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車イス 海を渡る

 昭和55(1980)年8月──着替えを詰めたナップザックを車イスの背もたれにかつぎ、カセットレコーダーは小脇に抱えた。首からカメラをぶら下げ、カーフェリーのデッキから海を眺めていた。
 風が汐の香りを運んでくる。船が蹴る波しぶきが、時おり潮風に乗って顔にかかる。絶好の旅日和に恵まれ、一路故郷へと向かっていた。

  佐渡へ 佐渡へと
  草木もなびく
  佐渡は四十九里 波のうえ……

 空は青々として広がり、海は小さな白波を立ててどこまでも続いている。
 穏やかな船路であった。荒波逆巻く冬と違って、夏はたいていこんなものだった。約2時間半の船旅中、ずっと車イスのまま飽かずに甲板から海を眺めていた。
 帰郷の目的は「ルーツ探し」にあった。
 黒人作家アレックス・ヘイリーの原作を元にしたテレビドラマ、『ルーツ』が茶の間の話題を呼んだのは3年前だ。なににでもあやかりたい日本人の間に、ちょっとした「自身のルーツ探し」が流行りを生んだのは、そう不思議な現象ではない。遅ればせに、ご多分に漏れずに俺も時流に乗ったわけだ。
 佐渡の実家が昔、牛乳屋をしていたことや、祖母だと思っていたああちゃんが、いまのお袋とは親子以上も歳の違う実の親父のほんとうの奥さんで、お袋が妾同然の扱いを受けていたことなどは知っていた。
 俺が生まれた頃は3、4頭の牛を飼う細々とした酪農だったが、先代の頃には、町一つ分が牧場だったという。その真偽を確かめるためにも往事を知る人々を訪ね歩き、あれこれ自分の目で見、耳で訊いて歩きたかった。
 2年勤めた印刷会社が倒産して以来、失業の身にヒマは腐るほどあった。問題は佐渡汽船へのひとり乗りであった。
 飛行機には大金を積まれても乗る気はしないが、船旅には躊躇することがない。泳げない点では海も同じはずなのに、故郷につながる海でなら死んでも本望という意識が心のどこかに働いているのかも知れない。
 臨海コンビナートの煙突を遠くに見ながら新潟港を出たときは、雲ひとつない晴天だった。それが佐渡に近づくにつれ、ふんわりとした雲のたなびきとなっていた。
 この海を何度渡ったことか。
 真冬のシケで荒れる海を越えるのは恐怖でさえあった。大勢の客を乗せた船が逆巻く波に翻弄され、ぎしぎしと恐ろしい軋み音をたてながら、行き先地の湾内に入るまでつづく。
 寝たままそのまま転がってしまいそうな大揺れが、右に左に繰り返されるうち、こみあげる嘔吐感。船酔い地獄の苦しさは、もう二度と船になど乗るまいと思うほどひどかった。
 だが、施設のベッドで、カレンダーの数字を一日一日塗りつぶして指折り数えて待ちわびたその日である。懐かしい家族との再会を目前にすれば、辛い航海の思いなど港に降りたとたん吹き飛んでしまうのもまた事実なのだ。
 遠く島影が薄暮にかすんで見えた。
 ──「佐渡はひしゃげた糸車のようなかたちをした島である」とは、渡辺京二著『北一輝』(朝日選書)の書き出し文である。「ひしゃげた糸車」の上の部分を大佐渡、下を小佐渡といい、俺が生まれた佐渡の表玄関、両津市はその両方にかかって、全長80キロの海岸線に連なる実に細長い街であった。
 島影がだんだん近づき、やがて船内スピーカーから『佐渡おけさ』のレコードが流れる。
 どんでん山渓の山波を背景にした街のようすも建物の形もはっきり見えだした。両津湾に突き出す防波堤の先の灯台が少しずつ少しずつ近づいてくる。
 思わずカメラを構えた。ブラックニコンの一眼レフは障害のある細腕にはちと重い。
 船が両津港ターミナルビル前に着岸した。ブリッジが渡され、下船がはじまる。一般客がぞろぞろ降りるのを待ち、その後から建物の中へと移動することになる。
 子供の頃、新潟の施設から帰省したときなどは設備も満足でなく、危なっかしい階段を通ってデッキから地上に降りる。当時は改札も離れていたが、近代設備のターミナルビルとなってからは、船と直結してバリアフリー化された内部へとつづいている。
 改札を過ぎ、そのまま連絡通路を抜けた。土産物の売店がところ狭しと並ぶ広いフロアーも抜け、廊下の端に位置するエレベーターで降りて、外へと出ると、
〈来たぁーっ!〉
 感無量に見上げる夕映えの空のかなた、たなびく雲の下にどんでん山渓の山波が連なる。
 標高1000メートルに満たない山ばかりの中で、金北山(きんぽくさん)だけはそれらを抜いてわずかに高い。山頂近くにぽつんと突起した出べそが、昔から金北山の象徴ともなっている自衛隊のパラボラレーダーだった。
 たそがれの町を、見覚えの景色をひとつひとつ確かめながら車イスを走らせた。

