リース物語
原案、作 : 人形
キャラクター原案 : 人形、リース
とある本のとある一覧に、こんなことが書かれていたのを覚えている。
『矢が、的までの距離の半分を進み、またその半分を進み、またその半分、その半分……と進んでいくとすると、矢は永遠に的まで近づくが、永遠に的に当たることはできない』
この荒唐無稽な数学論者の本を読んだとき、危うくこのことを信じてしまいそうになったことを覚えている。これを否定する理論を自分には確立できなかったからだ。突拍子もない理論でありながら、熟知してるものほど「ん?」とこの論理で踏みとどまらせてしまう。そして二ヶ月後に、あっさりとその論理に対しての否定論を確立させることができた。
あの理論に用いられた数式は割り算であったためだ。割り算ではどのような数字であれ、いくら割っても永久に0にはならない。
だから、引き算を用いればよいのだ。ただそれだけで、あの論理を一蹴することができる。
そこまで思って、少年は悲痛なまでに思った。
(あの法則が本当だったらいいのになぁ……)
――ごっ!――
次の瞬間――少年の頭に、カケラの遠慮もなしに何かが叩きつけられた。その余りの痛みに少年はもんどりうって倒れる。
「〜〜〜〜〜っ!」
「こらリースッ! まぁた練習中に本のこと考えてたわねっ!」
朦朧(とした表情で少年――リースはその殴られた辺りをさすった。案の定、見事なまでにプックリと膨らんでいる。
涙で滲んだ目をごしと袖口で擦ると、少年はそのまま声のしたほうを振り向いた。
そこには、リースと同じ髪の色をした少女が真新しい防具に身を包んで立っていた。いや、いつもの様に『立っている』。
そう、いつもそうなのだ。彼女は、いつも自分を見下ろしている。ちょっと笑っているようでもあり、どこか泣いているようでもあった。その表情は、最近になってやっと理解することができるようになっている。どうやらあれは、少々がっかりしているらしい。
年のころは14,5くらいか。その意気込みを示すかのように頭にきりりと巻いている白いハチマキが目立つ。長い髪はポニーテールに纏め上げられ、その活発的な表情をさらに際立ったものにしている。
ちなみに、二人が手にしているのはチカの木を手頃な太さに削ったものだ。丈夫なわりには軽く、本気で振り抜いてもたいした打撃力にならないため、訓練にはもってこいの品物である。
もっとも、振り抜かれれば痛いものはすこぶる痛いのだが……。
「……少しは手加減してよ。ティミア姉さん」
「なに言ってるのよっ。十分過ぎるくらい手加減してるわよっ」
彼女――ティミアはポンポンっと肩当ての部分に木剣を当ててタイミングを取るようにして、リースを見下ろす。その時には例の失意感はかんじられない。少し悪戯っぽそうな笑みすら交えて、
「ほらっ。さっさと立つ。それとも、そのままやる?」
「起きるっ。起きるよっ」
リースはもたもたと起きあがると、そばに落ちていた木剣を拾い上げた。
彼女はその様子にさほど満足した様子は見せなかったが、ブンッ! っと背筋が寒くなるような切れ味の良い音を残して軽く木剣を振ると、ざっと左足を前にして半身になり、剣は相手――つまりリースと反対側に、やや俯かせ気味に垂らす。
「さっ。かかってきなさいっ!」
「…………」
意気揚揚と構える姉に対し、リースはとりあえず漠然と身構えた。
程よく塚部分を握りしめ、構えは上段と下段の間――。
中段と言わないのは、その構えがいかにも『あまったもの』といった雰囲気をかもし出しているからである。そして中途半端な視線を、彼女の視線からややずらしたところを漂わせる。
つまり、それらを合わせるとおおむね。
「やる気あんのっ!? あんたっ!」
「うわわわわあっ!?」
とんでもない速度で突っ込んで来る姉に、慌ててリースは握った棒切れを手元に引き寄せた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
『本読み小僧』『モヤシっ子』『コボルトみたいな奴』……。
