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しとしとと降る雨の中で
作者名: ナギニィ



「今日も良い天気だ───普通の人は雨を良い天気と言うだろうか───」 

 ポツリと呟いて、苦笑する。そうして彼は、そのまま外の景色を見ていた。

 しとしとと、雨が降る。
 心にしみる、気分は沈む。

 ――この雨の中、きっと彼女はまた立ち尽くしている。

 そう思って、彼は部屋を出た。外で雨に濡れているであろう、彼女の元に行くために。





 一人、ボーっと庭で立ち尽くしていた。
 はっきり言おう、雨は嫌いだ。なのに、しとしとと雨が降る中、自分は立っている。

 矛盾している。でも、こういう天気は好きなのだ。
 いや、もしかしたら言い方が間違っているだけかもしれない。嫌いだけど、悪いとは思わない。そんな感じなのだろう。

 しとしとと、雨が降る。
 あの頃を、あの出来事を、思い出す。

 はっきり言おう、雨は嫌いだ。

 でも――。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 最近ずっと雨はしとしとと降り続いている。鬱陶しい事この上ない。
 そんな中外に出る自分の行為も理解しがたいことではありますが――と、彼女は思った。


 ウェルディエン。それが彼女の名前だった。ロスティシャルマン家という酒を扱う商家に生まれ、男として育てられているという少女。両親とは似ていない髪と瞳の色を気にし、自分の生き方にすら疑問を抱いているハーフエルフ。

 今年で、二十歳になった。
 なのに、見た目はまだ十歳のそれだった。

 丁度十年前くらいから、彼女は身体的成長が何故か停止した。医者の話によると精神的面による症状らしいが、彼女にはあまり理解できなかった。

 肉体の成長の停止と共に、精神的にも成長が停止している。

 彼女の周りの者達は、そう判断した。

 そんなことがあって、彼女は結構不自由な生活をしていた。跡継ぎとして厳しく育てるくせに過保護すぎる父親、自由にしていいといいつつ何かと束縛してくる母親。
 彼女のためといい、彼女を縛り付ける。彼女のためといい、外の世界と隔離した。

 そういうものなのだろうと、彼女はすべてを諦めた。反論もせず、言われるままに動き、女であるのに男として育てられることにも無関心になり――。


(――まるで人形だ)


 ある日、不意にそう思った。それが、彼女の中にあった矛盾を刺激した。

 だからかどうかは分からない。ただ、彼女は家を出た。
 荷物らしい荷物は何も持たず、ただいつもとは違う動きやすい服を着て、いつものように長い髪をポニーテイルに結わう。そして、昔親に貰った――過程は忘れたが、これを貰った理由は、なにやら自分の身を守るなら武器を持てと昔言われたからだっ た気がする――銀の短剣。短剣というよりダガー、ナイフ。それを腰に下げた。

 それだけだった。他に何を準備することもなかった。何も必要なかった。

 ただ、思うままに、家を出た。普通に出て行ったらすぐに連れ戻されるので、塀を越えて、使用人たちに見つからないように。


 しとしとと、外は雨が降っている。


 そんな中、彼女は家を出て行った。





 しとしとと、雨は降る。

 その雨の中、ウェルはのんびりトロウの町を歩く。

 もちろん、雨の中を歩くなんて初体験だ。普通なら別に心ときめく体験ではないが、彼女にしてみれば『始めて一人で外出した』のである。なんだか不思議な気持ちだった。

「・・・・でも、雨は嫌いです」

 不意にそう呟いた。自分の心に答えるように。
 そして、雨が嫌いなわけをぽつぽつと呟きだす。

「雨は鬱陶しくて嫌いです。濡れると服が引っ付くから嫌な感じです。何より、冷たいですし。お洗濯が乾きにくいというか、干せないのも痛いですねー」

 何処の主婦ですか。

「・・・・はぁ。何やってるのでしょー、私は」

 ため息をつく。人気のない通りは寂しくて、一人なのだと実感させる。しかし、家にいたときと何も変わったところは感じなかった。

 当然だ、家でもずっと一人だったのだから。

 むしろ、今のほうがいいかもしれない。家にいた時は、いつも誰かに監視されていた気がする。窮屈だった、息が詰まった。
 外にでて初めて気付いた真実。何だか変に嬉しい。何か新しいことを知れたことが嬉しいのかもしれない。

 何だか、歩調が軽くなった。水溜りを通るときパシャパシャと音がするのが、子供心に気持ちいい、楽しい。
 こんなことをすることが今までなかった。ただ無邪気にすごす事。それがとても難しかった家。


(何だか変な感じ・・・・)


 緩む口元に手を当て、目を細める。童心に帰るというのは、こういう事を言うのであろうか。
 心が、軽く感じる。何だか自由な気がする。

 それが今だけの仮初の物だと頭では理解していても、それを認めたくない心。少しの間、この雨の中で立ち尽くしていた。





 ・・・・しばらくして。

 不意に、ウェルは気付いた。人通りのなかった町の中、不意に人影を見つける。
 ただの人影ならば別に気にしなかったであろう。しかし、ウェルにはその人影が妙に気になった。
 知人ではない。彼女にとっての知人なんて、家にいる使用人達や、商売の関係者くらいなものである。その誰にも人影は一致しない。

 じゃあ、何故気になったのか。
 雨に濡れることを気にするでもなく歩いていくその姿が気になったのか、それとも遠目に見て気付いたその人影の『何か』に気付いたのか、それは本人にも分からなかったが。


 気になった。考える前に体が動いた。


「あの、どうかしたのですか?」

 走りよって、声をかける。その言葉と、パシャパシャという音が近づくのに反応したのか、声をかけられた人物はウェルを見た。

 女性だ。おっとりとした、水の色をした髪を持つ大人の女性。落ち着いた感の服は、長雨に打たれてずぶ濡れだ。
 そして特に目を引いたのは、その目だった。右と左の色が真逆とも言える、赤と青のオッドアイ。ウェルには何故か少し濁って見えた。

 気になる点はもう一つあったが、そっちはあまり気にしないことにした。気のせいだろうと、ウェルは自分を納得させた。

 そして、上目遣いに――悔しいことだが、ウェルはその女性の身長より頭二つ分ほど低かったので――彼女を見て、ウェルは心配そうに問いかける。

「何か探しているのですか? 何だかそう見えたから・・・・」
「ああ・・・・気にしないで。・・・・それより貴女はどうしたの? ずぶ濡れじゃない・・・・お父さんかお母さんは? 一緒じゃないの?」

 反対に心配された。

 ウェルは返答に困った――なにせ両親に黙って家を出てきたのだから、それをあっさり言えるわけもない――が、少し考えたふりをして、逆に問い返した。

「お姉さんも、一人なのですか?」
「え・・・・? そうね、私も一人ね」

 問い返しに一瞬戸惑ったようだが、どうやらウェルの言葉を聞いて何やら理解したらしい。まあ、お姉さん『も』と言われた時点で、ウェルは一人なのだと理解したのだろう。

「子供がこんな時間に一人で出歩くのは良くないわよ? 親御さんが心配するでしょう? 帰らなくていいの?」

 あくまで諭すように言う女性。ウェルは少し口ごもった。
 確かにあの親ならすぐに捜索願でも出しそうだと、ウェルは苦笑してしまう。でも、別にいいやとも思った。その時の彼女は、そんなことより今目の前にいる女性のことが気になっていた。