湊から椿まで

 翌日は、昨日来た道をとって返した。
 佐渡汽船ターミナルビル前では手拭いに頬かぶり、割烹着姿の行商のおばちゃんたちがワカメやするめ、魚の干物などの土産品を竹の手下げカゴに詰め、観光客が出てくるのを待ちうけていた。
「どこから来たの?」
 おばあちゃん一人を含む4人は、両津とは真反対の相川からだと言い、当然本間牛乳の名は誰も知らないようだった。
「あそこにいるおばあちゃんなら知ってるかも知れないよ」
 と指差す方を見ると、ひとりだけ離れたところで腰を屈め、憮然とタバコを吹かしている老婆がいる。商売っ気などどこ吹く風といったその貫禄に、なにかの本で読んだ明治の女侠客、どてらばあさんを連想した。
 車イスを漕いでばあさんに近づいた。日焼けした顔がぎろりと俺を睨み返した。
「おばあちゃんは、どこから来ましたか?」
 貫禄に気圧され、言葉も自然ていねいになった。
「河崎だ」
 無愛想なババアだと思った。
 ただ、河崎という地名には覚えがある。物心つくかつかない頃、福浦(ふくら)の大火でわが家も火の粉をかぶり、どこかのおばさんに背負われて逃げ延びた先が河崎だった。同じ海岸線上に位置する町だが、ここ湊からも離れているということは、牧場のあった栄町からはさらに遠いことになる。
 ところが、意外な言葉が帰ってきた。
「本間牛乳なら知ってるよ」
 それから先は出てくる言葉にも淀みがない。
「栄町一帯に、ぎょうさん大きい牧場があったなあ。先代のおじいさんは村長まで務めたこともある土地の名士だった。確か、上のお兄さんが病気で歩けんかったが……」
 俺の顔をしげしげ眺め、「そうか、あんたか」感慨深げな表情になってつぶやいた。
「兄ではなく、弟です。それが俺です」
 そのときには最前のおばちゃんたちも集まって来て話の輪に加わった。それまでは声を潜め、「はるばる車イスで来たんだ」「もうつけねえ(可哀想な)体だっちゃ」と邪気のない感想をささやき合ったが、今では興味津々、俺の顔とおばあちゃんの顔とをしげしげ見比べた。
「その牧場というのは今でもあるんだかさ」
「もうない」
「親父が酒で呑み潰したんですよ」
「このおニイさんのことで、お父さんはエライ悲しんだんだよ。それはもう半端な悲しがりようではなかったっちゃ」
 豪遊だったと聞いている。「カタワな息子を持った」という慨嘆、憂さ晴らしで財産を失ったものとずっと思っていたが、それだけではなかったと、兄貴やお袋の話で知った。
 一歳半くらいでポリオ(小児マヒ)に罹り、当時の町医者の診立てでは悪性の風邪程度に間違われ、死ぬか生きるかの瀬戸際だったらしい。
 その時、俺は家業の忙しさから近所の子守に預けられていた。それだけに親父の自責の念は強く、熱が引いて歩けない体と知るや、高額な医療費もかえりみず方々の医者に当たり、土地はそういった際にも切り売りしたという。
 これまでは8歳で入った新潟の施設が親と離れて暮らす最初とばかり思ってきた。しかし小児マヒにかかった直後の入院生活も相当長かったらしく、兄貴が俺と遊んだ記憶が少ないのはそのせいもあると最近になって知った。
 何はともあれ、両津に着いてすぐ本間牛乳を知る人を見つけ、ルーツ探しは幸先良いスタートを切った。
 おばあちゃんたちの日焼けした顔をカメラに収め、ターミナル前をあとにした。
 船着き場にほど近い市庁舎を訪ねた。そこには古くから顔なじみの職員がおり、今回の取材には何かと便宜をはかってくれるはずだった。
 戸籍課を訪ねて職員の名を言った。そして、久方ぶりに懐かしい顔と対面した。
「元気そうですねー」
「このたびはまた、お世話になります」
 8歳で入った新潟の療護施設へ、深酒で倒れた父親に代わって入園の日にお袋といっしょに付き添ってくれたのも、確かこの人だった。
「何をお調べになりたいの?」
 温厚な顔をさらに柔和に微笑ませて訊いた。
「牛乳屋の成り立ちとか、僕が生まれてからのこととか……」
「古い話だからねぇー。だけど、本間牛乳のことなら地元の文献に出ているかも知れないね」
「ほんとですか!?」
 ここでも村長をした先代の話が出て、車イスから身を乗り出さんばかり意気込んだ。
「外国からホルスタイン牛を取り寄せて牧場を開くなんて、栄町じゃ大変なことだからね。村誌には出ているはずだよ」
 そう言って、郷土資料を保管している公民館と連絡を取ってくれた。本間牧場があった場所が栄町、いまも生家がのこる加茂歌代、それら一帯を加茂村と総称していた昔にさかのぼる村誌があり、その貸し出しを手配してくれた。さらには、
「古いことを知ってるご老人も紹介しますよ。いろいろ、お話を聞いてください」
 と、正に願ったりかなったりである。
 丁重にお礼を言って、そこをあとにした。
 ターミナル広場で会ったおばあさんの口から河崎という地名を聞き、福浦の火事を連想したことから消防署にも立ち寄った。
 車イスでは署内に入れず、古い調書を広げながら、外での立ち話となった。
「……昭和30年8月2日。両津製材のボイラー煙突のばい煙が元で火事になったんだね。午後零時57分出火、風速15メートルの風にあおられて類焼、夕方3時30分鎮火……98戸が焼け、焼失面積3395坪、損害額……」
 その際、消防署員5名と、民間人3名のケガ人が出て、うち1名は重傷だったとのことまで教えてくれた。
 出火時、市の消防署には消防車が3台あったが、それだけでは間に合わず、近隣の新穂や、遠く佐和田、真野などにも応援要請した。
「当時は、あんなものしかなかったですからねえ」
 ポンプ車とならんで車庫の隅にある、可搬ポンプと呼ぶリヤカーほどの広さの簡易消防車両を示した。町村の消防団で見かける、移動も水の汲み上げも人力に頼る古いタイプである。

