HOME
TOP

 


作者名:みのたうろ



「ぬぅぅうんッッ!!」

 俺が放つ渾身の一撃も、奴には通用しない。
 目の前にいる熊はどんなにダメージを与えても効果が無く、怯みもせずに肉薄してくる。
 右周りにステップする。
 常にサイドに回りこんでいなければ、パワーで押し込まれてしまう。
 けっ、馬鹿みたいにタフな野郎だ。
 思いっきり舌打ちをしたいが、そんな事で呼吸を乱したら一瞬にして殺されるのがわかるので、歯軋りする。
 俺、ニコライ・ハンは仲間のノク・エイスと一緒に薬草探しをしてきて遅くなった帰り道、この熊に遭遇してしまった。
 しかも、ただの熊ではない。
 人から熊に変身する、ワーベアという奴である。
 特別な魔法がかけられた武器か、銀でできた武器でなければこいつに傷を負わせる事は出来ない。通常の武器ではどんなに攻撃しても、瞬時に傷を回復させる怪物だ。
 あいにく、俺のセスタスやトンファーは銀製でもなければ魔法もかけられてない。
 こんな奴は相手にしない方がいいのは、わかりきっているのだが……

「ノク! とっとと逃げろ! お前が残ってたら俺も逃げられないだろうがッッ!!」
「駄目だよ! そんなの、絶対駄目!!」

 俺の後ろにいる小柄の少女、ノクは何かに急かされるように効きもしない矢を撃ち続ける。
 どうも、このノクという奴は熊に嫌な思い出があるらしく、それに関わると周りが見えなくなるらしい。俺よりも魔物に関する知識があるくせに、こいつがライカンスロープというのに気づいていない。
 熊に幾つか矢は刺さるものの、すぐさま矢が抜け落ちてしまう。おそらく、傷が埋まるのと筋肉の収縮で抜けてしまうのだろう。当然、奴に傷は残らない。

「グォオオオォ!」

 再び雄叫びを上げて、俺にその巨大な腕を振り下ろしてくる。

「チィ!!」

 俺は何とかトンファーを十字に構え、それを受ける。
 いい加減疲労も溜まってきて、完全に避けるのも難しくなってきやがった。そう何回も受けれるほど、こいつの攻撃はヤワではない。

「舐めるなァッ!!」

 がら空きの脇腹に、トンファーの一撃。
 ごり、
 骨の軋む音が伝わる。
 それと同時に俺は、左足の靴に仕込んだ刃を地面に引っ掛けて取り出す。

「せりャッッ!!」

 上段回し、一閃。
 殺った!
 完璧な軌道を描いて、刃は奴の首を大きく切り裂いた。しかし……

「……何てこったい」

 思わずぼやく。
 奴は全くそれが無かったかのように、俺に突撃してくる。
 よく見れば、奴の首からはほとんど出血が無い。
 あの傷を瞬時に再生したのかよ……やってられねぇな、ったく。
 俺が舌打ちを打つ間もなく、奴の突進は俺を捉える。

「ガッ!!」

 息が、詰まる。
 ガードには成功したが、吹っ飛ばされ、衝撃が内臓に響く。

「ぐッ!! ゲホッ! ゲホッ!」

 地面を転がりながら、むせる。

「ハンさん!!」

 視界の片隅で、ノクが俺に駆け寄ってくるのを見る。
 あの、馬鹿ッ!!
 ワーベアも、それを確認したのか、目標をノクに変えて接近してくる。

「オオオォォォォオッッ!!!」

 雄叫びを上げる。
 痺れた体を無理矢理動かす。
 間に合え!

「!!!」

 ノクも熊の接近に気づいたらしく、俺の傍で体を硬直させる。
 その恐怖で青ざめた顔が、とても可哀そうだった。

「ノクッ!!」

 俺はタックルの要領で、ノクに組み付き、そのまま横に飛ぶ。
 瞬間、俺の脇腹の中を熱い物が通り過ぎる。

「……あ……れ…?」

 おかしいな?
 下半身がビチョビチョに濡れているみたいだ、水溜りなんて無いのに。

「ハンさん!! ハンさん!! しっかりして!!」

 あれ?
 何で、ノクがこんなに泣きそうな顔をしてるんだ?
 嫌だなぁ、まるで俺が悪い事したみたいじゃないか。
 笑ってて欲しいな、俺って結構ノクの笑顔って好きなんだよね、本人の前で言うの恥ずかしいけど。
 熊がのっしのっしと歩いてくる。
ノクは熊が嫌いなんだから寄ってくるなよな。

「…に……げ…ろ」

 口に水でも溜まってたのかなぁ?
 何だか、物凄く喋りにくい。
 ノクは泣き顔で首をぶんぶん横に振る。
 馬鹿、お前滅茶苦茶熊嫌いだろ、とっとと逃げろよ。

「……ば………か…」

 ノクに抱きしめられる。
 温かい。
 眠くなってきた。
 ちょっとくらい寝てても良いよな、今日は疲れた……
 視界の隅で、俺は、月明かりに照らされた真っ白な獣を見た気がした。

