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天使と出会った日
作者名: VGAP

 

 100万の民が集う都市、トロウ。膨大な街中には用途も大小も様々な建物が無数にあり、日々人生と 言う名の演劇の舞台となっている。

 これはトロウの一角のそれ程大きくないト・テルタ教会でのささやかな物語。一人の女の子がちょっと した事に気付いたある日の物語。



「あら、今日も来たのねアンナちゃん」
 歳は30位だろうか、修道衣を身に纏ったシスターの穏やかな声が響く。彼女が話しかけた相手はやや おざなりに挨拶を返し、そのまま神像の前まで歩いていき跪いた。
「...............」
 苛ついた表情で目を閉じ手を組んだのは少女と言うには幼く、幼女と言うには成熟しすぎている 女の子。黄色いヘアバンドが長めの茶髪を飾り、健康的に焼けた肌が着古した感のある青い ワンピースに包まれている。ぎゅっと瞼を閉じた顔の作りは将来に期待を持たせる程度には整っていた。
 シスターは何も言わず、自分の仕事に戻る。アンナは以前から両親に連れられてこの教会に通って いたが、ここ一ヶ月程は自分から毎日来て祈る様になっていた。
 祈り始めてから半刻程過ぎた頃だろうか、アンナは癇癪を懸命に抑えているのが一目で分かる表情で 立ち上がる。これも何時もの事と化していたから、シスターは何も言わなかった。アンナの零れる様な 囁きを聞きとめるまでは。

「ト・テルタ様のバカ...!」

 無意識に洩らしてしまったのだろう、アンナは言って直ぐに狼狽する。彼女の焦りはシスターの視線に 気付いた時に倍増した。
「あ、あの、今のは、その...」
 普段通りの表情のシスターが近づく程、彼女の恐怖は増す。白い、暖かい手が彼女の頭に乗せられ、 ゆっくりと撫ではじめるまで。
「何があったか、話してくれる?」
 予想とは正反対の対応にアンナの瞳は大きく広がり、やがて大粒の雫をボロボロと零し始める。 彼女がシスターの腕の中に飛び込み、泣き声を上げ始めるのに時間はかからなかった。

 

 香り高いロシアンティーがイチゴと砂糖の臭いを漂わせ、胡桃入りのパウンドケーキと共に少女の唇を 誘惑する。普段の彼女なら礼儀作法を忘れて飛びつきたくなる様な取り合わせだが、今日のアンナの 気分を浮き上がらせるには役不足だった。
「すみません…」
 シスターはアンナの謝罪には応えず、自分のロシアンティーに口をつける。沈黙が続き、静寂が教会を 満たす。アンナが耐え切れずに洩らすまで。
「シスター。どうして…どうしてト・テルタ様は私のお父さんとお母さんを助けてくれないんですか?」
「ロバートさんとニーナさんに何かあったの?」
 子供らしい、脈絡を得ない唐突な質問。シスターはそれをゆっくりと噛み砕き、穏やかに問い返す。
「お金が無いんです…何時も困っているみたいなんです…えっと、その…農産物の相場が上がって 仕入れが難しくなって…大型食料品店の方に人が行く様になって…売り上げが落ちているのに値段を 下げないといけなくなって…だから…借金をしないといけないかも知れなくて…」
 10歳の少女が懸命に説明しようとする様は哀れでもあり、滑稽でもある。勿論シスターに専門的な 話が理解出来る訳でも無いのだが、アンナの説明の欠片の数々と自分の一般的な知識を 照らし合わせ、大体の事情を察する事が出来た。

 大商都と呼ばれるトロウは事実上グラード一裕福な都市だが、光あらば影あるのが常で巨万の富を 築く豪商も居れば日々の糧に喘ぐ貧乏人も居る。トロウの経済的な活気は熾烈な資本競争の 賜物である為、商人は正に生きるか死ぬかの競い合いを繰り広げる事を要求されるのだ。
 アンナの家は食料品店を営んでいる。トロウに無数にある商店街の一つに門を構える 『ルイジアナ・グロッセリー』はどちらかと言えば小さく、品揃えもこじんまりとした物で大成は見込めない 様な店である。故に経営は易しい物ではなく、経済と言う荒波の機嫌次第では簡単に赤字に 追い込まれてしまうのだろう。