 両津橋を渡って湊を離れ、夷(えびす)の本町通りに入った。アーケードの商店街がつづく通りも一車線で狭く、大型車2台が通れば、ほぼ一杯の幅しかない。これでも別名“夷銀座”と呼ばれる。
 佐渡はどこでも道幅が狭く、大型車の運転手は大いに腕を試される。美しい日本海の景観を楽しみながら裏玄関、小木や、相川の町中を観光バスが通るとき、家々の軒先ぎりぎりに車体がすり抜けて行く。乗ってる方から見ればいまにもぶつかるのではないかと冷や汗ものだ。
 しかし、そうは言っても佐渡は広い。
 大佐渡金北山脈と小佐渡国見山脈にはさまれて国仲平野が広がる。島の水田9060ヘクタール、その半分強の約500ヘクタールを国仲平野が占め、全島収穫の佐渡米4万3000トンのうちの大半はここでとれるという。
 その良質の米から取れた清酒は新潟産の銘酒にも数えられ、佐渡は酒造りの里としても有名だ。16のときから酒飲みの俺には、またとない誘惑だが、腹具合を気にして旅先での酒は慎重たるべし。
 そんな心配もあり、腹ごしらえはなるべく軽いものをと、そば屋に入った。
 天ぷらそばを注文したが、そばに乗った天ぷらを箸ですくって不思議に思った。エビの手応えがまったくなく、衣だけかと早合点した。
 口に入れて、舌ざわりで初めてわかった。衣にまぎれてカニの味がする。棒肉ではなく、バラにしたものを衣で閉じてあるのだ。カニの天ぷらそばとは、佐渡ならではのことだ。
 腹を満たして再び外に出ると、本町通りをそれて海沿いの道に車イスを進めた。
 中央埠頭では、コンテナーのクレーン車が荷揚げ作業に余念がない。俺が子供の頃は、この中央埠頭から船が行き来していたものだが、カーフェリーの大型化と旅客数・貨物量の増加に対応し、昭和47(1972)年4月、現在の湊側にある南埠頭に移転されたのだ。
 魚市場を過ぎたところが、北埠頭となる。
 川開きの花火は、確かここから上がったはずだった。その音が鼓膜を震わせて響き、恐ろしく大きく聞こえたものだった。大きな音でイヤだったのは近くで聞く花火と船の汽笛で、花火はもっぱら家の2階から見る方が落ち着いた。
 北埠頭前も過ぎると、なんとなく見覚えのある春日町に入る。
 このあたりには一時お袋が住んでいたこともある。お袋が何番目かの連れ合いを得たとき、本妻であるああちゃんとの不仲が決定的となり、我が長男である兄貴にも見限られ、それこそ追い出されるようにしてこの地に下宿を構えた。
 俺は当時補装具をつけ、松葉杖をつき、やっとの思いで歩いており、米つきバッタのように尻を振って歩く、別名ぴょこたん歩きでここまで来たはずだった。
 深酒で肝臓を悪くした実父は骨と皮になって病院のベッドで死んだが、その後お袋は俺が憶えている限り、いまの親父をのぞく3人の男と一緒になった。
 夏休みや冬休みに帰るたび、親父の顔が違うので驚いた。そんなわけだから慣つくはずもないのだが、大人の方では手なづけたかったのか、気前良くいろんなものを買ってくれた。
 湾の向こうにずっと見えていた防波堤がだんだん近くなり、その防波堤の始まる部分にあるのが椿の町だ。
 土地の者はここのことをチッコ(築港)と呼んでいる。海面にテトラポットを敷き詰めた防波堤は片側が一段高くなっていて、陸に近い根本部分の幅は低くなったところが大人2人が通り過ぎられる程度、高くなった部分はそれより狭いが、低い部分は先へ行くほど広くなり、灯台の建つ先端部分では3メートルほどはあった。
 その灯台の建つ先まで、夜釣りに連れられて行ったことをよく憶えている。タコがビクから出て逃げようとしたのを、兄貴が必死で追いかけたりした。そのとき釣ったチンデイ(黒鯛)を翌朝塩焼きにし、そのうまさといったら忘れられない。
 車イスで行ってみたい気もしたが、危なさを感じてやめた。ただ、灯台につづくチッコを眺め、灯台の向こうに広がる海を眺めた。


先祖の“威光”

