
| 料理番組はよく見る。目的をもってじっくりと見るというのではなく,テレビをつけてチャンネルが合って,なんとなく見ているうち,引き込まれて最後まで見たという風に。すると自分でもなにか作りたくなり,イワシの梅煮やサバ味噌煮,豚肉のすき焼き風煮などはお手の物だ。 最近うまい手を見つけた。夏に友だち何人かと我が家で呑んで,仕上げに食べたソバの即席ツユの残りがずっと冷蔵庫に眠っていた。そろそろ片づけねばと思うが1人分のソバを作るのも面倒と,ちょうど買っておいたイワシで試すことにした。ソバなら2倍濃縮だが,それより濃いめにして酒を加え,梅干しを加え,煮立てたところ,これがすこぶる美味かった。横着ともいえるが以来これで通している。 料理が題材の映画は多く,古くは『バベットの晩餐会』,変わり種は『デリカテッセン』,少し新しいところで『宮廷料理人ヴァテール』,ごく最近では『ディナーラッシュ』というように,題名だけならいくつか思いつくがどれも観ていない。洋食嫌いで,映画もそれで食指が動かなかったか。 それでも3本くらいは観た。だが『ショコラ』を観たといって,映画館の帰りチョコレートや菓子が食べたくなることはなかったし,キノコ餃子や粟チャーハンがでてくる『初恋のきた道』も,ヒロインの可愛いさが勝って料理は二の次。ただ,生活感がリアルだった『活きる』では観たあと無性に餃子が食べたくなった。中華はまだマシなようだ。 本作の登場で,料理映画の名作に,また1本加わった。 マーサ(マルティナ・ゲデック)はハンブルグにあるフランス料理店の一流シェフだが,オーナーからは「街で2番目のシェフ」といわれている。職場では協調性がなく,自分の味を認めない客とは平気でケンカもする。そんな性格を変えたいと心理セラピーまで受けているが,医者の前でも料理の話題しかでてこない。マーサの生活が一変する。姉の交通事故死で,遺された8歳の娘リナ(マクシメ・フェルステ)を預かることになったからだ。他人に心を閉ざし,部屋にこもりきり,マーサの料理さえも受けつけない。家政婦をつけてもうまくいかない。マーサはリナを店で面倒みることにする。そこで信じられない光景を目にする。リナがスパゲティを頬ばっているのだ。マリオ(セルジュ・カステリット)のせいだ。産休に入る同僚の後任で来たこの陽気なイタリア人シェフは,厨房に音楽をかけ,冗談を飛ばし,マーサにはいちいち癇にさわる存在だった。しかしそのマリオが,まずリナの心を解き放ち,かたくななマーサの心までほぐすことになる。マリオによって,マーサ,リナ,3者の関係が1つの円に結ばれようとしている。結ばれたとき,心に芽生えた愛のひと味によって,マーサは人間としても成長,今度こそ街一番のシェフになるに違いない。 大画面にあふれる料理の品々。それは洋食嫌いの俺でさえ思わず食欲が湧くくらいだ。ポタージュの滑らか感,ビーンズの色艶,瑞々しい生鮮野菜の緑黄感,そして本場ドイツビールの琥珀と泡立ちなど全編オイシイズム満載の料理映画。観終わって憶い出すのは厨房と食卓における名場面の数々,そしてマーサとリナの幸せ笑顔だ。★★★★ |
| 本多勝一の『アメリカ合州国』を読んで納得したことは,この国が少しもピープルのためになっておらず,したがって「アメリカ合衆国」の「衆」は「州」と書くべきだという事実。白人の権利は守られていても,黒人や有色人種,貧しい移民にとっては差別と迫害が横行する野蛮国に過ぎない事例がいくつもでてくる。著書の記述は60年代から70年代にかけてだが,たとえば先住民インディアンを征圧,作物も育たぬ荒れ地に居留民として隔離,自分たちは姑息な線引きをしてまで肥沃な土地に居座る,こんな身勝手が現在にいたっても改善されていないようだ。他人の不幸の上に自分の幸福を築く,それで良心は痛まないのだろうか。 そんなときに,本作を観たのである。 2054年のアメリカは,個人の行動や情報がモニターされ,プライバシーの存在しない国。そして首都ワシントンでは犯罪予防局が設置されてから殺人件数はゼロ,犯罪そのものも90%減少という驚くべき成果。それというのもプリコグと呼ばれる予知能力者がいて,彼らが見る夢から未来犯罪を探し当て未然に犯行を食い止めるからだ。そのシステムを維持すべく尽力する主任刑事がトム・クルーズなのだが,こともあろうに彼はプリコグが映す犯罪映像のなかに自分を見てしまう。殺した相手は名も顔も知らない赤の他人。同僚も知人も敵となった今,単身真相を探りあて,犯罪を止めるか,あるいは冤罪(えんざい)を晴らすしかない。タイムマシンとは違った未来探し。主人公の過去と未来と現在が交錯し,迷宮のように物語が紡がれる。それで面白くないはずがないのに,どうにも入り込めなかった。 そのワケはプリコグの存在だ。ウエットスーツに身を包み,羊水池のようなプールに浮かぶプリコグはアガサなる女性と双子男性の3体。これで連想したのは『マトリックス』だ。世界を支配するコンピュータは人類を奴隷化して羊水池に浮かべていた。それに戦いを挑み人類を解放するのが彼の作品のテーマだったのに,本作のアメリカ人は犯罪撲滅を錦の御旗にプリコグの自由を奪い,重大犯罪を見せつづけている。そのためプリコグの精神状態は日夜尋常でない。人権軽視の時代設定としても,主人公がそれに気づかないでは大いに困る。そんな主人公に感情移入できるはずもなく,したがって映画にハマれるはずもない。 作者たるスピルバーグにプリコグへの視点がまったく感じられないのだ。もっぱらの関心は,陰謀に巻き込まれたトム・クルーズがどう切り抜けるかで,そのためにおぼつかない足どりのアガサを引きずるように連れ回す場面も,単なる道具だて以上のものはないから無残このうえもない。未来を予知し,それゆえ誰からも狙われるであろうプリコグの存在を設定したときから,ドラマの重心はそっちに振れるべきなのだと,そう思うのは俺だけだろうか。 ハリウッド映画とは,いつに人間性を無視し,または軽視することが常で,スピルバーグも例外でない,というより,アメリカ人そのものの人権感覚がこの程度なのかも。 事件解決の後,人知れぬ地に匿われるこの世でただ3人のマイノリティー。そのラストの暗さは底知れない。★★★ |
