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ほんまの
映画大好き!


 *本稿は、1997年9月より99年3月まで、紙媒体ホンマタイムスにて11回にわたって連載されたシネ・エッセーの第9回を除く全10回分を、ほぼ原文どおり掲載した。
 *同名タイトルに、雑誌「記録」に投稿したエッセイあり。また、過去にNHK衛星で同名番組があったが、命名は前述エッセイが最初。
 *ただし、タイトルは『七人の侍』『足摺岬』など数々の名作に出演、81年食道がんにより他界した俳優・木村功氏夫人・梢氏による(がん闘病記を兼ねた)エッセイ『功、大好き』をヒントにさせてもらいました。



その1 あの夏の映画熱

 上野公園前の映画館が「羊たちの沈黙」(91年米,ジョナサン・デミ監督)を上映していた夏,俺の心を衝き動かした1991年の夏−。
 暗い館内に入ってまず驚いた。後ろからではどうにも洋画の字幕が読めない。映画はもっぱらビデオかLD専門、間近で見るTVで事足りていたため視力の低下に気がつかなかったのだ。
 連続猟奇殺人を追うFBI捜査官・クラリス(ジョディ・フォスター)が,事件解決のヒントを得るため近づいた終身犯の男(アンソニー・ホプキンス),実は彼こそカニバル(食人)レクターといわれ,かつて全米を震撼させた猟奇殺人鬼だった。その2人の奇妙な関係。接触を続ける内クラリスの中では聡明で紳士的な博士に対する尊敬の念も芽生え,レクターはクラリスの不幸な幼児体験に同情心すら抱く。SMマニアの俺としては別の期待で観に入った映画,その期待は見事に裏切られたが…。
 俺の映画熱に火がついた―。
 
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(上左画像)(90年米,ケビン・コスナー監督・主演)では、予告編から本編というその時、ビスタサイズのスクリーンがシュルシュルと音を立てて更に横長に開き、「おーっ、これぞ大画面、これぞ映画!」と、思わず感嘆。
 フロンティアを求めて単身僻地の砦の守備についたダンバー中尉。出逢ったインディアンは虐殺や略奪といったイメージとは程遠い心穏やかな隣人。次第に打ち解け,親しみ,狩りを共にする程になるが,途中,死屍累々たるバッファローの死骸に,白人の蛮行を知る。映画は「角と皮を得るためにだけ殺され,朽ち果てた死骸」と語るが,インディアンの側に立って描いた監督のそれが白人の良心の限界か。歴史の真実はさらにおぞましい。当時米当局は貴重な食糧源を枯渇させ,インディアンを絶滅するため1頭につきいくらと懸賞金をかけバッファローを殺させたのだった。
 そして「八月の狂詩曲(ラプソディー)」(91年・黒澤プロ,黒澤明監督)に逢う。長崎の原爆で被爆したおばあちゃん(村瀬幸子=遺作)と4人の孫達のひと夏の交流。ハワイから誘いかける親戚に会うための旅を勧めるが,夫を亡くした戦争への拘りからおばあちゃんは素直に頷けない。平和祈念公園を訪ねたり祖母の話を聞くうち,孫たちにも戦争への怒りが湧いてきた。やがて,ハワイから甥に当たる日系二世の青年が,おばあちゃんを説得にやって来る…。当時脚本家の市川森一は「論評にも値しない」と酷評したが,以来氏のドラマは観ない事にしている。俺には巨匠監督の人類平和への祈りとも思える思潮が熱く伝わったのだが…(上右画像 おばあちゃんと4人の孫たち)
 原爆雲を見たショックから,どしゃぶりの中へ駆け出したおばあちゃん,インディアンとの共生も叶わず,部落で恋仲となった白人女性と森に消えるダンバー中尉,クラリスの面影を抱きながら驚愕の脱獄に成功し,群集の海に紛れるレクター…そのラストシーンの余韻に浸る時,日照りの午後でも背中がゾクゾクするような感動に打ち慄えたものだ。

(紙版ホンタ1997年9月・第14号より)







