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種族名

−プロローグ−

 

「……はい?」
「聞こえなかったのですか? ニーナ・アントルイス」
 彼女――ニーナはきょとんとした表情のままその問いには答えず、ぼんやりと辺りを見渡した。
 さほど広い部屋ではない。無論、この空間を全て一人で所有できるとなればそれなりの広さなのだろうが、所狭しと置いてある本やら訳の分からないカラクリやらが、この部屋を息苦しいまでに狭くしている。
 教員室――あるレベルに達し、他の者に魔導力学法――魔法を教育として伝達できる能力があるとみなされた者――まぁ、ようは教師にだけ与えられる個室だ。
 もともとトロウの三大商人の一人、グランカルヴァー家がある企画のために建設を始めたらしいのだが計画半ばで断念したらしく、魔法士協会が建物だけ安く買い取ったものらしい。そんなもんだから、ところどころ建築の不備が見られる。
「……ニーナ・アントルイス?」
 もう一度だけ、目の前に立っている女魔法士から声がかけられる。ニーナはぴょこんと、その瞳の焦点を目の前の女性に合わせた。
「あ、はいっ。シルヴァナ先生」
「聞いていましたか?」
「はいっ。聞いてはいたんですけど……」
 ニーナはもじもじと指をつっつき合わせると、ずり落ちかけていた黒ブチのメガネを慌ててかけなおす。そのメガネは少女には少々大きすぎる代物らしく、すぐまた重力に負けて下へ下へと降りてくる。
「あの……もう一度言ってくれますか? シルヴァナ先生」
 上目づかいに見つめられ、シルヴァナはため息とともに一旦目を伏せると、軽く息を吐いて真直ぐにニーナの瞳を見つめた。いつもは純粋な好奇心の輝きを見せるその瞳も、今は少しの不安に曇っている。
「私、トロウ魔法士協会第三十五期認定魔法士シルヴァナ・テーラシャスアは、ニーナ・アントルイス魔法士見習いに分相応の実力が備わったと判断し、魔法士に仮認定することを宣言します」
「…………」 
 ニーナはその言葉を懸命に反芻した。反芻して反芻して反芻して……そしてようやく飲み下す。
「ほ…ほんとう……ですか?」
 おそるおそる尋ねてくる新米女魔法士に、ベテラン女魔法士はにっこりと頷いた。
「ええ。おめでとう。ニーナ」
「わはっ♪」
 ニーナはそれを聞いて跳びあがらんばかり――いや、実際跳びあがって喜ぶ。
「ただし」
 くるくると踊り出しそうな気配さえみせるニーナを、シルヴァナはぴしゃりと諌める。
「た、ただし?」
「ニーナ。私が二十秒前になんと言ったか覚えていますか?」 
「え………?」
 ニーナは今一度ずり落ちてきたメガネを直すと、慌てて視線を宙に投げる。
「あ…え〜と……トロウ魔法士協会…第……三十五期認定魔法士、シルヴァナ・テーラシャスアは、ニーナ・アントルイス魔法士見習いに……分相応の実力が備わったと判断し……えっと…魔法士に仮認定することを……仮?」
 そこで、ニーナの唇と視線は引きつった様に固まる。
 シルヴァナはこくこくと頷いて言う。
「そうです。仮」
「あ……あの……かりって?」
「言葉の通りです」
「あの……もうちょっと具体的に…」
「つまり、本決まりじゃないということです」
 瞬間、あからさまにニーナの首は重力に負けてがっくしと傾く。
 それを見てシルヴァナは上品に眉をひそめると苦笑をもらす。
「ですからニーナ、あなたには1年間、見聞のために大陸を巡ってもらいます」
「……えっ?」
 涙まで浮かんでいた瞳を、ぴょんと教師に向ける。
「ニーナ、魔法士協会の上層部があなたを『仮決定』したのにはそれなりの理由があります。あなたの『魔導力学法を行使する能力』はすでに私が太鼓判を押しましょう。しかし、『魔法士』としての能力にはいささか不安があります」
「魔法士……としての、能力?」
「そう。状況を判断し、それに適した公式を組上げ――実行させる。それにはどうしても机上では学べない『経験』が必要になります」
 そういうと、シルヴァナは自分の机の上から、一冊の真新しい本を手渡した。
「これは?」
 真新しい、皮をなめしたハードカバーの表紙にはなにも書かれていない。題名も、著作名も、なにも書かれていない。
「開けてみなさい」
 促されてニーナはおそるおそるページを開く。予想通りと言うか――そこにはなにも書かれていない。白紙だった。おそらくどのページもそうだろう。
「先生? これ……」
「そこに、旅で経験したこと、学んだことを書き記していきなさい」
「え……?」
「その本が記したことでいっぱいになるか、1年が経った時、我がトロウ魔法士協会は、あなたを正式に魔法士と認めましょう」
 ニーナはぽかんとした表情で、その表紙も作者名もない本を眺めた。
 だが……やがて少しずつではあるが、旅への不安と興奮。そして未知のものへの観察欲がふつふつと沸きあがってくる。
 そのニーナの表情を見て、シルヴァナは優しく微笑んだ。
「行きなさい。準備はしっかり整えるようにね」
「はいっ!」
 ニーナは師から手渡された白紙の本を胸に抱え、元気よく返事をした。


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