| 本作の監督,フォルカー・シュレンドルフといえば,『ブリキの太鼓』の名作がある。第二次大戦中の話で,3歳で成長を止めてしまった太鼓たたきの好きな少年が,奇声を発して回りの物を破壊する超能力を駆使して,激動のナチス・ドイツ時代を生き抜く姿を描いた。寓意に満ちた不思議な魅力の映画だった。 ナチス・ドイツものに必ずといって登場するテーマが,ホロコースト=ユダヤ人虐殺である。なにせナチのやったことがやったことだから,まじめにせよ興味本位にせよ,話題にはこと欠かない。ただ,この時期ホロコーストものを見ても,おそらくかつてほどユダヤ人に対する同情は湧かないだろう。アメリカで起こった同時多発テロ事件の元凶は,まさに中東で起こっている状況と渾然一体,イスラエルの苛酷な対パレスチナ政策と,それに荷担するアメリカへの憎しみに起因するからだ。ユダヤ人とはなんという民族なのだろう。パレスチナ人の投石によるインティファーダ(抵抗)へは,銃や戦車で応戦するが,その際の銃火は子どもにさえ容赦ない。過去の歴史の亡霊を,今みずからの手でよみがえらせているとしか思えぬ。 さて本作だが,『ブリキの太鼓』で描いたナチス・ドイツの時代を,またまた再現。これも不思議な異世界である。 捨て子のアベルは,教会が建てた寄宿学校で育ったが,いじめられっ子で落ちこぼれ。親友と呼べる者は太っちょの男の子だけだが,お仕置きがいやで,「寮など燃えればいいのに」と念じたら,そのとおり火事になり,逃げ遅れた親友が死んでしまった。 成長したアベル(ジョン・マルコビッチ)は,あいかわらず人づきあいが苦手で,大人になれない大人だった。そのピュアな心で動物を手なづけ,子どもにも親しまれたが,ある美少女と知り合ったことで運命が変わった。強姦事件に巻き込まれ,少女のついたウソの証言で有罪となったのだ。ただ,おりしも国はドイツ相手に戦争中,ひとりでも兵隊がほしいときとあって,アベルは全線へ送られる。 戦地では戦うことなく,すぐに捕虜となる。それでも気楽なもので,こっそり収容所を抜けては森へ出かけ,動物とたわむれたりして自分の世界に浸っていた。ある日,村ではどう猛と恐れられている大ヘラジカを手なづけ,その現場を見ていたドイツ軍森林監督官(ゴットフリート・ヨーン)に気に入られ,ゲーリングの雑用方として推挙された。 お伽の城,憧れの城,ゲーリング館では夢のような日がつづいた。なぜか捕虜の身で出世をとげ,子ども好きを買われて幼年学校の雑用方にまでなる。ある日,村の少年を大量に誘い入れたことから,上官から「適任」と認められ,少年のスカウト方に任命される。しかしドイツの敗色日に日に濃く,少年兵たちは実戦訓練にかり出される。少年のためにとしたことが,やがては裏目に出ることに……。 もちろんここで描かれる幼年学校はヒトラー・ユーゲントを下敷きにしている。その興亡を通し,ナショナリズムに駆られた少年たちがたどる運命を描いた。衝撃のラストはドイツ製反戦映画『橋』をも想起する。★★★ |
| 1991年に暗殺されたインドのラジブ・ガンジー首相暗殺の実話に基づいているとのこと。主人公はその身に爆弾を抱えて暗殺を実行する19歳の少女テロリスト。映画はその決行前の数日間と決行のその時,その瞬間を描く。 昨年9月11日のアメリカでの同時多発テロ以降,イスラエルとパレスチナの緊張は一挙に高まり,絶望的状況のなかでのパレスチナ人による自爆テロが相次ぐ。それが最近では,自爆テロの実行者は10代の少女にまで及び,なんともいたましい限りである。しかし,痛ましいと言って片づけられる問題ではない。なぜ,どうしてそこに至るかという検証が吟味され,その平和責任を国際的視野で一人一人の地球市民が担わなければならないのだ。 そういう時期も時期,本作の公開はまことにタイムリーかつ興味深いものとなった。なにより,自爆テロにおもむく少女を生んだ時代背景と,そのなかで命を賭けた心の機微に触れ,「狂気の行為」といった単純図式をくつがえすなんらかの「真実」が知りたかったからだが,本作の製作意図に,事件の時代背景などは興味の外のようだった。 冒頭,ゲリラキャンプで裏切り者が処刑される。「お前のために味方が死んだ」「家族が犠牲になった」と怒りをぶつける人々。だが,司令官は「裏切りを見破ったのはお前」と,仲間の一人に処刑を命ずる。木に縛りつけられ,もはやぐったりとしている男の喉元に拳銃が突きつけられ,引き金が引かれる。処刑を実行したのはマッリ(アイーシャー・ダルカール),19歳の少女テロリストだ。それから間もなく,マッリに重大な局面が訪れる。ある重要人物の暗殺を「人間爆弾」によって遂行すること。仲間の少女たちは我こそと皆,名乗りを上げるが,司令官はマッリを任命する。