桐生城(檜杓山城)

 
所在地群馬県桐生市梅田町。桐生駅の北東4.4Kmで、鳴神山から南に延びる尾根の支尾根で、桐生川の谷あいにある標高361mの「城山」の頂上部。
構造比高210mの「城山」の頂上を本丸とし、そこから北西に連なる尾根に二の丸と三の丸を堀切と竪堀で独立させて配置し、3つの郭にはそれぞれ腰郭、武者溜りを持っている。麓の小谷戸からの登路の中程に「坂中郭」を有する山城。
築城観応元年(正平5、1350)、桐生国綱が築く。元亀3年(1572)、由良成繁がこれを手に入れ、大改修して居住した。
城主ほか桐生国綱・・豊綱・・正綱・・重綱、真綱、助綱、親綱、由良成繁、国繁
その他 足利持氏が永享の乱で滅んだ後、その遺児を奉じて結城氏朝らの起こした戦いに桐生正綱の弟正俊が参陣し、穂積原の合戦で負傷した。
 1455年、享徳の乱に桐生氏の名代谷近綱出陣し、五十子で討死。
 永正12年(1515)、真綱が桐生氏を継ぎ、古河公方政氏に属した。
 永禄3年(1560)、上杉謙信の関東出馬には、助綱がこれに従った。
 永禄9年(1566)頃、助綱は由良成繁にすすめられ、古河公方義氏に属した。
 元亀3年(1572)、由良成繁の急襲により桐生城は落ち、親綱は佐野に逃れた。その後、成繁は金山城を子国繁に譲って桐生に移り住んだ。
 天正12年(1584)、国繁と弟長尾顕長は北条の謀略により、小田原に抑留され、果ては金山・館林を棄てて桐生・足利に移らざるを得なかった。
 天正18年(1590)の小田原の役に由良国繁は小田原城に籠城を強要されたが、母妙印尼は孫貞繁を助け、松井田の前田利家に参陣し、各地に転戦した。

縄張り「日本城郭大系」より2012/03/18 歩行図
桐生国綱が神木として献上したと伝わる日枝神社のクスノキ日枝神社内のルート図
中腹の坂中郭同左
城山頂上・本丸の城址碑本丸西直下の腰郭
二の丸・三の丸間の堀切小谷戸集落からの桐生城

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