これは、一般にいう、感想とか、批評とかいうほどのものではありません。
ただ、私が、それを見ていたときに、何を考えてたかっていうことを、ちょっと書き残して
おこうかと思っただけなんです。

まぁ、ものによっては、ものすごい何様気分で能書きをタレていることもありますし、
思考がまわりまわってしまい、見ていたものと「全然、関係ないやんかー!」ってこともあります(笑)。

あくまでも、「貧乏が思った」というだけのことですので、それ以上でもそれ以下でもありません。
人の思考なんて、十人十色。違って当然。賛否両論。差し引きチャラ。そのへんを充分考慮にいれて
読んで下さいね。

by 貧乏


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<キャンディード>

2001年6月22日〜7月8日
於:東京国際フォーラムCホール(他、名古屋7月14日〜15日・大阪公演7月20日〜21日)

さてさて、なんだかんだと話題の多いこの作品。
いかがでしたか?

私は、石井さんの初タイトルロールということで、なみなみならぬ思い入れを持っていました。
読書感想文の「僕はいかにして指揮者になったか」というところでも書いたと思いますが、当初、私は
初日のチケットを譲ろうと思ってたんですね。
でも、チラチラとTVや記事等で目に付いた石井さんの頑張りと、指揮者の佐渡さんが書かれた上記の本を
読んで、「やっぱり観に行っとこう!」と考え直し、初日を含めて、私にしてはかなり少な目ですが、3回ほど
拝見させていただきました。

もう一度、繰り返させていただきますが、これはあくまでも貧乏が思ったというだけのこと。
コレをご覧になっている方と、感想は違って当然。

私のお気に入りである某HPの作者のPちゃんが、人の感想を読むときには、必ず、最後に
「と、○○さんは思った」と付け加えるようにすると良いのではないかと言っていました。
すごく良い提案だと思います。
そうすることによって、しょせんは"人様の意見"というのが明確になり、必要以上にヘコんだり、
エキサイトすることもなくなるのではないでしょうか。

私は、今、感想マニアなので、よろしければ、掲示板orメールで、You の意見を聞かせてください。

せっかく掲示板等にカキコしてくださったのに、消えてしまうのは勿体無いので、すでに、いくつかの意見を
掲示板から拾って、『みなさまのご意見』として掲載させていただいております。あわせてお楽しみ下さい。


まずは、初日を見た感想から、徐々に記憶を呼び覚ましていこうかと思います。

初日、劇場で配られたアンケートに私が書いたのは、確か、「思考の先回りをされるのは好きじゃない」
だったと思う。これは、あのミニチュアセットに対する嫌悪感を、オブラートに包んだ言い方である。

私は、自他ともに認める、剥製&ミニチュアセット嫌い協会の緑町支部長である(^^;;)
ことの発端は、「ローマの休日」の初演。
あの脱輪する不気味な犬と、北川さん(警察署長)の「イタリアーーーーーーーーーーーーーー♪」と
伸ばす歌声に合わせて、羽をパタパタさせる屋根の上のアホウ鳥、そしてディズニーランドを650万倍
ショボくした、くるくるまわるローマの建造物が目に焼きついてしまい、それがトラウマ(?)になってる。
その症状は、エリザベートの鹿でますます悪化し、風共のワニにいたっては、もう・・・・・・(^^;;)

で、だ。

キャンディードの作品中でよく出てくる、状況説明っぽい、ミニチュア達は必要なんだろうか?

ジャングル。
あんなチャチなものを出せば、よけいジャングルのイメージを狭めないだろうか。
私は、あのジャングルに、沖縄ののどかなサトウキビ畑を想像してしまったのだが・・・。

スペイン
あの建物は、スペインのなんの建物なんだろうか。
その後、フラメンコもどきをするので、充分スペインの雰囲気はでるだろうし、バーンスタインの音符達も
スペインを醸し出しているのに、アレあえて出したのよね。きっと。
うーーん、意図&効果を知りたい。