 何故か、ほうっておけない気がした。


 今ここでこの人をほうって帰るのは、後悔してしまう気がした。


 理由は分からない。ただ、そう感じたのだから仕方がない。感じたからには実行しなければ気がすまなかった。

 だから、ウェルは首を横に振った。

「私これでも二十歳です。子ども扱いされたくないですねぇー」

 ちょっと胸を張って、ちょっぴりとがった耳を見せる。自分にエルフの血が流れているのを分かってもらえば、そう子ども扱いされることもないであろう。まあ、見た目や言動がこれなので、あんまり効き目はないかもしれないが。
 それでも、子ども扱いされるのは嫌なのだから仕方がない。その行為が子供っぽくても、そうすることしか思いつかないのだから、どうしようもないのである。
 女性は、ウェルの耳を見て一瞬何か言おうとしたが、すぐに諦めたようだ。首を横に振って、少し呆れたように言う。

「子ども扱いされたくないって言う間は子供よ? もうちょっと大人にならないとね」
「あ、言いましたね〜?!」

 女性の言葉にちょっぴりショックを受けて頬を膨らせるウェル。その行為が子供っぽいのだと、彼女は気付いていない。
 くすくすと女性は笑った。それを見てウェルはさらにショックを受けたが。


 ・・・・そんな中、ウェルは表情を真剣なものにして、女性に尋ねた。

「・・・・そんなことはどうでもいいです。・・・・あの、何を探しているのですか? そんな・・・・ええと・・・・」
「・・・・そんな、何?」

 首を軽くかしげ、女性はウェルの言葉を待つ。まるで、その先が分かっているかのように。
 ウェルは少し後悔した。けれど、言おうと思ったことを――気になっていたことを、目を見据えてしっかりと聞いた。

「どうして、そんな姿になってまで・・・・?」

 女性の目が、少し悲しそうに細められた。やはり聞くべきじゃなかったかなと、ウェルは少し後悔する。

 ウェルが気付いたのは、なんとなくだった。偶然だが、昔同じ状態の人を一度だけ見たことがあり、そして母親に教わった。その時は怖い存在だと思ったが。

「・・・・そっか。やっぱり、私おかしいかな?」

 苦笑混じりに、女性は首をかしげた。それを見て、ウェルは首を横に振る。あの時思ったことが間違いなのだと、ウェルは実感した。
 しかし、女性は少しうつむき、しゃがみこむ。

「・・・・そうよね。分かるものよね、やっぱり」
「お姉さん・・・・」

 自分の言葉が相手を傷つけたことを理解して、ウェルは頭を垂れる。しかし、そんなウェルの頭を女性は優しく撫でた。
 その行為に、どうしてと、ウェルはきょとんとした目で女性を見た。そこに映るのは普通の女性。しかし、普通ではない人――者。


 人ならざる、人。


 その人の胸元には、致命傷であろう傷跡が今もくっきりと残っている。服が元々黒だったのと、雨に濡れたせいで見分けがつかなくなってはいるが、ウェルにはしっかりと分かった。分かってしまった。


 刺された跡だ。刃物によって。


 ――殺された跡だ。何者かによって。


「・・・・私、やっぱり死んでるのね」

 そう呟くその人に何も言えず、ウェルはただ黙っていた。





 そのまま、しとしとと降る雨の中、ただ立ち尽くして。

「・・・・行かないと」

 そう呟いて、ただ静かに歩き出す女性に、ウェルは視線を向けた。

「何処に行くのですか?」

 野暮なことを聞く。ウェルは自分でもそう思った。
 しかし、ほうっておけなかったのだ。最初思ったとおりのまま、ウェルの心は変わっていない。

 この人が心配なのである。どうしてか、その理由は分からないが。

 でもその時は、理由なんかどうでもいいじゃないかとも思ったのだ。だから、ウェルは動いた。女性の隣に立つ。歩みについていく。
 そうすることが、自分のためなような気がした。なんとなくだが。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだけれど。

「どうしてついてくるの・・・・? 私が、怖くない?」

 少し不思議そうに、女性は訪ねてきた。それにウェルは笑顔で答える。

「まさか・・・・怖い訳ないですよぅ」
「・・・・私、人じゃないのよ?」
「お姉さんは、私みたいな小娘の心配をしてくれるような親切な人じゃないですか。どうして怖がらなきゃならないのですか?」

 きょとんと小首をかしげるウェル。その仕草は彼女の素のようで、しかしわざとのようで。

「・・・・そう。ありがとう、小さなお嬢さん」

 その時女性が見せたそれは、消え入りそうなはかないものだったが、確かに笑顔だった。





 しとしとと雨が降る中、二人は歩いていた。

 どうして女性は命を落としたのかとか、何を探していて、何処に行こうとしているのかとか、ウェルは歩きながら教えてもらった。

 女性が探していたのは自分の夫だった。結婚していると聞いてウェルは少し驚いたが、それ以上に夫の職業を聞いてなお驚いた。
 魔法士であり、盗賊。なんとも素敵な職業な方だ。しかも結構な実力者だと言うからなお驚く。
 ウェルの母親も魔法士だから、魔法士のすごさは実感している。母親の使い魔というものに、何度も襲われた。白い巨大な犬が元使い魔だとか、勘弁してほしい。乗っかられてお菓子を取られるのは、幼い子供の心に恐怖症を植えつけた。

 ・・・・実感の仕方が間違っている気がしないでもない。

 まあ、そんなことは置いておいてだ。では何処に行こうとしているのかということを訪ねてみたわけだが――。

「子供の所に行こうって思ってるの」

 優しい笑みと共に強い意志をその瞳に宿して、女性はそう言った。

 何だか、嫌な予感がした。いや、そんなものは始終しっぱなしだったわけだが。

 そして、誰に殺されたのか。そこだけは、どうしても言葉を濁して答えてはくれなかった。
 別に自分を殺した人物を怨んでないから話さないとかそういう理由ではないようだが、どうも気になる。それを話すと何か自分が認めたくないことを認めなければならなくなるような、そんな様子。

 決意がいる、とても重要なこと。

 深く聞けるわけがなかった。自分にだってそういうことはある。
 だから、そのままついていった。もちろん、何度も「家に帰らなくていいの?」と聞かれはしたが、その度にウェルは「ついてくるなって言われたら、勝手につけていきます」と言って、相手を苦笑させた。

 しとしとと、雨が降る。

 空は暗い。空気は冷たい。雨の音と二人の歩く音だけが響く世界。

 しとしとと、雨は降る。

 心に染み入るように、ただ静かに。





 たどり着いたのは、トロウでも治安がいいとはいえない一角。人があまり好んで近づかない場所。
 そこにある、石造りの古い建物。何の温かみも感じないそこに、女性はゆっくりと近づいていく。ウェルもゆっくりとついていった。

