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「琴姫様」

 仕事部屋でタイプを打っていると、ピロロロロー、ピロロロロー……傍らのスピーカーホーンが独特の発信音を鳴らし始めた。
 とっさに俺はそばに立てかけてある「横着棒」を掴んだ。横着棒というのは自分で勝手につけた名前で、分りやすく言えば物干し竿の上げ下ろしに使う、先が二股に分かれている細長い棒のことである。
 家庭の奥さんにしてみれば使い道は一つしかないだろうが、俺はこれを洗濯物を吊るしたハンガーを室内の物干しに架ける用の他、タイプ机のむこうの窓の開け閉めやテレビアンテナの方向替えなど、車イスに乗る身ではとかく手の届きにくい所にある物を動かすのにも役立てている。俺にとっては棒は大活躍だが、棒にしてみれば余計なことまでさせられ大迷惑であろう。
 その横着棒の先で電話器のボタンをコツンと押す。発信音は止んで相手方との通話が可能となる。横着といえば、受話器を取らずに話せるこのスピーカーホーンなる電話器もかなり横着な器械である。
 スピーカーから、うら若き女性の声――
 ――もしもし、“本間様”のお宅ですか?
 もしや! と、脳裏をよぎるものがある。
 あの憧れのマドンナから電話がかかってくる当てがあるはずもないのだが、常に意識の一隅を占めている存在とあれば、「本間」の後に続く言葉が「様」であったかどうかなども問題ではなく、いつしか脳裏にはくっきりと見覚えの顔が甦り、受話器を持って俺に微笑みかけているではないか。おお、これぞ今流行りのなんとかコールというのであろうかと、
「はいはい、本間ですが……」
 思わず声も弾みがち。だが、しかし、
 ――こちらは中央信用金庫かっぱ橋支店でございますが、本間様の普通預金口座へ御入金のお知らせです。昨日、有限会社、千代田創芸様より……
 ♪ 待てど暮らせど 来ぬ人を……
 と、心の底で佗びしげに漂う『宵待草』の旋律を聞いた。なんのことはない。すぐ隣りの銀行からの電話であった。
 コンクリート塀のむこうにのぞく銀行の壁を恨めしそうに見上げると、そこに日の光が射し込んでいる。三方囲まれ、全く日の当たらぬかに見える1階四畳半であったが、太陽が真上に来る僅か一時の間、社会の底辺のこの不遇な谷間にも一条の光が射すこともあるのである。
〈お外はポカポカあったかよ〉
 誘惑の女神の囁きを耳にし、心がその方にはやる。
 タイプライターにカバーをかけると、車イスを反転させた。勉強机の上に立てかけてある鏡をのぞき込む。剃り残しはないか。くせ毛の跡はないか。近所の福祉会館に勤める憧れのさやかさんに、どこで出会っても恥ずかしくないように、身だしなみは常にきちんとしておこう。笑ってみよう。
「うん、いい顔だ」
 こうして気分を一新し、俺は玄関に停めてある外出用の車イスに乗り替え、日当りの悪い下宿の一階から目の覚めるような青空の下へと飛び出した。
 陽気につられて、つい出歩きたい気分にかられるこの頃である。そして帰りには買わなくてもよいものを買い込んで小脇に乗せているという有様だ。
 吹き抜ける風の匂い、通り行く若い女性の華やいだ装いにも春を感じ、何はなくとも幸せ気分とそう思っていたのも束の間、この頃ではもう夏の気配が感じ取れる。
 菓子屋の店先を通りかかった時、ぬうっと首を伸ばしてアイスクリームボックスの中をのぞき込んだ。案の定、様々な種類のアイスクリームの中にかき氷が混じっている。
 夏はすぐそこまで来ているんだ。
 どこまでも晴れ渡った空の下、軒を連ねて建ち並ぶ家々。ここは下町、中小零細企業の街。平日の午後とあっては狭い路地の間さえワゴン車や軽トラックがせわしなく行き交い、どこからか印刷輪転機の回る音も聞こえる。
 ごみごみとした街の一角にひと握りの緑を見つけた。
 そこは公園である。日だまりの中に、子どもたちが走り回っている。幼稚園児くらいの年齢であろうか。そして走り回る子供らの間を縫うようにして、地面のエサをついばみながら、ちょこまかと歩き回るハトの群れ。人と鳥とが共存している静かで平和な光景。離れた所でそれを眺めている母親たちの表情もおだやかに和んでいた。