 シスターがそこまで推測出来た頃には、アンナの瞳は再び潤みを帯び悔しさと焦りに震えていた。
「…どうしてですか、シスター!私、頑張って勉強して、学年で一番なのに。毎日沢山お店のお手伝い しているのに。それでも駄目だったから、毎日祈りに来たのに…どうしてト・テルタ様はお父さんと お母さんを助けてくれないんですか?どうして幸運を授けてくれないんですか!」
 唇を不平に吊り、涙を怒りで抑えている少女の問い掛けにシスターはしばらく考えた後、おもむろに 聖書をアンナに手渡す。
「アンナちゃん、6ページ目を音読してみて」
「…ト・テルタ様の教え、及びその信者が守るべき事。
一つ、人々に幸運を与えよ、笑わせよ。
一つ、全てを美しく、華やかにせよ。
一つ、狂う者を止めてはならぬ、されど共に狂うは良し。
一つ、楽しみを味わえ、常に楽しめ。
………?」
 怪訝な表情でアンナはゆっくりと読み上げ、目でシスターに問う。お決まりの戒律に何の価値が あるのか?と。
「その聖書を一日だけ貸してあげるわ。今夜辺りにでも、好きなだけで良いから目を通して御覧なさい」
 何の解決にもなっていないし、お父さんとお母さんを助けてくれないト・テルタ様の教えなんか 知りたくない。口よりも明確に語る目を見て、シスターは苦笑しもう一つ助け舟を出す事にした。
「八百屋さんのポリーさんとは仲が良かったわよね?」
「え…はい、良く林檎を貰ってます」
「家具屋さんのマイケルさんとも良く喋っていたわよね?」
「はい、しょっちゅう仕事を見させて頂いてます」
「リュンクス亭のザックさんとはどうだったかしら?」
「毎週月曜日細々とした物を届けています」
「そう…それじゃあね、今日中に皆さんに会ってみなさい。その順番にね。その後お父さんとも話して みると良いわ」
 困惑がアンナの顔に浮かぶ。青い大きな瞳が雄弁に理解出来ないと語るが、シスターは微笑んでこう 付け足しただけだった。
「皆さんのお話を聞く時に戒律を思い出してごらんなさい。きっと、何かが分かると思うわよ」


「よっこいしょっと」
 沢山の林檎が詰まった籠を持ち上げ、腰に力を入れ歩き出す。ただそれだけの作業だが、それでも 何回も繰り返していれば疲労が積み重なる物である。だからこれが最後の一籠だと分かっているのは 有り難かった。
「まぁ、次はコレが待っているんだけど…座れる分だけマシね」
 木製の椅子に腰を下ろし、林檎を一つ一つチェックしてから売り物を置くテーブルに並べていく。時々 傷が付いていたり、形が極端に歪な物を袋に入れる。やがて一つの林檎につきあたり、作業を止めた。
「これはどうしようかねぇ…」
 傷は一つも無く、形も良い。だが熟れすぎている林檎。今食べたらさぞかし良い味がするだろうが、 売り物として並べれば一晩で腐り使い物にならなくなってしまう。そんな微妙な具合の林檎を彼女は 眺めていた。
「こういう時、あの娘が来てくれれば都合が良いんだけどねぇ…」
 脳裏に艶やかな茶髪と大きな青い眼が印象的な少女を思い浮かべた時。
「ポリーおばさーん!」
 まさにその瞬間、アンナ・ルイジアナが駆け寄って来たのはト・テルタの思し召しだろうか?ポリーは そんな事を思いつつ、捨てようかどうか迷っていた林檎をほうって寄越した。
「わぁ、何時も有難う!」
 アンナは器用に林檎を受け取り、すぐさま被りつく。皮の渋みと甘酸っぱい果汁が口の中で弾け、 彼女の顔に笑みをもたらす。釣られてポリーの顔にも笑みが生まれた。
「アンナちゃんはその林檎が本当に好きだねぇ。大抵の子はもっと甘い種類の奴が好きなのに」
「でも、私、この酸っぱい味が好きだし。甘すぎるのは嫌なの」
 そう言って再び林檎に 齧り付くアンナを微笑ましく見つつポリーは林檎の選別作業に戻る。間も無く アンナが林檎の芯に辿り着くのとほぼ同時に全ての林檎をチェックし終わり、値札を置く。その値札を 何気なく見たアンナはきょとん、と目を大きくさせた。
「あれ?お値段上がったの、おばさん?」
「そうだよ。今年は軽い凶作らしくてねぇ。他の野菜もほれ、去年より高くなってるだろ?」
 そう言って値札の数々を手で示すポリーの顔には相変わらず人の良い笑顔がある。アンナは まじまじと不思議そうにその笑顔を見つめ、ややあって失礼だと気付いて林檎をまたしゃぶり始める。 しかし今度はポリーが不思議な顔をする番だった。
「どうしたんだい?狐に化かされたみたいな顔してさ」
「いえ、あの…お値段が上がったのに、どうしておばさんは嬉しそうなのかな、って思って」
 少女らしい率直な疑問にポリーはカラカラと笑う。それがますますアンナに首を傾げさせた。
「そりゃあね、お値段が上がるとお客さんもあんまり買ってくれなくなるから嬉しい事じゃないさね。けど、 それはあたしだけの事じゃないんだよ?この林檎を育てたお百姓さん達だって、この林檎を買いに来る お客さん達だって林檎が買いにくくなるのは嫌なんだよ」
「…だったら、どうして?」
「そうだね…さっきあたしがこんな顔してアンナちゃんを出迎えたらどんな感じがする?」
 そう言ってポリーは目を吊り上げ、口を裂き、眉を歪めてメデューサの様な表情を作る。アンナは一瞬 ぽかんとした後、けたけた笑い出した。
「あ、あははは!!あは、ご、ごめん、なさ…あはははははは!!」
「あっはっは、やっぱりおかしかったかい?でもまあ、あたしが何時もそんな顔してたら嫌だろう?」
「うん、それはそうだけど…」
「だからあたしはなるべく笑う様にしているのさ。その方が周りの人も笑いやすくなるし、そうなれば あたしももっと笑える。よく金は天下の回り物って言うけど、あたしにとっちゃ笑顔こそ天下の 回り物ってね」
 そう言ってポリーはまた人の良い笑顔を浮かべ、今度はアンナが釣られて笑う番だった。