 しとしとと雨の降る音が響く中、二人の足音がやけに大きく聞こえる。パシャパシャと水をはじく足音が、よく聞こえる。
 盗賊の心得があるわけじゃない、足音を隠して歩くなんて芸当は出来なかった。第一、ウェルがそんなことをする理由がない。いや、したほうがいいかもしれないとは思ったが、女性は足音を忍ばせることなく歩いていくのだから、自分ひとりが足音を忍ばせても無意味なことだと分かっているし。

 だったらどうでもいいだろうと。

 ウェルは静かについていった。

 その建物は、どうやら使われなくなって――人が住み着かなくなって――結構な年月が経っているらしかった。足を踏み入れて分かる、積もったほこり、かかった蜘蛛の巣。
 ただし、最近人は来たのだろうとも思った。
 積もったほこりが不自然な跡を残している。無造作に払われたあとが残る蜘蛛の巣が廊下に存在している。

 子供には残せない、大人のものの足跡。子供には手の届かない、天井付近の蜘蛛の巣跡。

 そういった痕跡を見て、ウェルは少し警戒した。女性が隠している事が、彼女を不 安にさせている。それでもついていこうと思うのは、何故なのか。それは彼女自身に もわからないことだったが。

 でも、そんなことを考えていたのも少しの間のことで。

 ただまっすぐに伸びる廊下。そこから左右に部屋があるが、女性はそこに興味も示 さず突き進んでいく。
 ウェルは女性についていきつつ、部屋を覗いた。すでに朽ちた扉ははずされてい て、部屋の中ははっきりと見て取れる状態になっている。そこにはやはり何もなかっ た。

(こんな所に、この人の子供がいる・・・・? どうして・・・・?)

 女性の背中を見て、ウェルは少し立ち止まる。疑問が彼女の脳内を占める。わから ない、それがとても苛立たしい。

 何も知らない自分がいやだ。理解できない自分がいやだ。子供な自分が腹立たし い。

 どうしようもない苛立ち。ウェルは無理やりその思考を停止させた。論理的に考え ることは、今の自分には出来ない、不要だと決め付ける。そうしなければ動けない気 がした。
 細く息を吐く。気を静める。

(・・・・この人は、嘘はついてない・・・・真実を教えてくれてないともいえるけど・・・・そ れでも、この人は悪い人じゃない)

 ゆっくりと、歩き出す。女性の背を追いかける。

(・・・・大丈夫、信じられる・・・・ここに、子供はいる・・・・それ以外の何かがあっても、 自分の行動に変わることは何もない)

 ついてきた理由を思い出す。ただ、気になったからだ。この人の行く末が、死者は どうなってしまうのか。


 ――この人は、救われるのか。


 ただ、それが気になった。だから自分は今ここにいる。
 見守ろうと、見届けたいと、そう思った。それが理由だ。自分が気付いていなかっ た本音だ。わからなかった行動理念だ。
 ただ静かについていく。それが、ウェルのすること。やろうと思ったこと。お節介 かもと思ったりもする。
 それでも、ついていくのだ。ただひたすら、結末を知るために。

 しとしとと降り続ける雨の中、ウェルがこの人と出会ったのには、きっと理由はな いのだろう。
 それでも、それはきっかけだった。
 それだけで、充分だった。きっかけがあれば、どう動くことも出来る。それをほ うっておくことも、自分から関わろうとすることも、すべて自分の意思しだい。

 だからだろう、ウェルが動いたのは。

 今まで自分の意志で何かを決めることは出来なかった。やろうともしなかった。親 の言いなり、周りが望む姿であろうとし続けていた。

 そんな窮屈な世界で、今まで生きてきたからであろう。

 選択できる行動の中から、ウェルはただ単に興味を持ったことに首を突っ込んだに すぎない。その結果さえ予測することなく、危険かどうかも、何も判断せずに。幼稚 な考えといえた。
 でも、それでも、これは自分で初めて決めて、行動しているということ。いつも危 険を親や周りに取り除かれた生活をしていたウェルにとって、初めて出来た『自分の 意志だけで決めた行動』だった。

 家で、彼女は親に逆らうことだって出来たのに、今までそうしなかった。そうする ことで、自分が捨てられるのではないか、拒絶されるのではないかという不安が、気 付かないうちにあったのだろう。
 他人を信じていなかった。そう言える。信じる勇気もなく、自分さえ信じられな かったのだろう。
 もっと別に言えば、甘えていたのかもしれない。今までの行動は全て自分が決めた ことではないのだから、失敗はウェルのせいではなくなる。責任を負うこともない。
 でも、それでいいのか。自分で決める勇気と、厳しさと。そういうものを学ばない で、大人になれるはずがなかったのだ。だから、ウェルが身体的に成長できないのは ――心が幼いままで止まっていると言われるのは――ウェル自身のせい。


 自分で自分を止めた。


 なら、自分でその時を動かさなければならないのだ。自分で動かなければならない のだ。他の誰のせいにも出来ない。

 何だか、いきなり何もかも理解できた。自分が本当に望んでいたこと。今日どうし て家を飛び出したのかも、どうしてここにいるのかも、これからどうしたいのかも。
 まだ、心の整理は出来てないけれど。

(・・・・家に帰ったら、少し、我侭でも言ってみようかな)

 そう思ってやっと、結局自分が考え込んでいたことに気付くウェル。何だか馬鹿ら しくて、苦笑した。

 そして、ふと立ち止まる。女性が足を止め、ウェルに下がるように後ろ手に合図し た。
 その理由はわからなかったが、ウェルはそれに従った。近くにあった部屋にこっそ りと入っていく。その部屋が、他の部屋にいけるようにもう一つの廊下に続いている 部屋だったのは、偶然なのだろうが。

 ウェルは、そのまま部屋を通り抜けようとして、廊下に顔を出しかけた。しかしす ぐに、あわてて顔を引っ込める。そして部屋の隅に隠れた。
 本能がそうしろと告げた。とっさにそうすることが精一杯だった。

 ――人がいた。

 顔を覗かせた廊下の向こうに消えていく人影を見た。それがウェルの行動の訳。見 つかると思い、反射的に隠れてしまった。
 隠れる理由なんかないと思いつつ、それでも隠れたまま動けないでいる自分自身 が、ウェルには少しだけむかついた。

 そして、かつかつと足音が響く。自分のものでも女性のものでもない、第三者に足 音。足音からして、子供のものじゃない。
 ウェルは息を潜めた。それに意味がないだろうとは思いながら。

「おいおい、マジかよ・・・・」

 足音が止まると共に、そんな男の声が聞こえた。この声の主がさっきの足音の人物 だろう。ウェルはそう思った。
 声は、自分がさっきまでいた所――女性がいる方向から聞こえた。つまり、男は女 性を見て、そう言ったのだ。