 いきなり羽音を立ててハトの群れが舞い立った。ハトのいなくなった地面に小さなゴムボールが弾んで転がった。小さな公園のほぼ半分までを占めて、三方をフェンスで囲まれたグラウンドがある。見ると、そこでは別のグループの小学生が野球遊びに興じていた。ボールはそこから飛んできたものだ。
 巨人の連勝と世間の平安はそう長続きするものではない。それからというものバットに叩かれたボールが何度も飛んできて、一時地面に舞い戻ったハトたちを大いにあわてさせた。
「どうしたの?」
 子どもの声がする。
「足が痛くて具合が悪いのよ」
 母親の声が、それに答えて言う。
 自分のことを言われているのだと思った。車イスに乗る身としては珍らしいことではない。子どもは正直である。そういう乗物に乗って体の格好が少々普通と違えば、幼い目には不思議なものに映る。どうして歩けないの? なぜあんな物に乗っているの? 疑問は素直に言葉となってロから発せられ、間われたおとなは、多少戸惑いながらも訊かれたことに答えなければならない。
「ダメッ、やめなさいタカシ。可哀いそうなハトなんだからそっとしておいてあげなさい!」
 そう叱る母親の声を聞き、俺は初めてその方に目を向けた。
 飛んできたボールに追い散らされいなくなった中に、たった一羽だけ残って相変わらずエサをついばみ続けているハトがいた。ハトというには余りに貧弱な、そのうえドブからはい上がってきたかのような真っ黒い鳥だった。うっかり見過ごせば痩せたカラスのような、がしかし格好はたしかにハトであった。叱られた子が母親のそばに立って実に不思議な生き物でも見るようにじっと観察していた。
 別の男の子が追いかけ始めた。その辺で拾った木の枝を手にして振り回している。可哀想なハトは飛び上がることもできず、ただニワトリのように走って逃げ回るだけだった。その逃げ足も実にのろのろとしており、時に何かの拍子でつまずきよろめいたりもする。障害者、いや障害バトなのである。
「いけませんよ、そんなことして」
 最前の母親が注意したが、自分の子どもでないことから遠慮し、それ以上止めに入ることができずにいる。ほかの親は見て見ぬふりだ。
 障害バトはやっとの思いで羽を震わせて舞い上がり、数メートルほど飛んだ勢いをかって、通りの電線につかまった。しかし十分に踏んばれず、またふわふわと公園前の路地に舞い落ちてしまった。一時呆然と空を見上げていた子どもだったが、また木の枝を振るってハトの落ちた方へ飛び出した。
「こらこら、おいこらっ」
 とうとう俺も見るに見かね、車イスをこいでその方へ飛び出した。小学生も高学年なら思わぬ抵抗に遭って手こずることもあろうが、なにあのくらいのガキならたやすく取りおさえられるだろうと止めにかかったのだ。
 やっとのことで追いつき、その肩をがっしと掴んだ。
「やめんか、こらっ、なんて可哀想なことをするんだ」
 子どもは全身をゆすって抵抗した。案外に手ごわい相手であった。このまま本気で暴れ出したらこっちが車イスから振り落とされかねない。
「どなたかこの子の母親はおりませんか」
 子どもの体を掴みかねて公園の方へ呼びかけたが、みんなこっちを見ているだけだった。
 弱ったな、と閉口している時、公園の隅のトイレの辺りからハンカチで手を拭きながら出てきた男が、
「ウチの子に何をするんじゃあ!」と凄む。
 ち、ち、父親だったのかー。それも凄い形相、鬼ガワラか『大魔神』か緒形拳か渡辺哲かといった感じだ。それが俺の間近までやって来ると真っ直ぐ見下ろし、睨みつけ、
「ウチの子がどうかしたんかい!?」
 ドスの利いた声で訊ねてきた。もしや“コレもん”じゃないのかなあ。この間もこの近所でヤクザの発砲事件があったからなあ、などと不安にかられながら、
「お宅のお子さんでしたか。いえね、この子が体のぐあいの悪い可哀想なハトを追いかけ回していたものですから、そういうことはいけないんじゃないかと思いまして、注意に及んだわけでして……」