高名な愛国派詩人を父に,敵に捕まりながら使命に殉じて,同志としては初めて青酸カリ自殺を遂げた兄を持つマッリこそ,この重要任務にふさわしいと判断されたからだ。決行への数日間のねぐらに,話し好きな老農夫ヴァースのもとに身分を偽って住みつく。ヴァースは死んだ息子の面影を抱きながら,植物人間の妻とともに暮らしていた。そして最後の数日間,ヴァースとの交流,植物人間となったヴァースの妻をじっと見つめるマッリの瞳にも,いつしか生命の輝きがはっきりと見えてきた。 貧しい生活のなかから,なにがしかの金と引き替えに,子供をゲリラ組織に売る現実が多いことも聞いた。そうしてなった子供戦士は,ただ殺人機械として人間らしい感情が乏しいということも,なにかで見たことがある。ならば,三里塚闘争で機動隊の大人たちをたじろがせた少年行動隊も,中国文化大革命時の紅衛兵のように偏った価値観に凝り固まった年少者集団に過ぎなかったということか。 ただ,この映画,それだけではない輝きがある。川の流れにたゆとう水草,画面いっぱいに張られた一本の黒髪に伝う水滴,顔半分の大写し,忘れられない場面を満載して映像がやたら美しい。そして主人公マッリを演ずる少女の圧倒的存在感。全編を圧するマッリの激しい息づかい,それこそが命の証しだ。それゆえ死の意味も重い。★★★ |
| フランス革命の陰に,「王妃の首飾り事件」などという大スキャンダルがあったとは,恥ずかしながら本作を観るまで知らなかった。ジャンヌという貧しい洗濯女が,飽くなき権勢欲と金銭欲から一計を案じ,2800カラットものダイヤモンドをちりばめた首飾り(時価換算でいまなら約200億円というからモノ凄い!)を武器に,800年つづいたブルボン王朝の屋台骨を揺り動かし,国王と王妃マリー・アントワネットを断頭台に送ったというのだから,そりゃあもうスキャンダルという次元を超えた一大事件だ。 このように,本来悪女の典型のように見られているジャンヌを主人公に据えながら,ここでは新解釈としてジャンヌを家名再興を願い,時代の混乱の中で奪われた安穏な生活と,父母と暮らした思い出の館を取り返したいという,ひたむきな思いの果ての復讐劇として描いている。それなら共感もできる。さながら『ジャン・クリストフ伯』(わかりやすくいえば厳窟王)の女性版ともいえるからだ。 ジャンヌ・ド・ヴァロア(ヒラリー・スワンク)は,名門ヴァロア家の末裔。ジャンヌの父は,貴族でありながら改革主義者として,民衆勢力の側にあったことから反逆者とみなされ,殺されてしまった。領地は没収,母も失意のうちに死に,ジャンヌは9歳で天涯孤独の身となった。成長したジャンヌは爵位を得るため,騎兵隊勤務のニコラ(エイドリアン・ブロディ)と政略結婚して王宮出入りの身となる。彼女の望みはただ一つ,理不尽に奪われた屋敷を取り戻し,家名再興を願うのみだった。そのため,ひたすら王妃マリー・アントワネット(ジョエリー・リチャードソン)の関心を買おうと,あの手この手のイメージ作戦で訴える。同じ女性として自分の苦衷を理解してくれると信じたからだが,王妃はそんなジャンヌに目もくれず,その取り巻き連中すら相手にしない。「名門の出など偽り,卑しい洗濯女の分際で」とあしざまに罵られる始末だ。「王妃は無視した。かくなる上は……」と,ジャンヌの惨めな敗北心は復讐の情念に火をつけた。 おりしも王宮の周囲では法外の価値の首飾りが持ち主をなくして宙に浮いていた。ルイ15世が愛人に作らせたものの,完成直前に王は亡くなり,愛人は宮廷から追放。困った宝石商がアントワネットに泣きついてもバカにされるだけ。それに目をつけたのがジャンヌだった。あの指輪を詐取して奪われた先祖の家屋敷を買い取ろうと考えたのだ。自分に近づくジゴロのレトー(サイモン・ベイカー)を味方にし,時の枢機卿ロアン(ジョナサン・プライス)にも近づき,妖術使いカリオストロ伯爵(クリストファー・ウォーケン)まで巻き込んだ一大陰謀。女官を通じて入手した王妃専用の便箋を悪用,王妃の愛情を得たいロアンに首飾りをまんまと買わせ,詐取成功は目前だった。しかし,利用するだけで近づいたはずのレトーと愛し合う仲になり……。 絢爛たる貴族文化と爛熟の世相bbそれらはやがて来るフランス革命を前に狂おしく燃えさかる時代の残り火。映画の最後に語られる登場人物たちのその後の人生こそ時代に翻弄される人間の儚さ,脆さを訴えてやまぬ。★★★★ |
| 青春は少年の日から始まる。12歳半では,いかにも頼りない青春だが,大人の女性を恋した瞬間から,少年の心は青春の扉を開ける。そして大人へと成長するのだ。 眩しい太陽の光に包まれ,紺碧の海に抱かれ,シチリア島の小さな村でレナート(ジュゼッペ・スルファーノ)少年は元気いっぱい育っていた。それまでは半ズボンでも気にしなかったが,その村に嫁いできたマレーナ(モニカ・ベルッチ)に一目惚れすることで,早く大人の仲間入りがしたかった。父のズボンをちょろまかし,丈を詰めてはこうとして見つかったときは,ぼこぼこに殴られながら「長ズボンがはきたいよー」と泣きわめいた。戦争はレナートの愛するマレーナの運命さえ変えた。夫(ルチアーノ・フェデリコ)は新婚早々兵隊に取られ,マレーナの美貌に目の色を変え欲望の対象でしか見ない男共,遥かな羨望の眼差しで見つつ反感を抱く女共は,ただひたすら夫を待って耐え忍ぶ彼女に対し,仮借ない中傷の陰口を叩く。