 妙な夢を見た。
 登場人物は俺の知らない狩人と、狼達と、白い毛並みの狼。
 白い狼は狩人が好きで、狩人も白い狼が好きで、狼達は白い狼に従っていた。
 彼らは争う事も無く、森の恵みを分かち合っていた。
 しかし、ある時を境に狩人が狂った。
 原因はある病、人を怪物にする、恐ろしい病。
 狂った狩人は狼達を皆殺しにする。
 突然の出来事に、何の抵抗も出来ないまま群れは根絶やしにされた。
 だが、白い狼だけは生き残る。
 純白の毛並みを涙で濡らして、狼は吼える。
 仲間の仇を討つ為、狼は大好きだった狩人に戦いを挑む。
 勝ち目の無い戦いを……
 これは、そんな救いようの無く、決着は見えているけど、まだ決着がついていない話らしい。
 白い狼は俺に似ていると思った。
 きっと、奴は死に際を間違えたのだと思ってるのだろう。
仲間の為に死ねず、命をかけて狩人を止める事が出来ず、全てを失った。
 そして、残ったのは復讐と言う、暗い感情の絞りカスだけ。
 自分の事のように、よくわかる。
 俺も目の前で親父を殺されて、生き残った時、死に際を間違えたと思っている。
 親父が首の骨をへし折られて、俺が同じ技で絞め落とされた時、俺は意地とか誇りとか全てを捨てて命乞いをしようとした。
 だが、絞め落とされて意識を失った。
 それで死んだのならまだ良かった。
 何を間違ったか生き残ってしまい、家族も、信じてきた物も、自信も、意地も、誇りも、全て失った。
 残ったのは白い狼と同じ、暗い、暗い、復讐という汚い絞りカス。
 結局俺も、白い狼も、そんなどうしようもない力で日々を生き残っている。
 何ともまぁ、先の見えない生き方だなぁ………
 自分の事を客観的に見た気がして、俺は自分の生き方をこう評価する。
 こんなお先真っ暗な人生は、他人に勧められないなぁと心底思った。

 ……熱い。
 体中の骨に火を付けられたように、内部から焼き尽くされていくような感覚。

「……ハァ………ハァ…」

 喉が渇く。
 粘つく唾液が喉につまり、呼吸も苦しい。
 水が欲しい。

「―――――」

 誰かの声が聞こえる。
 だけど、よく聞き取れない。

「―――さん」

 目を開けようとするが、まぶしくてなかなか開けられない。
 それにしても、聞き覚えのある声だ。

「ハンさん!」

 ノク!
 反射的に、俺は体を跳ね起こす。
 刹那、体に鋭い痛みが走る。

「っつう!!」
「うっひゃあ! びっくりしたぁ、ハンさん、目が覚めたんだね! 大丈夫?」

 そこには、見慣れた顔があった。短めの髪に、幼い顔立ち、農夫のような繋ぎを着込んだ少女、それは紛れもなくノク・エイスであった。
 ノクが、泣く寸前の顔でこちらを覗いている。

「……すまん」

 反射的に謝る。

「……もう、何でハンさんが謝るの? いきなり起き上がったら体に悪いよ、はい、お水」

 俺はノクから水袋を渡され、それを飲む。
 体に生気がみなぎってくるようだ、大分楽になる。
 落ち着いてきたので、自分の周りをよく観察する。
 ほとんど手入れされて無いような廃屋に、俺は運び込まれたらしい。床板も所々外れており、壁もかなりボロボロになっている。家具などに蜘蛛の巣が張ってあることから、長らく人が住んでいないことが何となく想像できる。
 それにしても、俺達はどうやって助かったのだろう?
 そうやって考えを巡らせていると、体調が悪いのかと心配したノクが俺の額に手を当てる。

「大丈夫?」

 鼓動が早まる。
 ノクの手が暖かく、柔らかい。
 あぁ、そういえば、ノクの体は柔らかそうだ。そして、良い香りがする。
 ノク、お前は何て、何て……

 ナンテ、美味ソウナ奴ナンダ

「!!!!」

 重たい体を無理矢理動かして、ノクから離れる。
 一体何だったんだ、さっきの感情は。
 頭の中にリアルなイメージが沸き起こってくる。
 ノクの首筋に噛み付く、食欲をそそる感覚、生暖かい血、柔らかい体、引き裂く、引き裂く、食らう、引きずる、そして……

「あああああぁッッ!!!」

 壁に自分の頭を打ち付ける。
 思考が一瞬止まる。
 これなら止まる、止まるならもっとしなければ。
 打ち付ける。
打ち付ける。
痛いとかそんな事より、俺は自分の湧き出た感情に恐怖していた。
 狂っちまう、いや、すでに俺は狂っているのか?

「ハンさん! 駄目だよ、そんな事したらまた傷が開いちゃう!」
「駄目だ!! 俺に近寄るなァッ!!」

 俺に駆け寄るノクを残った力で突き飛ばす。
 少々乱暴になってしまったが、ノクが俺に襲われるよりはマシだ。

「……どうしたの? ハンさん、変だよ」

 それがショックだったのか、ノクの顔が微かに歪む。

「……駄目なんだ、俺には近寄るな」

 どうにか俺のこの状態を伝えなければならない、だが、どうすればいい?
 俺はお前を殺そうとしているから、俺には近寄るなとでも言えばいいのか?
『駄目だよお嬢ちゃん、今そいつに近づくと殺されちまうよ』
 脳髄に、直接叩きかける不思議な声が鳴り響く。

「誰だ!?」

 咄嗟に俺は近くに置いてあったトンファーを拾い上げる。
 入り口と思われる扉の所に目をやると、そこには真っ白い毛並みの大きな狼がこちらを見つめていた。
 俺のその光景が滑稽だったのか、狼は口元を歪める。
 狼がそういう人間臭い表情を表し、それが読み取れるのも変な話だが、事実そうわかるのだから仕方が無い。奴は、間違いなく俺を見て冷笑していた。
 だが、この狼をどこかで見たことがあるのは、気のせいだろうか?

