今回は我が家のPCに残る旧nifty、いわゆるパソ通時代のNIFTYのログから。
一応出元を書いておくと、FRPG−テーブルトークRPGを扱うフォーラム−におけるある発言からの発想である。なお、幾つかの事情から直引用は避け再編していることを予め表記しておく。
価値相対主義。
「価値観は人それぞれ」という主張のこと※。主観要素の絡む議論においてこれを出せば、相手が効果的な反論を立てるのは困難なある種究極の武器といえよう。
これについて、発言者氏はこう主張している。
価値観は個々人の思い入れであるから人それぞれではあるが、対象物がその使用目的に即して役に立つかどうかも考える必要がある。役に立たないものに価値観を主張したところで無用という事実が変わる訳ではない。
目的が明確になればそれに合わせて評価も明確になるが、往々にして価値相対主義者は目的を見失っている、あるいは評価が下がることを恐れて意図的にぼかしている事が多い。
元ねたはTRPGの話であるが、ここで話を人形界に当てはめてみる。
TRPGの場合、いかなる関連アイテムに対しても「ゲームとしてプレイする」もしくは「ゲームプレイに貢献する」という共通かつ明確な目的があり※2、その線に従ったいわば絶対的な価値観というものが提唱できる。しかし、人形趣味の場合そもそも共通目的自体が不明確ではないだろうか。
一応「その姿を観賞する」というのが最小公倍数的な目的※3として考えられるが、困ったことに何を観賞の中心に置くかによって評価軸=価値観のベクトルは全方位に拡散する。
例えば衣装を中心に置く場合、そのデザインや生地の選択、縫製の仕上がりといった要素が評価軸になる。本体が中心になる場合、衣装の出来は最悪「似合うかどうか」のレベルまで格下げされ、本体の素材や人型としてのバランス、細部の造形、あるいはフェイスデザインという要素が評価の中心となる。極端な例としてエロ系魔改造ではいかにエロの要素を強調するか(それが時に周囲の失笑を買おうとも)、異形系魔改造では造形面も含めいかに他人を圧倒するか(?)が評価軸となる。
さらに、観賞ではなく使用されることが重要な目的となる人形(知育玩具としての幼児人形など)や作者の意思の現われとして造ること自体にも意味のある創作人形も含めると、人形において絶対価値観を求めることは不可能にも思われる。
幾つかの例外を除けば産業用でない人形、特に今流行っている成人が購入するファッションドールやコレクションドールには実用的目的は存在しない。せいぜいその実態も不明な「癒し」程度か。
冒頭の論を借りれば、目的がない=評価軸のない所で価値を論じている事になる。そこで言われている価値とはすなわち「個人の感性の集合体」というなんともあやふやな基準だ。時流やその時々の流行り廃り、さらには価値を論じるその場の成員の趣味趣向によってその基準はたやすく反転する。まさしく価値相対主義そのままの世界である。
そうした状況において、個々人の感覚差はあるとしてもほんのささいな差をとりあげて類似品だコピーだとあげつらったり※4、気に入らないからといって存在その物が許せない、排除しろといったような意見が横行するのは人形界の可能性の幅を狭め、ひいてはジャンルの衰退につながりかねないと考えているがどうだろう。
細かく言えば、従来型の着せ替え人形には女玩として「情操教育」「服装のTPOを学ぶ」「将来のロールモデル(♪大人になったら何になる)の形成補助」といった効能が期待されているが、この項目の対象者は成人であるのであえて除外させて頂く。