その2 潤 愛

 「ニキータ」(左画像)(90年仏,リュック・ベッソン監督)は権力の非情さに翻弄される少女の物語。主人公・ニキータ(アンヌ・パリロー)は,麻薬でハイになりながらチンピラ仲間と強盗を働き,警官を射殺する。判決は終身刑。だが,権力は薬物による処刑を模す。意識を取り戻したニキータへの指令は,訓練を受けて権力に邪魔な存在を粛清する闇の「掃除人(クリーナー)」となる事。そのサバイバル能力に目をつけた結果だった。拒否すれば今度こそ死が待っている。過酷な訓練を経て成長したニキータは,女としての魅力を全身に溢れさせていた。そして,鍛えられた殺人マシーンとしての殺しのスゴ腕。教育係に招かれた20歳の誕生祝いのテーブルで受け取ったのは実弾を装填したマグナム拳銃−。その夜を境に殺しの道をひた走る。
 WOWOWで録画した「ニキータ」のビデオの冒頭には,民放で流した
「レオン」の15秒予告編が俺の編集で入っている。それを観た後,「ニキータ」の本編に入ると,後の情報で知る前から2作の切っても切れない関係が垣間見えた。「レオン」の予告編で流れる音楽は,ニキータが殺し屋としての初任務を果たす場面で流れる緊張の高まりだ。チョイ役ながら,「ニキータ」にはレオンという役名が登場する。そして物語の後盤で出てくるプロ中のプロの殺し屋・ビクトールを演ずるのは「レオン」のジャン・レノである。そう,「レオン」の主人公はビクトールを膨らまして描かれた人物像なのだ。
 「女と子供は殺らない」をセオリーに黙々と仕事を続ける冷徹な殺し屋レオン,その彼の日常が,悪徳麻薬捜査官に家族を惨殺された12歳の少女・マチルダ(ナタリー・ポートマン)が助けを求めて転がり込んだ時から一変する。復讐に向けての奇妙な共同生活。父娘とも恋人ともつかぬ関係だが,2人の心にはかつてなかった互いへの信頼と安らぎが芽生える。やがて何百という警官隊に完全包囲されたホテルを舞台に,凄絶な戦いが始まる。
 先の「レオン」に22分の未公開部分を加え、
「レオン 完全版」(96年米,リュック・ベッソン監督)が出来た。レオンとマチルダの関係をメルヘン調に描いた前作に比し,完全版はレオンに迫るマチルダの愛の様相が鮮烈だ。加えてマチルダが殺しの仕事に同行する場面もある。「冗漫」という意見と共に,マチルダとの関係の生々しさを嫌う向きも多い。それは製作国米国での公開時にも表れ,マチルダが「最初の男になって」と迫る場面ではブーイングが飛び,某週刊誌では「幼児ポルノ」とまで酷評されたという。それによりカットを余儀なくされたのが非完全版なのだ(LD版解説)(上右画像 ナタリー・ポートマンが拳銃をかまえる場面は完全版)
 だが,「ニキータ」と「レオン」の作り方をよく観ると,マチルダの成長した姿こそニキータだという気もする。レオンはマチルダを救って命を棄て,束の間の幸せとも決別して消えるニキータにも死の影が色濃い。そして両者とも心の渇きを癒す純愛に救いを得た。
 「レオン」を観た時,隣席には20歳にならんとするボランティアの子が─。叶わば叶えと思いを抱いていたが,彼女には同世代の恋人が。俺にとっては老いらくの恋,彼女にしてみれば奉仕,だったかどうか…「レオン」はほろ苦い記憶と共に俺の心に焼きついた。

(紙版ホンタ1997年10月・第16号より)







その3 アウトロー

 東京に出たてのお袋宅に居候していた当時失業中の俺の唯一の楽しみはテレビが放映する映画。安手のドラマに比べ内容豊富で,洋画も観たが,邦画のチャンバラは特に好きだった。
 大映シリーズ物「座頭市」と「眠狂四郎」は何度も放映されたが,ナイター中止の際の「雨傘番組」定番となった「座頭市」に対し,「眠狂四郎」は深夜の放送が多かった。お色気シーンや,隠れキリシタンにまつわる事件が多い関係から,多分にSM的色合いが濃く,早い時間の放映には適さないからだ。全裸の美女が張り付けにされる黒ミサの場面や,半裸の腰元が縄で吊され,中老に折檻される場面では生唾を呑み,布団の中で興奮したものだ。
 権力に屈服して転向した転びキリシタンの母は,転向の証に黒ミサの生け贄となり,同じ転びキリシタンの異国人の男と交わる。そして生まれた子が狂四郎(市川雷蔵)。彼と交わった女はなぜか不幸になり,彼の周囲ではいつもキリシタンがらみの事件が起きる。自らの出生を恥じ,その美しい風貌には常に深い虚無の陰が漂い,しかし最後には非道な悪の手先に対し,「ありもせぬ神など信じるからこのザマだ」の決まり文句を発して抜群の剣さばきで斬り伏せる。
 