 ウェルには不確かだった何かがわかってきた。でも、自分の行き着いた考えを否定 したいとも思う。
 認めたくない心。しかし、頭はそれを否定はしない、事実を受け止めろと諭す。
いや、実際は何も分かっていなかったのかもしれない。わかったふりをしているわけ でもないが、なんていうのか、ただ感情が入り乱れる。そのせいで、自分の考えがわ からない、認識できない。それが彼女を束縛する。

 動けない。ウェルはただ声を聞いていた。
 そのまま、男と女性の会話が始まる。

「・・・・子供たちは何処?」

 冷たい女性の声。大切なものを奪われ、それを取り戻そうとしている声。
 あの人はこんな声を出せたのか。そう思うと、切なくなる。
 そんな女性に、男は答えた。

「おいおい、俺たちはお前なんか呼んじゃいないぜ? 用があんのはお前の旦那なん だよ」
「関係ないわ。子供たちは何処?」

 呆れたように言う男に、彼女は静かに問う。それに、男は舌打ちした。
 遠い世界だ。壁一枚向こうが、ウェルとは全く接点のない別世界。
 ウェルには理解できない――理解できていないと本人が思い込みたい――会話がす すむ。

「おいお前、こっちはわざわざおまえの旦那が気に入るように舞台を整えて待ってん だぜ? それを潰すようなことはされたくねぇんだよっ」
「・・・・子供たちをどうする気?」

 男の言葉を聞かず、女性は問う。しかし男はそれを鼻で笑い飛ばした。

「あ? ・・・・はっ、あいつをおびき寄せるための餌でしかねーよ。安心しろって、お 前の旦那が来たらおまえんとこに送ってやるから」
「――っ!」
「もちろん、裏切り者のお前の旦那と一緒になぁ!」

 その言葉と共に、何か風を切るような音。そして、ウェルはそこから感覚を拒絶す る。耐えられないと本能が判断した、防衛行為。

 ――響く。何かがゴトリと床に落ちる音が。

 ――聞こえる。痛みを感じて――もしかしたら、痛みはなかったのかもしれない。 ただ、反射的に――悲鳴をあげる女性の声が。

 ――そしてまた聞こえる。歓喜と怒声が入り混じったものというのか、何かを叫ぶ 男の声が。

 ウェルはとっさに耳を塞いだ。でもすぐに、体を動かさなきゃと気付いた。このま まじっとしていることは、自分に対する裏切りだと感じた。

 見届けると決めたのだから。

 逃げちゃだめなんだ。自分が決めたことに嘘をついちゃだめなんだ。今そんなこと をしてしまったら、もう二度と自分は自分を信じられない、自由になれない。


 心が『今』に縛られる――。


 だから、動いた。立ち上がり、声のほうへと駆け出す。それは無謀な行動だとわ かってはいたが。女性に迷惑をかけるだけだとは、心の中では気付いていたが。
 体は勝手に動いた。
 廊下に出て、場景が目に入る。さっき一瞬廊下から顔を出した時に見た人影とは少 し違う、軽そうな鎧で身を包んだ細面で長身の男が、その手に持った片刃の曲刀で女 性を斬りつけている、その瞬間が。
 そして、斬りおとされた女性の片腕が。

 目の前が一瞬色を失うのを、ウェルは感じた。息をするということさえ、一瞬出来 なかった。

 それでも、ウェルは動いた。腰に下げていたナイフを手に取り、駆け出す。男はす ぐにウェルに気付いたようだが、女性が男にしがみついて曲刀を奪おうとしたこと で、ウェルに反応することが出来なくなる。
 考える前に体が動いた。ウェルは迷うことなく男の足にナイフを突き立てる。鎧を 避けて突き出されたその刃は、男のももに深く刺さった。
 男がくぐもった声を上げる。それを気にすることはなかった。すぐにナイフを抜 く。意外なほどにあっさりそれは抜けた。

「お嬢ちゃん、危ないわ、逃げなさいっ!」

 不意に耳に入る女性の言葉。それと共に、ウェルに感覚が戻った。
 ウェルは、不意に感じたその手に握るものの重みに、一瞬驚く。今まで、これを重 いと感じなかった。その事実にも驚いた。
 でも、そんな感傷はすぐに消す。妙にさっぱりとした気持ちの自分が、どこか遠く 感じた。

「気にしないでくださいです。お付き合いするといいました」

 こんな時にまで自分の心配をしてくれる女性をほうっておけるわけがないでしょう と、ウェルは再度ナイフを男に突き立てようとする。しかし、男もそう何度も不意を うたせてはくれなかった。片腕でしか押さえ込むことの出来ない女性を振りほどき、 ウェルを蹴り飛ばす。
 年の割に幼い体は、簡単に吹き飛ばされた。勢いよく壁に背中をぶつける。こんな 狭い廊下だ、下手したら頭をじかにぶつける所だった。
 しかし、背中を打ち付けるということも、ウェルの幼い体には痛すぎて。一瞬呼吸 困難に陥り、顔をゆがめる。
 それでも、その瞳には男が映っている。認識された『敵』が映っている。
 その目をそらすことはない。男の狂気を含んだその目におびえることもない。ただ 真っ直ぐ、相手を見る。

 ウェルは少し咳き込んで、ナイフをしっかりと握った。相手が手にした武器に比べ るとちっぽけなそれが、ちょっと頼りない気もした。しかし、彼女にはその時逃げた いという気持ちだけはなかった。

 不思議だった。妙に頭は冷静で、物事を客観的に捉えている気がする。

(ぞくに言う、『切れちゃった情態』なのでしょうかねー)

 妙にさっぱりとする感情を内心怖いと思いつつ、ウェルは上体を起こした。少しふ らついたが、大して身体的に外傷はないだろう。そう認識する。痛みはもう感じな い。
 ウェルはちらりと女性のほうを見て、奥歯をかみ締めた。見ているほうが痛々しい 状態だ。
 片腕で無理に曲刀を奪おうとしたからというのもあるだろう。全身に結構な傷があ る。死人だからといっても、この無茶は危険だ。最も、それをわかってはいてもウェ ルには何も言えなかったが。
 原因はウェルだからだ。ウェルが無謀に男に飛びかかろうとしたことで、女性は男 の注意を引かなければととっさに思って、あんな行動に出たのだろう。そういった心 遣いがウェルには厳しかった。

 庇われたという事に腹が立つ。もちろん女性にではなく、自分自身に対してだ。
 それでもウェルは、自分がすることは曲げられなかった。我侭だとしても、ここに いたい。そう思う。その理由は本当に『見届けたいから』だけであるのかはわからな いが。

 ウェルが立ち上がり、女性も体を起こしたことで、男は曲刀を肩に乗せて息を吐い た。

「おいおい、一人じゃないのはわかってたが、何だその餓鬼は? 隠し子か? ・・・・ なわけねぇよなぁ」

 男は、隠れていた助っ人が十歳の小娘だとわかってかなり拍子抜けしている様子 だった。やはり女性が誰かを連れてきていたのは気付いていたらしい。まあ、気付か れないようにしてもいなかったし、ばれるのは当然か。
 ウェルには男が戦士なのか盗賊なのかはわからなかったが、結構実力者なのだろう とは感じ取れていた。何より、自分が傷つけた足に対しても、あまり深手は負ってい ない様子。隙をつけたはずだった、急所をつけたはずだった。それでも、相手にはこ れほどしか通じない。
 なんだか、どうしようもない悔しさを感じた。