 3日目は、本間牧場があったという栄町から見て回った。
 町のはずれから先は、一面田圃が広がっていたような気がするが、いまは舗装されている。ここも昔は住宅などいっさいなく、広大な牧場だったという。想像もつかない。
 さらに昔々は、このあたり一帯、切り出した崖からつづく山だったという。そういえば、離れたところに別の高台がある。ではどうやってその山が平地の牧場になったのか。山を切り崩して平らにし、崩した土は加茂湖に持って行って棄てたということを聞いたことがあるものの、話が大きすぎて真実味に欠ける。
 ただ、切り出した崖のひとつは、わが本間家の背後に広がる高台と一つづきになっており、高台の土地は檀家寺、理性院(りしょういん)の所有となる。そこは本間家でも畠として借りており、長く祖母と思い込んでいたああちゃんに連れられ、畑仕事にも同行した。
「このあたりは、足の悪い人が多く住んどってなあー……」
 そう語ってくれたおばさんは、以前は福浦で下宿住まいをしていたという。そこへ本間の家の土地が安く売られはじめ、それを買ってこの地へ移り住んだとのこと。わが家にとっては「没落」の始まりだ。
 栄町を離れ、生家がある加茂歌代の方角に向かう。道の途中に崖がそびえ、雑木が天を突いて伸びる中心に理性院が建つ。
 長い石段は山門につづく上に行くほど木々の影となって足元が暗くなるが、そこを腰の曲がったああちゃんは、障害のある身の俺を抱えて登った。子供心にはむずかしい法話の内容はさっぱり解せず、年寄り連中が唱えるご詠歌の響きだけが鼓膜の奧に、いまも残っているかのようだ。
 理性院前を過ぎ、コンコンさんと呼ぶ、佐渡金光教会神社の石塀を過ぎると、左右に柿の木が立ち並ぶ砂利道の坂の入口が見える。
 この坂では、痛々しい思い出がある。兄貴に、ペダルのついたオモチャの車に乗せられ、ふざけ半分に手を離された。マヒしてぶらぶらするだけの足がペダルのすき間から地面に投げ出されており、車が坂の下まで走り降りるあいだ、しこたま砂利にこすられ大ケガをしてしまったのだ。
 そこを、おぼつかない足取りで上っていく女の人には見憶えがあった。
「ミコちゃん」
 懐かしい気持ちで呼びかけたら、その顔が振り向いた。
「あら、康二さん」
 ちょっと見には人なつっこそうな丸顔だが、その顔はどことなく普通とは違って見える。目の焦点が合っていないし、漠とした感じのその目もギョロリと相手を睨んでいるような印象を与える。
「いつ着いたのん?」
「おとつい。マルコ旅館に泊まってるんだよ」
 ミコちゃんは、少女時代から本間の家にいた。ちょっと動きが鈍く、話し方も緩慢なことから知能も遅れているように見られたが、CP(脳性マヒ)者がそうであるように知能はなんでもなかったのかも知れない。
「元気そうだね」
「はあ」頭を下げて一瞬にこっとしたが、「それじゃあ」と、またきびすを返して不自由な足取りで砂利坂を上がって行った。
 ミコちゃんの後ろ姿が、坂を上り切ると左に曲がって消えた。その先に俺が生まれた本間の家がある。
 新潟から船に乗って両津港に着くと、お袋や兄貴に背負われ、まっすぐ帰ってこの坂を上がる。
 玄関では、いまや遅しとああちゃんが待ち受け、俺の顔を見るや号泣とともに出迎えた。
「おー、康二や、よぉ戻って来た。よぉ元気でおったなーっ……」
 その大仰な感激ぶりは、実の母親でさえ見せたことがなかった。ああちゃんにとって自分がどんなに大事な存在だったか、そうした帰省のたびに思い知らされた。
 あの涙顔に、さっき見せたミコちゃんの顔が微妙にダブり、俺は心に疼くものを感じた。
 実家が健在なのに旅館に泊まるなど妙な話だが、部屋はほとんど借家にして家族総出で東京に出ており、たまに帰っても満足に寝泊まりできる部屋などないのだ。あとから来る兄貴やお袋も同じ旅館に泊まることになっていた。
 コンコンさん裏の細い道を通って、両津病院の方へと向かった。
 昭和32(1957)年にできた両津市民病院は、深酒が祟って肝臓を悪くした親父が入院し、命を閉じたところである。開業当時から病院の周りも一面の田圃だったが、その田圃道はすっかり舗装され車イスでも通りやすくなっていた。
 両津病院を過ぎると、昔は「お宮さん」と呼んでいた神社の森が、景色も一変して民家が建ち並んでいる。
 福浦の大火では、大人たちが慌てふためく声を放つ中、どこかのおばさんに背負われて逃げてきたことをおぼろげながら憶えている。火の粉はこのあたりにまで飛んできたのだ。
 ここはまた、サーカスのテントが建ったり、祭りには縁日の屋台が軒を連ねたはずだった。
 タバコ屋を訪ねて、店番のおばさんに訊いた。
「昔は祭になると夜店が出てましたよねえ」
「いまは別のところに移ってますっちゃ」
「サーカスが来てたんですけど、もちろん覚えてますよね」
「それももう来ませんね。佐和田の方には来ているらしいですが、祭の日ではないですもんねえ」
 両津の祭は8月7日が七夕、8日が川開きでチッコ(築港=両津湾内に伸びる防波堤)に花火が上がる。その前1週間は、大人も子供も太鼓叩きや歌の練習に明け暮れる。そして町内を練り歩く行列は将棋提灯、スイカ提灯をかざして祭気分を盛り上げるのだ。今年の山車は漫画のサザエさんや、テレビの人気タレントを模した飾りが繰り出したという。
 8月以外の祭では確か鬼太鼓(おんでこ)も出るように記憶したがと言ったら、湊祭が5月11日、夷祭が6月16日だと教えてくれた。つまり、昭和39(1964)年6月16日の新潟地震の日は、ちょうど夷祭だったことになる。
 耳を澄ますと、どこからか懐かしい笛や太鼓の響きが聞こえてくるような気がした。祭のときには、ああちゃんが俺を乳母車に乗せて鬼太鼓のあとを追いかけ、縁日の屋台を覗いて回った。
 加茂小学校跡にきた。
 1年遅れで加茂小学校に入った俺は、親父の自転車でよく学校への送り迎えをしてもらった。
 親父は機械いじりも得意だったらしく、中古の部品をどこからか拾ってきては、新品同然に替えたりする。自転車のハンドルと運転台のあいだに取り付けられた俺専用の座席も、壊れたおもちゃの車の運転台を利用した親父のお手製だった。
 こうした器用さは俺に受け継がれず、自動車修理工もしていた兄貴にだけ行ってしまった。兄貴もまた、タダ同然の中古車を拾ってきては、新車と見まごうほどに替えるのが得意だった。
 そんなにして通った小学校は楽しいものではなかった。トイレに自分から行けるわけもなく、先生や級友にたのむ勇気もなく、ガマンしたあげくは悲惨なことになり、周囲に汚臭を発散させて、そのまま家に帰されることになる。
「なんでこんなになるまで我慢したんだっちゃ」
 そう言って怒られても、
「だって、人に頼むなんて、ショウシネー(恥ずかしい)し……」と、ただ泣くだけだっだ。
 ああちゃんは、それ以上何も言わなかった。
 ほとんど名ばかりの出席で、実質は、あまり行ってはいなかったのではないか。思い出もないし、友だちもできなかった。
 唯一学校生活の思い出は、親父の自転車に乗せられて行った遠足だった。しかし、それにも酒がつきもので、酒臭い息で誰かれかまわず話しかけ、ひんしゅくを買うことしきりだった。
 その深酒がもとで親父は倒れた。俺がはまぐみ学園という、海に近い松林の中に建つ新潟市内の施設に入園した7日後、両津病院のベッドで骨と皮だけになって息を引き取ったのである。
 苦い記憶だけがよみがえる加茂小跡もテニスコートとなり、プレイに興じる若者たちがボールを打ち合う音を響かせていた。
 1年ぶりに帰郷したという18歳の娘さんをつかまえた。学校前の魚屋のお嬢さんで、東京では「青学(青山学院大学)に通っている」という。
「建物は残ってるんですねえ」
「いちおう博物館ということにはなってるらしいんですが、中は何もないようですね」
 学校からの帰り、うまい味噌せんべいを買って帰るのが楽しみだったが、それらしい店も見当たらない。
「ああ、あのお店なら、とっくにつぶれました」
 娘さんに話を訊いたそこからほど近いところに、当時の資料を見せてくれることになっている両津市公民館が建つ。
 職員の案内で、図書室へと通された。
「お探しのことなら、これに出てるんじゃないかと思いますよ」
 提示された分厚い史料は『加茂村誌』という700ページに余る文献だった。栄町や加茂歌代などを加茂村と総称していた時代にさかのぼるもので、刊行は昭和38(1963)年、俺が新潟の施設に入れられてから3年後ということになる。
 「第1編 加茂村は閉じた」によると、わが家のある加茂歌代はじめ、梅津、羽吉、椿、北五十里、白瀬、玉崎、和木、馬首、北松ヶ崎、平松、浦川、歌見から成る大字数13の加茂村がなくなったのは、昭和29(1954)年のこと。市の設置を9月村会で議決し、そのための町村合併の一環として11月閉村され、ここに両津市が誕生したのである。
 昭和29年──。
 この年、3月、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験でマグロ船・第五福竜丸が被爆し、明らかにこの事件を投影したと思われる日本初の怪獣映画、『ゴジラ』が11月に封切られるが、その前に黒澤明の大作『七人の侍』が5月に封切られ、同作品は9月、溝口健二の『山椒太夫』とともにベネチア映画祭で銀獅子賞を受賞していた。日本映画の黄金期であった。
 映画好きの俺は、そんなことを思い返しながら、その時代というものをあれこれ想像したが、加茂村が閉じた年から年譜をさかのぼり、「本間太郎八」の名前を見つけたときには思わず声に出すところだった。

