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| ●あの頃 車いすで外出をしようとするとき、タクシー以外手段のなかった時代がある。 そんななか、初めて電車に乗って新宿まで出たとき、夢のような気分で天にものぼる思いだった。窓を走る風景に、時間のたつのも忘れたほどだ。 しかしそれはつかの間の夢心地だった。 2度目に乗ろうとしたときは駅員の拒否に会い、「付き添いをつけて出直せ」と追い返され、昇った天からまた突き落とされる思いだった。 それから30年近くたち、あいかわらず不便ななかにも、30年近く前とは確かにちがうさまざまな手応えがある。あれほど夢に見た車いすシンボルマークが、街のあちこち、交通機関の要所要所にやたら目につくようになった。 もう付き添いをつけろと言う者はいまい。いや、そんな時代があったことなど誰も知らないかのようだ。 国鉄の駅はおろか、私鉄や地下鉄の駅の改札にさえ、紺地に白の車いすシンボルマークが張り出され、車いすを応対する職員は一様に親切だ。 「車いすというだけで、昔は公然と拒否されたんだよ」 そんなことを言っても、今の若い駅員はいつの時代の話かと首をかしげるばかりだ。 都バスの車掌が車いすの上げ下ろしを一般客に頼むと聞いて、俺は立たない腰が2度抜けるほどに驚いた。 労働強化反対を金科玉条に、天下の国労(国労といってもわかるまい。昔のJR、国鉄労働組合のことだ)さえ車いすの社会参加を阻んできた。 当時、駅を利用する車いすの障害者を、階段などで運ぶ職員は組合員以外の職制に限られた。だから、人員不足は否めない。 ただしかし、俺も今のように電動ではなく、手漕ぎの車いすだったから車いす本体の重量は軽い。軽さを競うようにメーカーは作ってきたので、ステンレス合金で12キロくらいだった。それなら大人ふたりで運べないことはない。 応援の駅員を呼んで待つあいだ、 「2人より3人の方が楽ですよ」と提案した。 「それはそうでしょう。しかし、この時間では2人が精一杯なんですよ」 「通行人に頼みましょうよ。元気で、手の空いてる人、けっこういると思いますよ」 これは、駅員のいないとき、待っていられないとき、俺が自らやる手だった。ちょっと頼めば、割と気軽に介助が得られた。駅員と2人なら、よりつかまえやすい。 ところが、 「とんでもない。お客さんにそんなことは頼めませんよ」 それこそ、とんでもないという表情をあらわにして、それ以上は取りつくしまもない有り様だった。 「いやあ、このあいだは電動車いすで来られて、まったくたまりませんでしたよ」 夏の暑い盛り、汗だくで運ばれながらそんなことを言われた日には針のムシロである。それを知っているから、手漕ぎから総重量70キロの電動車いすに替えた当初は、とてもじゃないが駅員の介助なんか頼めなかった。 しかし、その頃から駅の改札口には車いすシンボルマークが張り出され、実は電動車いすといえども気安く迎える環境は整っていたのである。 そんな風だから、都バスが電動車いすの乗り入れを認め(シンボルマークは早くからついていたが、あくまでも付き添い付き前提だった)、一般客への手伝いを運転手自らが呼び掛けると聞いたときは、驚天動地の心境だったのだ。 あの時代とこの時代の違いはなんだ。今の駅員とあの時代の駅員の心のどこが違うというのか。俺はそこのところが今でもわからない。 しかし、それぞれの時代を生きてきた俺たちは、少なくともそのときどきの怒りや悔しさを知っている分、逆に自由を得た今の喜びは計り知れないものがある。それこそ、「乙武よぉー、君にはこの気持ちがわかるまいなあー」という気分である。 その喜びを、大江戸線が運んできた。 |