 男の口元が、いやらしく歪む。その目は『獲物』を見る目だ。どうしてやろうか品 定めしている目だ。
 こういう男は、殺すことを躊躇わない。そういうのだけは、ウェルにだってわかる ことだった。
 ぎゅっと、銀のナイフを握る手に力を込める。少し、体が震える。
 男が、ウェルを見下ろした。

「それにしても・・・・おい、小娘。さっきのはなかなか痛かったぞ? ああ?」
「それはそれは光栄ですねぇ。貴方みたいな大人の男性に手傷を負わせられるなん て、ほんと、驚きです」

 男の言葉に苦笑を浮かべて、ウェルは言った。挑発しているようで、その本心はど うだか。きっと、思ったことを正直に口にしている。

 自分では、これ以上傷を負わせられるかわからないと。

 それが、正直なウェルの気持ち、感想だった。
 まあ、それでも諦めることなんて――ここまで来て、逃がしてもらえる訳ないで しょうとわかっているし、第一女性をほうっておけるわけがない訳で――なかった。

 ウェルはいつの間にかにじんでいた汗で滑りそうなナイフに気付き、ナイフを両手 で持つことにする。もっとも、雨に濡れていた自分がいまさら汗を気にするのもおか しな話だなとすぐに思ったが。
 男はそんなウェルを見て、口元の笑みを深くする。

「・・・・挑発にしては安っぽいな。ま、餓鬼に挑発なんかできねぇか・・・・さて、と」

 曲刀を構えなおし、男は一歩踏み出した。反射的にか、ウェルは一歩下がる。

 ――その時だった。

「お嬢ちゃん!」

 不意にする女性の声。それは警告。悲鳴。叫び?

 ウェルには、一瞬何が何だかわからなかった。
 ただ、感じる浮遊感。そして、首の絞まる感じ。

 一瞬だった。

「うきゃぁっ!?」

 声を出して、しかし絞まる首に息がしづらくなる。声を漏らすのもすぐに出来なく なった。
 何が起こったか理解するのが遅れたウェルも、ようやく分かる。
 自分が何者かに持ち上げられている――しかも服の襟首を持たれているらしい―― ことが。
 それでもナイフを取り落とさなかったのは、根性としか言いようがないだろう。し かし、それでどうにかなるわけでもなく、むしろ無意味に危ない。

 奥歯をかみ締めた。自分の情けなさを後悔した。

 相手の発言から、男には仲間がいるということが分かっていたはずだった。何よ り、ウェルはここにいる男以外の人影を見ていたのだ。それをしっかりと考えていな かった。
 甘すぎる判断。それは取り返しのつかない結果へとつながる。

 抵抗とばかりに自分を掴む者にナイフで斬りかかろうとするウェルだが、それは あっさりと受け止められた。腕を強く握りひねられ、痛みでナイフを取り落とす。

「いっ・・・・!」
「お嬢ちゃんっ!」

 か細い悲鳴と、悲痛な叫びと。
 その声の主たちが感じたのは、きっと同じ無力感。そして全く違うもの。

「おっと、動くなよ死人が。こっちのお楽しみを潰してくれた礼ってやつをしっかり してやらないと気がすまねぇ」

 ウェルを掴み上げた人物――背の高い朱色の髪を持つ優男――が、ウェルの拘束の 仕方を変えつつにやついた笑みを浮かべる。拘束はゆるくなりはしたが、ウェルが抜 け出せるようなものではなかった。二の腕でしっかり拘束されている状態であり、子 供なウェルはあっさりと捕まえやすい。
 女性は、それを見て表情をゆがめる。それを見た男はにやつき笑いを顔に貼り付け たまま、残念そうに言った。

「全く・・・・まずあいつが帰ってきたときに物言わぬ姿になったお前さんを見てもらっ て、そこに置いてあるメモ見てあいつがここに来た時に、餓鬼共を目の前で殺そうと 思ったのによぅ・・・・生き返ってくるなんて反則だぞこら」
「子供たちを殺させなんかしないわっ!」
「はっ、ただの狩人の娘に何が出来る? 今だって何も出来てないじゃねぇか」
「っ・・・・!」

 男の言葉に、何も言えなくなる。それでも、彼女はじっと男を睨みつけていた。
 その様子を見て、男は鼻で笑う。曲刀を持った男が、彼女の後ろからゆっくりと近 づいていく。

「・・・・まあいいか。どっちにしろあいつももうそろそろここに来るだろうしな」
「・・・・子供たちを返して」
「ああ? ・・・・どうせ後で会えるだろうが。まあ、かたっぽとならすぐに会えると思 うけどなぁ」

 ニヤニヤと笑みを浮かべつつ、二人の男が武器を構える。そんな中でも、彼女は身 動ぎすらしなかった。
 しかし、男の言葉で彼女の表情に変化が生じた。何かいやな予感がする。その言葉 に秘められた何かに感づく。

「どういうこと・・・・?」

 不安がある。それでも問う。問わねばならない。
 その時何故か、彼女はウェルを見た。特に意味はなかったのかもしれない。それで も、目が合った。
 ウェルは、何も言えないでいた。ただ、じっと見ている。見ていることしか出来て いない。動くことが出来ずにいた。それが、とても嫌だった。足手まといで、何も出 来なくて、ここにいる事を後悔している自分。

 やっぱり、自分で決めることなんかやめておけばよかったのだろうか。今まで通 り、回りの言うことだけを聞いていれば良かったのだろうか。
 そんな思いが、後悔の念が、ウェルの心を占める。

 しかし、こうも思う。

(・・・・自分で、決めたんだ・・・・初めてだけど、自分で・・・・選んだ。選んだからには・・ ・・貫かなきゃ、貫き通さなきゃ・・・・いけない)

 不安な表情を女性に見せることはない。そんな甘えは自分が許さない。ウェルは しっかりと女性の目を見た。そらしたり、救いを求めたりはしなかった。

 ただ、真っ直ぐに。

(・・・・私は私を貫く。ここで死んじゃったとしても、自分が選んだこと、悔いなんか ない・・・・きっと)

 不安がないわけではない。それでも、意志を覆す気はない。
 だから、ウェルはただ見ている。見届けると決めたから。その結末がどんなにひど いものだとしても、そう決めた。決意は変わらない。

「・・・・・・・・」

 女性は、視線を男に向けた。もう、ウェルを見ることはなかった。問いの答えを、 ただ、静かに待つ。

 その姿には諦めは感じない。しかし、男たちの行動に逆らう気配もない。
 ただ、静かに。
 問いの答えを待つのみ。

 ウェルを拘束している男は、にやついた笑みを浮かべたまま、彼女の問いに楽しそ うに答えた。

「餓鬼の片方がぴーぴーうるさく泣きやがるからよう、流石にうるさくてかなわな かったんだよ」
「まさか・・・・!」
「ああ、そのまさかさ」

 いやらしく、貼り付けられた笑み。

「もう、殺してやったさ」

 無常な言葉。無慈悲な破壊。

 その言葉と共に振り下ろされた曲刀は、彼女の肉体を破壊するのには充分な威力 だった。





 ただ、何の感傷も感じない。心が麻痺してしまったようだ。
 ウェルはただ、それを見ていた。

(・・・・これが結末?)