「待って、ハンさん! この狼さんは私達を助けてくれたの」
「……何だって?」

 俺が奴に飛びかかろうと立ち上がった所で、ノクが目の前に立つ。
 狼に助けられただって?
 何が何だか、さっぱり理解できない。

『……ふぅ、少しは命の恩人に感謝して欲しいもんだねぇ、あんたの傷も私が治したってのに』
 そうぼやきながら、狼はゆっくり俺に近づいてくる。
 そういえば、体は熱を持っていて頭も何か変だが、ワーベアに傷つけられた脇腹の傷や体中の打撲や裂傷が無い。
 俺がよく状況が把握できてないのが顔に出たのか、ノクがにこにこしながら喋りだす。

「狼さんはねぇ、凄いんだよ! 魔法を使ってハンさんの傷を治しちゃったの!」
『ちょいと精霊の力を借りただけだよ…』

 ノクの言葉に謙遜するように、狼は喋る。
 魔法を使う狼だと?
 俺は困惑しながらも、親父から聞いた一つの話を思い出した。

 純白の狼は、フェンリルの子。
 偉大な知恵を持ち、精霊の力を操る。
 道に迷った旅人を助けるだろう。
 
 とまぁ、こんな感じだった気がする。
 ようするに、俺が住んでいた村に伝わるおとぎ話で、村の守り神みたいな物だ。
 俺の右手に彫ってある狼の刺青も、この狼を模した物である。

「………フェンリルの子、純白の狼。実在していたのか」
『おや、私の事を知っているとは博識だねぇ。まぁ、本当にフェンリルの子かは私も知らないけどねぇ』

 狼は、小屋にある机の引き出しを口を使って器用に開ける。

『ここに鎮静剤が入ってる。とりあえず飲んでおきな、無いよりはマシだよ』
「ちょっと待て! お前は、俺がこうなった原因がわかるのか?」
『……わかるさ、お前も心当たりあるんだろう? 体も心も、本物の獣になっちまう病気さ』

 奴の言葉で思い出す。
 獣の姿に変身するライカンスロープは病が原因だと言う、そしてその病は、傷つけた者に感染する。
 ショックで、一瞬視界が真っ暗になる。

「……俺が、感染したってのか?」
『そうだよ、危ない所だったねぇ。あと少しでそのお嬢ちゃんを食い殺す所だったよ』
「……何てこった」

 俺が頭を抱えると、ノクが心配そうに見つめてくる。
 
 ドクン

 ただそれだけの事なのに、俺の体は異常に反応する。
 だが、さっきの言葉が尾を引いているのか、ノクは俺から一定距離を保っている。

「ねぇ、狼さん、ハンさんどうしちゃったの?」
『嬢ちゃん、今こいつは厄介な病気にかかっちまったのさ』
「……ふえ? どんな病気なの?」
『獣になっちまうのさ、まぁこの場合は熊になるのかね? ライカンスロープって聞いたこと無いかい?』
「……え?」

 瞬間、ノクの顔から血の気が失せる。
 彼女もこの病気の名前くらいは聞いた事はあるらしい。

「……ハンさん、熊になっちゃうの?」
「………すまない」

 誰に向かって言った訳では無いノクの言葉に、俺は反射的に謝る。
 いつもそうだ。
 ノクがこんなショックを受けたり、悲しんだりした時、俺は自分のせいではないのに罪悪感を覚えてしまう。

「……ハンさんは、ハンさんは悪くないよ」

 きっとノクは自分を責めている。
 こうなったのは、俺の事を守れない無力な自分のせいだと思っているだろう。
 歯痒い。
 こんな時、いつもの俺なら彼女の頭を撫でて落ち着かせてやる事も出来るのに、今の俺は彼女に触れるだけで、理性のタガが外れてしまう。
 狼が、彼女を慰めるように擦り寄る。

『嬢ちゃん、そう自分を責めなさんな。なっちまった物はしょうがないだろ?』
「……だけど、私のせいで」
『まぁまぁ、そう落ち込みなさんな。何も不治の病って訳じゃないんだ、直ぐに教会にでも連れてけば治るさ』
「本当! じゃあ、すぐに教会に行かないと!」
『………本当なら、そうしたい所だけどね。そうも行かないのさ』
 
 オオオオォォォン

 狼の遠吠えとは決定的に違う、低く、それでいて周りに響き渡る遠吠え。

「……奴か」

 どうやら、あいつを無視してこの森を抜けるのは不可能らしい。
 ゆっくりと、しかし、着実に奴はこの小屋を目指している。
 鋭い殺気を感じたせいか、耳の裏が酷く痛む。
 奴を、倒すしかない。

『私一人ならあいつを振り切れるけど、お前さん達はそうも行くまい。普通の武器が通用しないあいつに、あんた達勝てるかい?』

 狼は、そんな俺の決意を見てとったのか、疑問を投げかける。
 そうだ、奴には魔法を付与された武器か、銀製の武器でなければ明確なダメージは与えられない。または、魔法による炎や電撃などでもダメージは与えられるが、俺は魔法は使えないし、ノクは少しだけ神官魔法が使えるがそれも強力な物ではない。
 どうする?
 相当深刻な顔をしていたのか、ノクがまたも心配そうに見つめてくる。

