テーマ〜「芭蕉」「猩々、乱・双ノ舞」

■第29回能を知るつどい■ 平成14年3月2日(土) 於:国立能楽堂
今回の集いでは秀麗会の「芭蕉」と「猩々、乱・双ノ舞」をテーマにすすめました。
本田光洋(2002/3/8)

芭蕉の精が僧の御法を受け草木成仏の喜びを舞う。そして僧の庵の傍らには月の光のもと、雪をかぶった破れ芭蕉が残されていた、というのみのテーマである。能らしいといえばまさにそのとおりです。

植物としての芭蕉は大きさに反して樹木ではなく草に分類され、稲、ススキと同様に葉を取り除けても何も残りません。

それ故古来仏教ではこの世の存在の無であることの例えにされています。

夭逝の俳人川端茅舎は川端龍子の弟、兄と同じく画家を目指し修業しましたが身体が弱く、画業をあきらめ、1942年亡くなりました。
庭の片隅の芭蕉を詠んだ句が多く残されています。
ひろびろと 露曼陀羅の 芭蕉かな
月光の 露打ちのべし 芭蕉かな
今朝秋の 露なき芭蕉 憂しと見し
芭蕉葉や 破船のごとく 草の中
金剛の 露ひとつぶや 石の上
芭蕉と言えば、露、というがごときです。「露の消息」という日記形式の随筆もあります。
露とは、空気中の水分が地面または葉のうえに水滴となったものというのが科学的常識でしょう。
私(本田)が花屋でミニバナナという30センチほどの鉢植えを買ったのは2年程前です。室内で観葉植物として眺めていました。ある日近くの紙が濡れてシワシワになっていました。翌朝もです。

見ていますと芭蕉の葉の縁に水滴が並び、下へ落ちてゆきます。室内ですからいわゆる夜露ではありません。謡曲にも「芭蕉の露の降りまさる」「霜の経(たて) 露の緯(ぬき)こそ 弱からし」「芭蕉葉のもろくも落つる露の身は」と出ていますが、これは芭蕉自身の水分だったのです。

芭蕉の肌はヒンヤリとして、古来インドでは女性の肌に例えられるとかです。中年の女性の姿で現れる芭蕉の精もなかなか色っぽいではないでしょうか。

茅舎と虚子のもとで親しかった俳人に松本たかしがいます。宝生流の名人松本長の長男として修業をしたが病弱で断念せざるを得なかった経歴が互いに通じるところがあったのでしょうか。

共に病み 共に訪はづよ 春を待つ(久しく茅舎に会はず)
夢に舞ふ 能美しや 冬籠り
おもかげや いつも砧を 打ち打ちて(亡父が最後の能は砧なれば)
舞まうて 面なや我も 年忘れ(俳能会にて七八年ぶりにて葛城を舞う)
 芭蕉を詠んだ句もあります。
花ひとつ 確と存して 破芭蕉
 露より破れ芭蕉を詠んでいるようです。

さて舞は「序ノ舞」です。能はパターン化された演出が特徴です。
井筒、野宮、楊貴妃などみな同じ序ノ舞を舞います。白鳥の湖と胡桃割り人形の中心部分が作曲も振り付けもまったく同じ、というようなものです。
少しテンポの早い舞に「中ノ舞」があり、胡蝶、西王母などに舞われますが、序ノ舞との違いはわずかです。(実演有り)。参加の皆さんにも扇を持って構え、歩みを体験していただきました。

猩々も中ノ舞ですが、「乱」になると途中から特殊な笛の譜になります。
序ノ舞がごく静かに進むのに対し、乱はテンポの緩急変化が多いのが特徴です。足使いもすり足だけではなく、流れ足、千鳥足など変化に富んでいます。新宿あたりでもしばしば見られるかもしれません。

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