「眠狂四郎 勝負」(シリーズ2作目)(64年大映,三隅研次監督)では藩政改革に取り組む実直な老奉行を助けて活躍するが,苦界に身を沈めて死んだ遊女への優しさが光り,狂四郎ものとしては珍しく人情篇だ(上右画像 二枚目ニヒルがハマり役!市川雷蔵)
 雨が降り,ナイターが中止になるのを楽しみに観たのが「座頭市」。しかし,この方は至って気に入らない事がある。「メクラ」「カタワ」の放送禁止用語を局が気にするあまり,それらのセリフが出て来た際,出演者が口パクパクの金魚状態になるからである。「やい,ドメクラ,手前ェツンボか,耳がねぇのか」,これが「やい,ド…,手前ェ…か,耳がねぇのか」となる。下手をすると「耳がねぇのか」まで差別語と見なされ切られるから,観ている方は不自然極まりない。ドメクラと罵られ,斬るから市(演ずるは言わずと知れた勝新太郎)の怒りは正当性を持つのである。言葉を切る事は歴史を切る事と,俺はTVの「座頭市」を観るたび憤慨した。
 大映シリーズのLD18作品は全て買った(左画像  市ならこの人しかない!勝新太郎)。もちろんこの方は言葉も画面サイズもノーカット。シリーズ8作目の「座頭市血笑旅」(64年大映,三隅研次監督)は,市の身代わりに殺された女の赤ん坊を抱き,刺客の刃をかわしながら父親の許に届ける旅を描いたものだが一番好きな作品だ。ここでは,冒頭座頭の団体さんが出て市の危難を救い,中盤では旅篭で同宿しラストでまた遭遇するのだが,正当防衛とはいえ人を斬った血で汚れた我が身を恥じ,「按摩でござーい,メクラでござーい」と行く一団を,遥かな距離を置いてついて行く幕切れが悲痛だった。
 ミニコミ紙の取材で京都へ行き,TVシリーズの「座頭市」撮影の現場に勝新太郎氏を尋ねた事がある。座頭市だって盲人,ならば障害者問題に関係ありと組んだ特集だったが,他に監督はいるはずなのに主役の勝さん自ら現場を仕切り,まるで監督が2人いるような雰囲気だった。それほどの市にかける意気込みを感じたものだが,あの黒澤明の「影武者」降板劇が起きたのはそれから1年半後の事だった。

(紙版ホンタ1997年11月・第18号より)







その4 鎮魂の海

 秋葉原を散策していて,街頭販売をしているビデオの束の中に「第五福竜丸」(58年近代映協,新藤兼人監督)を見つけた。前のはとうに廃盤,版権の切れたそれを新たなビデオ業者が製作・販売していたもので,パッケージは以前の物を流用していて定価14523円だが,実売は2500円,こういう形でまた日の目を見る事になったのは嬉しい(上右画像 映画の一場面で、水爆実験に遭遇する福竜丸)
 1954年,その1ヵ月程前に焼津港を出たマグロ漁船の乗組員は3月1日早暁,遥か洋上に巨大な火柱が立ち昇るのを見た。そして死の灰。ビキニ環礁で行われた米軍の水爆実験に遭遇した彼らは,戻った後は大学病院に隔離され,国家機密を理由に無警告で行った実験当事者の米軍からは何の謝罪もないばかりか,医療協力と称する人体実験的扱いを受け二重の怒りが募る。それでも乗組員は持ち前の明るさで乗り切り,日本側医師らの献身的治療によって徐々に回復するのだが,船長(宇野重吉)だけは重篤な状態が続き,やがて凄惨な死を迎える。その追悼式典で世界平和の必要を説きつつ弔辞を読む米大使の言葉は虚しく響き,人々の「原爆許すまじ」の歌声だけが鎮魂の海にこだまする。
 第五福竜丸が被爆した年の11月3日,〈本邦初の怪獣映画〉が謳い文句の
「ゴジラ」(54年東宝,本多猪四郎監督)が封切られた。ゴジラは水爆実験で永い眠りを醒まされ,現代に出現した怪獣で,出だしは「第五福竜丸」の被爆場面そっくり。海上が泡立ち,閃光が爆発し,漁船員の絶叫と共に船は沈没する。古生物学博士を長とする調査団は遭難海域に近い島で山の稜線から顔を出したゴジラを目撃…。駆逐艦の爆雷攻撃も効なくゴジラは遂に上陸,放射能の熱線を吐きながら首都を灰燼に帰していく。
 場面の随所に見られる戦争の影!−風呂敷包み一つで逃げ惑い,今崩れんとするビルの陰にへたり込み,「もうすぐ,お父ちゃんの処へ行けるからね」と涙ながらに合掌する母子。一方救護本部では傷ついた人々がひしめき,泣きすがる包帯姿も痛ましい少女のそばで息を引き取る母親。瓦礫の街には子供合唱団の追悼の歌声が響き渡り,それを聞きながら俺は,1970年夏,朝日新聞社等が主催した「原爆(写真)展」を想い出した。灼けて垂れ下がった皮膚,背中一面ケロイドの女性,宙をかき抱くように黒く炭化した幼児の死体…ゴジラ禍の惨状と原爆禍の惨状の見事なオーバーラップ。このどこが怪獣映画か!(上左画像 首都を灰燼に帰し国会議事堂に迫る元祖「ゴジラ」!)
 そのゴジラ退治に水中酸素を破壊し,あらゆる生物を液化し死滅させるという究極の新兵器。「これを発表すればまた兵器に」と固辞し続けて来た科学者芹沢(平田昭彦)だったが,余りの惨状に見かねて使用を決意する。ただ一発のそれを抱いて海底に降りた彼は,自らの命綱を切り,密かに慕い続けた女性とその恋人の幸せを祈りゴジラ共々海の藻屑と化す。
 その後2作,3作と「ゴジラ」の続編が作られるが,愚劣な怪獣物とパロディーに堕すばかり。近くハリウッド製も上陸とかだが,「インデペンデンス・デイ」の宇宙人侵略で人が何億死のうが所詮テレビゲームに過ぎなかった。その同じ監督の作る「ゴジラ」映画に血や涙が通っているとはとても期待できない。わが日本の54年版「ゴジラ」以外に「ゴジラ」はあり得ない。