「あんな女を男がほっとくはずがない」「出征した亭主の留守に浮気してるに違いない」と,聞くに堪えない雑言はレナートの耳にも届く。「あの人を守らねば」という思いに焦るものの,子どもの身に何ができるか。恋慕の余りマレーナの家に忍び込み,盗んだ下着の匂いをかぎながらベッドも壊れんばかりの自慰にふける有り様だ。やがてマレーナに夫戦死の悲報が届き,たったひとりの身内である父は空襲で死ぬ。マレーナは悲劇のどん底だ。そうなると鵜の目鷹の目,男たちの言い寄る情況はなおあからさまになる。ある日,たまたまマレーナ宅を訪れた歯科医と,後をつけた歯科医の妻との刃傷沙汰に発展,孤立無援のマレーナは裁判で争う羽目に。「美しいことは罪か」とかなんとか,マレーナに邪恋を抱く弁護士の肩入れでやっと裁判は勝ち取ったものの,卑怯卑劣,「俺の弁護士代を体で払え」とマレーナを組み敷く。こんなことがあってからしばらく後,マレーナは一人生きていくため,夜の女に身を落とす。そして祖国イタリアはいち早く破れ,めまぐるしい戦局の変化のなか,ドイツ軍が統治したりアメリカ軍に代わったり。「ナチやアメ公とまで夜毎日毎遊ばれている」という噂に,レナートの妄想は最悪となって失神。母は悪魔払いに躍起となるが,父には「男になってこい」とマレーナのいる女の館に送り出される。生まれて初めて男となる夜の相手が,あんなにも憧れた心の女神,マレーナ。「初めて?」「ううん,想像で何度もしてるよ」……運命の痛々しさに俺は泣けた。やがて終戦,同時にマレーナにはさらに苛酷な運命が待つ。そしてレナートはそのときどう行動したか……。ああ,ほんとうは全部紹介してしまいたいのを抑えるのが精一杯だ。 前作『海の上のピアニスト』ではいささか寓話に過ぎたきらいのトルナトーレ監督,本作では一挙に本領発揮した。最後につぎの言葉を紹介しよう。 bbこの映画を観た人に,映画館を去ってからこんなことを考えて欲しい。“私もこんなにも誰かに愛されたことがあったのだろうか。しかもそんなことがあったと,全く気付かないまま……”(ジュゼッペ・トルナトーレ)★★★★★ |
| 朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰛(いわし)の/大漁だ。/浜は祭りのようだけど/海のなかでは/何万の/鰛のとむらい/するだろう。(『大漁』) 35年前,『日本童謡集』(岩波文庫)に載ったこの詩が,のちに児童文学者となる人の目に止まったことが,金子みすゞの名を広く大衆に知らしめるきっかけになった。 その詩にながれる豊かな心は,人間の対極にある小さな命,か弱き命にも軽んずることのできない,尊いものが宿っているbbそのことを,めくるめく日本の自然情景のなかに叙情あふれる詩空間として描き出したことにある。 このように金子みすゞの詩は,常人がなにげなく見過ごしてきたことがら,生物や自然に対して,その詩を読んだときに「ハッ」と気づかされたり,ときには「グサリ」と胸をえぐられるような刺激と衝撃をふくんだもので,単に童謡といった範疇にくくれない奧の深さをもっているということを,佐藤忠男氏も解説のなかで書いてあった。 監督は『地雷を踏んだらサヨウナラ』の五十嵐匠。ほかに,おなじ日本人のベトナム従軍カメラマンを主役にした『SAWADA』というのもあるそうだから,よほど実在の人物に焦点を当てるのが好きなのだろう。 『地雷−』はCSで放映されたのを観たが,いつも平和ボケといわれて朝鮮戦争でも,ベトナム戦争でも対岸の火事どころか,どさくさにまぎれて火事場どろぼうをしてきたような日本が,こういう形のベトナム戦争との関わりを描く「手」があったのかと,作品の出来,不出来よりもその発想に感心したものである。同様の試みをした日本の監督を知らないので,そういう見識のなさにも,いまの日本映画が発展しないわけがある。ハリウッド映画のものまねや,ホラー映画でお茶をにごしてきただけなのだ。 15歳のときに叔母が死亡。未亡人であった母・ミチ(永島暎子)がその後妻として上山松蔵(中村嘉葎雄)に嫁ぎ,しばらくは兄,兄嫁と仙崎で暮らすが,大正12年,母のいる下関に移る。そこで書店を営む松蔵のはからいで,商品館という小さな書店をまかされた。店番をしながら書物を読みまくり,それに刺激を受けつつ,自身も詩作に没頭,いつしか投稿を繰り返す。ここからみすゞの詩人生が始まる。 封建的家父長制に支配された時代,独特のやさしさを他者を見つめる目と詩の心に託しつつ,自らの幸福には積極的になれず,意にそわぬ結婚に流されつつ,ついには死を選ぶ人生。しかしそこまでの彼女をささえ,数々の名作を生み続けた「力」は,ひとえに「創作に対する無上の喜び」であろう。常に閉塞され,圧迫された現実のなかでも,みすゞの心と頭のなかでは,俗人には見えない命の躍動が魚として,鳥として,虫や草花や土くれ,石ころのたぐいにまで姿を変えて見えていたことだろう。それを映画なんだから映像で観たかった。和紙の上に活字文字の筆字をならべただけでは,印刷物としての詩集となんら変わりない。奇をてらわないということでは,あのような小津調,端然とした描き方でもいいんだろうけどね,俺には不満だ。 ただ一言,主役の田中美里の好演は褒めたい。★★★ |