 一九一八年(大正二年)
    村長に本間太郎八当選。

 その偉業は明治にまでさかのぼり、

 一八九七年(明治三十年)
    本間太郎八ホルスタイン乳牛導入
    福浦に乳舎を始めた。

 実は「太郎八」は兄貴の本名でもあり、先代のおじいさんの威光を引き継いだ名前を本人はイヤがり、自己紹介などでは必ずといっていいほど下の「八」の字を取って名乗っていた。
 先代・太郎八は、「第5編 村の農耕」にも出てくる。

    畜   産
 百姓の繁昌は牛納屋からと昔しから云われて居る。農家の肥料と云えば厩肥、下肥、魚水肥に限られ、又労力にては田こなしや稲の運搬になくてはならぬ農家の道具であった。この牛馬の飼育の年代は詳でないが、在来の倭小な佐渡牛は慶長の頃外海府願村の虎の助なる者但馬牛を移入改良したるに始まると云う。
 明治三十二年佐渡郡産牛組合にて但馬牡牛十五頭移入改良に努めた。此時加茂村に飼育した者梅津澁谷甚平、余田吉蔵、羽吉高井広右エ門、浅羽孫左エ門、和木石塚権兵衛、馬首本間太郎八その他であった。

 「第13編 村の苗字と姓氏諸系譜と村の人」を開くと「村と人」の人物史(磯野熊太郎録)の中に、今度は政治経済の人として、より詳しく登場する。

    本 間 太郎八
 馬首村惣左衛門は家名、昔酒造りし頃の名酒屋、今も通称とし安政四年ここに生る。明治二十年官選戸長として泉村川上賢吉和木村に来るや無尽の宝庫、海洋の開発の基盤として内浦海産会社の創設に協力し、同二十四年同会社より漁業教師となり、京都府の雇聘に伊藤庭太郎と応じて行き、次いで青森県へ伊藤及安田三蔵、高野長三郎、五平等と烏賊(イカ)釣技術指導に赴いた。明治二十八年岩城作太郎と共同して北松ヶ崎沖に瓢網を投網した。之内浦沿岸に於ける定置網の元祖である。其後古玉清吾等と内浦漁業組合を発起組織する等沿岸漁民の覚醒を促進した。
 明治二十八年内浦村長岩城作太郎満期退職の後をうけ村長当選、同三十二年第十六区(内浦村、内海府村)選出の郡会議員となり大正二年第四代加茂村長に就任、之より先県道馬首線開通に関し率先出県陳情請願と奔走し、同二年十二月の県会に於て馬首線路費六千円予算決定し、翌三年六月起工翌々四年十月本郡第一木橋梅津橋竣工落成式を挙げ、大正七年には馬首地内に達し馬首線は海府線と変更し内浦より鷲崎小田に至る線路となりて北進した。之により寒村僻地の文化と資源開発に寄与すること甚大となった。この間明治三十八年には白瀬川、馬首川、梅津川県土木費補助河川に編入するに至った。
 明治三十年の頃福浦に牛乳舎を建てホルスタイン種を購入飼育し、搾乳販売した。当地方に於ける斯業の嚆矢(こうし)である。大正十三年五月歿、享年六十八歳。

 最終15編に「追補」として手書きによる加茂村の分縮図も出ている。
 「加茂歌代部落・三(中高野・向高野・栄町)」というのが、該当区分だった。
 コンコンさんの横の道があり、その道が分かれた先の一方が卍マークの理性院、別の一方が栄町に至る道、残る一方が我が家へとつづく道である。それ以外にも本間の表示は何軒かあるが、本間のあとに氏名以外の文字のつく名前があった。

 本間愛康舎bb

 その表記があるのは、まぎれもない我が家のある場所だった。
「そういえば……」
 うろ覚えのその名を思い出そうとしているとき、人の気配がした。案内の職員に伴われて入って来たのは一人の老人だった。
「この方が本間さんの家のことも、よくご存知とのことで……」
 老人は、特別養護老人ホームに住んでいる方で、両津市職員の計らいで呼ばれて来たものだ。
 職員がいなくなり、閲覧室には老人と俺の二人だけになった。
「東京から一人で来たのんかー……」
 まじまじと見つめられ、ねぎらいの言葉もかけられた。
「父、千代松のことを知っていらっしゃるとか」
「ぎょうさんな遊びぶりじゃったなー……」
 酒の勢いにまかせた当時の散財ぶりを、そのおじいさんも懐かしそうに話してくれた。だが、俺が興味を惹かれたのは初めて聞く次の話だった。
「あれは、戦争が終わる直前頃のことじゃった」
 戦中秘話めいた内容に、思わず身を乗り出して聞き入った。
「高台にあるあの家を、接収と称して軍が長く使っておった。偵察が名目だが、なーに、佐渡のようなところには爆弾の雨が降るわけでもない。『あかつき部隊』とかいうもっともらしい名で呼んどったが、どこまで役に立ったもんだか……。実際そこに駐屯していた兵隊も、戦地じゃ弾よけくらいにしか扱われんような、よぼよぼの在郷軍人たちばっかりだったような気がする」
 あとの半分は声を落として語った。
 愛康舎の文字は、確かに見た憶えがある。
 干し草の上で目を覚ましたら、見上げたところに牛の腹があったという場面も思い浮かぶが、牛小屋で遊んだ記憶はほとんどない。ただ(乳場所が詰まった語か)「乳(ちち)バシ」と呼び、いつも生乳の匂いと湯気が充満していた牛乳殺菌室にはよく行った。いま思えば、そのガラス戸には確かに「本間愛康舎」の金文字があったような気がする。
 ああちゃんの夜なべ仕事も思い出す。牛乳瓶のふたは、セロファン紙以外すべてお手製だった。輪ゴムですら、古タイヤのチューブを裁ちバサミで細かく切って作った。また、しゃれたロゴや屋号を印刷するでもない無地の紙ブタは、先端が丸くなったノミ状のものを用い、ボール紙に当てて打ち抜く。そんな道具があったのか、それともなんにでも器用な親父考案の道具だったのかは定かでない。ただ、輪ゴムにするシャキシャキという音、紙ブタにくり抜くトントンという音が、懐かしい思い出として耳に残っている。
 その日の取材を最後に、3日後の帰京を控える身となったが、かんじんな「ルーツ探し」は、まだ終わってはいなかったのだ。


