大阪大学創作人形劇団"せせくらせ"の成り立ち
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ESS時代

 最初は昭和43年にESS入学した進入部員を対象に、前年度人形劇をESSで行った今は亡き中村氏が新入生を勧誘し、英語での人形劇を行ったのがはじまりです。

 秋の文化祭でESSで行った人形劇は英語版「竹取物語」です。



 その後、ESSでは最後の公演を確か12月だったと思いますが、ESS内部の催しで影絵「マツチ売りの少女」を行いました。手法はそれまでの影絵とまったく逆に、大きな箱を作りその中に照明を入れて、背景は黒、又はカラーで、人物はカラーでという新しい実験でした。

同好会設立の経緯

 翌年昭和44年の春頃に、英語での人形劇の限界に突き当たった中村氏が同好会の設立を決意し、中津氏と福嶋氏に打診し、その協力の意を得、同好会の設立に至った次第です。まずは中村氏と中津氏が活動を始め新入生の勧誘を勧め、ESSの要職にあった福嶋氏は遅れて、業務を山本氏に譲り同好会に合流しました。その後山本氏もESSを離れ同好会に入会しました。この時点で人形劇は中村氏、影絵は中津氏、対外外渉・マネージメント、及びアニメ・映画その他、例えばブラックライト劇等の新しいものへの挑戦は福嶋氏の体制が整いました。
 (ただ余談ですが、当時でも劇・影絵・アニメ等の制作に、一つあたり10万、いやそれ以上の費用がかかり、部費ではとても賄えず、創始者3名のアルバイト収入に頼っていたことはあまり知られていないことです。)
 そしてすぐに同好会の設立に動きましたが、44年中にESSからの合流組と新入生で20名ほどの新入部員を得、やっと同好会の体をなしてきました。

第一回公演

 同好会としての第1回目の公演は、昭和44年の秋の学園祭でした。出し物は「オズの魔法使い」でした。
 脚本は堤田氏が書き、演出は中村氏が行いました。

関連パンフレット1

関連パンフレット2

主題歌

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作詞 堤田泰三
作曲 福嶋和佳
歌  大見洋子
   福嶋和佳

部室造り

 同好会の申請を出し、初めはサークル棟の一部で他のサークルとの共存でした。そのため練習をするにもスペースが足りず、その頃サークル棟の裏に2つほどの同好会が違法建築を行っていましたので私達もそれに見習って独自で部室を建てた次第です。みんなで材木を買ってきて、基礎のコンクリートを打ってなんとか仕上げました。その後アニメなどを作るのにスペースが足らなくなり増築工事も行いました。しかし台風の時などは心配で大丈夫か確認に風雨の中を何人かがのぞきに来ていました。
 電気は最初はサークル棟から引いていたのですが、照明などを沢山使用するためにしょっちゅうブレーカーが飛んでしまうので、勇気ある者が電信柱によじ登り電線から直に引き込んでしまいました。

始めての巡回公演

 昭和45年の夏に始めての巡回公演を行いました。場所は能登半島で、安くて旨いものをいっぱい食べれて楽しかった記憶があります。定期航路の無いところを漁船で送ってもらったり、また機材を運ぶのに地元の人がトラクターで運んでくれたり(バスも無かった)、ある民宿のお寺で某氏が酔って住職と喧嘩をしたりなどの記憶が残っています。

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始めての会場公演

 "せせくらせ"として始めて会場公演を行ったのは翌年昭和46年の6月6日でした。初めてにしては頑張って豊中市民会館の大ホールを借りて、午前10時、午後1時半、午後5時の3回公演を行い、約3千名ほどの観客を集めました。
 出し物は人形劇で宮沢賢治原作の「どんぐりとやまねこ」、影絵の「そんごくう」、ブラックライト劇の「まほうのえんぴつ」、そして中村氏構成の影絵「うたうシルエット」でした。影絵は幅15メートルほどの大画面で行いました。かなり冒険でしたけれどそれなりの評価を得、大阪での"せせくらせ"の地位を築きました。

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写真右 
在りし日の
中村氏 

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2回目の巡回公演

 2回目の巡回公演は会場公演と同じ年、昭和46年の夏に行いました。場所は島根県の隠岐ノ島でフェリーで渡り、後は歩くか、漁船に乗るかして公演を続けました。
 またここでは現在のカップルのいくつかが生まれました。(余談?)

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その他の活動

 その他、春休みには近くの幼稚園を廻ったり、学園祭では学生会館で公演を行ったりしました。
 また以前の大人協(大阪人形劇団協議会)の催しでも公演しましたり、"せせくらせ"が主体となり、昔の中之島の松下会館(阪大の大ホール)で大人協の全体公演を行ったりしました。

残念なこと

 ただ一番残念なのは阪神大震災の前年つまり平成6年の終わりに、部の本来の創始者である中村氏が、誰も知らぬ間に亡くなったことです。地震の後、仁川霊園へお参りに多くのメンバーが行きましたが、なんともいたたまれない気持ちでした。

(1999年1月 福嶋和佳 記)

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