火山、エルドラドのピラミッド(これは羊を入れるためだろうが、もっと工夫のしようがあったんじゃない?)
他、いろいろありましたよね。

あ、もしかして!
後で、このことにはふれるつもりですが、聞くところによると、亜門さん、あえて、いろいろな演目を確信犯的
にパクったらしいんですね。どうも。
ということは、このミニチュア自体が、ローマの休日のパクリ(というか風刺)か?だとしたら、納得。
ジャングルは、ライオンキングも少々入ってる?うーん。
ま、いいや。

とにかく、私は、自分の頭の中で、ある程度想像したいのに、あれじゃぁ余白に注意書きを書き込まれてる
みたいで、ちょっと、イヤかも。

特に、嫌悪感を覚えてしまったのは、船。
女の人が出てきてゆらゆら揺らした挙句、ポキって折ってしまう船。
あの時の嵐の音楽、すごくいいんですよね。
さすがバーンスタインって私は思ったんですが、みなさまいかがでした?

あれって、目をつぶって、音だけ聞いてても、想像が広がる音で、自分なりの最悪の沈没シーンをイメージ
しかけてたのに、ミニチュアの船が出てきたら、スケールがひゅるるるるるるって音を立てて小さくなって
しまって、音楽と均衡がとれなくなってしまったのでした。
音楽と、役者の動きと、セットの工夫で、イメージが広がるならまだしも、小さくなるっていうのは、いままでの
演劇には、あまりないので、確かに、斬新かもしれないけどね・・・(オイオイ・・・^^;;)。

最初のウエストフェリアの絵もね。
あれも、絵が降りてきたとたん、私の想像した「この世の楽園のような美しい国」が、ガラガラと魔法がとける
ように普通のスケールになってしまうの。
これね、ヴォルテールの原作を読んでた時のほうが、スケールのでかい想像ができちゃうんですよ。わたし的に。
普通のスケールの土地に想像がおいてきぼりになっていると、最後キャンディードが帰ろうとする意味がいま
ひとつしっくりこなくなっちゃうんだなぁ。

逆説的に、当時は、全て良いほうに考えていたので特別な土地に思えたけど、本当は普通の土地で、普通の
土地だからこそ、あえて、そこへ帰ろうとするのかもしれないけど、だとしたら、なおさら、最初は、特別な土地と
いうイメージをもたせるような工夫をするべきではなかったのかと思ってしまう。
あくまでもキャンディードと一緒に、ステキな国と思っていればいいわけで、そこで普通の土地を掲げて、
結末で各々で気がつけばいいことを(または、そこに気が付かなくてもいいと思うし)先回りして示唆する
必要性が"効果"という点を含んで考えてみても、あったのかどうか、私には疑問です。

そういうちょっとづつのイメージのズレの蓄積で、私はキャンディードと一緒に旅に出られなくなってしまうん
だろうなぁ。ていうか、旅にはお供してるけど、見るもの感じるもの思考の過程等が、追体験できないのだろう。

そう、ミニチュアという補足説明が、"私の"思考にとっては逆効果だったと。
小さくしてしまうんですよ。イメージを。

私ね、あの、大きなセットは好きなんですね。
確かに、会場の座る位置によっては、ものすごく見切れてしまって、工夫の余地ありありなセットだとも思い
ますけど、世界観とか、善悪とか、人生とか、人間的な思想を思うとき、考える枠を大きく保ってくれるし、逆に、
人間の思考など及ばない、おおいなるものを感じるような、そうだなぁ、例えて言うならプラネタリウム的な印象を
受けて、気に入ってるの。
それ故に、あんなたくさんのミニチュアにお金をかけるんだったら、あの大きなセットを今以上に工夫のある
ものに作り上げて欲しかったです。

ただ「もっと工夫を!」というのでは無責任なので「こういう案はどう?」というのをちょっと考えてみたんですけど・・・。

<案その1>まず、セットの後ろ壁面の部分に地球というか地図が書いてありますよね?
あれが、動いたり、プラネタリウムを見てるみたいに輝いたりしたらステキじゃないですか?