残照 加茂湖畔

 明日は東京に帰るという朝、布団を片づけに来た旅館の仲居さんが来客を告げた。
「朝早くに、山本さんという女の方が、お別れを言いに見えられましたよ」
 山本ミサ子の本名がミコちゃんだということを思い出すには、少しの時間が必要だった。
 ミコちゃんが来たのは早朝6時半頃だという。
「お起こししましょうかと申しましたんですけど、悪いからいいですって。なんでも按摩の仕事で朝早く出て、泊まりがけになるからって……」
「そうですか」
 それからほどなく朝食の膳が大座敷に運ばれ、東京からばらばらに集まった面々が、昨夜の酒宴につづいてまた顔をそろえた。
 兄貴は東京に勤める会社の上司という男性と、その人の子である高校生の兄と、中学生くらいの妹を連れて昨日着いた。それに先に着いたお袋が加わり、総勢6人の賑やかな朝食となった。
 兄貴ら4人は一固まりになって、今日回る島巡りのコースをあれこれ打ち合わせていた。
 俺には朝早く立ち寄り、会うこともなく去ったミコちゃんのことが、どうにも気がかりだった。
「母さん、ミコちゃんには何か買ってやってくれたんだよね、俺からだって」
「ああ、やったよ」
「何、買ったの?」
「着るもんだよ。あの子には、それが一番だよ」
 いつものことだと言わんばかりで、なんだか思いやりが感じられなかった。しかし、人任せにした俺に責める資格はない。
 朝食が終わって、5泊した旅館とも、いよいよ別れることになり、俺は兄貴に背負われて2階から降ろされた。
「ほんとに俺たちと行かないのか?」
 兄貴はまたも佐渡巡りに誘ってくれたが、
「うん。もう少し調べたいから……」
 どうしても気になることが一つ残っていた。
 2人の子供が車の窓から手を振った。同僚と、その家族を乗せた兄貴の車は凄いエンジン音を吹かせて、たちまち目の前から遠ざかった。
 お袋はお袋で借家人との話し合いに家の方に向かい、俺だけ神明町の方角に足を向けた。
 車イスをこぎながら、またミコちゃんのことを思い出していた。
 ああちゃんが、あんなにも怒ったのは、あとにも先にも憶えがなかった。
 ミコちゃんは福浦(ふくら)の人で、ああちゃんを手伝って俺の面倒を見るため、家の2階に住んでもらうことになったという。そのための日当などを払ったかどうかは知らないが、家賃は当然取らなかったはずだし、余分に作ったおかずや不用となった衣類をあげているのはよく見かけた。いつの頃からかマッサージを自活の手段にしていたが、それも見よう見まねで身につけたものだった。
 一方、「カタワに生まれた不憫な子」ということでずっと特別扱いされ、わがまま放題に育った俺は他人に対する思いやりにも薄かった。
 いつものように用を言い遣ったミコちゃんが町に買い物に行き、俺が頼んだ雑誌かなにかを忘れてきてしまった。ああちゃんは「また今度にすればいい」と取りなしたが、俺は頑として聞かなかった。すぐに癇癪を起こし、悪態をついた。
「バカ、カバっ、間抜けっ。お前なんか生きてて何の役に立つんだっ。早く死んじまえっ!」
 ああちゃんが鬼のような顔を見せたのは、そのときだった。
「なに言うんだっ!」と、凄い声で一喝し、ぼこぼこに殴った。そして涙をぼろぼろ流した。
「ミコはなあ、不憫な子なんだぞ。人に言うに言えないような苦労をしてきて……。それを、お前はなんてことをっ!」
 そう叱って、また激しく叩いた。
「康二を赦してくれ。こんな子に育てたオレを赦してくれ」と、ああちゃんは手をついて謝った。
「かかやん、もう、いいがさ。なんとも思ってないから」
 しかし、そう言ってなだめる顔には、言いようのない深い悲しみがたたえられているようにも見えた。ああちゃんの涙とともに、あのときのミコちゃんの暗い表情がいつまでも胸に焼きついた。
 ミコちゃんへの思いにとらわれる前から、俺の気持ちは滅入っていた。
 一昨日、お袋と一緒に練馬の伯父さんが到着した。3人で夷の神明町に住む、もう一人の叔父さん宅を訪れ、そのあと近所のバーへ、おけさ会館へと繰り出したが、カラオケのマイクを握っても、ステージで舞う踊りを見ても、俺は心から楽しむことができなかった。
〈叔父さんは、なぜ母親にそっけないのか〉
 昨日、昼に訪ねたときの印象は最悪だった。
 その家には中学生の姉と、それより3、4歳下の弟がいたが、子を前にあぐらをかいた叔父さんは、呉服屋をしていたその家へ、養子にもらわれた人だった。ここのおばあさんも子どものできない体で、そのとき、叔父さんの声の届く距離にいて、病の床に臥す身だった。難病のスモンで、叔父さんはその認定を受けるため、何度も上京するなどして、ずいぶんと走り回ったようだ。
「なあ、お前らち、やっと認定が得られたんだ。ばあさんが死んだら補償金がたんまり出る。そしたら、もっといい家に越して、お前らちにもいまより贅沢させてやれるからな」
 扇子をばたばたさせながら得意げに言う。
 大人の心ない言動が、どんなにか子どもたちの胸を傷めたか。呆れるよりも悲しく、情けなかった。
 おじいさんも一緒にいて、老人夫婦とも話をしたが、さっきの話をどんな思いで聞いていたかと思うと、とりとめのない話をして最後に「お大事に」と言うのが精一杯だった。
〈やっぱり血のつながらない親子とは、結局その程度の情愛でしかないのか〉
 そのときは、そう思うしかなかった。
 両津大橋、両津橋、加茂湖橋の三橋をはさんで湊と夷が向かい合う。その夷側にある加茂湖畔近くの神明町に向かう途中、きのう訪ねた叔父さんの子2人と会った。海からの帰りらしく下の子はカニ穫りのタモを持って、手にはビクを提げていた。
「何穫って来たの?」
 男の子はビクを開けて中を見せた。大きなザリガニが2匹、ノソノソとうごめいていた。
「どう、お茶しない? 俺、のど渇いていたところだから、付き合いなよ」
 近くの喫茶店に誘った。
 姉も弟も島の子、海の子らしく、元気に日焼けしていた。上の子は丸顔美人、下の子は痩せっぽちだったが、顔立ちは姉さんそっくりだった。
 注文のアイスコーヒー、それにレモンスカッシュとジュースが運ばれた。コーヒーが苦手の俺は、喫茶店に入ってもジュースか紅茶以外飲むものがない。コーヒーは上の子が注文した。
「キヨちゃん、大人なんだな」
 そう言ったら、「へへー」と照れて頭を掻いた。
「ター坊は大きくなったら何になるんだ?」
 俺もいっぱしの大人になったつもりで、そんなことを訊いたりして一時、時間をつぶした。しかし、真顔になって面と向かうと、
「きのうな、ばあちゃんのそばでした話……」
 そう言いかけたら、上の子がまず緊張した。下の男の子も居ずまいを正す。
「お父さんはあんな風に言ったけど、あなたたちはおばあちゃんを大事に思ってあげなさいよ。なんといっても生きてる間のことなのだから」
 2人は真剣な表情で「うん」とうなずいた。やはり、子どもは違うと思った。
〈ああ、この子たちなら大丈夫〉と安心し、叔父のことばなど、もう忘れてしまおうと思った。
 2人と別れ、気がつくと加茂湖畔に来ていた。
 周囲17キロの加茂湖は、もとは淡水湖であったのが明治34(1901)年、小型船繋留のため出入口を広げたところに海水が流れ入り、いまは鹹水(かんすい)湖となってしまった。
 はるか彼方を見やる。ひときわ大きなホテルが1軒、青い湖面にその威容を映している。そして見渡す湖面一杯にびっしり、細かい桟のような影が無数に見える。総数2500台、年間産額3億2000万円にも達するという佐渡名産の一つ、牡蠣(かき)の養殖いかだである。
「昔はきれいに澄みきっていて、土地のものは潜ったりしてよく遊んだけど、いまは濁っていてゴミも多く、とても入れたものじゃないわよ。周りに建つホテルが大きくなるごとに、そこから出る汚水の量も多くなるし……。結局、琵琶湖と同じ運命をたどっているんじゃないかしら」
 一昨日夜、伯父さんたちと訪ねたバーでのホステスのことばが、ふっと胸をよぎった。
 この加茂湖の畔近くに湊と夷があり、そこに貸座敷が見られるようになったのは、幕末から明治初期にかけてのことだ。貸座敷、つまり遊郭のことで、全盛期の明治後半から大正期にかけては湊に10軒、夷に20軒あった。
 「貸座敷」という呼び方はたぶんに行政的、あるいは四角張った趣の呼称のようで、普通には「お女郎屋さん」と呼ばれていた。夷は神明町、湊は若宮通りといわれる一角が、いわゆる赤線地帯であった。
 湊、夷、両遊郭のあいだには、ある種、格の違いのようなものがあり、客筋も自ずと違っていたようだ。漁師や百姓、あるいは夷の旦那などの若い連中が手軽に遊ぶなら湊の遊郭、湊の商家の旦那衆が芸者を上げ、料理(台の物)も取って本格的に遊ぶには夷の遊郭という風に──。若宮通りには芸者さんもいなかったという。
 昭和21(1946)年2月の公娼制度廃止と共に多くの遊郭は消えたが、金沢楼、都屋、甲梅楼などの名前が現在の人々の記憶にあるのは、その後も公娼の灯が残り続けたことを意味する。
 こうした店の名前は苗字そのものだったり、屋号だったりするので、昭和30年代に入っても残っていた。その時代、両津の町中では、たとえ子ども同士でも、たがいに屋号で呼び合うことがそう珍しいことではなく、「一直のあんちゃん」「金沢屋のけんちゃん」「都屋のばあばあ」などと呼び合ったりしていた。
 佐渡民謡の一つに「両津甚句」がある。