 言葉が頭の中に、静かに降ってくる。

(・・・・それで満足?)

 何だか自分のものではないような、言葉。声。

(こんな結末で満足できる? こんな終わり方……終わらされ方、満足できる?)

 ウェルの中に響く、彼女のものではない声。
 知っている、だけど親しくはない声。自分の意志と同調する、自分の意志ではない 何か。
 渦巻いていく、あふれ出てくる、感傷とは違う、それよりも大きく、醜い感情。
 憎悪、殺意、狂気などの、自分とは違う者の感情。

 何かに浸食される。思考することが出来なくなる。世界が闇に沈む。自分を誰かが 支配する。
 切に願う。取り戻したいと。
 ひたすらに願う。ウェルのものとは違う感情が。
 支配される、取り込まれる、逆らえない、逆らう気も起こらない。
 今まで感じたことがないほどの、強い感情支配。

 ただ――。


(・・・・ごめんね)


 そう、最後に言われた気がした。
 そうして、その時感じたのは、どうしようもないほどに切なく、深く願う感情。
 ただ、子供にひと目会いたいと切に願う、母親の心。

 あまりにも切なくて、苦しい、ひたすらな思い――。





「さぁて、次はこいつをどうするか、だな」

 そう言って、男は自分が捕まえたままの少女を見た。少女は今の光景を目にして呆 然としている。

「全く、餓鬼のくせにこういう危ないとこに来るのが悪いんだぜ?」

 曲刀を振って血の曇りを払った軽装の男は、仲間のそばに近寄りつつそう言う。
 このままだとどうなるのか、そんな事わかりきっている。
 少女は死ぬ。ただ、それだけ。
 それが結末。

 ――そう、思えた。

 ――しかし。

「・・・・・・・・」

 少女が何事かを呟く。それが聞き取れなかった男達が怪訝そうな顔をするも、すぐ ににやつき笑いが戻った。
 男達が何事かを言う。しかしそれは少女の耳には入っていなかった。ただ、周りの 音は何も聞こえない。無音の世界。

 その世界で、彼女は動いた。

 男達は油断していた。たった一人残された少女に何もできることはないと。自分達 を脅かすことなど出来やしないと。
 まさか、怨念が残っているなどとは思いもせず。

 拘束を振りほどいてナイフを拾い上げ、少女は曲刀を持った男の額に瞬時にしてそ れを投げつける。不意の行動、予測できない攻撃を、その男はかわすことができな かった。

 たった一瞬の出来事。
 甘すぎる判断。それは取り返しのつかない結果へとつながる。

 ナイフを額に突き刺したまま、男は倒れた。空気が凍りつく。それは真実味を全く 含まない現実。

 静かに、少女は動いた。それに、残された男もすぐに我にかえる。

「小娘がっ! てめぇよくもっ!!」
「・・・・返してもらうの」
「何訳わかんねえことを・・・・!」

 訳の分からないことを言う、そう思った男だったが、すぐに何事かを思い出す。

 ゴーストと呼ばれる存在がいる。死んでも死にきれない者が怨念となって存在する 『人ならざる人』だ。
 それは、今さっき殺した女のことでもある。二度も殺した女の正体である。
 そして、思い出す。その存在の持つ、特殊な能力。

 憑依。

 つまり、今目の前にいるのは小娘ではなく、怨念にとりつかれた復讐者。自分達を 断罪しようとする女。

「くそっ・・・・何処まで俺たちの邪魔をしやがるんだよてめぇはっ!!」

 腰に下げていた短剣を抜き、男は少女に切りかかった。少女はそれをかわそうとす るが、かわしきることは出来ない。右肩からざっくりと切りつけられた。

 しかし。

「・・・・返してもらう・・・・絶対に」
「ちぃっ!」

 怨霊は止まらない。その目は男をとらえたまま、放されることは無い。

「私は・・・・子供達に会いに来たのだからっ」


 ただ、切なる思いが彼女を動かしていた。





 全身が痛いなと、ウェルは思った。
 どうして痛いのかとか、何で自分は床に転がっているのだろうとか、そういうこと は最初何もわからなかった。理解できなかった。
 だから、無謀にも体を起こそうとする。

「――っ!!」

 激痛が走った。特に右肩から。
 あまりの痛さに――痛いを通り越して、感覚が麻痺しているほどで――全身を脂汗 がつたう。というか、何ていうのか意識を失いそうだ。

(何・・・・この痛みは・・・・?)

 全身の力を抜く。ただ、ぐでっと横になったまま、視界に映るものを見た。瞼が異 様に重いことにも、この時やっと気付いた。
 動くことが辛すぎる。そんな状態で映る世界は、暗く、静かで、何だか寂しい。そ して、床に映るのはもしかしなくても自分の血であろうかと、ウェルは口元を引きつ らせた。

 引きつらせたら、痛かった。無意識で自虐的。

 何だか無気力が一番楽な状態の体にどうしようもなくなって、ウェルはそのまま じっとしていた。静かに息を吐く。肺が痛い。呼吸音が変な気がする。
 今まで平和な世界で生きてきたのだなと――あれほど窮屈で自分という意思の存在 する場所がなかった世界も、自分を守っていたことに変わりはなかったのだなと―― 実感した。
 こんな大怪我は、今までで初めてだ。なんとなく、ウェルはそう思った。自分での んきだなとも思う。でも、そういう自分は嫌いではない。

 ふと、そんなことを考えている時だった。

 音がした。駆けてくる足音が。

 その足音の主を見るため、ウェルは油断すれば一瞬で薄れてしまいそうな意識にむ ちを打つ。何とか上体を起こそうとするが、それは叶わなかった。体に力が入らない どころか、動きさえしない。
 重症だなと、細く息を吐いた。
 いや、一般的には重症じゃないかもしれないが、こんなに怪我をしたのが初めて だったウェルにしてみれば、体が慣れていないというのか。神経が持たないのだろ う。血を見て卒倒する人がいるのと同じ原理ではないだろうか。多分。

 そんな中、ぱたぱたという可愛らしい足音が響いてくる。誰だろうと、ウェルは思 考を巡らせた。しかし、こんな所にいる知り合いなど一人もおらず、そして考えるの が無意味なことだったと思い出した。
 ここは廃墟。自分が一人の女性についてきた、初めての場所。

 そこまで思い出して、あの女性はどうなったのか、男たちはどうしたのか気になっ た。そして、女性の子供達。今どうしているのだろう。どうなっているのだろう。
 そして、自分のこの傷はなんなのか。そこも気になった。覚えているのは、曲刀が 振り下ろされるその瞬間まで。そこからしばし何かあった気もするが、記憶は不確か だ。
 不確かなその記憶で、しかし、言いようのない何かを感じてもいたが。
 しかし、それももうよくわからない。

