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ピカレスク
座頭市物語

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 4回目の今日は、俺の大好きなキャラクターに登場してもらいましょう。座頭市です(左画像は第一作から)。今は亡き勝新さんのライフワークともいえる役柄でしたねえ。
 メクラで、アンマで、剣の達人。ただの盲人のツエと思いきや、危機にさいしては必殺必中・逆手斬りの武器ともなる仕込み。それを抜く手も見せぬ早わざで、群がる悪徳ヤクザや剣豪をばったばった……。あのダーティーヒーローです。
 ずいぶんまえになりますが、暮れから正月にかけてMXテレビで連続放映した際のラインアップ、それをサイト読者に教えてもらい、掲示板で一作一作について検索なしで書き連ねたことがあります。こんな風に……

 第1作
『座頭市物語』(1962年大映、三隅研次監督)と第2作の『続・座頭市物語』(1962年大映、森一生監督)はともに白黒作品ですよ。
 正編のほうは、ごぞんじ天知茂扮する平手酒造(ひらてみき)との友情がからむ作品で、天保水滸伝、笹川の繁蔵と飯岡助五郎との抗争の果ての大戦(おおいくさ)がクライマックスという、チャンバラ映画史に残る名作中の名作です。
 また、続編のほうは本物の兄弟が兄弟の役で共演しています。兄貴・若山富三郎が城健三朗を名乗っていたころで、互いに女を争い、兄貴は弟に腕を切られています(両方障害者!)。そして再会した宿場でもおなじ女がいて、愛憎からんで骨肉相食むといった内容(なんと、カタワ対カタワ!)。
 暗かったですねー。両方暗かった。
 3本目は
『新・座頭市物語』(1963年大映、田中徳三監督)ですか。カラー作品になりましたけど、作風はまだ暗いです。しかし相手役女優の坪内ミキ子が可愛いかったなー。市の剣の師匠の娘っていうことですけど、河津清三郎の父親が「メクラの片輪(ダブル差別語!)に娘がやれるか」。でも、女は市の女房にしてもらうつもりでbbそれというのもこの娘、足悪かったんですね(凄い障害者映画!)。
「だから市さんでもなければ貰ってもらえない」とかなんとか。親分の仇と狙う須賀不二男に迫られ、「市さんと二人斬っておくんなせえ」なんて、泣かせたましたねえ坪内ミキ子。
 それがいまじゃ、つまんない大人のオバサンになっちゃって。花柳幻舟がなにかのおり天皇の車に発煙筒投げたかしたとき、「ああいう人様の迷惑になるようなことは、いけないことですわね」だって。もう少しましなコメント言ってくれよ。というより、現役であれ元であれ、役者はCMやトークショー、ワイドショーなんぞに出てはいけません!
(右画像・左が坪内ミキ子)
 大みそか12月31日に当たるのは
『座頭市千両首』(1964年大映、池広一夫監督)、島田正吾扮する国定忠治とまみえる話です。このときの市は百姓の上納金を盗んだ濡れ衣を着せられ、赤城の山ごもりをする昔なじみの忠治に会いに行くんでしたね。浅太郎を背負いながらけもの道のような間道を逃げ、追手を自分に向けさせて忠治を逃がすんでした。
 座頭市は、なぜか赤ん坊や子どもがからむ作品はよくできてますね。
 元旦の
『座頭市血笑旅』(1964年大映、三隅研次監督)は、第1作とおなじ巨匠・三隅研次監督作品ですが、俺はこれが座頭市映画の最高傑作だと思います。
 自分にまちがわれて斬られた女の赤ん坊を父親のもとに届けるのですが、そいつは土地のヤクザ。旅のあいだに情が移って、いっそ自分の子にしたいが、寺の坊さんに「ヤクザの片輪が育ててまとも人間になるか」と諭され、しゅんとなる。
 大きなお世話じゃないか。それはともかく、これには高千穂ひづるが街道盗っ人の金ちゃっきり(スリ=掏摸)になって、これがいい女なんだよねー。「いっそ市さんのオカミさんに」と言い出すくらいなんだけど、それじゃ話は終わっちゃう。やはり最後は別れです。
 そして、この映画、最初と最後に座頭の団体ツアーがでてきて、「アンマでござーい」「メクラでござーい」と笛を吹き吹き登場する。この一行とも仲良くなるんだけど、ラストではヤクザの悲しみ! 人をたっぷり斬ってるでしょう。「あいつらと俺では住む世界が違う」と、なつかしさに駆られながらも別々の道を歩いて行くエンディングが良かったですねぇー。
 2日の『座頭市逆手斬り』、3日の『座頭市地獄旅』は飛ばして、4日の『座頭市の歌が聞こえる』。これは、メクラの悲しさから斬った男の妹に仇とののしられ、なんの抵抗もしないで相手に刺させる。相手役は安田道代時代の大楠道代だ。この女の人も良かったですねー。これが、その後の……え? これも違った? 小川真由美だって? そうか、安田道代が出たのは『座頭市海を渡る』でしたっけか。
 じゃあ、ここらでお手上げとしましょう。
 でも、けっこう憶えてるでしょ?……