| 当ホームも「5日ごと更新」を無事完遂できそうだ。そうなると毎回取り上げる新作映画も74本になる計算だったが,特集企画に甘えたポカが多かったようで,このままでは目標の本数には達しない。誰に頼まれたわけでも,強制されたわけでもないが,約束は約束,この際所期の目標を達すべく残りの日数かけてダッシュしよう,そう思って立てた企画が「歳末駆け足シネマ鑑賞」,その第1弾が本作だ。 ジャンルは問わない,なんでもござれ,ホラーと喜劇と恋愛とヤクザとミュージカル以外ならなんでも(?)歓迎。日本映画もかつてなく面白くなったし,全体にいい映画が増えてきたのは事実。癒し系映画が多いということは,「9・11」以降殺伐とした世界の動きと無関係ではなく,その反動とあればいい時代ではないともいえるのだが……。ともかく短期間に数見たとしてもハズレは少ないはず。 それでは、映画の紹介といこう。 オランダはロッテルダムを舞台に,そこに本社を置く多国籍投資銀行のセキュリティ・エージェント,ケビン(スキート・ウーリッチ)。めでたく昇進が決まった夜,ホテルのベルボーイに扮した何者かに,自分の面前で恋人ロザリンド(キャサリン・ラング)を殺される。犯人を取り逃がしたうえ,恋人は自分の腕のなかで言葉もなく冷たくなっていった。ロザリンドの仕事内容をしつこく訊く警察やインターポール。単身犯人を追いつめると誓ったケビンは,学資やなにかで父亡きあとの面倒をみてもらい,公私とも信頼を寄せる会社会長から,ロザリンドが油田をめぐる取引でマネーロンダリングに関わり,ライバル社から脅されていたと知って驚く。闇の金を動かし,浄化するビジネス。だから命をなくす危険も多い。どうやら死んだロザリンドには多くの謎があったようだ。と,目の前でこんどは会長までが銃撃された。この場は間一髪,ケビンの機転で事なきを得たものの,二転,三転,話は謎をはらんで迷走し,真相を秘めたコンピューターディスクの発見によって,争奪戦アクションへと転回される。 とにかく全編凄いスピード感だ。これはMTV(ミュージックビデオ系)出身監督にありがちなパターンなのだが,映像の順序がちぐはぐなのは主人公の心の混乱を表わすからいいとしても,フィルムの早回しまでしてつなげるというのはいかがなものか。50のロートルにはついて行けん。 とはいえ,これは「愛の真実探し」であると同時に,主人公の「自分探しの旅」を描いた映画でもあろう。邦題名どおりブルーを基調にした映像の合い間合い間に,恋人ロザリンドとの在りし日の回想─そこだけノーマルだから目の覚めるような効果─がはさまれ,恋人への疑念にくじけかけるケビンを叱咤激励しているようにも感じられる。人はどこまで恋人を信じ,どこまで愛し切ることができるのか。そんなことさえ考えさせてくれる映画でもある。そしてケビンとロザリンドがたどりついた愛の帰着点とは……。 寒い! いや,映画ではなく,これを上映した映画館。映画館は概して寒いということだが,いくらお客が少ないといって暖房費をケチるな。ああ,ブルブルブル。★★★ |
| 若いころにはポール・モーリアやレーモン・ルフェーブルのムードミュージックをよく聴いたが,コンチネンタル・タンゴも好きなジャンルで,アレフレッド・ハウゼが奏でる「碧空」や「黒い瞳」とともに,繰り返し聴いたのはなんといっても「真珠採りのタンゴ」である。 主題曲の「耳に残るは君の歌声」は,そっくりそのまま,タンゴにもなったビゼーの「真珠採り」をベースにしており,ここではテノール歌手の熱唱が物語の随所で効果的に使われている。そう,この映画の主人公は音楽であるといっても過言ではない。 凍てつくロシアの大地。ユダヤ人の少女フィゲレ(クローディア・ランダー=デューク)は,父と祖母と貧しいながらも幸せに暮らしていた。その耳にはいつも,父の歌う子守唄がやさしい旋律を奏でていた。しかしユダヤ人迫害が激しくなり,父は村の男たちと共に一足先に新天地,アメリカをめざして旅だった。苛酷な運命は幼いフィゲレを襲う。暴徒の焼き討ち,祖母との別れ,一人になった少女がたどりついたのは,言葉も通じないイギリスだった。 耳に残るは父が聴かせた子守唄。心を閉じた少女の口から出た歌声は,その場にいた教師の胸を打つ。「イディッシュ語を捨てなさい,イギリス人として生きていくためには」かつて同様に言語を奪われた教師は,厳しく戒め,たくましく生き抜くチエを説く。国を追われ,名前も言葉も奪われた少女は,しかし歌声を手に入れ人々を感動させる。 成長したスージー(クリスティーナ・リッチ)は,父の写真と祖母からもらった金貨を胸に父親探しの旅に出る。コーラスガールの一員となるや,パリでダンサーをするローラ(ケイト・ブランシェット)と親しくなり,とあるオペラ団の花形歌手ダンテ(ジョン・タトゥーロ)をも知る。ダンテの歌う「真珠採り」に懐かしい父の面影がダブり,いつしかその歌声に魅せられる。オペラ団には,ジプシー青年チェーザー(ジョニー・デップ)もいた。哀しみをたたえた物憂い顔。そこには差別され,迫害されてきたさすらいの民の歴史と運命が刻まれている。チェーザーの出現で,ダンテへの憧れは失せた。富と名声にとり憑かれたダンテは,ジプシーへの差別心をむき出しにしたからだ。 やがてドイツがポーランドに侵攻,戦火はパリにも及ぶ。ナチによる迫害の嵐は,チェーザーらの上に情け容赦なく降りかかり,ユダヤ人であるスージーも身の危険を感じる。一度はダンテと恋仲になったローラだが,ナチに友だちであるスージーまでも密告され,みずから訣別を果たす。そしてスージーと二人ニューヨーク行きの船に乗る。だが,その船めがけてドイツ軍の爆撃機が飛来する……。 ジョニー・デップは『スリーピー・ホロウ』以来のクリスティーナ・リッチとの共演だが,本作といい『ショコラ』といい,いつもいい役回りだ。そしてケイト・ブランシェット,その時代の女に成りきって超一級の役者ぶり! 国境を超えて歌い継がれた音楽を通し,国籍と民族の隔たりを憂い,圧制と戦禍に裂かれる人間の運命に思いを致す。ああ,この世界観,この主題の広がり!★★★★ |
