駅伝にまつわる不思議な縁
鶴田 章二

師走の都大路で開かれた全国高校駅伝は、鹿児島の神村学園が4位、鹿児島実業が8位と鹿児島県勢初のダブル入賞となった。郷土勢の活躍に皆さんもテレビに釘付になったと思う。

わが母校、諫早高校も女子が6位、男子が16位と健闘した。

実は諫早高校の監督は指宿高校出身の松元利弘さんである。

松元さんは鹿児島県下一周駅伝で指宿チームのエースとして活躍した。

この駅伝は奄美群島の本土復帰を記念して始まった市郡対抗駅伝で、県内12チームが参加、5日間で県内を駆け巡る大会である。

松元さんが高校3年生の時、昭和50年の大会で初日の一区を走った。

当時、指宿チームは下位を低迷していたが、坂之上の第一中継点で松元さんがトップで

タスキを渡した。この日、取材していた私は「指宿チームがトップだ」と驚きながら昼のニュースを出したのを覚えている。

松元さんはその後、実業団を経て順天堂大学に進学、箱根駅伝でも活躍した。

各校のエースが競う花の二区を松元さんは四回走っている。そのうち三回、当時注目され

ていた早稲田の瀬古利彦選手と競った。タイムは瀬古選手に及ばなかったが、松元選手は順位を上げるなどチームに貢献、四年間で優勝二回・準優勝を二回している。

当時、長崎県は九州一周駅伝で毎年八位と低迷し、エイトマンと皮肉られた。それを脱するため松元さんを指導者兼選手として招いたのである。

その初任地がなんと県立諫早高校。進学校のため陸上部は数人しかおらず、駅伝チームなどとても作れない。きっとショックを受けたに違いない。

しかし、松元さんはあきらめなかった。持ち前の情熱で諫早高校を全国有数の駅伝校に育て上げたのだ。女子は全国高校駅伝に15年連続16回出場し、優勝2回、準優勝1回、3位が3回の成績を残している。また男子は10年連続12回出場している。

そんな中、とつぜん悲劇が襲った。

5年前の4月20日未明、自宅兼女子寮が炎上したのだ。

原因はテンプラ鍋の加熱だった。深夜、生徒のために遠足の弁当を作っていた奥さんが、

疲れてつい居眠りしてしまった。

気が付いた時は鍋から炎が上がっていた。

幸い生徒に怪我はなかったが、優勝メダルや汗がしみこんだタスキ、ゴールを切ったテープなど思い出の品々が全て灰と化した。

これを長崎放送が番組にし、JNN九州ブロックの共同制作番組「窓をあけて九州」で放送。タイトルは「燃えたメダル」だった。

責任を感じて打ちひしがれた奥さん、焼け跡を必死に探したが、何も見つからなかったと嘆く生徒の姿があった。

これを自宅のテレビで見た私は、松元先生に電話した。

メダルは金メダルが4個、銀や銅メダルなど合わせて8個のメダルが焼失していた。

何とか複製できないものか。駅伝を主催している京都高体連や毎日新聞大阪本社、そして

メダルを作った大阪の時計店へ電話を掛けた。

複製は原則として認めないが、今回は火事という特別な理由で許可された。

しかし、メダルは毎年デザインを変えており、以前の型枠が残っているか分からないという。

折り返し大阪へ電話すると、幸いにも型枠が残っていた。

メダルの複製は大会史上初めてだったが、皆さんの協力をえて作ることができ感謝している。

経費は13回生の会費でまかない、贈呈は同窓会幹事の今里眞吾君や武富勝郎君がしてくれた。

取材は、お世話になった毎日新聞、テレビ番組を制作した長崎放送、そして地元紙の長崎新聞にお願いした。

翌日、長崎新聞は「メダル復活」と写真入りの四段記事で取り上げてくれた。(下部記事参照

長崎放送からは社長のお礼状とオンエアテープが届いた。

この一連のことを振り返ると、駅伝にまつわる何か不思議な縁というものを感じている。

松元先生や生徒たちは、駅伝で勝つことが支援してくれた人達への恩返しだと言って、毎日、練習に励んでいると言う。

「これは今年2月、以前勤めていた会社の社友会の会報に書いたものを一部加筆したものです」

参考資料:毎日新聞、読売新聞、南日本新聞

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