それが、リースへの評価だった。それが、リースへの表現だった。
戦神アグラムの神官の子として生まれ、周りの子たちはそれぞれ切磋琢磨(している中、この末っ子のリースだけは、まるで知識神ト・テルタの神官の様に本を好み、そして修練を嫌った。
いや練習嫌いというわけではない。単純に人を傷つけるのがイヤなのだ。
もちろん、『闘い』を『暴力』と勘違いするような輩よりはマシなのだが、それでもあの闘争本能の少なさはどうしたものか。
運動神経も悪くない。少し体格が小さいような気がするが、それを補う素早さと集中力を持っている。だが、それを修練で活かそうとは決してしなかった。
「ふぅ……」
結論をつければ、溜息も尽きたくなるというものだ。
「素質はある。それは分かる」
「逆をいえば、それしか分からない……ですか?」
男の後ろには、一人の青年が立っていた。すらりとしているがその実、身体には無駄が一つもない。ごてごてと筋肉の鎧を纏うのではなく、ギリギリまで研ぎ澄まされた刃のような印象を与える。
対象に溜息をついた男は、隆々とした肉体を誇っていた。だが、それでもそのイメージからは『無駄』という言葉は連想し難い。大柄な身体を、完全に御しっきている雰囲気がその男にはある。
すらりとした男は、楽しそうに笑いながら言った。
「リースは強力な武器や道具に対して、まず恐怖を覚える子供です。それがたとえ技術というものであっても、その技術を使うことによってなにを起こすことができるのか……それが分かっていて、それにちゃんと恐怖を覚えることができる。以前、<返しの大地>を教えた時もそうであったではありませんか」
<返しの大地>……メイスのような打撃系武器を、一度地面に弾かせ、その反動を利用して切り上げる高速の斬り返し。
リースは、それを立った一度、手本を見ただけで実演してしまった。
だが、その後からはどうにもギクシャクして初回のような鋭さを見せない。果てには手首を痛めてしまう始末だ。
「わかっている。分かってはいるのだ」
大男はげんなりと呟きながら片腕を上げた。なんてことはない。ただ肩がこった気がしたのだ。その大仰な身体をつつんでいる聖服がサラリと音をたてる。
「分かってはいるが、俺が信仰しているのはアグラムだ。そして、あいつは…リースはそのアグラム信仰者である俺の息子だ」
「私も、あなたの息子ですが? 父上」
「アグラムへの信仰も忘れて騎士団なんかに入っちまったお前なんて、息子じゃねぇよ」
あっさりと物凄いことを言うが、その実瞳は笑っている。得てして、アグラム信仰者は度量の大きな人物が多い。
「昔、死んだ母さんがお前たちが生まれた時、『アグラムが微笑んで祝福してくれていた』って言ってたよ」
「へぇ……」
「ところが、だ。リースの時だけは違ったんだとよ」
「違った? どのように?」
きょとんとして聞き返す息子――エトラムル聖騎士団騎士カーウェン・ルナイシア――に向かって、父親――ヴァルファンディ・ルナイシア――はにんまりと楽しそうに笑った。
「『まるで大事な友人と離れる子供のような顔をしていた』……だとさ」
「それはまた……」
アグラムに友として接することができる……。もしかしたら、リースにはそんな才能があるのかもしれない。カーウェンは苦笑混じりに微笑んだ。
「あいつがそう言ったんだ。俺は、それを信じた」
「私も、信じますよ……」
末っ子のリースを生んですぐ母は死んだ。
肥立が悪かったとか、体が弱かったわけではない。だが、まるで役目を終えたかのような――唐突で、そして安らかな死だった。
しばらく二人とも感慨にふけっているのか……静かで、そして柔らかな時間が流れる。
「……ああ、そうだ。忘れるところでした」
ふと、まるで泉から水が涌くかのようにカーウェンが呟く。
「ん? なんだ?」
「神官を二人か三人。借して欲しいんですが」
「そりゃまた物騒な話しだな?」
父親はなにか苦いものでも噛み潰したかのように顔をしかめる。アグラム神殿に騎士がおもむき、アグラムの神官を借り受けたいということは、その目的は戦い。