  ハァー 両津欄干橋
   真ん中から 折りょうと
    船で通うても 止めりゃせぬ

 民謡に歌われている「両津欄干橋」は、いまの両津橋のことである。この節回しの難しい佐渡民謡の名曲も、見方によっては夷、あるいは湊の男性が、夷、あるいは湊の女郎屋へ遊びに行くときの心情にも取れる。つまり、「この橋が真ん中から折れたら、船に乗ってでも可愛いいあの子に会いに行く」というあの子を、愛しいお女郎さんにたとえて見ることもできるからだ。
 兄貴も、子どもの頃には親父に連れられて遊郭街に来たそうだ。店の誰かに入れあげたのかどうか、迎えに来たああちゃんと言い争う姿を見たことがあるとも言った。
 ああちゃんが、どの町にいたのかは知らない。それがわからなくとも、こうして訪ねることによって、ああちゃんの心情に少しでも近づきたかった。だが、この町のどこにも当時の遊郭の面影は見当たらなかった。
 あたりに見知った顔のないのを確かめ、一軒の家を訪ねた。この近くにはさっき一緒に会った子どもたちの叔父さんの家があるからだ。
 話を訊いたおばあちゃんは、叔父さんの家にいた人と同じか、やや年下くらいに見えた。
「この通りは、確かに昔お女郎屋さんがありましたねえ」と言って出てくれ、その辺に一軒、あの店も元は遊郭だったとか、指差して説明してくれた。
「そういえば」と、おばあちゃんは声を落として聞き覚えの呉服屋の名前を言って、「あそこのおばあちゃんもお女郎さん上がりだったようなことを聞いてますよ」とつづけた。
「あのおばあちゃんも!……」
 もしやと思っていたことが的中したので、俺は少し驚いた。
 一時、当てもなくさまよっていた。
 佐渡を離れる時が、刻々近づいている。
 別れの時はいつもつらいものだが、とりわけああちゃんの寂しがりようは尋常ではなかった。
「康二、行くなーっ。もっと居ろーっ。ああちゃんのそばに、いつまでも居ろーっ」と、抱きすくめて離そうとしなかった。
「また、次の休みに来るから」
 なだめて落ち着かせるのが周りも大変だった。
 その姿を最期に見たのは、いつだったろう。
 あれだけ指折り数えて待った帰省が、前ほど楽しみでなくなったのはいつ頃からのことか。思春期になり、恋をするようになると、施設暮らしもそれほどイヤではなくなった。好きな人と同じ屋根の下にいる、そのことにときめきを覚え、その姿を見る機会がいくつも訪れる施設生活に、ある種生きがいすら感じた。
 やがて、中学卒業と同時に上京することになると、新潟より遠いところへああちゃんを置いて行くことが、またなにより気がかりになった。
 ところが、卒業式を間近に控えたある日、家から緊急の電話を受けた。それはああちゃんの死を知らせるものだった。七十九歳で、ほとんど老衰に近かったと聞いているが、〈ああちゃんは、俺が心おきなく東京に行けるよう、逝ったのか〉と、そんな風にも考えられる急な死だった。
 なんのために佐渡まできたのかと、はたとそのことに思い当たった。やはりあのことを確かめねば帰るわけにはいかないのだ。