例えば、ジャングルで、「ここはどこだ?」というときに、そっと、何かがまたたいていたり、あれだけたくさんの土地
にいくんだからそれにあわせて、地図がゆっくり回り、結局、最後にまたウエストフェリアに帰ってきて一周とか。
最後にキャンディードがいろいろなことに絶望しかかって、農夫のおじいさんのところに行くじゃないですか?
あの時も、背景が降るような星達の優しいまたたきでいっぱいになったりしたら、「人はかわってしまう」という
言葉と普遍的な天空との対比に、無言の何かが伝わるような気がするんですが。

<案その2>あの傾斜部分を動く歩道にするとか。

ジャングルで、ぐるぐる回るところって、中心部分にクネゴンデ達がいて、そこはそこで、演技部分があるでしょ。
あそこ、クネゴンデ達中心は退屈(=停滞)、キャンディード達外周は生死の境(=激動)ですよね?
その2つのコントラストを同時に見せてしまうという発想には、賛成!!なのですが、今のままでは、お互いに
相乗効果というより打ち消しあっている気がしてならないんですね。
視覚的に、中心を見せてる間は外周が手薄で、外周にポイントがあるときは、中心はただ座っているだけって
いうのに打ち消し要素の1つがあると考えたんですが・・・。

で、中心の状況&出来事は、亜門さんの手腕で、もうすこし観客に何かが伝わるようにしていただいて、その
邪魔にならないようにキャンディード&カカンボを動かす為に、外周を動く歩道化する。しかも、自動的に、進ませる
んじゃなくて、逆回転(笑)。
そうです。ものすごーーーーーく、一所懸命走らないと、演技自体が成り立たない状況に追い込んでしまう。
何周もまわらなくても大変さは、今以上に伝わるんじゃないでしょうか。
今でもキャンディード&カカンボは頑張ってます。それは認めた上での提案です。
これは、もはや、演技とは言えず(^^;;)、友人にこの案を話したら、「役者がもたないでしょう。昼夜公演もあるし・・・」と
言われたんですけど(^^;;)、役者は、一種肉体労働だし、そんなことで自滅するヤワな体力ではないと私は思ってて
(ヤワじゃない人を選べばいいんだし)、その大変さの上で、きっちり演技をしている役者がいたとしたら、観客的に、
ものすごく心が動かされるし、臨場感も増すのではないかと思うんですよねぇ。
(リアルさが演技の最上級と思っているわけではないですよ)

いかがでしょう?
みなさんも、こんなアイディアどう?というのがあれば、ぜひぜひお聞かせください。


2回目の観劇アンケートで記入したことは(あははは・・・私はアンケート好きなんです^^;;)、キャンディードとクネゴンデの
デュエットの違和感と、出演人数の多さへの疑問でした。

これは、音的には、やはり、オペラのまんまの歌い方(良い悪い、好き嫌いは別として)のクネゴンデ嬢と、ミュージカルの
中にいても一種独特な、ポップス的歌い方で、比較的ハーモニー調整に工夫を必要とする感のあるキャンディード氏の
ミックス具合が、しっくりこなかったと言う人は、多いのではないでしょうか?

私は、アンケートマニアで、自分の感想を書くのが好きですが、同時に、感想マニアなので、人の感想を聞くのも大好きで、
この点については、かなりな人数の人に聞きましたが、今現在で、「違和感はない」と言う人は、一人。
その彼女は、確か、東京初日当初は、「ちょっとね」と言っていたので、日を追って、二人の音的調整ができてきて、私の
聞いたハーモニーより進化しているのかもしれないので、そうだとすると、再演が楽しみです。
 ※ この場合「あまり気にならなかった」というのは「違和感なし」には含まれていません。だって「ちょっとは気になった」
   わけでしょ(笑)

この組み合わせ、個々の声の色、艶、強弱、音の振幅、表情、仕草等々、すべておしなべて、オーディションしたのでしょう
から、「デュエット」に関しての観客の感想の統計は、制作側は真剣に受け止めるべきじゃないかと思います。

ここで私が言いたいのは、クネゴンデちゃんの歌詞が聞き取りづらいとか、キャンディードくんが音符にふりまわされてるとか、
批判してるのではなく、むしろ、クネゴンデちゃんとキャンディードくんの責任より、この組み合わせのシュミレーションの甘さを
指摘したいだけですので。
決して、この組み合わせが悪い!失敗だ!といっているのではなく、この組み合わせで制作しようと思ったのなら、この素材
を使って、どのように料理し、私達観客に何を感じさせたいのか、バーンスタインの音符たちとどのように向き合わせて、
どうのような世界を作ろうと思ったのか、そちらがわだけで完結しないで、私達にも教えて(伝えて)欲しいだけなの。
この二人のデュエットって、この作品の構築部分で非常に大事だと思うのでね。