『闘い』と『戦い』は違う。アグラム神官にあるまじき考え――と先代によく小言を言われたが、現アグラム神殿最高司祭である彼にとっては、例えどのような戦いであれ、他人を傷つけるをよしとはしない。
「たいした話ではないのですが、コボルトが十体ほど、東の森のほうで確認されました」
「おいおい。たいしたことあるよ。あそこは学校や医療施設も近い」
「……確かに」
カーウェンは苦笑をもらした。コボルトは妖魔の中でも最弱と言われるが、自分より弱い敵と認識した場合の集団性と残虐性は無視できない。
もっとも、ある程度戦いなれているものなら特に問題なく倒せる相手でもある。
「わかった。何人か用意しよう」
「助かります」
このとき、二人は気付かなかった。
入り口の扉が指一本ほど開けられ、そこから聞き耳を立てている少女がいることを……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「さあっ! と、ゆーわけでっ! 私たちが兄さんの代わりにコボルト退治してあげてっ! 兄さんたちの雑務を少しでもやわらげてあげるわよっ!」
「…………」
元気いっぱいに前を歩くティミアの背中を見ながら、リースはふっと溜息をついた。
ちなみに、リースは慣れない皮鎧を着込み、腰には――ティミアは何処から見つけてきたのか――一振りの古ぼけたライト・メイスが吊るされている。
「…………」
悪くない。実戦に実戦を潜り抜けてきた武器なのだろう。持つ部分が以前の所有者の手の形に磨り減ってしまっているが、それ以上に手入れが行き届いている。先端に掘りこまれた聖印……おそらく、アグラムのものだろう。その掘りこみも、擦りへってよほど注意深く見ないと分からなくなっている。
(なんで、僕、今ここにいるんだろ?)
なんとなく、少年はその若干重めの武器に問いかけたくなった。
前を見ると、依然はみ出るほどの活力を発散して歩いている姉がいる。姉が手にしているのは先程訓練時に使用していた木剣に似たものを使用している。良い判断だと思う。下手に武器を変えるよりも訓練中に馴染み、その身に染みついた武器の方がとっさの対応は容易い。それに案外に知られていないが、チカの木なのど、軽い木材で作られた木剣ならばともかく、ごく普通に木剣を作った場合、その打撃力――いや、殺傷力は実は実剣を上回る。
「? どうしたのよ? うつむいてブツブツ言って」
「……あれ? 口に出してた?」
「出てたわよ。なによ? 行きたくないの?」
「決まってるじゃ――」
彼女が持っている木剣が、ゆらりと振り上げられる。
「……行きたいです」
「よろしいっ♪」
ティミアは振り上げた木剣をそのまま気楽に方に担ぐと、鼻歌を歌わんばかりに上機嫌で歩みを再開した。
リースはもう一度だけ、ため息をつくとそれについていった。
辺りのを見渡すと、明るい緑に彩られた草木が見える。陽光をたっぷりと受けたその風景は思わず微笑みたくなってくる。
もともと、この森は人の手が加わった人工森である。厳選された木々を根気良く植え、時間をかけて今の姿になっている。その風景と安全性から、スクールの遠足や憩いの場として使用されているのがほとんどである。
(ここにコボルトがね……)
いまいち納得いかない様子で、リースはポリポリと頭を掻いた。ここは人口の森。つまり人が作ったもの、人の領域だ。
そんな<危険地区>に、なぜコボルトが入りこんで来たのだろう? コボルトたちは残虐で獰猛、貪欲な性格をしている半面、おそろしく卑屈で臆病でもある。
己がかなわない。
己では太刀打ちができない。
そう判断した場合のコボルトたちの行動はひどく単純だ。逃げるか、それがかなわなければ媚び諂う。
そんな彼らが、人間の空間――しかも女子供を保護するためとも言ってもいい、最奥の空間。
人間のための森。人間のための木々。そして人間のための場所。
そこに、コボルトが入りこんでくる……?