 その刹那。
「………!!」
 アンナはまるで稲妻に打たれたかの如く立ち尽くした。
 〜人々に幸運を与えよ、笑わせよ〜

「アンナちゃん?どうしたんだい?アンナちゃーん?」
 ポリーの声が彼女を現実に引き戻す。アンナが立ち尽くしていたのは数秒間だけの事だったが、 それでも余程おかしな様子に見えていたのであろう事はポリーの心配そうな表情が証明していた。
「どうしたんだい?急に固まっちゃって」
「あ、い、いえ、何でもないんです…り、林檎有難う御座いました!」
 慌しく頭を下げ、ぼうっとした表情で立ち去るアンナを見て、ポリーは首を傾げる事しか出来なかった。



「馬鹿野朗!口答えする位ならもう来んな!」
 怒号がやや狭苦しい工房に響き渡る。罵倒を浴びせられた青年は何か言い返そうとしたが、 向き合っている壮年の男の般若の如き表情を見て押し黙り不貞腐れた顔で出て行った。
「ったく…」
 男はぶつぶつ口の中を濁らせつつ、金槌と釘を取り出すが彼が仕事に戻ろうとした所で静かな足音が 聞こえてくる。彼は金槌をウォーハンマーかの如く構えつつ、湯気が立たんばかりの赤ら顔で 振り返った。
「今更言い訳なんぞ聞く気はねぇ!とっととずらからねぇとドタマカチ割るぞコ…あり?」
 彼の視界の先に現れたのは不貞腐れた顔をした憎らしい青年ではなく、泣きそうになって怯えている 少女だった。
「あ、ご、ごめんなさい…す、すぐに、出ていきますから…」
「あーあーあー!ちょ、ちょっと待て!アンナちゃんに言った訳じゃないんだ!ほら、泣かないでくれよ、 な、な!」
 男は必死になって謝罪を重ねる。その甲斐あってアンナは泣き声を上げる事なく笑顔に戻り、彼は 安堵の溜息をつく。アンナを落ち着かせたのは彼の滑稽な謝り方だと知れば、かなり複雑な感情を 抱いたであろうが。
「…どうしたの、マイケルおじさん?さっき飛び出して行った人、丁稚奉公してた人でしょ?」
「あー…まぁ、コイツを見てくれや」
 マイケルが示す物は、今出来上がったばかりと思わしき椅子。座る分には問題ないが、所々歪に 曲がっていたり釘の打ち込み場所がずれていたりする微妙な代物だった。
「これ、どうしたの?」
「さっきの馬鹿がこさえやがったモンだよ。こんなん売り物に出来るか、作り直せって言ったら座れるから 良いじゃないか、なんて抜かしやがった。それで首にしてやったってとこよ。ったく、最近の若い奴は 職人魂ってモンが…っと、こんな話、アンナちゃんには分からねぇかな」
 苦笑しつつ頭を掻くマイケルが見た物は、細い腕を組んで懸命に考え出すアンナの姿だった。
「ええと…」
「…どうしたんだ?おじさん、何か変な事言ったか?」
「ううん、そうじゃなくて…ちょっと待って…」
 うんうん唸りつつ頭を捻る彼女の姿は不思議でもあり、滑稽でもある。マイケルはしばらく待つが、 少女は考え込み続ける。そろそろ仕事に戻ろうか、と思った矢先にアンナは何か閃いたと言わん ばかりに頷いた。
「おじさんの言ってる事、私分かると思う、多分…」
「へ?」
「あのね…うちのお店でもね?何時も綺麗に掃除してね、見栄えが良くなる様に売り物並べるの。 その方がお客さんが気持ち良く買い物出来るから。えっと…『心のゆとり』が必要だからなんだよね? 見栄えに拘るって事は…」
 アンナは拙い言葉遣いで所々つかえながら答え、恐る恐るマイケルの顔を伺う。家具大工の男は一瞬 呆けた顔をして、それから機嫌良さ気に笑い出した。
「よーく分かってるじゃねぇか!そのとーりそのとーり!どーせなら汚い物より綺麗な物を見る方が 良いだろ?それを面倒くさがっちゃズルズルと怠け者になっていくってこった。アンナちゃんがこれだけ しっかりしてりゃルイジアナ・グロッセリーの将来も安泰だな!」