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母子家庭の母親に置き去りされた子どもたちの東京砂漠を描いた『誰も知らない』を最後として、1年4か月映画館から遠ざかっていた。以来ひさびさに観た映画が本作である。 [追記]掲載した完成原稿をあとから訂正したり、追補をくわえるほどみっともないことはありません。しかし、わたくしごとき拙い文章にせよ、そのことで読者なり周囲に多少なりとも影響をあたえるなら、一個人の恥だの外聞ですむことではありません。
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| 一陣の風とともに砂漠をわたる,ランブルファ将軍(ユー・ロングァン)以下蒙古軍騎士団。そのなかには囚われの明国の姫プヨン(芙蓉)(チャン・ツィイー)が乗る輿も見える。「蒙古軍から姫を奪う!」血気にはやるチェ将軍(チュ・ジンモ)に,下級武士団をひきいる沈着・知略の隊正チンリプ(アン・ソンギ)がいさめる。「目的は高麗への帰還では?」「姫を届ければ,南京城に堂々と入れる」 高麗国では,このところ悪化した明国との関係修復のため使臣をつかわしたが,その目的はことごとく失敗。チェひきいる龍虎軍も不名誉な疑いをかけられ,一度は明の役人に捕まった。所期の目的に再挑戦しようというのだ。 正面突破で攻勢をかけるチェ。指揮下にはきのうまで奴隷の身だった,槍の達人ヨソル(チョン・ウソン)もいて,龍虎軍にとって彼の活躍は百人力だった。さらに,弓の名手チンリプの見事な奇襲戦法。開巻早々,めまぐるしい活劇で龍虎軍はみごとプヨン姫奪還に成功するが,手傷のまま情けをかけられ命拾いしたランブルファの復讐の一念から,執拗な追撃を受け,不利な戦いを強いられる――。 とにかくもの凄い剣戟の連続で,かつてこれほど豪壮なチャンバラ映画を見たことがない。そこで使われる武器自体大ぶりにできていて,斬る,突く,払う,叩く,叩いたあとで潰すという豪快さに,リアルな悲愴感までプラスされる。手は飛ぶ,首も飛ぶで,痛さがずーんと伝わる。たけし版『座頭市』も痛かったが,それより数倍痛い。 それにしても,プヨン姫のわがままぶりはなんとしたことか。追っ手がそこまで来ているというのに,相変わらず輿に乗せて運ばせる傍若無人ぶり。それだけでも足手まといなのに,蒙古軍の殺戮をのがれてきた明の農民たちを,「わたしの国の民だから」と同行を命じてはばからない。 このプヨン演じるチャン・ツィイーといえば,『グリーン・デスティニー』以来,ハリウッド映画『ラッシュアワー2』,最新作『HERO』と,勝ち気なお転婆侠女役,冷酷無情な女殺し屋役,剣の達人でもある嫉妬狂いの侍女役と,こわーい娘役がすっかり板についた感じ。デビュー作『初恋のきた道』の初々しさ,可憐さはどこにいったのだろう。 こんな馬鹿女のため命を賭ける価値があるかといえばいえなくもない。だが,砂漠の蜃気楼の彼方から現れた美貌の姫の姿は,長の道中の果ての挫折に疲弊しきった男たちに喝を与えたのだった。プヨン姫に生きる意味を,死ぬ意味を見つけたといってよい。それはまた,蒙古軍の殺戮を逃れた農民たちもおなじだった。「お前のために息子が死んだ」「だいじな亭主を返せ」と,チェ将軍らに逆らってまで姫を蒙古軍に差し出せと毒づく百姓たちも,海岸線に建つ土城での攻防戦では,全員一丸となって戦列に加わる。 その苛烈さ,壮烈さ見るやよし。子どもをかばい,若者をかばい,年寄りや女までが必死不死の決意を秘め,津波のごとく襲う蒙古軍を迎え撃つ。最期に生き残るのは誰? 男たち一人一人のカッコ良さにはうっとりするほどだが,その白眉はなんといってもヨソル役チョン・ウソン。 これはもう全女性必見の映画といえるだろう。★★★★ |
| 漫画の神様・手塚治虫の,これは往年も往年,古典的名作の堂々たるアニメ化である。それもCGをうまく採り入れ,繰り返し見たくなるような美しいアニメに仕上げている。日本のアニメが世界一の水準に達しているという評価は,なるほどこれを見てもうなずける。『もののけ姫』のジブリアニメだけが日本を代表するアニメではない。 時は未来bb。巨大都市国家メトロポリスでは,富裕な階級は地上にそそりたつ摩天楼の都会に生き,繁栄から取り残された貧しい階級はいくつものゾーンに分かれた地下世界に生きていた。有力者・レッド公が建てた富と権力の象徴,超高層ビル「ジグラット」の完成に人々が湧きたつ頃,臓器売買と生体実験の罪に問われているロートン博士を追って,探偵・ヒゲオヤジと彼の甥・ケンイチ少年が,ロボット刑事を案内役につけてやってきた。実は,ロートン博士は,レッド公の世界制覇の野望を助け,人々の現人神(あらひとがみ)にすべく高性能ロボット・ティマを開発中だった。しかし,レッド公の息子・ロックはロボットが権力の座に就くなど反対で,それどころか,ロボットの進出で職場を奪われた人々の怒りを背景に,地上からロボットをせん滅せよという過激テロ組織・マルドゥク党のリーダーでもあった。