「? リース?」
ふと声につられるようにして視線を上げると、ほんの目の前に、姉の顔があった。ほんの、数センチ前に……。
「…………」
「…………」
「……きゃー」
「……ほんっと、あんた考え事してると、他のこと飛ぶわねぇ〜。あんた、反射神経まで総動員してもの考えてるんじゃないの? もうちょっとこー、驚いたぁっ! って動きしてみなさいよ?」
「十分驚いてるよ。なに?」
「どうやら、この辺りみたいよ。そこに足跡がごろごろしてるから」
姉の言葉に頷きながら見やると、そこには土を踏み荒らした跡があった。そのまま視線をずらすと、辺りの木の葉や木の実があらかた貪り食われている。毒ではないが食用には向かないと言われる木の実があれだ。
そうとう、コボルトたちは餓えているようだ。
「ほんとにいるんだ……。コボルト」
「いるみたいねぇ。私も、足跡見るまで半信半疑だったけど――っ!?」
と―――
ティミアは不意に弾ける様に振り向く――つまり、リースを庇う様に身構えると、腰の木剣に手をかけた。そして不意に額に浮かび上がってきた脂汗にぞっとしたように呟く。
「ちょっと……なによ? どうなってるのよ?」
怯えの含まれた姉の声――そう、怯えだ。リースでさえ滅多に気かない姉の恐怖の入り混じった声。その声に同調するかのように、少年の心臓も早鐘を打ち始める。
不意に、辺りに存在感が立ち上った。
が、気配がない。
がたがたと震える姉。いや、自分も震えている。圧倒的な存在感はありながら、その場所が掴めない。足跡からして10匹はゆうに超えているだろうに、それらの一匹すら、どこにいるのかがわからない。だが、確実に『いる』とは脳髄の奥から認識していた。分かっていた。
「ちょっとっ!? どういうことなのよっ!? ふざけるんじゃないわよっ!」
たかだか小妖魔退治。自分にはとるに足らない存在の除去――。
その程度に考えていたティミアにとって、その恐怖は困惑と共に更に増幅されていった。理解できない存在と理解できる存在感、そして理解したくない己が心から立ち上る絶対的な恐怖。
人が闇を恐れる――見えないもの、分からないものに畏怖する根源的な恐怖。
そんな圧倒的な圧迫感に、彼女はパニック寸前だった。
「姉さんっ!」
「うるさいっ! うるさいうるさいうるさぁいっ!! 出てこいっ! ここに出てこいっ!!」
――パンッ――
軽い破裂音。ドングリが焚き火で弾ける音よりも。もっと小さく、柔らかな音。だが、ヒステリックに叫び続けていた彼女の頭が、いきなり横に弾けた。
「……え?」
こめかみ辺りから、赤い糸が伸びているのが見える。
それが、酷くゆっくりとリースの眼に写る。姉はそのまま、ゆっくりとその体を地面へと横たえた。――一瞬遅れて、リースの脳髄に彼女は体を横たえたのではなく、叩き付けられたのだという理解の電流が走りぬける。
「…………」
絶望的な沈黙。リースは、12歳の少年は呆然と姉を見下ろしていた。両手はだらりと垂れ下がり、血の気という血の気が失せたその真っ白な顔は、ぞっとするほどの無表情をたたえている。
瞬時――
「ギィィィィィイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
地の底から這うような凄絶な雄叫びと共に、十数匹のリースくらいの小柄な体格の妖魔が茂みから現れた。
「…………」
その光景を、リースはひどく他人事のようなまなざしで眺める。
戦慄と戦況。今この空間をしめるはずのこの二つの感情と環境が、リースには一切感じられなかった。漂うはずの戦いの匂い、死の匂い……そんなものがないのだ。
「ギルルルルルルギギギギギィ……」
もっとも、そんなことは現れた妖魔たちにはまったく関係のないことだったらしい、まったく気にする様子も無く、数匹が弾かれた様にリースに飛びかかるっ!