 この『座頭市物語』、原作は子母沢寛ということになっているんですけれど、随筆集『ふところ手帖』に市のモデルとなる人の記述がある。しかもたった2、3行。「盲目で居合いの名人が」といった程度。それに心血を注いで確固とした座頭市像にしたのは、脚本家・犬塚稔の手腕です。
 この「座頭市」の影響はものすごいと思いますね。座頭市がモデルになって、その後いろいろなニューヒーローが生まれてるんですから。
 石ノ森章太郎のマンガ
『佐武と市捕物控』なんかには、主人公を助けて活躍する盲人の剣客アンマが毎回登場しますが、これなんかは座頭市をモデルにしているとしか考えられません。
 ボンカレーの宣伝で有名な松山容子さんが演じた
『めくらのお市』も、もとは棚下照生の劇画ですが、その原作の原作は「座頭市」そのもの、さながら「座頭市」女性版といったところでしょう。日本テレビで1966年から68年にかけて放映されたあと映画化され、『めくらのお市物語・真っ赤な流れ鳥』『めくらのお市物語・地獄肌』『めくらのお市物語・みだれ笠』と、1969年、松竹で3本つくられています。ちなみに松山さんは原作者と結婚することにもなります。
 テレビでは
『唖(おし)侍・鬼一法眼』というのが、1973年から1974年にかけて日本テレビで全26話放映されています。原作が映画『三匹の侍』の監督でもある五社英雄ですが、勝さんの兄である若山富三郎が映画化権を熱望、みずから主演して勝プロ制作で放映されたことから、「座頭市」を意識した企画であったことはまちがいないでしょう。
 いま取り上げた2作でいえることは、「めくらのお市」にしろ「唖侍」にしろ、今ならぜったいにテレビ番組のタイトルにはできないことです。
 ゴダールの傑作『気狂いピエロ』が「ピエロ・ル・フ」に、ビクトル・ユーゴーの名作の映画化である『ノートルダムのせむし男』が「ノートルダム・ド・パリ」と、それぞれテレビ放映にあたっては邦題から原題のカタカナ語表記に改題されるくらいですから……。
 俺が月刊障害者問題を発行した1976年には差別語問題は起きてましたし、たしか「唖侍」も途中から問題になったように記憶しています。ということは「唖侍」あたりが差別語以前・以後のボーダーラインかと思います。
 今回、差別語問題の有無についてはふれませんが、「座頭市」といえばあと1本、
『座頭市血煙り街道』(1967年大映、三隅研次監督)は、ハリウッド映画『ブラインド・フューリー』(1989年アメリカ、フィリップ・ノイス監督)の原作にもなっております。
 未見作ですが、インターネットから得た筋書きを紹介しましょう。ベトナム戦争中、戦友の裏切りによって撃たれ、失明した主人公は、ベトナム現地人から居合い斬りの奥義を受けます。アメリカに帰ったあと、裏切り者の親友宅を訪ねるものの、ギャング団の乱入に遭って親友の妻は殺され、残された息子を連れての旅がはじまるというものだそうです。実際ビデオが出ていれば、原作とのちぐはぐ度などくらべて楽しめるのですが、廃盤とあって残念です。
 この「座頭市」では、障害者であることのハンディを持ち、そのうえアウトローとして裏社会に生きる者の宿命を負った暗さが全編に感じられるのは3作目くらいまでで、その後は市のユーモラスな面もまじえ、それによって長期シリーズ化も可能にした内容となっています。
 市は、女性には特にやさしく、しかし常にストイックで、ぜったいに手なんか出しませんし、エッチなんかとてもとても。その点では「寅さん」といっしょで、それが観ていて安心でもあり、不満でもあります。障害者が仏様のように思われるのは、「ヤクザの市ですら」という観客の思い込みも作用しているかも知れません。
 しかし、そんな「座頭市」にもジャンピングボードとなる作品がありまして、これを語らなければモグリと笑われ、障害者映画を語る資格なしと決めつめられることになります。
 それは、
『不知火検校』(1960年大映、森一生監督)です。
 針医師の杉の市は幼いときから貧乏し、金がカタキというより、その金と名声と地位をものにして、なんとか今の生活からはいあがって頂点に立ちたいという野望を持っておりました。そのため、荒木という検校の家に弟子入りしてからも、虎視眈々出世のいとぐちを探し求めております。
 1360年ごろ検校の官を授けられたという明石覚一は、その前後に、検校・勾当・別当・座頭の4階級からなる盲人琵琶法師の階級制度を確立しました。もともとこれは平家物語の語りや琵琶の技能に対して授けられた位でしたが、覚一の没後は金やツテさえあれば4つの階級のどれか一つ手に入れられることは可能になり、あまり権威のないものになり下がったということは、障害者史にも詳しい二日市安さんが自身の著書でも書いています。
 とはいえ、映画の舞台となる江戸時代の検校は盲人4階級の頂点であり、一般健常者の世界でも権威の象徴と見られていましたから、人々の多くがたとえ内心でどうあざけっていたにせよ、表向きは尊敬の対象であったはずです。おそらくこの時代、健常者のなかでの職業的地位の優位に位置していたのは検校だけだったでしょう。
 杉の市が、その検校をあこがれに思わないはずがないのです。
 しかし、検校の地位を得るのは人徳ばかりではないと、自身の出生の貧しさを仲間の前で笑われた杉の市は、どんな手段を使ってでも検校の座に着くんだと執念を燃やします。この時点で師匠に対する殺意も芽生えていたかも知れません。金目当てのゆきずりに第一の殺人に手を染め、それを見ていた小悪党を大金で丸め込み、つぎからつぎへと救いのない悪を繰り返していきます。その間には貞淑な大名の人妻をだまし、借金のカタにして犯し、自害させるということまでやってのけ、ついには師匠を殺し、まんまと検校の座を奪ってしまうのです
 右上の画像は悪の限りを尽くす希代の時代劇キャラクターに、鬼気迫る怪演で成りきった希代の役者道・勝新でしたが、こののち杉の市はさらに殺人、謀殺を繰り返し、最期は役人に捕まり、衆人環視のなか、「人殺し!」「大泥棒!」とののしる聴衆に石もて追われ、血だらけで役人に引き回されながら終わるのです。その際、杉の市が群衆に向かってぶつける、おおむねつぎのようなセリフがあります。