(紙版ホンタ1998年5月・第24号より)







その5 選 択

 「列車物サスペンスで,まずヒッチコックの『バルカン超特急』を浮かべる人はかなりの年輩,『オリエント急行殺人事件』を挙げる人は映画好き人間,『カナディアン・エクスプレス』をとっさに言える人は映画通」,と言ったのは映画評論家のおすぎさん。
 なるほど
「カナディアン・エクスプレス」(90年アメリカ,ピーター・ハイアムズ監督)は唸る。ロスで殺人を目撃したキャロル(アン・アーチャー)は事件への関わりを恐れ,カナダの山荘に身を隠す。そこへ検事のロバート(ジーン・ハックマン)がヘリを飛ばして裁判への出廷を要請に来るが,マフィアの殺し屋も追ってきて激しい銃撃を受ける。ヘリと自動車とのデッド・チェイス。命からがらカナディアン特急に乗り込むが,殺し屋の魔手はそこへも伸びる。「フレンチ・コネクション」のポパイ刑事じゃないから,拳銃で撃ち合うということもできない。心理戦である。停車駅で待っているはずの刑事もニセ刑事。どうやら警察内部に敵のスパイがいるようだ。絶体絶命である(上左画像 映画のクライマックスから)
 そんな折り,殺し屋が取引を申し出た。「女を渡せば10年働いても稼げぬ大金を支払うがどうだ」。死は時間の問題だ。取引に応じれば命は助かる。しかし検事の良心は死ぬ。「俺はお前達の様な奴が嫌いだ。そのボスが法廷で裁かれる所も見たい」,ロバートはきっぱりと言い放つ。その信念と勇気。だが,どれだけの人間がそれを貫けるか。俺は自分を試されるこういう場面に出逢わぬよういつも願っている。
 悲痛な映画を思い出した。下手な邦題名は
「離愁(原題=“Le Train”)」(73年フランス,ピエール・グラニエ・ドフェール監督)。平凡なラジオ修理業のジュリアン(ジャン・ルイ・トランティニャン)だったが,ドイツの侵攻をいち早く知り,身重の妻と娘を連れ,疎開列車に乗り込んだ。混乱の中で妻子と生き別れになり,代わりに彼はアンナ(ロミー・シュナイダー)という女性と知り合う。ユダヤ人である一家は強制収容所に連行され,彼女一人からくも逃げ延びてきたのだ。何の苦労も知らず生きてきたジュリアンに,アンナの話は驚きの連続だった。いつしか二人の間には男女の感情が芽生える。だが関係はそこまでだった(上右画像 映画の1シーンのトランティニャンとロミー・シュナイダー)
 妻子と元の平和な生活に戻って3年,ジュリアンはゲシュタポの呼出を受ける。そこにレジスタンスで捕らえられたアンナがいた。別れ際,ユダヤ人と知れる事を恐れる彼女のため,妻と偽ったことがその日の呼出につながったのだ。彼は戦慄した。あわてて知らないと答えてその場を逃れようとした。しかし,別れ際もう一度振り返って眼と眼が合った瞬間,ジュリアンはその手にアンナをひしと抱きしめていた。
 この先の人生で小踊りするような幸せがなくとも,人の優しさや愛が弄ばれるあの時代に生きなくて本当に良かった,そう思う。

(紙版ホンタ1998年6月・第26号より)