例えば、最初のほうで、二人で実験するあたりで歌うでしょ。(ウエストフェリアを追放になるキッカケのあたり)
あの歌詞、キャンディードは、意外と現実的で、小さい幸せに感謝しながら一緒に暮らしていこうみたいなことを歌っていて、
クネゴンデは派手な生活の夢を追っていると記憶してるんですが。そもそも、二人は、歌詞の上でかみあってないんですよね。
それを強調したいのであれば、むしろ、ハーモニーがかみ合ってないほうが効果的になる可能性も考えられなくもないし・・・。
ま、こんな、揚げ足とりで、感想をこねくりまわす観客ばかりではないので、これでいいのかもしれないけど。

あと、出演者、多いですよね。クネゴンデちゃん達3人を一人とみなしても47人(子供含む)でしょ。
これ、宝塚なみにいますよね?あのエルドラドの場面のピラミッドも、人間ピラミッドで、もっと立派なの作れそうなくらい(笑)
これだけいれば、いろんなことできますよね。スケールだって、すごく大きくつくれる。・・・はず。
だけど、どの場面をとってみても、スケールの大きさって、そんなに感じなかったです。私は。
ていうか、私のイメージでここは大人数で演じて欲しいところは思ったより少なくて、ここはいいんじゃ?というところにワサワサ
と人が沸いている印象をうけました。(これはあくまでも、私が感じたことなので。)

最後の群唱(っていうの?賛美歌みたいに聞こえたキレイな合唱)の為に大人数そろえたの?と思ってしまう。
もしかしたらそうなのかもしれないなぁ。確かに、あれはわたし的に気に入りました。

でも、私、亜門さんのダンサー的発想の演出が気に入っているので(ていうかそこが亜門さんのウリだと私は勝手に思ってるので)
あれだけの人数がいれば、亜門さん得意のショー的部分がもっとみられて楽しめるはずなのにぃ!っていう思いが強いです。
勿論、踊れる方ばかりではないでしょう。でも、歌(=声)だけで、オーディションをパスした方ばかりでもないはず。
大人数の効果を意識したのが、あの最後のところだけだったのが、いかにも勿体無いという印象を受けました。


私は、東京千秋楽(7月8日)で、初演キャンディードは見納めでした。
ここでのアンケートは(^^;;)、やはり、スタンディングのことを書きました。

それは、初日から思っていたことで、わたし的に、とてもやるせない気持ちでいたので、それに追い討ちを
かけるような楽の印象を、正直に書かせていただきました。

山口版エリザベートの初演時の東京公演千秋楽での印象を書いた隠しページ(本当に隠れてます^^;;)を
読まれた方は、あらかた見当がついてるかもしれませんが、私は、スタンディングに対して、自分なりに、
かなり意固地な思い入れがあるんですね。

一人では良い舞台はつくれない。
その作品にかかわった人たち全員がその作品に対して愛情をそそいで、過不足ナシに誠意を持って、
向き合った時に素晴らしいものができると信じてるんですね。

で、だ。
スタンディング。

いますよね?
ある人のところで、思いっきりたったと思ったら、次の人のところで、何故か座る人。
これは、個々の感覚の問題なので、もしかしたら、そのことを指摘するわたしのほうが、間違っているのかも
しれないけど、それでも私はそういう光景を見ると、やるせなくって、哀しくなってしまう。
他のHPでも、この件については目にしてますが、本当に、いくら素晴らしい方でも、一人でブラボーな舞台を
つくれるわけない!と思う。例えば、自分のご贔屓役者さんが、すごい演技をして、いつになく感動した場合、
そのご贔屓さんをもりたててくれたまわりの方も、同時に賞賛に値すべきだと思うんですよ。