受け継ぎしもの

 ああちゃんはどこから来たのか──。
 戸籍謄本によるとああちゃんこと、フヨの生まれ在所は新潟県中蒲原郡曽根木村である。子どものできない正妻・フヨをさしおき、夫・千代松は牧場の手伝いに来ていたまだ少女の、いまはお袋であるアキ子に手をつけ、長男・太郎八が生まれた。アキ子、16歳のときである。それから4年して俺が生まれたが、生まれてすぐくらいに小児マヒに罹り歩けない体となった。
 戸籍で見る限り千代松、フヨ夫妻は、昭和33(1958)年に俺を養子にしている。千代松の死ぬ2年前のことだ。兄貴をお袋に残したのは、双方に子孫が残るようにという折り合いと見ることもできるが、五体満足でない俺の方を取ったという点で特別な愛情も感じられる。
 ところで、長年呼び慣れ親しんだああちゃんという言葉だが、佐渡の方言では「母」と同義語だということをずっと後で知り、そのときには心底「あっ」と思った。俺には生みの親、育ての親、2人の親がいたという意味の重さを知ったからだ。第二の母ともいうべきフヨのことをもっと知らねばならない。
〈やっぱりあそこに寄るしかないか〉
 少し重い心を引きずり、栄町の方に車イスを向けた。
 ああちゃんの妹にあたる人に、喜左エ門のばあばあがいた。その人ならば、なにか聞いていたかも知れないと思ったからだ。
 かつてはこのあたりにも魚屋があった。店先に囲炉裏のようなものがあって、小さな石を敷き詰めた上で炭火を起こし、活きのいい穫れ立ての魚を刺した串を石に立て、とろ火で炙って焼く。御飯時には、店先にその香ばしい香りが立ちこめていたものだが、いまはその面影もない。乳母車に乗せられ、ばあばあの家を訪ねた帰り、ああちゃんはよくおかずを求めてその店先をくぐったものだ。
 目当ての家は、その魚屋の2、3軒先だった。そこもすっかり見違えて、真新しいサッシ戸の付いた普通の住宅になっていた。
「ごめん下さい」と声をかけて入ると、「あら、康ちゃん、よく来たねー」とサトコさんが出てきた。佐渡に来た最初の頃にも一度訪ねている。
「少しお話を訊きたくて」
「あー、そう言ってたなあ」
 冷たいものが運ばれ、サトコさんと対面した。
 「喜左エ門ん家(ち)のべっぴんさん」も、すでに50に手の届く歳なのに、そんな風にはとても見えない。ばあばあにも子ができず、サトコさんもまた養子だった。それが迎えた婿さんは遠洋航海の貨物船船乗りで、仕事で出ると長く帰ってこない。訪ねたときも夫は留守だった。
 そんなとりとめもない話を少ししたあと、いよいよ本題に入るしかなくなった。
「ああちゃんは、お女郎さんの出だったと……」
 そう言ったとき、「あ……」と、とっさに身構えたサトコさんの眉間が、震えたように見えたのは錯覚だろうか。少しのあいだ気まずい空気が流れたかに思えたが、サトコさんの表情はまた元とおなじくやさしげに見えた。
「誰かに聞いたのんか?」
 心なしか、声が震えているように思えた。
「ええ、なんとなく人づてに……」
 やはりサトコさんの体が、少し固くなって緊張しているようだった。
「私も人づてに聞いたんだけど、そうだったらしいなあ……ああちゃんもそうだけど、ウチのばあばあもそうだったんよ」
「そうでしたか……」
 俺はそう言ったきり、何も言えなくなった。
 目の前にストローを挿したジュースのコップがあるが、それを手に取ることさえはばかられる重苦しい瞬間。だが、その一時がいたく長く感じられる時でもあった。沈黙を破ったのはサトコさんからだった。
「康ちゃん、そんなああちゃんやばあばあのこと、恥ずかしく思うか?」
「いえ、そんな!」
 俺はきっと向きなおって、はっきり否定した。
 サトコさんは、とつとつと語る。
「蒲原のなあ、貧しい家から、佐渡に流れて来たらしいよ。越後の人はみんな、多かれ少なかれ、そうだったらしいなあ。貧しい家を救うため、そうやって売られてきて、お女郎さん、させられたらしいなあ……」
 そして急に肩を震わせ、涙声になった。
「みんな、しかたなかったんよ。貧しい家のため、しかたなかったんよ!」
 そう言って涙ながらに語るサトコさんの姿を、俺は感動の思いを持って、ただ黙って見ているだけだった。
 この人のこの姿に、義理の母だの、血がつながらないだのは関係ないことだった。養子に来た家のお母さんのことを、こんなに親身になって思い、その人のために涙を流している。その涙を胸に、俺はこんどこそ佐渡を離れる決心をつけたのだった。

 2か月後──。
 俺は奮起一転、自宅にタイプ道具一式買い込み、自営のスタートを切った。2年勤めた印刷会社が倒産し、好きで始めたミニコミの発行活動以外することもなく、べんべんと過ごした無為徒食の3年にこんどこそ終止符を打ったのだ。
 初仕事の自分が発行するミニコミ新聞はともかく、二番手はかなりのページ物で、きもの学院のマニュアルだった。1日10ページ前後の仕事が別の仕事もはさんで年内一杯つづく。
 自営を始めるにあたって、屋号のネーミングに窮したものの、えい、それならと「愛康舎」にした。
 ところが……
 電話が鳴った。と、
「もしもし、あ……本間です」
 そうなってしまうのが常である。
 躊躇する名前、口に出す名前、2つの名前を意識するとき、その生い立ちを振り返らないわけにはいかない。
 そうして……
 じっと目をつむれば、故郷(こきょう)佐渡の海が茫洋としてひろがる。その海をわたり、雪深い越後からやってきて春をひさいだあまたの女性たち──その一人の身内に自分がつながっていたということを、いつまでも大切に思いつづけたい俺がここにいる。

―完―
(旧ホンタ 2003年4月更新分より)

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