 足音が迫る。その音の主は、彼女の視界にぼんやりとだが映った。どうやら視界が ぼやけていたようだと、ウェルはその時やっと気付く。
 ぼやけた姿。それは、小さかった。
 それ以外に言いようがない。ウェルにはぼやけてよく見えなかったのだから。た だ、大人だとか、そういうものではない。良くてウェルの外見と同じ――いや、それ よりもう少し幼いくらいの子供だった。
 ぱたぱたと、駆け寄ってくる。近づいてきてわかるのは、何かを持っているだろう ということくらい。後は、その髪の色か。

 水の色をした、束ねられた髪の毛。
 あの女性のものと同じ色だった。

 だからだろうか。ウェルは何故か安心した。重い瞼が閉じられる。意識が闇に飲ま れる。

 深い、眠りに――。


「目ぇ覚めたのにもう一回寝ようとすんなタコッ」
「――っっ!!」


 無慈悲な言葉と共に、後ろから体をゆすられた。それだけで言いようのない激痛が 走り、ウェルは声にならない悲鳴を上げた。

 驚いたことに、何者かがウェルの背後――というか、視界外にずっといた。それを 知ったウェルは、涙が浮かんでよく見えない視界で前を見る。何かを持っている水色 の髪の子供は、立ち止まって一歩ほど後ずさっていた。

 当たり前かもしれない。

 しかし、ウェルは気になっていた。この声に聞き覚えはない。もしかしたら、男た ちの仲間かもしれなかった。
 だが、それなら子供が自由(?)に動き回れるのもおかしな話で。

「だえ・・・・?」
「は?」

 出しにくい声で問いかける。しかし声の主は聞き取れなかったようだ。ウェルは少 し無理をして問いかけなおした。

「・・・・だぁれっ」

 そのせいで、咳き込んだが。

「ああ、『誰』かってか。咳き込みながらいうなよ」

 声を出したことで苦しむウェルに、それはあまりにも無慈悲な台詞だった。が、そ んな事お構いなしに、少年は怪訝そうに言う。

「・・・・って、お前こそ誰だよ? まあ、別にどうでもいいことだけどよ・・・・っと、小 僧、それ貸せ」
「あ、はい・・・・」

 ウェルの体をまたぎ、その声の主が子供のほうに行く。視界にその姿が映る所に来 たことで、声の主がウェルにも見えた。
 こちらも、小さかった。いや、ウェルやそこの子供に比べると、少しは背が高いか もしれないが、大人に比べたら小さい。少年くらいだろう。
 何で少年なんかがこんな所にいるのだろう。普通に疑問に思うウェルであった。

 子供から何かを受け取った少年は、ウェルに近づいてかがみこんだ。そして、なに やら面倒くさそうに呟く。その呟きは聞き取れなかったが、ウェルには何か温かなも のが感じ取れた。
 体の痛みが、ゆっくりと引いていく。
 呼吸することに、あまり痛みを感じなくなる。

「・・・・っと、これくらいでいいか。てか、これくらいしか出来ねぇし」

 少し疲れたように、少年は呟いた。その姿が、ウェルにはしっかりと見れるように なっている。
 何が起こったのか、よくわからなかった。しかし、体は痛みを和らげている。ゆっ くりと、体を起こすことが出来る。

「・・・・奇跡?」

 ぽつりと、ウェルの口から勝手に漏れる言葉。それを聞いた少年は苦笑したよう だ。

「一般的にはそう言われてんのかな。まあ、奇跡なんだろうさ」
「・・・・神官様なの?」

 きょとんとして問うウェルに、少年は眉根を寄せて困ったような表情を見せた。

「・・・・いや、そう言われるほど俺は信仰心ある信者じゃないよ」
「そっか」

 動かせるようになった体に不都合はないか動かしてみながら、ウェルは立ち上がっ た。すでにたいした怪我はない。今までの痛みが嘘のようだ。しかし、服のあちらこ ちらはぼろぼろだ。それが怪我をしていた事実を認識させる。
 そんなウェルに様子を見て、少年はため息をつく。

「・・・・なんですか一体」
「ん? いやな、あれくらいの怪我で倒れるなんて、やっぱガキなんだなーと思って ?」
「疑問系ですかっ」
「悪いかっ」
「悪くないですけど・・・・そうだ、他の人はどうなったのですか?」

 傷の痛みが治まってきたことで、ウェルは男たちがどうなったのか、あの女性はど うしたのか、それが気になった。
 そんなウェルを見て、少年はやっぱり嘆息する。

「起きてすぐにそれか・・・・」
「悪いですか?」
「いや、そういう訳じゃないけどな・・・・当然のことなんだろうさ」

 使い終わったらしい手に持っていたものを腰のポーチにしまいこみ、少年はゆっく りと部屋の外へと行く。それにウェルはついていこうとしたが、それを男の子が引き 止める。ぐっとウェルの服を掴んで、まるで行かないでとでも言っているよう。
 ウェルは少し困った。が、結局はその子のそばにいることにする。

「・・・・ねぇ、君はあの人の息子さん?」

 しゃがみこんで目線を合わせ、ウェルはその子に問いかけた。気になっていたこ と。容姿的特徴は一致するが、それだけで血縁者だとは決められない。まあ、よく見 ればこの子もオッドアイだったりするのだが。
 ウェルの問いに、その子は黙ったまま頷いた。自分が言うあの人が誰かわかるのか は、ウェルには少し気になる所だったが。それでも名前を知らなかったのだから仕方 がない。

 そこでウェルは思った。相手の名前を知らないのが結構不憫だということを。
 だから、聞くことにした。

「私はね、ウェルっていうの。君の名前は?」

 まずは、自分から名乗る。長ったらしい名前だから、呼びやすく略してはいたが。
 そんなウェルに、その子はうつむきながらも答えた。

「シンクレア」
「ぬぃ?」

 最初、ウェルは何を言われたのかわからなかった。しかしすぐにそれがその子の名 前だと理解する。
 ウェルは微笑んだ。そしてその子の――シンクレアの頭を撫でる。

「そっか。シンクレアか。いい名前だね」

 ウェルのそんな行動に、シンクレアは嫌がる様子はなかったが、やっぱり視線を合 わせようとはしなかった。照れているのかもしれない。それとも血まみれぼろぼろな ウェルを見たくないだけか。
 苦笑して、ウェルは立ち上がる。少年が何処に行ったのか気になった。
 しかし、シンクレアをほうっていくことも出来ず。

「・・・・ねぇ、シンクレアはさっきの人誰か知ってる?」

 とりあえず、自分より先に少年とあっていただろうシンクレアに聞いてみた。その 問いに、その子は軽く首を横に振る。
 知らないらしい。一瞬、この子のお父さんかとも思ってみたウェルは、やっぱり違 うのかと肩をすくめた。