 豪快に笑うマイケルを尻目に、アンナはまた考え込んでいた。

 〜全てを美しく、華やかにせよ〜
「…こういう事だったんだぁ…」
 今度は稲妻に打たれた様な衝撃は無く、光が目の前に開けていく様な間隔を味わった。

「おじさん、ありがとう。じゃ、これで私帰るね」
「え?ああ、そうか…って何で礼なんか言うんだ?」
 訳が分からない、と言う顔のマイケルに対してアンナは子供っぽい微笑みを浮かべ、クスクス 笑い出した。
「内緒内緒。それじゃあねー」
 去っていく10歳の少女に対して胸を高鳴らせたマイケルは、その後10分間に渡って己の頭を殴り 続けたと言う。



「ヘイらっしゃい!…ってアンナちゃん?今日は何も頼んでなかった筈だよな?」
 飲食店リュンクス亭の店長兼シェフのザックは面食らう。何故この少女がこの日、この時間に 来たのだろう?
「今日は、ザックさん。今日はお客さんとして来たの。ジンジャーエール一杯下さいな」
「またそれかい?アンナちゃんの年でそれ好んで飲む子なんて俺ぁ他には知らねぇよ」
 ザックは手早くジンジャーエールの瓶を空け、コップに注ぎ込む。アンナはがらがらのカウンターに つき、好物で喉を鳴らせた。
「んにしてもよ。どーしたんだい?普段は月曜日にしか来ないし、何時も嫌そうな顔してあの連中を 避けてとっとと帰っちまうのによぅ」
 ザックが顎でしゃくった先にはドラ声で歌と思わしき音を発し、エールのジョッキを何杯も傾けている 船乗り達がいる。リュンクス亭は寄港中の船乗り達の溜まり場として賑わっている為、ほぼ毎日彼等の 様な者が騒いでいた。
 以前のアンナならなるべく彼等を見ない様にしつつそそくさと用を済ませ退散するのが常だったが、 今日の彼女は船乗り達を興味深く見ていた。
「ザックさん、あの船乗りさん達何処から来たの?」
「ん?確かルアーブルからだったな」
「へぇ…そんなに遠い所から来たんだ…きっと、大変だったんだろうね」
「そうだな。この季節は時化が多くて、しょっちゅう難航するらしいぜ。三日後からまた同じ道で同じ目に 会わないといけないんだから、ご苦労なこった」
 普段とは明らかに違う態度を取るアンナの様子をいぶかしみつつも、ザックは職業柄身に付いた 話術で彼女の疑問に答える。丁度その時船乗り達がト・テルタの賛美歌を歌い出し、上品とは言えない が活気に満ちたメロディを店中に響かせる。
「また始まったな…ま、下卑た歌歌うよりは良いけどよ」
 やれやれとコップを磨き始めるザック。彼は次の瞬間コップを取り落としそうになり、目と口を縦長に こじ開けた。
 アンナが歌に混ざったのだ。
 吟遊詩人達の職業的な上手さこそ無い物の、成熟の初めに半歩踏み入れた少女の歌声は琥珀の 様な透明な美しさと青い果実の様な瑞々しさがある。船乗り達も驚いた表情でアンナを見、歌を止め、 店内の音はアンナの柔らかい歌声だけとなった。
 やがて歌が終わり、アンナがペコリ、とお辞儀する。ややあって船乗り達が拍手と歓声を上げ始めた。
「おお!良いぞお嬢ちゃん!きれーな声だったぜー!」
「おいおい旦那、こんな歌姫が居たんだったらもっと早く紹介してくれよ」
「次は『マーメイドの園』歌ってくれよ!」
「う〜ん、後5年行ってりゃマジで口説くんだけどなぁ」
「…光源氏計画…はっ!な、何を考えているんだ俺は…」
 多少危険な発言も含まれていた物の、概ね良い反応が返って来る。ザックが呆気に取られている 間にアンナは笑顔で船乗り達に混ざって行き、楽しそうに話し始めた。

