武田太郎について

正式名は武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ) 1538年〜1567年

太郎というだけあって、信玄の長男。母は正室三条夫人(跡を継いだ勝頼とは異母兄弟)。
13歳の時元服。15歳で今川義元の娘と政略結婚。
初陣は17歳。(下伊那攻略への参戦) 
それ以後、信玄に従って信州各地を転戦し、武田家総領としての活躍を示した。
特に、1561年9月の川中島合戦では一隊を率い目覚しい働きをみせ、信玄もご満悦であった。

が、今川義元が桶狭間で信長の奇襲を受け討死した直後の信玄による対今川政策の転換が
親子の間に軋轢を生むことになる。

義信との不和が表面化するのを恐れた信玄が、義信付きの老将飯富兵部少輔虎昌ら主だった
家臣を処刑、妻である今川の姫は送り返され、義信自身も東光寺に幽閉。
ついに、1567年10月19日、30歳の若さで自害して果てた。
(一説よると病死とも言われているが、私としては、自害説を採用したい。)

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知らなかった。
私は、また、信玄の子だけど、総領の甚六とでもいうのか、戦をあまり得意とせず、数えるくらいの
参戦で、あっさり討死してしまったのだとばっかり思っていた。
ごめんよ太郎。

どうやら意志も技量もある、立派な将だったようだ。
でも、さすがに、信玄公と仲たがいしただけあって、信玄まつりでの立場は地味で目立たず、
おかげさまで、よそ者達が受け持つには、うってつけの隊となった。
ありがとう太郎。


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