「どうしたの?」
「いやな、あいつをどうやって仕留めようかと思ってな。あいつには普通の武器の攻撃は効かないだろ?」
「あれ? そうなの?」
「あぁ、奴には銀製の武器や魔法が付与された武器で無ければダメージは与えられないんだ。俺がどんなに殴っても効かないし、ノクが放った矢もすぐさま筋肉でひねり出されて傷が埋まっちまうんだ。お前も見てたろ?」
「……うん」
「でだ、あいにく俺のトンファーやセスタス、ブレードブーツはそんなご大層な物じゃない。おい狼、お前の魔法で奴を仕留めきれるか?」

 部屋の端で黙り込んでいた狼に、俺は唐突に声をかける。

『ハティとお呼び、坊や。結論から言うなら無理だね、多少は手傷を負わせられるだろうけど仕留めるには至らないだろうね』
「やはりそうか…」

 狼…ハティは気の無い返事を返す
ハティの言葉は俺の予想通りであった。
 もし、確実に仕留められるほどの魔法の使い手であるのなら、奴はとっくに始末されているし、俺達が襲われて助けられた時も十分に倒せただろう。
 ……打つ手無しなのか?
 一瞬、絶望が頭をよぎる。
 そうなれば、どうにかしてノクだけでも逃がさなければ。

「ハンさん、ミスリル製の武器でもあの熊を倒せるんだよね?」

 今までウンウン唸っていたノクが突然俺に話しかける。

「ん? あぁ、そうだが」
「なら、私持ってるよ」
「へ?」
 
きっと俺の顔はとてつもなく間抜けな顔をしているだろう。
 あれ?
 だって、お前の攻撃あいつに効かなかっただろう?
 よく状況を飲み込めない俺の頭は半ば混乱状態になっていた。

「ほら、これだよ」

 といって、ノクが荷物から取り出したのは、一つの彼女には不釣合いな大きさのロングボウと異様な光を放つ矢であった。
 ミスリル。
 銀に似ているが、独特の光沢を持つそれは間違いなくミスリルの物であった。
 こんな物を何処で?
 そう思ったが、直ぐにこのロングボウのことを思い出す。
 ラサー・ナヴァルカ、確かこいつの持ち主は……

「………ガインのか」
「うん、そうだよ」

 そう、このロングボウは元々俺の先輩格に当たるガインという男の持ち物であったはずである。
 ガインは、ことある毎にノクに変なちょっかいをかけていたが、気に入っているらしく以前、このロングボウを貸し与えていたのを思い出した。
 ちなみに、そんなノクに対するガインの態度を、気に入らないと思っているのは内緒である。

「実は、銀の矢とかも持ってるんだよ〜」

 そうやってノクは自慢げに、俺の前で荷物を広げる。
 だったら、何であの時使わなかったんだ?
 と一瞬思ったが、最初からライカンスロープだと気づいていなかったようだし、熊という事で相当頭に血が上っていて、最後まで気づかなかったのだろう。
 やれやれ、役立たずは俺だけかよ。

『まぁ、そうシケた顔しなさんなって。どうせお前さんには奴への壁になってもらわなきゃいけないんだからね』
「……わかっている。元より、俺はああいうタフな化け物は苦手としているからな、ここはノクとハティに任せるさ。俺は、俺の仕事をやらせてもらおう」

 それに、ノクにはこんな病気を伝染させる訳にはいかないしな。いざとなったら、ノクだけにでも逃げてもらおう。
 どうせ口に出すとノクは文句を言うだろうから、あえて言わないでおく。しかし、どうも表情に出ていたらしくこっちを不満気に見つめている。

「……無理はしないでね」
「あぁ、犬死にするつもりは毛頭無い。銀の矢を幾つか分けてくれ、弓は使えないが何かに使えるかもしれん」
「…うん」

 俺は銀製の矢をノクから数本受け取る。
 少なくとも、俺のトンファーとかよりは役に立つだろう。少しでもダメージが与えられれば注意は俺に向く。
 全く、自前の武器だけでは壁にすらならないとは、情けない限りだな。
 そう自嘲しながら、俺は自身の状態をチェックする。
 大分熱が出てきたようだ、頭がボーっとする。体にもキレが出ないだろう、少しでも気を抜くと膝の力が抜けてしまいそうだ。腹も変な倦怠感があり、ボディにもらったら一発で悶絶するだろう。
 嫌な汗が背を伝う。
 いけるのか、この体で?
 いや、やるしかあるまい。
 俺は覚悟を決めて立ち上がる。

「……討って出よう、幸か不幸か知らんが向こうからこちらに来てくれている、先に場所を取って迎え撃つぞ。ノク、先に適当な場所で待ち構えていてくれ、俺は奴の足を止める」
「……うん、わかった。ハンさんも気をつけて!」