その6 大地の神

 LD豪華ボックス版「ジブリがいっぱい」を開封した時の夢のような気分は今も忘れられない。「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」といった宮崎作品を中心に,哀切極まりない高畑勲作品「火垂るの墓」も含めたスタジオジブリ傑作集が12作も入っている玉手箱のようなレーザーディスク集だが,一番上に乗っていて最初に目に飛び込んだのが「風の谷のナウシカ」(84年スタジオジブリ,宮崎駿監督)だったので,その幸福感は絶頂に達したものだ。
 「火の7日間戦争」で荒廃した地球は腐海(ふかい)と呼ばれる森に覆われ,毒ガスの充満する地帯も存在して人間の生命を脅かしている。さらに,自ら招いた災厄にも懲りず,覇権を狙う大国の侵略は平和な風の谷にも迫る。谷の姫・ナウシカは臆病なキツネリスをも友にかえる優しい心の少女だが,その一方で腐海にも浄化作用があることを知り,汚染された地球と共に生きる道を模索するが,死んだはずの巨神兵を復活させて腐海を焼き払おうとする大国トルメキアの野望が立ちはだかる…島本須美が演じる声も良かったが,お尻が小さくてボインで男まさりの颯爽としたナウシカは待ちに待ったヒロイン像。メーベ(飛行艇)を巧みに操って飛ぶ時,ミニスカートの裾がひらめいて股間が丸見えになるのだが,そこにパンツとおぼしきものとの境界線がなかった事に「ナウシカはノーパン」かと,そればかり気になった。原作本を見てナウシカのいでたちはミニスカートでもノーパンでもない事を後で知ったが−
(上左画像)
 そのナウシカ誕生から13年−「めくるめく映像」とは,「もののけ姫」(97年スタジオジブリ,宮崎駿監督)のような作品を指す誉め言葉であろう。ナウシカへの思い入れの余り,劇場公開時は今一つ乗れなかったが,LDで見直してその真価に当初の評価はがらり変わった。
 93年,宮崎駿は黒澤明との対談で,「南北朝時代を背景に既成のイメージから脱却した全く新しい時代劇を作りたい」と抱負を語っているが,本作制作はその直後の94年から始まり,正にアニメの巨匠・宮崎の面目躍如たるものを感じる完成度の高さだ。
 日本の室町期,人間の憎しみを負ってタタリ神と化した巨大猪の傷を受けた少年・アシタカは,その毒をいやす旅の途中で森を拓いて繁栄を築こうとする人間達と,森の自然と獣達の安寧を守ろうと人間達に立ち向かうもののけ姫との凄絶な戦いに遭遇する。もののけ姫とは,かつて人間に棄てられ狼に育てられ成長した少女・サンの姿だった
(上右画像)。アシタカはサンを大事に思うと同時に,自然と人間が争わず共存する道を求めて闘う…ナウシカに共通した高らかなテーマが,ここでは原生林が今も残る屋久島その他の自然をベースにしたという背景描写(背景そのものが地球であり環境であり主役であり従って単なる背景ではないのだが)の緻密さ,美しさ,そしてナウシカの時は希望であった音楽が,あれから13年を経て地球を取り巻く環境は絶望と化したのか,今は祈りの音楽となって全編を彩り,そして何よりも凶暴なまでの動の描写,エボシ御前とサンとの剣戟等々に見られる黒澤イズムのアニメ化かと目を瞠るばかりの凄さ,ダイナミズム,正にあの淀川さんが激賞した「立派な絵画を鑑賞した後の余韻」間違いなしの感動作である。

(紙版ホンタ1998年7月・第29号より)







その7 明 日 (あした)

 日本には原爆映画というものがある。関川秀雄監督の「ひろしま」をTVで観た時は,やたら怖くて恐ろしくて正視できなかったが,新藤兼人監督の「原爆の子」でやっと何とか最後まで観る事ができた。それでも映像が限界ぎりぎりに描いた悲惨は衝撃的だった。
 その核戦争の悲惨も,国を変え,視点を変えて描くと随分とちがったものになる。
 