地下世界に足を踏み入れたケンイチが出会った美しい少女こそ,ロックの破壊を逃れたティマだった。そのティマをめぐって,地上と地下,二つの世界を行き来しながら,手塚ワールドが展開される。 『メトロポリス』といえば,ドイツが生んだSF古典の名作『メトロポリス』を思い出す。地上世界に君臨する時の権力者は,地下の労働者階級も意のままにしようと,人造人間・マリアを誕生させ,マリアによって人々をマインドコントロールする。このマリアの造形美が素晴らしく,『スター・ウォーズ』など,マリアをまねたものはいくつかの映画に受け継がれているというが,本作の原作『メトロポリス』もその点を指摘された。しかし,マリア誕生シーンのスチールを人造人間・ミッチイ(映画ではティマ)のヒントにしたこと,語感の良さからタイトルを借りたこと以外,映画自体見ていないので内容的には何も関係がないと手塚氏は語っているとのこと。実際,マリアは権力者の手先とバレると,人々から追われたあげく焼かれてしまうが,本作のティマに対するケンイチの気持ちは断然違っていた。ティマがなんであれ命を賭けて元のティマに戻ってくれと,ひるまずめげず奮戦する。その一途さに泣けた。アニメで泣けたのは実に『風の谷のナウシカ』以来だ。 手塚治虫亡きあとの手塚アニメでがっかりしたのは,『劇場版ブラック・ジャック』だ。実写で同様のテーマを扱ったものがあり,アニメにする題材ではなかったと思うし,絵のタッチや動きにも違和感が感じられた。しかし,今度の後継者はいい仕事をした。大先輩の原作を大幅に変えながら,それでいて手塚漫画のエキスはしっかりと盛り込み,真髄を伝えている。その大胆にして繊細な仕事ぶりは,ただ,恩師の遺稿を当たり障りなくなぞっただけの『雨あがる』には,はるかに差をつけている。 ★★★★★ |
| デパートのエレベーターで,とある母親に順番を譲られ,そのあと連れの幼子にかけた言葉を聞いた。「さあ,オジチャンに道を開けてあげましょうね」。この歳で「おニイさん」と言われたいと思うほど図々しくはない。むしろ,「早くオジイチャンと呼ばれたいな」と思ったのは,あながち開き直りばかりではない。俺は今でも気持ちは若いつもりだし,いつまでも心の若さだけは自分から手放すつもりはない。 『初恋のきた道』はモノクロ場面の「今」で包んであるものの,カラーで描かれる部分はあくまでも40年前,18歳だった母と20歳の父の初恋話である。だが本作は同じ初恋でも,その恋の挫折が逆に50年後という今によみがえる。原題は「INNOCENCE」(純潔,純真)。老人同士の恋愛劇に一見逆説めいた表現だが,むしろそれは違う。 70歳に手が届こうとするクレア(ジュリア・ブレイク)に,初恋の相手アンドレアス(チャールズ・ティングウェル)から再会を求める手紙がくる。音楽家を目指す彼の父親は二人の結婚に反対し続け,彼はその父親に逆らえずクレアから離れたのだった。病身の妻を30年前に亡くし,アンドレアスの身に堪えきれない寂しさが訪れたのか。しかしクレアは女学生のような心に戻り,思い出の駅に降り立つとすぐアンドレアスの胸に飛び込み,思い出のベンチに並ぶと周囲の目も気にせず若い恋人同士のように戯れる。こう書くと「焼けボックイに火が点いた」関係と単純に思われがちだが,二人はそれだけ切実だったのだ。2度目に会ったその夜に体を許し合うが,カメラは老人同士のセックスにも決して目を逸らさない。それが嫌らしくも汚らしくもない。映像の中でもたびたび若い頃の二人がカットバックされるように,クレアの心は今も昔のまま純粋なのだ。 こういう直視の仕方をどこかで見たと思った。あのときは主役の老女が老いさらばえたヌードを堂々とさらした。監督の名にも覚えがあったが,まさか『ある老女の物語』のポール・コックスとは解説書を読むまで気づかなかった。前作はガンで死期真近い老女が,地域の訪問看護婦との交流を通し人間らしい最期の生を貫くという話。これはそのとき演じた女優が実際ガンにかかっていたということから別の意味でも感動した。多くの味わい深い作品があるはずなのに,日本公開がただの2作のみとは寂しい限りだ。 クレアは夫ジョンに打ち明けるが相手にされない。ジョンはある時期から仕事以外頭になく,この20年間一度もセックスがない,ということもクレアには不満だ。その夫が告白が事実と知るや嫉妬に駆られ,逆にストーカーのようにつけ回して邪魔をする始末。「なぜ,今までほっといたの」と夫をなじり,「なぜ,あのとき無理にでも奪わなかったの」と過去の恋人を責めるクレア。クレアとて夫から離れることもできず,二人のあいだで揺れる。 二人をやさしく見守る息子や娘の描き方にも嘘っぽさはないが,やがて訪れるその愛の終局は衝撃的で感動的だ。 老醜,老残などという言葉を誰が作ったのか。「死が近づくほどに愛はより本物になる」とアンドレアスも言っている。あんな風に愛が貫けたら最高の人生だ。★★★★ |