 では、何者なのであろう。

 こんな所に偶然来るような訳もないだろう。なら、男たちの仲間か。それも違う気 がする。

 謎だ。

「・・・・おい、お前らこっちこい」

 色々と考えている状態だったウェルだったが、不意に少年の声がしたことで、考え るのをやめてそちらへ向かった。それにシンクレアもついてくる。ウェルの服のすそ を握ったまま。
 二人は一緒に廊下に出た。そこで少年が何かをしていたが、ウェルには良くわから なかった。
 来た二人を見て、少年はウェルだけに手招きする。それなら最初から自分だけ呼べ と思ったが、ウェルはシンクレアに手を離してもらい、少年のほうに歩いていった。

「何ですか?」
「ん、ちょっとな・・・・お前、何も知らないでここに来たんだろ?」
「・・・・はい」
「沈み込むなよ・・・・で、お前に頼みたいことが一つ二つある。いいか?」
「頼みたいこと?」
「ああ。無責任な話だけどなー、他に頼めるやついないし」

 そう言って、彼は頭をかいた。自分の選択が、本当に苦渋の案なのだろう。まあ、 見た目十歳の子供に頼むなんて、結構なことではあるであろうし。
 しかし、本当に何者なのであろうか。ここで起こったことを、この少年はまるです べて知っているかのようだ。いや、そうなることを予測していたというのか。
 少年は声を潜め、シンクレアには聞こえないように言った。

「一つ。ここで起こったことが何なのか、俺に聞くな」
「無茶苦茶です、それ」
「だから無責任な話だって言ったろ? ・・・・そして二つ目」

 納得できないでいるウェルに、彼は静かに言った。

「・・・・あそこのガキ連れてここからさっさと逃げてくれ」
「・・・・はい?」

 その言葉は、ウェルには良くわからなかった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 しとしとと、雨が降る。

 あの日と同じ、雨が降る。

 その後、ウェルは家に帰った。シンクレアを連れて。実家の両親には、その姿は何 だとか、その子供は何だとか色々と聞かれた。でも、本人にも何が何だかさっぱりな のだ。説明できるわけがない。

 そして、それからすでに十六年の月日が経った――。

「・・・・姉さん、風邪引きますよ?」

 庭でボーっと雨に打たれていたウェルに、声がかけられる。ウェルは振り返って、 その声の主を見た。

「大丈夫ですよー。いっつもこういう日は雨の下にいますしー」
「そんな根拠のない大丈夫は聞き飽きました。部屋に帰りますよ」

 ウェルの言葉をすっぱりと切り捨て、その人物は屋敷のほうへと歩き出す。

「あ、待ってくださいよぅっ」

置いていかれるのは嫌だと、ウェルは慌ててその背を追う。が、濡れた芝生は滑りや すくて、ウェルは転びそうになった。
 体が傾く。しかし、地面に転がることはなかった。いつの間にかそばにいた青年 が、ウェルを抱きとめる。さっきウェルに声をかけ、ほうって帰ろうとしていた人物 だ。
 抱えられた状態で、ウェルは安堵の息を吐いた。
 が、すぐに頭を軽く小突かれる。

「うきゃうっ」
「注意力散漫。もう少ししっかりしてください」
「うー、ひどいですよぅ」

 そういいつつも、ウェルは笑っていた。こんなこと、日常茶飯事のようだ。
 やれやれと嘆息して、青年は歩き出す。ウェルはほうっていかれないよう、少し早 いペースで歩いた。

「待ってください、シン」
「待ちません。こっちが風邪引くでしょう」
「冷たいですよ〜もうっ」
「冷たいのはこの雨ですよ」
「ぬぃー」
「またそうやってふてくされる・・・・貴方本当に私より年上ですか? 義姉さん」

 そう言われて、ウェルはふてくされた。





 結局、後になってわかったこと。両親が心配して調べだした事実。

 自分が一緒にいた女性の名前はレイピアさん。武器と同じ名前の人だった。
 彼女の旦那さんは、魔法士協会から持ち出しちゃいけないものを持ち出したのだそ うだ。そして仲間達と一緒にそれを売り、儲けを分け合うつもりだったらしい。ま あ、何かがあってその旦那さんは仲間を裏切ったらしく、そしてこんな復讐劇みたい な事件が起こったそうだ。

 真偽は定かではない。当人たちはもういないから。

 裏切ったといわれる旦那さんは、結局見つからず仕舞い。仲間だった二人の男も、 あの建物で物言わぬ姿になっていたそうだ。
 そして何故か、協会から持ち出されたものはいつの間にか協会に戻されていたらし い。その中に、盗まれる前は十点もの精神点を蓄えていた魔晶石が一つあったのだ が、それの精神点が半分も使われた後だったそうだが。

 まあ、そんなことはどうでもいい事で。

 そして、親が調べてきた話の中で、気になることが一つあった。男達が発見された そこに、レイピアさんはいなかったそうだ。まるで最初から存在していなかったよう に。結局何処にも見つからなかったそうだ。旦那さんと同じく。

 事件の真相は、誰も知らない。

 いや、知っている人は一人だけいた。

 あそこで出会った謎の少年。彼は何もかもを知っていたようだ。偶然再会したと き、あの日の話を聞いてみた。聞くなとは言われていたが、気になったのだから仕方 がない。しぶしぶとだが、彼は話してくれた。
 そして、話された真実。
 彼は、レイピアさんの旦那の知り合いだったそうだ。友人といえる関係だったとも いう。その友人が悪事に手を染めたのを知り、どうしようか悩んだ。そして、説得 し、その道から足を洗うように促した。

 しかし、そのせいでこんな事件が起きた。

 すぐそれに気付いた彼がレイピアさんの家へ行ったとき、すでに家はもぬけの殻。 しかも血溜まりが出来ているときた。何かがあったのは見て取れる。
 そして、魔法士であった彼はその力を使ってレイピアさんの居場所を探り当て―― まあ、その後は曖昧にしか話してはくれなかった。あの後何をしていたのか、何故親 友の息子を自分に託したのとかは、全く話はしなかった。
 さすがレーティ・パル信者。いいとこ隠し。
 だが、それが本当のものかは分からない。結局たぶらかされぎみな説明だったのだ から。

 生きている間に世界で起こる事件の中で、こういった事件は別に珍しくもないもの だ。だから、人々からもすぐに忘れられていった。

 しとしとと、雨が降る。
 そんな、気分が沈むような日に起こった、一つの出来事。

 雨は、嫌いだ。その記憶を呼び覚ますから。何も出来なかったことを、思い出させ るから。

 でも、雨を良い天気だと思う。
 その記憶を呼び起こしてくれるから。忘れるなと、そう告げるから。

 しとしとと、雨は降る。


「で、姉さん。明日は晴れると思いますか?」
「晴れるですよ〜。だって、この天気の次の日はいっつも空気が澄んでいて、いい天 気なのですよぅ。明日もきっといい天気ですっ!」
「・・・・そうですか。その根拠のない発言は聞いていて清々しい時もありますね」
「馬鹿にしているのですかーっ?!」
「おや? いまさら気付きましたか?」


 くすくすという笑い声と、少女の怒声が雨の中響く。そして二人は館の中に戻って いった。


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