「渚にて」(1959年米,スタンリー・クレイマー監督)で描かれた人類の明日は,別の趣をもって衝撃的だ(上左画像 潜水艦内のペック艦長役アンソニー・パーキンス以下乗組員)
 オーストラリアの港町に1隻の米原潜が入港する。数ヵ月前に起きた核戦争で米ソは滅び,妻子を亡くした艦長(グレゴリー・ペック)を慰さめようと,親しい者らでパーティーが催される。同じ潜水艦乗りの夫をもつ身重の若妻は,前途に希望を見出そうとふるまうが,彼女を残して長い航海に出なければならない夫は心配が絶えぬ。なにしろ北半球を覆った放射能は,近々この国にも飛来する。悲観的な科学者は,自分で作ったスポーツカーに乗り,レースで疾駆する事だけが目下の夢だ。深い孤独を酒で癒していた女(エバ・ガードナー)も慰さめ役でその場にいたが,飲み過ぎて逆に介抱され,艦長への愛が芽生え,思慕が深まる。やがて恐れていた放射能の影響が乗組員の1人から検出される。「最期は祖国で」と願う部下全員の意見を入れて,艦長は帰国の命を出さねばならない。渚にたたずみ見送る女。潜水艦の去って行く海はどこまでも青く限りなく美しい。
 キューバ危機(62年)の際の子供の頃の記憶はないが,ベトナム戦争ではトンキン湾事件(64年)以来新聞の切り抜きを続け,「今に第3次世界大戦が起きるのでは」という不安はずっと抱き続けていた(この事件では,全世界人類の命を天秤かけて強硬姿勢で臨んだケネディより,屈服したフルシチョフを買った。イラン人質事件解決をずるずる引き延ばし,弱腰と非難されたカーターを人間的に見たように)。
 その時期の作品が
「未知への飛行」(1963年米,シドニー・ルメット監督)である。
 20メガトンの水爆を搭載した米軍の爆撃機6機が,防衛システムに生じた狂いから一路モスクワへと進撃を開始する。交信も,友軍による撃墜も失敗,敵防空網をかいくぐった爆撃機はソ連空域に到達。仕方なく大統領(ヘンリー・フォンダ)は,ソ連側との共同作戦を試みるが,戦略上の秘密まで明かす事に防衛指揮所内では動揺が走り,「この機に乗じてソ連を滅ぼせ」と主張する国防総省顧問の学者まで現れ,緊張は一気に高まる。一方,ソ連側も「事故」は謀略ではないかと疑る(上右画像 緊迫の1シーンは作戦指揮所内)
 1機,また1機と米ソ連携で撃ち落とされるが,残る1機が捉え切れない。そしてモスクワに水爆投下の悲報! ソ連の報復を招けば全面核戦争となり人類は滅亡─。大統領は同規模の水爆を積んだ極秘任務の友軍機にニューヨーク爆撃を命ずる。そこには爆撃機長の家族もいるのだが,その驚愕的手段こそ戦争拡大を防ぐ窮余の一策なのだ。
 両作品とも,派手な特撮や戦闘場面こそ一切ないが,いつか来るかも知れぬ「その日」の恐怖を伝え,深い戦慄を覚えずにはいられぬ超衝撃作だ。

(紙版ホンタ1998年8月・第30号より)







その8 兇 手

 あの戦争で,日本は中国大陸を舞台に残虐の限りを尽くした。「黒い太陽七三一〜戦慄!石井細菌部隊」(1995年香港,ムー・トンフェイ監督)は,森村誠一の「悪魔の飽食」で注目された石井四郎中将率いる731部隊の蛮行を描いた衝撃作だ(上左画像 台湾の役者が扮した軍医・石井四郎)
 満州国ハルピン郊外の一画に建てられた広大な収容施設,表向きは「防疫給水本部」として飲料水の濾過作業や伝染病予防の研究をする部門だったが,その実は毒ガス兵器研究のための恐るべき生体実験施設だった。そこに配属された少年兵は,最初は無垢で純真な心の持ち主だった。捕虜となった中国人を目の前に突き出し,上官は「これはなんだ」と問う。「中国人捕虜です」と答えれば鉄拳が飛ぶ。再び問い直し,「悪い中国人捕虜です」と答えても殴られる。「これは丸太だ。風呂の焚付けにくべる材料のあれと同じ丸太だ」と,徹底的に差別視教育,非人道的教育が行われ,「丸太」と呼ぶロシア人,中国人,朝鮮人らに対し,毒ガス・耐圧・冷凍・解剖など,考えられる限りの残虐生体実験が行われていく。
 この「七三一」シリーズは続編・続々編と続くが,あとは重複部分も多い二番煎じ的作品で,本作が一番よくできている。何よりこの作品のみは日本語吹替で,日本人役が中国語のセリフを発するという違和感がないのがいい。
 