| 『模倣犯』に山崎努が出ている。山崎といえば作品を選ぶ役者だ。宮部みゆき原作というのにも興味を引かれた。さて,観に行こうと思ったら,ちょっと前の朝日新聞夕刊の映画評が目についた。評者は,あの『パール・ハーバー』を,「やくたいもない駄作」とこきおろした秋山登氏。「(監督)森田の才気空転,独り相撲に」の見出しが踊る。だが,自らの目で確かめるにしくはなく映画館へ走った。 山崎努演ずるは下町の豆腐屋ののれんを守る実直一途の親父。夫に浮気されてるらしい情緒不安定な娘は母親失格,自室にこもってテレビ漬けの毎日だ。代わりに山崎からは可愛いい孫娘となる女性が,家事やら炊事やら黙々とこなす。この役者はなんというのか,実に可愛いい,そんなことを深く考えるゆとりもなく,この娘は忽然と姿を消す。10カ月後bb。隅田川べりから女物のハンドバッグと切断された片腕が発見され,テレビの生ワイドショーに犯人を名乗る男から電話が入る。ボイスチェンジャーで声を変え,「腕は別人だがバッグは失踪女性のもの」と伝えた。まもなく山崎の孫娘の死体が発見され,テレビを通しての犯人の挑戦はますますエスカレートし,「インターネットを通じて僕の犯罪を送信する」とまで断言した。 昔は,こういう犯罪はなかった。罪を憎んで人を憎まず,その憎むべき犯罪にも動機があった。貧しさのため,悲惨な過去を知られたくないため,あるいはわずかの過失を隠すため,小さなウソの積み重ねが大きな犯罪の引き金になる筋書きは清張モノの定番でもあった。だからそんな犯罪小説には泪と哀しみの余韻が深くともなった。しかし本作に登場する犯罪者は,不気味で腹立たしいかぎりだ。 日本中が殺人ライブ映像に釘付けになっている頃,警察がマークした男が死ぬ交通事故が起き,事件は謎のまま幕引きされたかに思われた。だが物語中盤のそこから映画は犯人の視点となり,犯人の実像をも明らかにする。彼らは神にでもなった気で,ゲーム感覚で犯罪を楽しんでいた。「つまらない命も,僕たちの犯罪の犠牲者としてクローズアップされることにより,価値を生む」という犯人の驕りは許せない。そして犯罪心理学者と称する男がテレビに登場,いまだ生きている真犯人を示唆して物議をかもす。こうして映画は真犯人と山崎らの対決へと流れる。 「アナログ意識を棄て,デジタルになれば僕たちは無臭」と,完全犯罪を確信する犯人。対する被害者たちは豆腐屋の親父であり,畳職人であり,そば屋主人という古風な日本調。アナログ対デジタルという構図は,朝日評のいうように図式的に過ぎるが,昨今の犯罪全般が図式的で意識としての実態が希薄なのだからしかたない。デジタル(技術万能)ではない,心に還れという訴えは切実すぎて笑えない。 不思議と黒澤映画を憶い出した。山崎努といえば,『天国と地獄』の誘拐犯。それが今回は犯人に翻弄され,脅迫電話を受けて警察の逆探知に協力する市井の善人役。そのおなじ山崎が犯人から託された赤ん坊を引き受け,抱きあげるラストシーンも,『羅生門』での“救済”に通じる。 社会派推理映画も,ずいぶんと様変わりした。★★★★ |
| 幼いころ田舎の家で,どうしても近づきたくない部屋があった。その部屋というのは壁にモナリザの絵が貼ってあり,子供心に気持ち悪かったためなのだ。モナリザの絵を怪奇仕立てにするのは,「学校の怪談」シリーズのなかにもあったように記憶する。世界的な名画も多くの子供の眼には不気味に映るということだろう。 今度の映画はアニメだ。そしてお化けの話だ。 アニメといっても,1コマ1コマ動かしてつなげる昔の人形アニメに,最新3D(立体)・CG技術を合体したものだから,好き嫌いは別れるだろう。しかし,この内容なら手法のちがいなど問題にならない。とにかくおもしろいし,楽しい! この世には,お化けの世界と子どもの世界をつなげる扉が存在して,それが子ども部屋の扉だったり,子ども部屋のなかのクローゼットだったり。その扉を開けて,夜な夜なお化けが顔を出して子どもをびっくりさせる。そしてその悲鳴を集めたものがお化けランドのエネルギー源になる。お化けランドはいま,エネルギー危機に見舞われているのだ。そこで,お化けランドにある企業,モンスターズ社では,悲鳴集めのエリートを人間界に派遣して,子どもの悲鳴の収集に躍起となる。 したがって人間界に降りて,子どもを脅しまくって怖がらせる話と思いきや,とんでもない。ここに登場するギョロ目ボディのマイクや,雪男ぬいぐるみのような体のサリーは,びっくりする子どもの顔にびっくりしてひっくり返り,ドジをして飛んで帰るようなあわて者。というより,お化けランド自体憎めないどころか,かわいい存在だ。なにしろ,このお化けたちが一番怖がっり,有毒だと信じている存在は人間の子ども。だからお化けランドの鉄則では子どもや,その子どもの持ち物を持ち込むことすら厳しく禁じているのだ。悲鳴集めをして帰ったお化けが,その体に子どもが身につけたものでも付けて帰ろうものなら,非常事態宣言でレスキュー隊が繰り出し,放射能汚染されたような大パニックになる。 そんなお化けランドに,ブーという子どもが紛れ込んできたから,さあ大変。上を下へのてんやわんや,蜂の巣を突いたような大騒ぎになる。このブーのキャラクターの可愛いいこと可愛いいこと。予告編で見たとき,ブーの可愛いさに釣られて,ぜったいこの映画は観たいと思っていた。ディズニー映画のキャラは嫌いだが,この映画は『トイ・ストーリー』などのピクサーによるものだから,キャラにディズニー色は皆無なのだ。でなければディズニー嫌いの俺か観るものか。 とにかく抱腹絶倒,超絶痛快。なにやらお化けランドにも人間界にあるような企業社会のしがらみやら陰謀やらが渦巻き,ブーを巻き込んでからは,俄然人間くさい展開を見せる。やがてブーを人間界に戻すため,サリーとマイクは獅子奮迅の大活躍。無数にある窓のなかから,ただ一つの窓を探しての脱出劇は,これこそジェットローラーコースター活劇の醍醐味十分。もう,サイコーです!★★★★ |