
ブータン神秘的編
5月10日/5月11日/5月12日
1999年5月11日(火)プナカ〜トンサ〜ジャカール
今日は中央ブータン「ブムタン」のジャカールまで
くねくね山道(でも、国唯一の横断道路)を8時間かけて移動だ。
途中に点在するみどころをポツポツと訪ねながらの
移動なので、なんとかやっていけるだろう。ちょっとため息。
ミネラルウォーターを買い込み、毛布もしっかり車内において
大移動の決心をきめいざ出発!
話はそれるが、わたしは最初に決意をしないとだめなのだ。
例えば、注射をする前に「この注射はすごく痛いんだすごく痛いんだ」
と自己暗示をかける。で、注射された後
「なーんだ思ったより痛くないジャン」と思い込むことで安心する。
ある時、うっかり油断してこの注射は全然痛くないよーといわれ
ぼんやりしてたら、手の甲にブスリと太い点滴を刺された。この時は
医者の頭をスリッパで殴ってやろうかと思ったほどのショックを受けた。
で、何が言いたいかというとこの移動はタイヘンなんだ、きついんだ
とっても遠いんだと自己暗示をかけることにより、
到着してから「なーんだ思ったよりラクチン」と
爽やかに感じることができる、きあ流思い込み儀式なのである。
わたしはこのワザを編み出すのに20年を費やした。
そのおかげでいつもポジティブだ。(ほんまかいな)

州境のゲートもカラフル
|

山!山!山〜〜!
|

こんなの点在しまくり
|

山におうちがへばりついてる
|
車は舗装されていない道を走り、景色は延々続いていく。
途中、白人サイクラーを追い越したわたしたち。
ビックリして、R氏に
「あの人にはガイド付いてないよ!フリー旅行できるじゃん」
と鼻息も荒く質問すると、
「さっき立ち寄ったところにガイドはいたよ。
ガイドは伴走車として後からついてくるんだ」
「でええっ。何日も何日も、自転車の後を追うだけ?
で、もちろん旅行料金はおなじ?」「yes」
結局ガイドって見張り役も兼ねているんだろうな。とそのときに思う。
その白人サイクラーは、自分の速度でゆっくり、時に空や山の緑を
みつめながら、かみしめるようにペダルを漕いでいる。
バックミラーに映る彼の姿がぐんぐんと小さくなっていく。
私たちのスピード、彼のスピード、ブータンのスピード。
さて、あいかわらず気温の移り変わりが激しい。
車の揺れにまかせ、うとうとと船を漕いでいたら、寒さに起きる。
毛布をかけ直し、またうとうとしていたら熱い陽射しで目覚める。
これは寝るな!景色みとけ!という神のお言葉か。
そんなとき、いきなりRが車を停め、降りていった
なに?おしっこ?じゃないらしい。すれ違った車からも
人が降りて来た。なんとRの奥さんらしい。
偶然にしてもすごいなあと感心していたけど、
よく考えると、ブータンにはこの道しかないのだ。
日にちさえあっていれば、かならずすれ違うのは当たり前。なるほど。
Rの故郷はタシガンというブータンでも
もっとも東側に位置する土地で、奥さんのツェリンは、里帰り
していたらしい。2日かけて車でティンプーにむかう途中だった。
奥さんに奥さんのいとこ、ドライバーにもうひとり、
なんと黄色い袈裟を着たタイのお坊さんだ。
「ボクの友達でタイの僧、キウィさんです」と
紹介してくれたR。なぜここにタイの坊さんがいるのー、と
頭はクエスチョンマークだらけだが、ニコニコごあいさつ。
キウィさんはタイ僧らしくなく、笑顔がすてきで
とてもくだけた感じ。まさにファニーな坊さん。
どうやら、わたしとキウィさんの帰国日は同じらしく(けさんの帰国日は別。なんと入国してから滞在延長可能!かっこいい!)
最終日のホテルも同じをとっているとのこと。
「彼は生年月日を見て、その人の将来が占えるんだよ」
と聞いた私たち。もううきゃうきゃいいながら、ぜひ
後日占っていただこうとはしゃぎ、その場は別れた。
ブータンて国民総親戚状態だなあ。どこにいっても知った顔がいるとはすごいもんだ。