それはそれで、そういうスタンディングもあるんだね。と思って、頭を切り替えられればいいんでしょうが、私はそれが
できなくて、イスの上で脱力して、ものすごーーーくブルーになっちゃうんです。

初日、楽は、ある程度、ご祝儀的な部分もありますし、まわりが立ってしまって、舞台が見られないので立つという
人も中にはいると思いますが、私は、そこが偏屈者たる所以で(^^;;;)、今までスタンディングしてきたいくつもの作品を
裏切るようで、どうしても立つことはできないんです。
でも、その感覚は、キャンディードという作品に対する、私なりの誠意だと思ってます。

勿論、自分が気に入って、ノリノリスタンディングをした場合は、そんな自己アピール的スタンディングな人が例え
まわりにいても、全然気づかず、無意識に立って、ただただ一所懸命拍手してるでしょうから、そういう意味でも、
"今回"のキャンディードは、わたし的にスタンディングまではいかなかった作品なのでしょう。
でも、すごく、今後に期待してるんです。
いつのキャンディードで、スタンディングするのか自分でも楽しみです。

佐渡さん関係のHPにご本人がカキコしていらっしゃったんですが、
(詳しい記述を見たい場合はココ のキャンディードのワークショップのYSさんのコメントを参照)
>僕にとってはまだ第一歩。
>問題もまだまだありすぎるし、課題も多い。
>必ず、いつか、またキャンディードで再会しましょう。
という記述を発見。本当に、本当に、嬉しかったです。

制作側が「まだまだこれから」と言っている以上、私達観客も、目を、心を、感覚を磨いて、受けてたってやろうじゃ
ありませんか(笑)
またいつの日か、進化したキャンディードと再会できる日を楽しみに待つことにしましょう♪


総合的にみて。

そうですねぇ・・・バーンスタインの音符の影響力、主張はすごいと感じました。
というか、わたしにしてみれば、バーンスタインの音符もピンクの羊1匹も同じ扱い。同レベルの「素材」
なんですね。
ましてや、演技と歌は同レベルだし、あんなに上記でケナしたミニチュアのセットも、舞台効果上選択した
のであれば、そのスペインのミニチュアと石井さんという役者も同レベルの素材。
と同時に、音を1つはずすのと、セリフをひとつ間違えるのでは、全く同レベルのイメージの崩壊なんです。

が、制作側、演者さん、観客のみなさん、それぞれ違った比重なのかぁと思うところが多々ありました。
私は特に、言葉マニア(日本語マニア)なのでそう感じたのかもしれませんが、セリフが比較的軽視されて
いた感は否めません。

どちらがいいとか、悪いとか言うつもりは毛頭ありませんが、バーンスタインが作曲家として、音と真剣に
向き合ったのがわかるだけに、他の分野の人々も、同じ情熱で、それぞれの分野と向き合わなくっちゃねと、
漠然と思いましたし、だからといって、バーンスタインの音を必要以上に特別待遇にすることはないと思います。
バーンスタインが音符に向き合ったのと同じ情熱で、キャンディードという作品に向きあった人の意見であれば、
バーンスタインの主張が時には通らない状況も起こりえるわけで、たとえそれが結果的にマズかったとしても、
それはそれで進化の過程と考えて、勇気をもって試行錯誤するべきだと思うのですが。いかがでしょう。

今のところ、ずいぶん、足枷が多いような気がするのは、私の気のせいでしょうか。

私がしらないだけで、勿論、みなさん、真剣にそれぞれの分野で向き合っているとは思います。
思いますけど、わたし的には、あえて、今以上のものを望みたいです。
それだけ、キャンディードに、期待してるんです。

この音楽と、原作と、指揮者と、演出家と、演者と、奏者と、「日本」という環境があるのですから、ぜひぜひ、
全世界にひっぱりだこになるくらいの「ジャパニーズバージョン」を作っていただきたいですよね。

Go!Go!サクラスピリッツ

2001.08.12


まだ、メモをみると、書き足したいところはありますが、それはまた、今度、気が向いた時にでも。
長々と、読んでいただきありがとうございました。

・・・それにしても、私って何様・・・(^^;;;;)

みなさまの感想も、ぜひぜひ、お聞かせください。