
ウィーンの町を舞台に娼婦の身の上話を描いた『ペピの生きかた』が、二日市氏の訳で昭和45年から46年にかけて雑誌「えろちか」に連載された。『バンビ』の作者でもあるフェリックス・ザルテンの著だと言うが、それが刑法175条に触れたとして一斉に摘発された。
この際、編集者が二日市氏をかばう意味で「この訳者は体が悪い」と言ったとかで、警察は氏を捕まえには来なかった。氏はこれは差別だと思い、「あれを訳したのは俺だ」とわざわざ警視庁に乗り込んだと言うことだ。
花田氏と共に「しののめ」を出し、80もの障害者団体を抱える身体障害者団体定期刊行物協会を運営して各団体の機関紙誌発行活動に寄与し、総評傘下の障害連の中では常に反主流的な立場をとる。センター闘争で「もう障害者運動などするものか」と思ったと言うが、まだまだどうして。
沈め夕陽丘の上わが立つかぎり
今日を醜しと誰が言うものか
氏の歌には時々夕陽が登場する。夕陽は沈んでも又昇って来る。燃える夕陽に限りない希望を託し、今、失なわれた時を噛みしめる。
「青春は年齢ではない」と言う。
48歳。
果敢な青年である。
*2008年2月16日永眠。
ご苦労様でした。安らかに。合掌
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