 〜狂う者を止めてはならぬ、されど共に狂うは良し〜
「ここにもあった…私が知らなかった事…」
 アンナの心の中に、暖かい光が広がって行く。きっとこの光の先に素敵な何かがある。彼女はそう 確信していた。



 上機嫌で足取り軽く自宅へ戻ったアンナを出迎えたのは、青筋を立てて箒を突き出した父親の ロバートだった。
「何処ほっつき回ってやがった!もう閉店時間を20分は過ぎたぞ!さっさと掃除しやがれ!」
「えへへ、ごめんなさい。直ぐに済ませるから許して、お父さん」
 アンナは笑顔のまま箒を受け取り店内を掃き始める。予想外の反応に毒を抜かれたロバートは 腑に落ちない表情のまま閉店作業を再開するが、鼻歌を歌いつつ掃除する一人娘の姿が気になり どうしても集中出来なかった。
「…どうしたんだ?今日はやけに楽しそうじゃねぇか」
「今日はちょっと良い事があったの」
「そうか?まあ、それなら良いけどよ…」
 掃除が雑になっている訳でもないのだし、娘の機嫌が良いに越した事はない。ロバートはそう自分を 納得させ、帳簿にペンを走らせる事に意識を傾けた。
 帳簿作業と箒がけが終わるのとほぼ同時に彼の妻のニーネが奥から夕飯の完成を告げる。 相変わらずにこにことしている娘に首を傾げつつ帳簿を片付け、狭い廊下に入り台所兼食卓へ 向かった。
「お父さん」
「うん?何だ?」
「お父さんは、食料品店やってるの楽しい?」
 何をいきなり、と問いただしそうになったロバートは娘の瞳に以前は見られなかった何かをみつけ、 立ち止まって顎を撫でつつ考え出す。彼が答えを頭の中で纏めるには時間がかからなかった。
「楽しくなけりゃやってられねぇよ、こんな儲からねぇ商売。朝早くから準備して、夕方までずっと せせこましく動き回らなきゃいけねぇ。飯を食う時間はロクにねぇし、面倒臭ぇ計算は何時まで経っても 終わりゃしねぇ。精一杯良い食材を並べているって言うのにテメェのちゃぶ台に並ぶのは余り物や 売れ残り物ばっかり…お前はどうなんだ?」
 父の正直な返答にアンナは戸惑い無く微笑みを花咲かせた。
「私は楽しいよ。お客さん達と色々話せる時。欲しい物をみつけた時のお客さん達の顔。売り上げを 計算し終わって、ああ今日はこれだけ働いたんだなぁって言う感じ。確かに大変だけど、私この店が 大好きだから!」

「ん………そうか。ま、飯食いにいくぞ」
 今日一日の間に一年は成長したかと思える様な自分の娘の態度を密かに喜びつつ、ロバートは ぶっきらぼうな態度を崩さなかった。