手にした不潔そうな武器はところどころ錆びが浮き、切れ味は望めそうになかったが、変りに絶望的なほどの恐怖感を与える。
1人の12歳の少年に襲いかかる数匹の妖魔――。状況は明らかであり、また絶望的であった。
――ガッ! ガガガガガガガッ!――
立て続けに小妖魔たちが手にした武器が叩き付けられる。が、それらは標的にはたどり着けず、空しく土をえぐった。
コボルトたちは見やると、ほんの少し、距離にして歩幅一歩分ほど横に、リースの存在がある。
リースが攻撃をかわしたのだ――そうコボルトたちが気づく数瞬前に、リースが動いた。
ポツリと呟きながら。
「震えてるね。恐かったんだね……」
一瞬後――少年は一番近くにいたコボルトの目の前にいた。剣の間合いを潜り抜け、さらに深く接近している。その事実に気づく前に、リースは居合抜きの容量で右拳を固めたまま、わき腹に叩き込んだっ!
「グギィッ!?」
奇妙な悲鳴をあげて妖魔は悶絶する。それで費やした瞬間は二つ。残り数瞬をリースは無駄にするつもりはない。
振り抜いた右手をそのまま遠心力とし、回転しながらバックブローの要領で後ろのコボルトのこめかみを打ち抜く。そしてそのまま回転を続け、最後の一匹に向かって弾ける様に突っ込んだ。
「ギィィィアアアアアアアアアアッ!!」
そこで瞬間を使いきり、コボルトは悲鳴混じりに剣を突き出す。
――ギィィィンッ――
が、それは聖印を彫りこまれた鉄の塊に阻まれた。リースはその塊部分を握り締めて逆手に持ちかえると、ヒュン――と軽くコボルトの手首辺りに叩き付ける。が、それだけであっさりとコボルトの手首は砕けた。
タイミング――たったそれだけの技術だが、それを高位にまで洗練すると、そんな芸当も出来る。
「ギィィィィイイイイッ!?」
手首から発する激痛で武器を取り落とし、コボルトはしゃがみ込んだ。リースはその無防備な後頭部に、躊躇いなくメイスを叩き付ける。ビクリと一度痙攣をして、それは動かなくなった。
「―――――」
泥のような沈黙――。
周りのコボルトたちから見れば、こちらが攻撃を仕掛けたはずなのに、吹き飛んでいるのはこちらだった――としか写らなかっただろう。
恐怖。
コボルトたちはその包囲の輪を恐怖に後ずさるようにして広げた。
そこまでで、リースの額からどっと汗が吹き出た。そして体の関節のいたるところから激痛が走る。
「っ……」
リースが持つ膨大な才気。
が、リースがその才気を存分に発揮するためには、12歳の体ではあまりにも容量不足であった。その不足分は体への傷害として発生する。
たったあれだけの動き。だが、幼い体にはそれは余りにも容量オーバーな動きだった。体中に走る激痛に、リースは思わず悲鳴を上げそうになる。
が、それと同時に腹の底から叫びたくなるほどの力と高揚感も感じる。
生まれたときから感じる小さな声。
その声が、歓喜に震えんばかりに朗々とリースの心の中で鳴り響く。
母の温もりを感じたことがなく、父の温もりのみで育った少年。その少年の最も身近にあったのは、この声だった。いつしか少年はこの声に語りかけ、この声が聞こえるのが当たり前だった。
その声を聞くと落ちついた。どんな時でも、気分が落ち着いた。どんなに恐怖心が沸き起ころうと、すぐに収まった。姉の『遊び』に付き合うときでも、イタズラをして父親に叱られる時でも。
が、今は心の中でその声の主は朗々としか声――いや、歌をうたっている。
その歌を聞くと、恐怖心は消え、同時に高揚感が立ち上る。
そのため、残りのコボルトたちが一斉に攻めたててきても、それをまるで他人ごとのように眺めることができた。
――我を求めよ――
胸に響く怒涛の声。
――我を求め、我を行使せよ――
一斉にコボルトたちが跳躍した。思い思いに手にした不潔な武器――それらが一斉にリースの喉笛を狙う。
リースはふっと目を閉じ、両手を左右に押し広げるように開いた。
以前、その声の主は少年に名乗ったことがある。
少年はその名を叫んだ。求めの声と共に――。
「アグラムよっ! 我に力をっ!!!」
――ズッ――
瞬時、少年を中心に不可視の爆発が発生した。アグラムの力(フォース)そのありったけの力が、愛すべきアグラムの共へと与えられ、放たれる。