 ノクは素早く荷を片付けると、そう言い残して小屋を後にする。
 そして、小屋には俺とハティが残された。

「……ところで、この薬はどの程度効くんだ?」

 俺はノクが出て行ったタイミングを見計らって、渡された薬を見つめながら言う。

『とりあえず、凶暴性は幾分収まるはずだよ。ただ、完治する訳じゃないから、早々に教会に行った方が良いね』
「なるほどねぇ」

 大方そんな所だとは思っていたが、気分が滅入る。ノクの前でこの事を話さないで良かったとつくづく思った。
 俺は、丸薬のそれを二粒飲む。

「……ハティ、お前も手伝ってくれるか?」
『当たり前よ、私はあいつを殺さなきゃならない理由があるからね』

 殺す理由。
 俺は、何故かそれから『復讐』という単語を連想した。
 思いついた時にはすでに口が動いていた。

「……復讐か?」
『フン、だとしたらどうするんだい?』
「……別に、どうもしないさ。ただ、そんな気がしただけだ」

 俺は、ハティの返答を待つ前に、小屋の外に出る。
 そんな俺の背中に、彼女は言葉をぶつける。

『目の前で仲間をブチ殺された気持ちが、あんたにわかるかい?』
「……わかるさ、俺は親父を殺された」

 振り返らずに、俺はそう答えた。


 突き刺すような殺気が濃度を増していく。
 向こうも、俺達を見つけたのか、足を速めて近づいてくるのが感じられる。

「ケッ、やる気満々だな」
『きっとしばらく食事取ってなかったんじゃないかね? つくづく、あんた達運が無いねぇ、お払いでも受けてきたらどうだい?』
「……うるせぇ」

 何てやり取りをしながら、俺とハティは奴の居る方角へ歩いていく。
 ノクは先周りして、奴を狙撃するのに絶好のポジションを確保しているだろう。
 弓矢での攻撃のタイミングはそんなに多くは無いはずだ、出来れば一撃で決めて欲しいが、出来なければ俺とハティだけで倒すか、もう一度射撃する隙を作り出すしかない。
 それに、射撃をミスすれば位置がばれ、ノクが攻撃を受けるかもしれない。
 防ぐには、俺が外す事が出来ないくらい致命的な隙を作るしかない。
 勝算はある。
 ただ、俺は熊に対して冷静さを失うノクの事が心配ではあったが、ここまで来たならそんな余裕も無い。

「……来たか」

 俺はトンファーを構える。
 巨体が、唸りを上げて飛び出してくる。

「オオオオオォォォォン!!!」

 ワーベア、二足歩行で襲いかかる熊の怪物は俺を見るなり早速飛び掛ってきた。
 背筋の凍るような、重たい一撃が頭を掠める。
 冷静になれ。
 集中しろ。
 自分に言い聞かせる。
 奴の右腕を潜り、がら空きの脇腹に一撃蹴りを見舞って、距離を離す。
 その合間を縫うように、ハティが爪と牙で攻撃を加える。
 俺とハティのこの攻撃では奴に傷を負わす事は出来ない、しかし、ハティが魔法で攻撃すれば、奴は魔法を警戒しハティに攻撃を集めるだろう。それでハティがやられてしまったら、当然俺一人のヤワな攻撃であの熊から隙を作り出す事は不可能だ。
 魔法を使うならば、その後ノクが射撃できるような決定的な隙を作り出さなければならない。
 ワンチャンス。
 その為にはまず、俺が奴の動きを一瞬でも止めなければならない。
 そこで畳み掛けるようにハティの魔法、ノクの射撃と繋げるのがベストだ。
 まぁ、それが一番の問題な訳だが……

「っせりャァ!」

 唸りを上げて迫る熊の腕の下を掻い潜って、俺は脇腹、金的、内股等に打撃を打ち込んでいく。
 攻撃は容易に入る。
 しかし、こちらの攻撃を全く無視して奴は仕掛けてくる。
 ハティも俺の攻撃の合間を縫って仕掛けるが、熊の反撃を恐れて今ひとつ踏み込めない。
 まぁ、どうせ効かないのだから、そこまで踏み込む必要はハティには無いのだから良いのだが。

「グオオォォォ!!」

 野獣の咆哮。
 巨大な丸太のような腕が至近距離を猛スピードで掠めていく。
 一撃一撃、神経が磨り減っていく。

「ハァ、ハァ、ッハァ!」

 苦しい。
 唾液が喉に引っ付く。
 もう疲れが来ているのか。
 ライカンスロープによる高熱も原因だろうが、何より、この一撃即ち死という緊張感が否応無く俺の体力を蝕んでいく。
 相変わらず、熊は防御お構いなしにブンブン両手を振り回してくる。
 完全に俺の攻撃に無頓着になっている。
 そろそろ、頃合か。
 俺はトンファーを捨てて、背中の矢筒から、ノクから貸してもらった銀製の矢を取り出す。
 矢を握り、一気に熊の懐に踏み込む。

 ブン

 頭の上を巨大な質量が通り抜ける。
 狙いは大腿の付け根、ここには大きな血管が通っている。

「ぬんッ!」

 気合の声と共に、力任せに突き刺し、傷口を開くために力を込めて下に引く。
 案の定、矢はその力に耐え切れず、鏃の近くで折れてしまった。
 しかし、これで良い。

「オオオオオオォォォッッ!!!」

 突然の痛みに驚いたのか、熊は無茶苦茶に暴れだす。
 まだ、終わらん!
 俺は奴の攻撃を紙一重で避けながら、渾身の力を込めて踵で押し込むように奴を蹴る。
 狙いは、先ほど鏃を埋め込んだ箇所。

「オオオオオオォォ!!」

 更なる痛みに、熊はパニック状態になり血走った目をしながら暴れる。
 大腿の血管を傷つけるのに成功したのか、傷口からかなりの量の出血が見られる。
 次に似たような手はなかなか通用しないだろうが、足を潰したのでこちらの攻撃が当て易くなった。
 後は、ゆっくり隙が出来るのを待つだけ。
次は喉にコイツを突き立ててやる。
 俺はわざと奴の制空権内に入って、挑発する。
 これで完全に奴の意識は俺へ行った。
 もっと踊って、疲れてくれよ。ここからは我慢比べだ。