 〜楽しみを味わえ、常に楽しめ〜
「楽しみを味わえ、常に楽しめ…ですよね、ト・テルタ様…」
 アンナは自分の心中の光の道の終点が近い事に気付いていた。



 その晩、アンナは屋根裏の狭い自室で夜空を見上げながら、シスターから借りた聖書を読んでいた。
「私、分かってなかった…分かってたつもりで分かってなかったんだ…」
 自分が如何に狭い考えを持っていた事か。今となっては笑う事すら出来なかった。
「苦労している人は、私やお父さんお母さんだけじゃなかったんだ…」
 そして自分は幸運だったのだろう。良きシスターに導かれる事が出来たから。
「ポリーおばさん、マイケルおじさん、ザックさん…ありがとう…」
 例えそのつもりが無くても、自分に真実の一片を見せてくれた3人には感謝のしようも無かった。
「本当の幸運は、本当に頑張った人に与えられる最後のご褒美なんだろうな、きっと」
 そして自分はまだ本当に頑張った訳じゃない。必要な事をしていただけに過ぎなかったのだ。
「私も…人を幸せに出来るかな?
 美しくなれるかな?
 狂っても良いのかな?
 楽しめるかな?」
 夜空に問いかけてみると、答えるかの如く流れ星が一すじ落ちた。

 ここでアンナが目を瞑り、手を組んだのは何故だったのか。
 そして目を開けた彼女が見た物は夢か現か幻か。
 彼女がその答を知るのはずっと後の事だった。



 光の道が、急に開けた。
 星の海が彼女を歓迎した。
 言葉も音も匂いも温度も無い世界。恐らくは、この光景も本当の意味で『見ている』訳では ないのだろう。
 ここが天国なのかな?と思える程落ち着けた。
 上、下、右、左。前、後。あらゆる方向に無限に思える星が在った。
 彼女は幼子の様にはしゃぎ回り、あてずっぽうに選んだ星の一つに近づいていく。近づくに連れ、 彼女は更にはしゃぎだした。
 星の一つ一つがそれぞれ生きていた。
 優しい微笑みを浮かべた乳母。力強く剣を構える老騎士。赤子を抱いて横たわる狼。彼女と同じ位の 年齢の少年も居れば、図鑑でしか見た事が無いモンスターが居たりもした。
 そのどれもが己の内から輝きを発していた。
 彼女は呼びかける。言葉で、仕草で、接触で。しかし返事が返って来る事は無かった。
 わたしは一人ぼっちなんだろうか?彼女が泣きそうになった所で、もう一つの事に気付いた。
 星のどれもが、他の星と色も長さも太さも様々な光の糸で繋がっていたのだった。
 わたしも輝きたい。わたしも繋がりたい。
 彼女は強く、強く願った。
 すこしずつ、すこしずつ光が彼女の体から生まれ、やがて弱弱しい淡い光が彼女を包む。そして 細い糸がじれったいほどゆっくりと伸びだした。
 実際に待ったのは如何程だったのか?この世界に時の概念があるかすら分からないまま、彼女に とっては永遠の様に感じた間の後、繋がりが造られた。
 数多の星が一斉に彼女に微笑み、語り始めた。
 【おめでとう】
 【ようこそ】
 【よろしくね】
 彼女はこの上なく幸せな笑顔で答えた。



 チュンチュン、チチチ…
 朝の来訪を告げる鳥の声が、アンナの目をゆっくりと押し上げた。
「あ………寝ちゃってたんだ、私…」
 小さくも慣れ親しんだベッドに寝ていたのは、彼女の母親のお陰だろう。アンナは欠伸をしつつ、毛布を 跳ね除け、ベッドから降りようとして…目の前を凝視した。
 やたらと分厚く、彼女の頭より大きい辞典が浮かんでいた。
 しばらく空飛ぶ辞典との睨めっこと言う奇妙な光景が続いた後、アンナはふと脳内に沸き上がってきた 片言の言葉をゆっくりと投げかけてみる。後日神聖語だと理解するそれは彼女が今まで聞いた事も無い 言葉だったが、何故か通じると分かっていた。
 辞典は音を立てないが、彼女の心には返答が入り込んでくる。異物が頭の中に入ってくる感触 だったが不快感は無く、むしろ心地よいとすら感じる。アンナは満足気に微笑み、もう一度未知の言語で 話しかけた。
「よろしくねっ、私のレキシコン!」


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