 出て来た父親の迫力に気圧されてたじたじとなり、「そういうことは」から先の言葉が、まるで古井戸の底に吸い込まれて行くように小さく、か細くなった。
「ハトなんかどこにおるんじゃい」
「いや、いませんけどねえー」
 ほとほと説明に困り果て、誰かに救いを求めるかのようにキョロキョロ辺りを見回していると、
「わたしもこの目で見てました!」
 凛とした女性の声。見ると、いつの間にかすぐそばに、さやかさんが立っていた。
「この子は確かにさっきまで、飛べない、しかも足の悪い可哀想なハトを棒を振り回しながらしつこく追いかけ回していました」
 やおらまな尻を吊り上げ、さやかさんは毅然と言い放った。俺はさやかさんのそんな顔を初めて見た。昔、テレビの時代劇で『琴姫七変化』というのがあったが、いつも物語の最後に琴姫様が悪に向かって「許しませぬゾ」というセリフをぶつける、あの場面にピッタリの光景であった。
 父親は初めて子どもが持っている木の枝に気づき、
「その棒で、ほんとうなのか?」
 しょぼんとうなだれているわが子を詰問し始めた。しかし、あまり厳しい叱り方はせず、「しょうがないやつだなあ」と言いながら、やがて泣きじゃくるわが子をそっと抱きよせた。
「いや、どうも……そういうことのないように教えてきたつもりですが……。帰って、よく言い聞かせますから……」
 父親はそう言って息子を伴い背中をひるがえして去って行った。ぺこんと頭を下げる時、あの『大魔神』の形相が照れた子どもの顔のようになったのは驚きだった。人はやはり見かけで判断してはいけないものなのだな。
 俺は、これまた元のやさしい顔に戻ったさやかさんと向き合った。
「さやかさん、強いな。カッコ良かったよ」
「いやだそんな、恥ずかしい」
「まるで琴姫様みたいだったよ」
「コトヒメサマ?」
 無理もない。あの頃はまださやかさんは生まれてなかっただろうしな。あーあ、ここでも世代のギャップとやらを感じさせられる。
「それよりさやかさん、どうしてここに?」
「誠君の家からの帰りの途中、偶然……」
「あー、またあのことで話し合ってたのか」
 俺は少し暗い気分に陥った。
「誠君のお母さん、まだ彼を施設に送り込むつもりでいるの?」
「支えるボランティアさえそろえば、じゅうぶん地域で生きていけるって言ってるんだけど、なかなか分ってくれないのよ。いまも時間かけてそのことを話し合ったんだけど……」
「ふうーん」
「あ、もうこんな時間。帰らなきゃ」
「福祉会館、俺も行こうかな」
「じゃあ押して行ったげる」
 さやかさんが俺の車イスを押して歩き始めた。
 俺は時々、用もないのに近所の福祉会館まで出かける。もちろん、さやかさんに会うためだ。
「まだまだ施設がいい所だなんて思ってる親、多いのねえ……」
 その声を背中で聞きながら、俺にはさやかさんが一時肩を落としているように思えた。だがすぐまた、
「でも、もっともっと説得してきっと分ってもらえるよう頑張るわ。あの誠君を施設になんか送ってたまるものですか」
 いつも元気なさやかさんだから、そうやって弾んだ声に戻るのも分っていた。
 目を落とすと、そこに俺と車イスを押すさやかさんの影法師がくっきりと映って見えた。
「本間さん」
「え? なんですか」
「わたし、いつまでもこの仕事を続けていたい」
「そうだね。そうだよね」
 俺の微笑みがさやかさんの心に浮かんだであろうか。「いつまでも続けるといいね」と俺はさやかさんの影法師に向かって、そして俺自身に向かって静かに眩きかけた。

(1986.6月号/No.87より)
一部補筆/「僕」を「俺」に変更

テレビ時代劇『琴姫七変化』より琴姫七態
画像は[松山容子全仕事]サイト様からのパクリ


姉妹篇

『白馬童子』のように

これからの予定

どこから来たのか『黄金バット』
わが青春のリチャード・キンブル
茜の空の「座頭市」

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