「……え?」

 足がもつれる。
 一瞬俺の膝の力が抜ける。
 瞬間、横からとんでもない衝撃が襲い掛かった。

「ガハッ!」

 宙に浮く。
 自分の居場所がわからない。
 今度は地面との激突の衝撃が、背中に走る。
 どうやら、適当に地面だと思った場所が当たりだったらしい。受身には成功した。

「……っつう」

 思わず声が漏れる。
 視界が、霞む。
 突如、首筋に刃物を突きつけられたような、背筋の凍る感覚が来る。

「ぬあ!」

 痛む体を無理に動かし、横に転がる。
 頭の真上を、重たい何かが通過する。

「ハァ……ハァ…」

 呼吸をするだけで、左の脇腹が痛む。
 左腕の感覚が無い。
 頭が、異様な熱を持ち、ガンガンと痛む。
 クソ! 先に我慢しきれなかったのは俺か!
 内心、舌打ちを打つ。

「オオオオォォォ!」

 声を張り上げ、俺が残った力を集めて立ち上がった時には、奴が目の前に立っていた。
 マズイ!
 逃げようとしたが、既に遅かった。
 俺は奴の腕に抱え上げられ、抱きしめられるような形になった。
 ベア・ハッグ
 人を圧殺する、死の抱擁。
 背筋が、凍る。

「ぬあぁぁぁッ!!」

 暴れる。
 叩く。
 蹴る。
 しかし、奴はお構いなく、俺の体を締め上げる。
 ミシミシと俺の体から怖気のするような音が聞こえてくる。
 締め付けられるその力は圧倒的で、まるで大地に挟まれているようだ。
 しかし、良かった。
 こいつの攻撃がベア・ハッグで本当に良かった。
 何故なら、こいつの顔がこんなに近くにあるんだから。

「舐めるなァァッ!!」

 俺は右手に握っていた銀の矢を、奴の目に突き立てる。

「グオオオオオォォ!」

 熊は突然の激痛と、閉ざされる視界にパニックを起こしたのか、俺を拘束から解き放ち、顔を抑えて蹲る。
 出来た、決定的な隙が。

「ハティ、今だ!!」
『言われんでも! 光の精霊ウィスプよ、行け!!』

 俺がそう叫ぶのとほぼ同時に、ハティは光の精霊を呼び出し、ワーベアにぶつける。
 光の塊そのものの精霊は、奴にぶつかると同時に蓄えていたエネルギーを爆発させて、周囲を巻き込む。
 視界を潰されての突然の爆音、衝撃。
 今まで、誰にも傷つけられなかったのが、突然現れた人間にここまでボロボロにされたのだ、きっと奴は何が何だか分からなくなっているだろう。
 そして、最後の一撃が飛来してきた。

「グゥオオ!!」

 さらに予期せぬ位置から来た痛み、衝撃に、熊は喉の中で響かせるような声を出す。
 木の上で、ジっと身じろぎせず待機していたノクが熊の首を狙い撃ちしたのだ。
 威力は凄まじく、首を真横から捉えた矢は反対側に大きく貫いている。
 そして、ワーベアはその重い体重を地面に叩きつけて倒れた。

「やった!!」

 ノクは勝利を確信したのか、歓喜の声を上げて木から下りてくる。
 その時、傷ついた俺を確認したのか、熊の横を通りすぐに俺の所へ近寄ってくる。
 しかし、俺は熊の体がまだ動いていることに気がついた。

「ノク、まだだ!!」
「ふえ?」

 俺の声にノクが立ち止まって熊の方向を向いた時、ノクは人形のように空中へ跳ね飛ばされた。

「ノクゥゥゥッッ!!!」

 叫ぶ。
 イカレた体を気合で動かし、走る。
 距離はある、通常なら大した距離ではないが、この距離では奴を追い抜いてノクを助ける事など出来ない。

『嬢ちゃん!!』

 ハティがウィスプを飛ばして奴を攻撃するが、ワーベアはそれがまるで効いていないかのようにノク目掛けて疾走する。
 畜生!
 絶望で、心が折れそうになったその時、進路上に光るそれを見つけた。
 ガインのロングボウ、ラサー・ナヴァルカ。
 思わず俺は手にとってしまう。
 馬鹿か、俺は。
 今更弓を取って何になる。
 そう思ったが、俺は弓柄の近くの所に走った直線の亀裂と、そこからのびる光を見逃さなかった。
 そうか!
 俺はそれの答えに行き当たると、確信を持って、その亀裂を広げるように柄と弓の部分を引く。
 そこには、独特の光沢を放つ刃があった。
 ……やはりこいつ、仕込みか。
 仕込み杖という、刃を杖に潜ませる物がある。それと同じ要領で、この弓はその中に刃を隠し持っていたのだ。
 そして、この光沢を放つ刃は、明らかにミスリルのそれであった。
 まぁ、細かい事はどうでも良い、問題はこれがチャンスだと言う事だ。
 ここからなら、奴の左脇腹が丸見えだ。
 側面から刃を突き上げれば心臓に達する。
 一撃で仕留めれば、ノクを助けられる。

「オオオオオオォォォッッ!!!」

 獣のような咆哮を上げる。
 再び、体にエネルギーが戻ってきたかのような錯覚を起こす。
 狂ったように走る奴は俺に気づいていない。
 もらった!