「ナチ女収容所〜悪魔の生体実験」(1974年米・加,ドン・エドマンズ監督)は,女囚残酷物のジャンルに入る作品で,102センチだったか120センチだったか,とにかく巨乳が売り物のダイアン・ソーンが主演し,超サディストぶりを発揮する人気シリーズだった。他に「アラブ女収容所〜悪魔のハーレム」「シベリア女収容所〜悪魔のリンチ集団」とイルザシリーズが続き,同じ主演だが主人公の名を変えた「女体拷問人グレタ」なるものもできた。
 ゲシュタポの女高官イルザは好色淫蕩で,夜な夜な逞しそうな男の囚人をベッドに誘っては自分に奉仕させ,寝たあとは他の誰とも交われぬようペニスを切り取るという悪魔だ。イルザは「女が男以上に苦痛に強い」という自説を証明するため,新しく入った女囚に対し電気棒で膣を小突くという拷問で適任者を選び出し,その者に対しありとあらゆる責め苦を繰り返す。ここでも耐圧・熱湯漬け・ペスト菌培養・子宮切除など,目を覆う残虐行為が描かれる(上右画像 電気責め実験の直前シーンで、拷問具を手にうっとりするイルザ役ダイアン・ソーン)
 しかし,この映画の凄さは事実に基づいているということと,実際ナチスの生き残りが考証に参加しているということだ。現に手をくだしたか,その場にいた当人が「そこはこう,次にはこう」と,事こまかに撮影現場で当時の地獄を再現している場面は,想像するだに身震いを感じる。
 確かにフランクルの「夜と霧」資料編に,ブッヒェンワルト収容所の司令官の妻ということでイルゼ・コッホの名が出てくる(イルザとイルゼの酷似!)。このイルゼは死体から剥いで下げ渡された皮膚でランプの傘やブックカバー,手袋を造ったとされるが,別の文献では囚人の睾丸を針で突き,膣に燃える座薬を埋め込んだという記述があったようにも記憶する。「悪魔の生体実験」にはその場面もある。
 興味本位と取られる余りか、筆舌尽くしがたい、想像を絶すると称して具体例をぼかす並みの高尚文献・資料よりはよほど戦争=ホロコーストの実相を描いて真価を発揮している。

(紙版ホンタ1998年9月・第32号より)







その9 不 屈

 軍政下の人権弾圧を追求する各国の要請を受け,昨98年秋,ピノチェト元チリ大統領が入院先のロンドンの病院で逮捕された。その罪とは,73年にアジェンデ民主政権を武力で倒して以来,3000人もの人々を殺害したといわれていることである(実数はそんなものではない!)。
 しかし,そのチリ・クーデターは,多国籍企業ITT(世界最大の電信電話会社)による自国の莫大な利益を守るため,時のニクソン政権とCIAが結託したものであることも今では周知の事実。映画
「ミッシング」(82年米,コンスタンチン・コスタ・ガブラス監督)は,クーデターのさなか失踪した米青年の行方を追って,父と息子の妻による現地での必死の捜索活動を通して権力犯罪を描いたものだ。それまでは善良な一市民に過ぎなかった男が,真相を知る過程で変貌し,ついにはニクソン、キッシンジャー等,時の実力者を名指しで告発するまでになる。その父親像を演じたジャック・レモンの好演が映画に厚みを加えた(上左画像 ジャック・レモンとシシー・スペイセク)
 松本清張の作に「日本の黒い霧」がある。一大流行語まで生んだこの名著は,戦後の混沌とした時代に起きたドス黒い事件の数々にメスを入れたもので,「下山事件」「松川事件」など,豊富な資料と独特の推理で暴き出した犯罪の実相に触れたとき,そのあまりに巨大で醜悪な権力構造に粟立つ思いさえ感じたものだ。

 
「日本列島」(65年日活,熊井啓監督)は,丸ごと「日本の黒い霧」を映画にしたような作品,といったらいささか乱暴に過ぎるだろうか。監督熊井はこれの前作にあたるデビュー作が「帝銀事件・死刑囚」で,81年にも「謀殺・下山事件」を作っているから,清張ともども,日本の混乱期に起きた一連の事件への異常なこだわりぶりがうかがえる(下画像 証言を迫る宇野重吉と苦悩する芦川いづみ)
 1959年秋─キャンプ・CID(犯罪調査部)の通訳主任・秋山(宇野重吉)は,上司の米軍中尉からリミット曹長怪死事件の調査を命じられる。秋山は警視庁に黒崎警部(鈴木瑞穂)を訪ねて事件のあらましを聞き,リミットの愛人で,かつては秋山の教え子でもあった厚子を訪ねるが彼女は病の床にあった。さらに,昭和新報記者・原島(二谷英明)から,事件の背後に組織化された贋ドル製造グループの影があることを聞かされる。原島も事件の謎を追っていたのだ。再び訪ねたとき厚子は危篤状態で,いまわの際に「涸沢」という名と「ザンメル」の言葉を残し,死んだ。ザンメルが精巧なドイツ製印刷機だということも後に判る。その技術者で,謎の行方不明を遂げた伊集院少佐のことを黒崎から聞いた秋山は,伊集院の一人娘・和子(芦川いづみ)に会って事情を訊くが,なぜか和子の口は固い。
 秋山は新婚1年で妻を米兵に犯され,殺害された過去を持つ。今の職についたのも真犯人を捜すためだったが,目星をつけていた米兵は朝鮮戦争に送られ全滅,事件はうやむやにされた。このまま闇に葬らせてなるものか! 理不尽な暴力で妻を奪われた秋山の痛恨の思いが,原島や黒崎と共にリミット事件の奥にうごめく巨大な権力犯罪の解明へと向かわせる。「精巧な機械も技術者なしでは役に立たない」と,父の生存をにおわされ和子も重い口を開く。だが,調査の過程で次々と重要証人が謎の死を遂げ,秋山にも刻々見えざる兇手が迫る…。
 暗い映画である。だが,わずかな光は確実に次代に受け継がれている。薄暮に聳える国会議事堂のシルエットを背景に,和子が風にほつれる髪をかきあげながら力強く歩くラストシーンが胸に滲み入る。