神官最秘奥――フォース・エクスプローション。
究極とも言える神官の攻撃呪文。その呪文に、もっとも脆弱と言われる小妖魔があがらえるはずもなかった……。
そして――
少年という、脆弱な人間も、この力に耐えきれるはずもなかった……。
ボタボタと、異常なまでに――いや、異常に流れ落ちる汗を感じながら、リースは崩れる様に地面へ伏した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「こんっっっのぉっ!! 馬鹿モンがぁああああああああああっ!!!」
思わず耳と体を塞ぎたくなるような声と共に横っ面をはたかれ、ティミアは吹き飛んだ。
「うきゃああああああああああああっ!?」
シャレじゃなく数メートル宙を舞い、情け容赦なく床へと叩き付けられる。もっとも、吹き飛んだ距離と頬に感じる熱さをともなった痛みに比べ、ダメージはほとんどないのだが。
が、
「痛い痛い痛いっ! 本気でぶったっ! 本気でっ!」
無論その痛みはシャレではすまない。
「当たり前でしょう」
――ゴッ!――
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
不意に後ろから声がかけられたかと思うと、脳天にこれまたシャレではすまない&それでも実質ダメージ無しの打撃が打たれる。
「う、ウェン兄ぃっ! 頭が割れる頭がっ!」
「割れてしまいなさい。コボルトが現れたと聞いたらまず退治と考えてしまうような頭なんて」
「うぅぅ……」
「まったく、本当にバカモンだ……」
のそりと、父親が進み出てくる。真剣に怒り――そして真剣に心配しているその父の眼差しを見ると、ティミアもなにも言えなくなってしまった。
「あの……ゴメンナサイ」
同時に、叩かれた頬が熱くなる。その熱さがそのまま伝播したのか、その熱さはそのまま目頭へとおそってきた。
「あ、ちょ、まず……」
ポロポロとこぼれおちる涙を、少女は必死になって拭おうとするが、その涙が引き金になったのか、『あの時』の恐怖も続けざまに襲いかかり、カタカタと震えながらポロポロと涙をこぼす。
その様子を見て、兄は溜息をつくとそっと父を見た。
それを見て、父も呆れた様に溜息をつくと、優しくティミアの肩に手を置き、言った。
「今日はもう休みなさい。お仕置きは明日からだ。本当にこの馬鹿モンが」
「はい……ご…め……さい」
涙で喘ぎながら、彼女は必死に言葉しようと息を付く。だが、それはますます涙を溢れさせることになってしまったようで、それが止まらない。
息子に連れられ、娘は一人で立って歩ける様になるまで少々時間がかかったが、その後は今まで見たことないほど娘はしおらしくなり、大人しく出ていった。
その姿を見送ると、ふっと溜息をついた。
リースとティミア、この二人がいないと聞いて慌てて森を捜索し、そして迷うことなくヴァルは二人を見つけた。
見つからないはずがないのだ。
あのむせかえるほど濃厚な神気。我が崇拝するアグラムの、満ちたる力――。
おそらく、強力な奇跡が発動したのだろう。余りに強力で、そしてそこにあれほどの神気を残してしまう未熟な力が……。
「リース……。お前か……?」
妻が以前言っていた。神(アグラム)は、まるで友達を取られるような顔をしていた、と。
神に愛されすぎた子――。
「アグラムよ、それほどにまで我が子を求め、なにをさせようとされております?」
ヴァルはそっと聖印をきった。そして我が息子の、本が大好きな息子の、少し弱々しげな笑みを思い出していた。
「我が子は、なにを果たされますか? アグラム……」
数年後、本好きな少年は家を出されることになる。その意味も分からないまま。
ただ一言、父の言葉を胸に。
「お前の血とアグラム神が、きっとお前を導いてくれるはずだ」
と。
少年は溜息混じりに、ポツリと呟くと、さほど気概を感じることなく、歩き始めた。
「戦うよりも、本を読んでいたいな……」
完
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