「やらせるかよォォッッ!!!」

 全身の体重を乗せて、奴にこの不思議な形の刃を突き入れる。
 肉を貫く確かな感触。
 背中にやたら熱い感覚があるが、そんな事は知ったことか。

「――――――――――――!!!」

 喉を矢で貫かれていたワーベアは、空気の抜けるような断末魔の声を上げて倒れた。
 俺はワーベアの死亡を確認するより前に、ノクの傍に駆け寄る。

「おいノク!! しっかりしろ!!!」

 声をかける。
 こんな時、彼女に触れられない自分が恨めしい。
 見た所、呼吸をしてはいるがグッタリしている。ワーベアの爪によって左肩から胸にかけて裂傷が走っているが、そう深い物では無さそうだ。
 むしろ、打撲傷がどこまで酷いのか気にかかる。
 頭は、首は大丈夫なのか? 
 肋骨は折れているのだろうか?

「ハティ来てくれ!! ノクが!!!」
『全く、情けない声を上げてんじゃないよ! 今、嬢ちゃんを治癒するからちょっと退いてな』

 ハティに簡単に治療してもらうと、ノクを助ける術の無い俺はハティに場所を譲り、離れた場所で腰を下ろす。
 何て無力だ。
 親父の仇を討つ為に蓄えてきた力も何の役にも立たない。
 ノクを助けられない、敵も一人では満足に倒せない、そんな自分が心底嫌だった。
 そして、傷ついたノクを見てさらに彼女が美味そうに見えた時、俺は自分に対して吐き気すら覚えた。
 病気とはいえ、俺はそんな自分が許せない。
 ふと、熊の死体に目をやる。
 すると、そこには巨大な熊の死体はなく、代わりに裸体の男性と思われる青年の死体が横たわっていた。
 死体には矢と、ラサー・ナヴァルカが刺さっており、一目であれがワーベアに変身する前の人間だと分かった。

『……あれが、ワーベアの正体さ。あれでも狩人だったんだよ』

 後ろからハティが声をかける。といってもハティの場合は頭に直接メッセージを伝えるから声では無いのだが。

「………ハティか、ノクはどうだった?」
『こっ酷くやられたけど、命に別状は無いよ。疲労も溜まってるし、しばらく休めば元気になるさ』
「……そうか、良かった」

 俺は安堵の息を吐く。
 もう、目の前で大切な人を失うのは御免だった。
 これ以上はきっと、死ぬより先に俺が壊れてしまうだろう。親父が死んだ時でさえ、壊れる寸前になったんだ、ここでノクに死なれたら俺はどうなってしまうんだろう?
 そんな事を考えている俺に、ハティは言葉を続ける。

『あれも変な奴でさ、狩人のクセに狼である私に「仲良くしようよ」何て恥ずかしげも無く言うんだよ。本当にどうしようも無い奴だよ…』

 そう、出来の悪い息子の話をするような口調でハティは俺に話しを続ける。
 そのハティの言葉に何故か、深い悲しみを感じた。

「……何でああなっちまったんだ、そいつは?」
『…前に、ここら辺でワーベアが出たのさ。あいつはトロウから冒険者を雇って一緒に倒したらしいんだけど、その時に感染したらしいね。あんたも気をつけな』

 成る程。
 だが、きっとそのワーベアも何処かの狩人みたいな奴だったかもしれないと思うと、次は俺の番かなと思ってしまう。
 何てタチの悪い病気だとつくづく思う。

『そして、イカレちまったあいつは何の警戒もしなかった私達を殺しまくったのさ。生き汚い私はその中で生き残っちまったもんだから、せめて仲間の仇でも討とうと奴を追っかけてたのさ……』
「………そうか」

 何故か、俺はその話を知っている。
 その場にいなかったはずなのに、詳しくその光景が頭に浮かぶ。
 血に沈む獣達。
 血に染まる青年。
 血の中で泣く狼。
 それは酷く悲しい光景だった。

「……で、復讐を達成した感想は?」
『………何とも思わないね。ただ、目的を完遂しただけ、そこに達成感も感動も無いね。強いていうなら虚しいよ…』

 きっと言葉には出さないがハティは悲しんでいた。
 殺された仲間だけではなく、殺した青年にも彼女は悲しんでいた。
 虚しいか、俺も、復讐を成し得た時にそう感じるのだろうか?

『だから、復讐なんて止めといた方が良いよ。お勧めはしない生き方だね……』
「何故、俺にそんな事を言う…」
『さてね、自分の胸にでも聞いてみるんだね。少しはあのお嬢ちゃんの事を考えたらどうだい?』

 ノク。
 復讐と死しか無かった闇の中で、唯一つ見つけた光。
 だけど、それは俺にとって眩し過ぎて、俺の醜い部分を露出させて行く。

「………俺は、復讐が全てだし、それ以外の物は皆親父と一緒に殺されちまったんだよ。だから、俺は俺の事しか考えられない。ノクは大切だけど、俺は彼女と一緒に居てはいけない人種なんだ」

 そう、ノクは俺と違う。
 本当の俺を見たら、きっと彼女は失望する。

『そうかい? あんたも、嬢ちゃんも、そんなに変わりは無いさ。ただ、あんたは自分の事を卑下し過ぎているだけじゃないのかい?』
「……それは彼女の前で演じていた俺に騙されたのさ、俺は彼女の望む“ハンさん”に化けて自己満足しているだけだよ。本当の俺は死に際を間違えた死体みたいなもんさ」