●●●特報!!! 本作を含めた熊井啓監督作品4作品を収録したDVDボックスが12月に発売される。

(紙版ホンタ1999年1月・第45号より)







その10 勇気をくれた

 21歳の春,俺は車いすでの電車への一人乗車を拒否された。「車いすは他の客の迷惑になる」との理由は理不尽極まりなく、泣きながら昼間からヤケ酒あおる俺を,ラーメン屋の主人や店員はなんと思ったことだろう。
 その日は新宿で映画を観る予定だった。そのまま帰るのも悔やしく,ふところと相談して比較的近い渋谷にタクシーを飛ばした。勢いで観た2本立て映画の1本が
「警視の告白」(71年,イタリア,ダミアノ・ダミアーニ監督)だった(上右画像 映画の1シーン)
 イタリア政界と癒着して暗躍するマフィア,それを単身追いつめようとする初老の警視(マーチン・バルサム)。真相を知る者は次々と闇に葬られる。法廷闘争に持ち込もうと,組織の大ボスを射殺して投獄された警視は,刑務所内に送り込まれた刺客に殺害される。それまでは強引な彼のやり方に反目していた検事補(フランコ・ネロ)が,ここにきて権力との対決を明確にする。階段をはさんで検察長官とまみえるラスト,重苦しいエンディング曲…。
 このとき,俺の心に衝撃が走った。急ぎ帰り,仲間を説得,やがて抗議行動へ発展した。最寄駅へのデモ,ビラまきを皮切りにした行動は7カ月に及び,遂には一私鉄の方針を変えさせ,車いすひとり乗車の自由を勝ち取った。「警視の告白」は俺の中で,別の物語として確実に前進したのである。
 その後,「警視の告発」はLDにもなり,衛星放送でも放映されたが,どんな事情からか俺に衝撃のきっかけを与えた余韻の部分はなくなり,フランコ・ネロが検察長官と対峙するストップモーションの直後に映画は切れてしまう。
 真実を追求し,守り通す勇気!
「Z」(69年,フランス,コンスタンチン・コスタ・ガブラス監督)は、ギリシャで“Z”と呼ばれる革新政党の指導者(イブ・モンタン)が暗殺され,名もない市民が権力相手に捨て身の闘いを挑む映画だ。
 政府は議員の死を事故死と決めつけ,それに対し報道カメラマン(ジャック・ペラン,本作のプロデューサーでもある)と予審判事(ジャン・ルイ・トランティニヤン)があらゆる望外をはねのけ真相に迫り,ついには軍の暗殺関与者を告発していく。だが,そのラストは痛烈な皮肉に満ち満ちている。
 先述のカメラマンがレポーターを務め,沈痛な面持ちで事件経過を報告する。「検察側証人は連続して変死し,暗殺関与とみられた軍関係者らは軽微な罪に問われるか不起訴,国民の怒りは沸騰,内閣は総辞職する」。しかしその直後に軍がクーデターを起こし,革新派の粛正が始まる。代わる代わる映し出された事件関係者の写真のクリップに,最後にレポーターの顔写真が加わる
(上左画像 “Z”の文字を配した市販ビデオパッケージより)
 リポーターが公文書流布の罪で逮捕されたことを女性アナウンスの声が告げ,戦車が繰り出す戒厳令下の静止画にかぶって,エンディングナレーションが流れる。「軍は次のことを禁止しました。ロングヘアー,ミニスカート,サルトル,アルビー,ピンター,報道の自由,社会学…」延々続いた禁止項目の最後は「“Z”の文字。なぜなら,Zはギリシャ語で“彼は生きている”の意味だから……」。
 見事にたたみかけるエンディングに流れる曲は,革新派の期待を背負ってZが空港に降り立つ場面でも流れた「愛のテーマ」。作曲はこれも反骨の人ミキス・テオドラキスで,映画にはテーマごとの曲がいくつもあり,公開当時,それを集めたLPが出たほどだ。
 物語の核となる暗殺事件は民政移管前のギリシャであった実話。権力犯罪に大ナタふるいながら,常に娯楽色豊かな作品に仕上げる手腕にたけたガブラス監督が,このときは母国の恥部をえぐって最高傑作といえる完成度にまで高めた。いかな恐怖政治下であろうとも,真実を求める良心は決して屈服することはない。そして自由を求める人々の前進は,この映画のラストからも別の物語として始まるのである。

(紙版ホンタ1999年3月・第47号より)

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