◎この文章は、「新宿歴史博物館紀要・創刊号」
の「曾宮一念氏インタビュー・奥原哲志」の一部
で、この中で曾宮氏は、野田半三と中村彜の出
会い…等について、当時を振り返りながら述べ
ています。
「中村彜を絵の道に導いた人に、野田半三と言う人がいました。
彼は中村が絵描きになるについては重要な人物でしてね。野田
と中村は早稲田中学で同級でした。鶴田吾郎も同級だったそう
です。彼らは第6回卒業です。私は13回卒業ですから7年くらい
下になります。ただ鶴田は2年くらいで辞めてます。中村も幼年
学校(陸軍名古屋地方幼年学校)へ行くんでやっぱり2年で辞め
てる。野田は牛込に住んでいました。野田の家はなにをしてたん
だか、昔からの旧家らしいですね。そこの三番目の人だと思うけ
ど、大変いい人ですよ。在学中に水彩画家を志して淀橋の柏木
にいた三宅克巳に入門しました。」
「話がそれますが、私が水彩画を描くので、私の父が三宅さんに
交渉して、淀橋小学校・早稲田中学校と一緒だった一戸と、三宅
さんのところに行ったんです。そしたら、私たち子供はまるで食い
つけそうもない大先生でしてね。たぶん日曜だったと思うんですが、
5人ばかり集まって三宅先生が絵の批評をしてましたよ。その中
の一人に野田がいたんです。彼は三宅の弟子になって、第2回の
文展に通っています。.(明治41年、第二回文部省展覧回に水彩
画「郊外」で入選)牛込あたりのお堀を描いた水彩画でしたけど、
文展に入っているんだからたいしたもんです。これがまた人間がい
い人でね。クリスチャンではありましたけれど、いわゆるクリスチャ
ンらしいところがよそには見えない人でね。ああいうのが本当のク
リスチャンなんでしょうねえ。」
「それで中村も牛込にいたし、野田も牛込にいたんで、中村が幼年
学校を退学してから、牛込で二人会ったわけだ。もともと二人は早稲
田中学の同級でしたからね。それで野田が中村に、絵のほうの導き
をしたわけですね。中村はきっと絵を描きたかったんでしょう。どうせ
幼年学校を辞めたんですから。野田のほうは鉛筆・水彩で描くには、
相当の腕がありましたからね。で、二人で絵を描く。その時分の中村
の描いた、早い話が野田のマネをしたスケッチブックがありましてね。
これが僕の初めてのスケッチブックだよって、私に見せたんですがね。
あんな勉強家で、しかも天才と言われる中村の初めてのスケッチブッ
クってのは、はなはだヘタなもんで、(笑)、二人で笑いましたよ。それ
が、どうしましたかねえ、彼が死んだ時いろんな方に遺品を分けたん
ですが、そのスケッチブックも、誰かのとこへ行ったんでしょうね。あれ
なんか残ってりゃ、新宿博物館のお宝になったでしょうにね。惜しいこ
としましたよ。」
「そういうわけで、野田半三は中村にとって大変重要な人物です。去
年の11月に常葉で曾宮を中心として、友人たちを含む展覧会があった
んですが、(静岡・常葉美術館「近代洋画の青春展」1990.10.21〜11.
18)その時に野田の旧作を並べて(「神田上水」新宿博物館蔵)相当
皆さんが覚えてくれてね、私も大変嬉しかったですよ。野田はよかった
んです。実力があるし。僕は美術学校にビリから3番で入っているんで
すが、彼は美術学校を首席で出てるんですよ。実力があったけど、人間
があんまり地味すぎてね。僕の絵のようなインチキ性を持ってないから
(笑)、持ってないからそういう点では非常に損してる人です。しかし、
中村の同輩であるんですけれども、ある意味では、中村の先生というよ
うな立場にいた人です。これは覚えてやっていい人です。」
「それで、おもしろいエピソードがひとつありましてね。野田が三宅さん
のところへ時々行ってた時分のことなんですが、当時三宅ってのは水彩
画家として、素人の間に非常に名が売れていたんですね。中村も、三宅
の評判を野田からも聞いてたろうし、世間でも三宅っていうと、もう水彩
画の第一人者だった。そんなことで中村はね、三宅のところへ一種のラ
ブレターを出したんですって。私は先生に私淑しているとかなんとか言う
ような。僕もそんなの多少貰ったことありますがね、そういった手紙でしょ
う。そしたら野田が行った時にね、三宅が「こんな手紙が来たよ、君の友
達だろう。こういう奴に限ってダメなんだ」って言ったそうだ(笑)。これは
書いてもそんな悪いことじゃないでしょ、私のヨタ話のひとつ。本当です、
野田から聞いたの・・・。」
この文章を読むと当時、野田半三の周辺で
どのような画家が活躍していたかが、あらた
めて認識できます。また日本の近代の美術
史(洋画史)の中で陰ながら多くの人々(画
家たち)に影響を与えた画家野田半三の画
業と人格があらためてよく解ります。