 てめぇら肝っ玉がちいせえから、
 おれがやってるようなことをやりたくても出来ねえだろう。
 たまに楽しいといったら祭りぐらいが関の山で、
 挙げ句の果てはジジイになりババアになり、
 糞小便の世話されて死ぬだけだ。
 この大バカヤロウ!

 シナリオを書いたのは「座頭市」シリーズの実質的原作者となる犬塚稔(原作・宇野信夫)で、ただし、この名セリフは実際映画になった際にはほとんどカットされ、最後の「うるせえっ、大馬鹿野郎」だけになってしまいました。不知火検校がラストで悪態をつく相手は市井の民衆で、その民衆たる映画の観客に向かって「糞小便にまみれて死ぬだけだ」とは、あまりにも刺激的で挑戦的だというのがカットの理由でしょうが、とにかく強烈なセリフであることは否定のしようがありません。
 杉の市を演ずるのは、もちろん勝新太郎です。やがて奥さんになる中村玉緒も自害する大名の人妻として共演していますが、勝新太郎はそれまでは白塗りの二枚目が看板でしたが、いい役に恵まれないこともあってパッとしませんでした。それが杉の市という強烈な役をあてがわれ、一挙にスターダムにのしあがり、これのヒットが「座頭市」登場の足場をつくったのです。その意味では勝さんにとっては記念碑的作品だったでしょう。
 『不知火検校』には菩薩のような女性や、善意の市民など一人も登場しはしません。表むき「市さん」「杉さん」と主人公にへつらってはいますが、裏にまわれば、いっしょに組む悪党にしてからが、「メクラのくせに」「カタワの化け物が」と聞くに耐えないセリフを吐きます。一人の善人も登場しないという点では、ピカレスクロマンの王道を行く物語ともいえます。
 俺は、長い間この映画がきらいでした。善人が登場しないから、内容が差別的だからというのではもちろんありません。
 実はあえていままで書かなかったのですが、ここにはもう一人、為吉という杉の市の幼なじみが登場します。ただ、この為吉はすこし頭がにぶく、いまでいえば知的障害者なのでしょうが、当時としては周囲の者から、「バカの為吉」と公然とあざけられていたのです。それを杉の市はいいようにあやつり、大人になってからも利用し甲斐のある相棒として連れ歩いているのです。その姿に自分を見る障害者も多くいたことでしょう。
 俺が子どものころにいた施設の近くには、精神障害者の施設があり、そこの子どもたちは俺たちが侮蔑する対象でした。障害者同士でも差別はあるのです。障害がおなじ種類なら障害程度の軽いか重いかのちがい、障害者同士なら知的かそうでないか、最初からランクがつけられているのです。もちろん、そんな目で見ない人もおおぜいいますよ。それでなければ、この世は救われませんからね。しかし、俺には人を差別する目は子どものころから確かにありましたね。『不知火検校』をきらう理由は、そんなところにもあるでしょう。
 そう思えば思うほど、『不知火検校』が真っ向から描いたのは、世の中の偽善と差別、そのなかには障害者にもある差別観をえぐり取って見せたという点で、これは傑出した障害者映画といえるでしょう。
 ずっと俺は、「愛される障害者」になろうと本気で考えてました。
 しかし、愛される障害者のふりをして、どこかに同情的な女性でも見つければ、虎視眈々泣き落としをかけ、毒グモの巣を張り巡らして機をうかがっている。そのほうが、杉の市の「悪」よりはタチが悪いでしょうね。
 杉の市と毒グモ、俺の場合どっちですかね。SM変態癖もあるから、どっちとも言えるかも知れませんね(笑い)。

