本田光洋後援会通信 その2

 ■2000年12月■

◆本田 布由樹

早いもので、あと1ヶ月程で2000年も終わってしまいます。コンピュータの 2000年問題騒動で幕を開けたいろいろと騒がしい一年でした。

ついこの間まで受験勉強をしていたような気がするのですが、もう大学2年生と しての時間も残り少なくなってきました。入学してから1年と数ヶ月も経ちましたが、何やらあたふたと過ごしてきました気がします。

今大学では外国語や教養科目など一般的な授業の他に、大鼓・太鼓・小鼓・ 笛の囃子と、観世流の謡を習っています。なかでも曲者なのが観世流の謡いです。入試の課題に含まれるため入学前から少しづつ習ってはいたのですが、 未だに金春流の癖が出てしまい、なかなか思うようには謡えません。

芸大に入って一番刺激になったことは、能や他の邦楽に関わる同年代の友人と 共にいられる事です。もちろん金春流にも同じくらいの年の人はいますが、 それが3、40人といった人数になると話しは別です。それに、やはり他流の 友人と出会えたことです。単に世間話のような話題から、観世流の友人に 観世流謡本の読み方を教えてもらったりと、いろいろと話題は尽きません。

また、自分が学校の稽古舞台が空いている時に仕舞の稽古などしていると、 横から自分たちの流派とはどこそこが違うとかいろいろな茶々が入ります。 謡いを口ずさむ人の横でバイオリンを練習しているような少々騒がしい所 ですが、そんな学校だけに様々な人と出会えます。

大学主催の演奏会などの準備で忙しい時もありますが、毎日楽しく通っています。また来年は2月の秀麗会で葵上のツレを演じます。この曲のツレは座ったままの状態が長いので、今から気をつけています。
◆武蔵野美術大学講師 正田 夏子

「修羅物の出立から 〜法被と長絹〜」

能の修羅物には主に源氏方をシテとした勝修羅物と、平家の公達をシテとした 負修羅物とがある。「八島」「箙」といった勇壮な勝修羅物の多くは繻子地に 金襴で模様を織りだした袷法被を着けるが、負修羅物では中将や十六といった白面の美青年という趣の面に、呂や紗で織られた雅やかな長絹や単法被を 着けて戦場の鎧姿とする。

先年、実盛をされるにあたり本田先生より「能の法被は何から来ているのか」 とのご下問があった。16世紀頃の武士の戦姿、鎧下に着ける直垂から能に 持ちこまれたとするのが最短距離の説明だが、どうやらそう単純ではないようだ。

「直垂」というのは2つの前身頃が並べて仕立てられたところからその名が あるのだが、能の法被の古い形態には身頃の前を深く合わせるために小袖の ような衽が付いており、直垂や素袍といった襖の系統とは別物であることが わかる。また、脇を襴で繋げているところからは室町期に流行した十得や 後の羽織の系統に近い服飾のように考えられる。

さて、「朝長」専用の装束としては観世家伝世の「懺法の法被」が良く知られている。流儀の方さえ拝することが難しいというこの名品は、足利義政からの 拝領品で義政の僧服を直したものという。萌葱色の紗に蜻蛉を織り出したこの 装束にも小さな三角形の衽が付いており、仕立ての古様を感じさせる。(こうした衽付きあるいは衽の名残がみられる形の法被は近世末まで長崎や柳川、鶴岡などの遠方の地域に残った)

現在、負修羅物の型付けを見ると「長絹、単法被にても」と、替装束のような 扱いになっていることが多いが、服飾史からみると長絹は武家社会の直垂が 権力の伸長にしたがって公家社会へと持ち込まれたいわば「公家用の直垂」で、能の長絹ももとの直垂の継体を踏襲しており、当然衽はない。この二つは別系統の服飾なのである。しかし公家で使う絽の直垂は-鞠水干-のように裾を 着込めず、袴の表に出して舞装束や戦の姿としたのは、十得のように「広袖物を羽織る」という着用法が古態の能に活かされた結果かもしれない。

十得という名が僧服の「直綴(ジキトツ)」から来ているという説もあり、また禅宗で言う法被とは、高僧の椅子の背にかける、そのもののことを指す。善政拝領の僧服が朝長用の装束として仕立てられたのは、今に広く残る優れた 演出だったのではないだろうか。


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