 死に際を間違えた死体。
 動力源は“仇への復讐”と“仇と闘って死ぬこと”の動く死体。
 殺されるはずだったのに、殺されなかった。
 おかげで俺は“戦士アターエフの息子、ニコライ・ハン”として死ねなかったのだ。
 そして、俺が俺に戻れるのは、仇を殺すか、仇に殺されるかのどちらかしかない。それまでは、死体のままあの日の屈辱に身を焼くのみ。

「……彼女は俺に死なないでくれって言うけど、俺自身は殺されたがっている。ずっと嘘を付いてきたんだぜ? 細かい嘘ならもう数え切れないだろうよ。こんな酷い奴がいるかい?」

 彼女が俺に謝ると感じる罪悪感の正体。
 そう、ノクは何にも悪くないのに、嘘で作られた俺に謝る。
 それが、申し訳なくて、彼女を安心させる為にまた嘘をつく。
 悪循環。

『……やれやれ、頑固な奴だねぇ。あんたは他にも進める道があるってんのに、そっちに目がいってないだけさね。少し落ち着けたらきっと気づくよ、願わくは、それが手遅れになる前だと良いんだけどね』

 そう言うと、ハティは青年の死体に近寄り、その傍で穴を掘り始める。埋葬でもするつもりらしい。
 しかし道具も無く、疲労しきったハティには重労働らしく、その動作は弱々しい。
 今まで偉そうに俺に喋っていたのが嘘のようである。
 嘘、自分が連想した言葉に一人で驚いていた。
 なるほど、奴に限らず人前では誰もが何かを演じているのかもな。
 俺はハティのそんな姿を見て思った。

「……手伝おう、お前では難しいだろう」

 いい加減見ていられなくなって、俺はトンファーを使って穴を掘るのを手伝う。
 狼の爪だけでは、あまり掘り進んでおらず、人間一人を埋めるにはまだ全然足りていなかった。

『……すまないねぇ』

 ハティのその言葉は、まるで疲れきった老人のようであった。
 黙々と、土を掘り返す。
 俺が手伝うと言っても、大した道具も無いせいか、なかなか進まない。
 ハティに治してもらったが、ワーベアに痛めつけられた左腕はまだ力が入らなく、作業は右腕一本で行っていた。
 俺はふと思いついた事を口にする。

「なぁ、狼も死体を埋める習性でもあるのか?」
『無いよ。ただ、元は人間だったんだから、最後くらい人間らしくさせてやろうと思ってね。ほら、野晒しじゃ獣と同じだろう?』
「……なるほどねぇ」

 会話らしい会話はこれだけだった。
 何とか、人一人を埋められそうな穴を掘ると、俺はゆっくりと青年の亡骸をそこに下ろす。

「……何か言ってやったらどうだ?」
『フン、言いたい事は、私があの世に行った時に直接本人に文句つけてやるよ。もう、埋めちまいな』

 そう言うと、ハティは後ろ足を使って土を埋め始める。
 それに、続いて俺も土を被せる。
 そして、完全に埋め終わると、俺は適当な大きさの石を持ってきて土饅頭の上に乗せた。
 まぁ、見てくれは悪いが、こんな物で良いだろう。

「……ハンさん? 狼さん?」
 いつの間にか、ノクの意識が回復したのか、立ち上がってこちらに歩いてきた。
 ノクの歩いている姿を見て、俺は少し安心する。

「ノクか、もう大丈夫なのか?」
「うん。狼さんのおかげですっかり元気になったよ!」

 そうノクは言うが、顔色は良くなく、足元は覚束ない。

「無理はするなよ、そこら辺に座ってな」
「うん、ちょっと疲れたみたい……」

 無理に笑みを作ってノクはその場にしゃがみ込む。
 やれやれ、俺もノクもボロボロの状態でどうやってトロウまで帰ろうかと思案していると、遠くから聞き覚えのある声が聞こえる。

「ノク〜、ハン〜、どこなぅか〜」
「お〜い、ハン! ノク! 居るか〜?」

 片方は少女の声、片方はやる気の感じられない男の声。
 その声に聞き覚えがある、仲間のニディとギルの声だ。

「あ、ハンさん、今の声……」
「……ニディとギルか、探しに来るとはマメな連中だな」

 奴らがどういうつもりで俺達を探しに来たのかは知らんが、この状況は非常に助かった。どうやら思っていたより楽に帰れそうだ。

『フン、どうやら最後の最後で運が回ってきたようだね。早く行ってやりな、きっと心配してるよ』
「そうだね、行こう、ハンさん!」

 ノクは先に駆け出したが、俺は少し立ち止まってハティを見つめる。

「………俺は復讐を止める気は無い。だが、仇を討つ事が出来たなら、もう少しまともに生きてみるさ」

 これが今の精一杯の答え。
 親父を否定出来ないし、昔の俺も否定出来ない俺は仇を討つ他に道は無い。だけど、その先にもっと生き甲斐のある未来があると信じて、ハティに告げる。
 そして、何があってもあの少女を守ってみせよう。
 俺の答えに満足したのか、ハティは狼らしからぬ表情豊かな笑みをその口元に浮かべる。

『……そうかい、あんたの道程が穏やかである事を祈るとするよ』

 ハティはそう言い残すと、俺達に背を向けて森の奥深くへと歩みを進める。

「ハンさ〜ん、早く早く〜!」
「またな、暇になったらまた来る」

 俺はハティの背中に別れの言葉を告げると、少し先で俺を待っているノクに向かって、走り出した
 森の奥から、俺達を送り出すようにして、狼の咆哮が響き渡った。


HOME
TOP