(2002年の初稿を補足)

 訂 正

 最初の方の『新・座頭市物語』の記述に誤りがありました。
 座頭市の相手役・坪内ミキ子の設定が「足が悪かった」「(だから二重の意味でも)凄い障害者映画!」と書きましたが記憶違いでした。浪人である兄・河津清三郎(父親というのも勘違い)のセリフに、「どんなにおちぶれても妹をカタワの嫁にするわけにはいかない」とはあるものの、「いくらカタワでもヤクザのおまえになど」といったセリフもなければ、坪内がビッコをひいているという描写もありませんでした。
 誤表記に長く気がつかず申し訳ありませんでした。
 しかし、どうしてそんな情報が刷り込まれたのでしょうか。シリーズの別の作品でおなじ坪内ミキ子が別の役で出ていて、そこではビッコだった? いや、そうでもないようです。
 試しに、当ボログでオススメリンクに入れさせてもらっているキネマ旬報データベースで検索してみました。そこでのストーリー紹介にはこうありました。

 ――めくらやくざ座頭市は数年振りで故郷笠間へ足を向けた。途中、鬼怒川の湯治場に寄った市を追いかけて来たのは、かつて彼に斬られた関宿の勘兵衛の弟安彦の島吉と乾分たち、だが、斬合いのさなかに来合せた市の剣の師匠伴野弥十郎が仲に入って、市を下館の家へ伴れ帰った。弥十郎の妹弥生は、足がびっこなため縁談が度々こわれていたが、市には優しく暖かった。(以下略)

 完成された映画とは別に、こういうものが堂々とまかり通っているのですね。
 それが何かは今となっては調べようもありませんが、坪内ミキ子をビッコの障害者にする設定は確かにあったということです。
 さらに検索を絞り込んで、通販でおなじみアマゾンレビューから、「河津清三郎の設定に不満」(By カスタマー)という以下記述がありました。

 ――市の師匠の弥十郎なんだけど、なんでこんなに堕落したのか、というところに説得力が不足。彼が悪の道に走るキッカケになったエピソード、堕落した自分に対する自己嫌悪を表すエピソードがちょっとでいいから、ほしかった。(中略)なお、坪内ミキ子は当初足が不自由という設定だったのが、会社側の「新進女優を汚(けが)すな」という意向で、脚本を改めざるを得なかった、と犬塚稔は無念そうに語っていた。

 障害者を演ずることは「汚れ(穢れ)」なのか。
 とっさに思い出したのは、国土交通大臣もした扇千景が、なにかの拍子で車椅子に乗ってマスコミの前に出た時、うっかり「お見苦しい姿で申し訳ありません」と言ったことです。
 その意識こそが差別ではないか。
 いらざる「待った」がかかる前の犬塚稔脚本による『新・座頭市物語』を見たかったと欲するのは、俺だけではないでしょう。

頭から「ピカレスク」の項を読む

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