くねくねくね。気が遠くなります…
|

ヨ・トンラ最高地点。3000m越え〜
|
その後、3320m地点という、この横断道路もっとも高い峠である、
ヨトンラを通った後、トンサで昼飯タイム。
小さな小さなトンサで、この旅のために用意した
スケッチブックと水溶ペンを取り出し、メシの準備の間、
ひとりでメインストリート(50mくらいのただの道)に座り込んだ。
「そこのちびっこ、ちょっとここに来たまへ」
さっきから好奇心イッパイのうるうるの瞳で私を見ていた
少女達に声をかける。嬉しそうな彼女たちにジェスチャーで
「動いてもいいけど、目線はココね」とお願いして、
何年ぶりかの絵筆をとる。といってもお遊びのへたくそスケッチ。
そうこうしてる間に、きあと少女達の周りは
あれよあれよの人だかり、満員御礼!状態。
「なにしてんだ?」
「なんか日本人みたいな人がこの子たちの絵かいてるわよ」
「おお、どれどれわしにみせろ」
「ああ、いいなーわたしも描いて描いてえ」
というような会話が行なわれているのかわからないが、
もう恥ずかしくなってしまった。ウエーンごめんなさい、へたくそで。
できあがったスケッチも、みせろみせろの大騒ぎで
30人ぐらいの人が回し見している。笑う者あり、うなずく者あり。
ひとりのオヤジが英語で話しかけて来た。
「すばらしいね、実はこの子の父親なんだよ。
よかったらこの絵をくれないかな。そしてわしの絵も描いてくれ」
「うっ。ごめんねおやじさん。もう時間がないし、
これは大切な思い出として日本に持って帰りたいんだよ」
あげたいのはヤマヤマだったが、オヤジも快諾してくれた。最後に
「うちの子を描いてくれてありがとう」
といわれ、ちょっぴりジーンとしてしまった。
いえいえ、こちらこそありがとう。ありがとうね。
トンサをでてすぐに、けさんがレストランに指輪を忘れたことに
気がつき戻った。たった20分のことでも、ほとんどの国では
とっくにそんなものはなくなっているのが普通だ。
しかし、指輪はあった。しかもレストランの人がわざわざ洗って
大切にとっておいてくれた。
すばらしい…感動。

スケッチのモデルっ子
|

制服かな?すごくきれいですね
|
さて、車の揺れのすごさにムチ打ち寸前、というところで
パッと目の前が開けた。ここが中央ブータンであるブムタン。
ブータン西側の大都市がティンプーなら、
東側の大都市がここジャカールである。でもけしてけして
常識として頭にある都市を思いうかべてはいけません。
ほんとに、静かな静かな村、というか集落なのだ。
私の常識など、ブータンを前にしたらなんと陳腐なことか・・・
メインストリート(50mくらいの広めの道)を抜け、山のほうへのぼると
一面リンゴ畑。スイスホテルというブータンに魅せられた
スイス人が経営するホテルに到着だ。
オーナーをチラッと見たがゴを着たサンタクロースという風情だ。
今夜私たちがおじゃまするオウチの娘さんがここで働いているらしく、
彼女をピックアップしてうかがうのだ。
そのお宅のコドモはなんと女の子ばかり6人。
さぞや壮観であろう…
しかもスイスホテルで働く、
クンザン・デマちゃんもとっても可愛い。
Rがしつこく「僕のジャカールの恋人だよ。ねっ」と
冗談まじりに言っていたが、絶対本気でお気に入りなんだと思う。
その時、けさんが「あ、テレビにでてたでしょう」と言うではないか。
そう、実はクンザンちゃんのお家は、98年にフジ系で放送された
感動エクスプレス「ばんばんのブータン紀行」で
ばんばひろふみが1週間ステイしたあのお宅らしい。
まじい?あのテレビみたよー(ビデオ録画のやつ借りて)。
そうかそうかばんばんね、と言うと、クンザンちゃんはにこにこ。
どうやらばんばんと言う日本語に反応するらしい。
かっ、かわゆい・・・。
スイスホテルでお茶を飲みながらクンザンちゃんのあがりを待つ。
その後、町でちょっとしたものをRが買い込み、いざお家へ!
うおおおお!鼻血でてるでてる!(嘘)
水車で回るマニ車やダルシンのたつ小道をぬけ、
伝統的なブータン建築の民家にたどりつく。
日本とは違い、メインの部屋はすべて2階にある。
玄関も階段をあがった2階。きしむ廊下を抜け、まず仏間に通される。
ちらりと居間をのぞくと、おじいちゃんやばあちゃんなど
かなり大勢のひとたち。ドキドキしながらも、
やっぱファーストインプレッションが大切でしょ!と思い
「クズザンポーラ」(目上の人にはラをつける)と声をかけた。
みんなにこにこにこにこして「クズザンポーラ」。
お、お世話になります、よろしくね。
日本の仏間を想像すると、床の間の横に紫壇かなんかでしつらえた
ちょっぴり地味な仏壇の奥に控えめな筆書きの曼荼羅。
お供え物はごはん盛り、お花は菊とかシキミとかだよね。
しかし・・・ブータンの仏壇はすごい。カーニバルの始まり?って感じだ。
中華系の仏壇(神棚?)もすごいけど、想像を絶するきらびやかさ。
ばんばんのTV番組を見た人ならわかるだろうけど、
とにかくキンキラキンで、砂糖とかお米でつくった派手なお供え物があり、
国王の写真が20枚ぐらいベタベタ貼られ、曼荼羅もビビッドだ。

仏間でウエルカムティー(?)
|

みんなでハイポ〜ズ
|

明日からリオのカーニバルです、といっても疑われない派手仏壇
居間では薪ストーブがたかれ、ホカホカと暖かい。
どっこらしょ、おじゃましますよっ、ん?
うわあ!壁に、壁に石川秀美と菊池桃子のポスターが!
どうやら人気があったらしい・・・おそるべし、ジャパニーズアイドル。
ほんとは、ちゃんと家族を把握しようと思ったのだが、
まったくもって、このお宅の家族構成がわからない。
まずおばあちゃんとおじいちゃんがいた。でも去年ひとりおじいちゃんが
なくなったらしいが、それは誰のおじいちゃんだい・・・?
もうひとり、プレおばあちゃんのような人もいる。
さらにおとうさん、おかあさん、娘6人、おばさんらしき人、30代くらいの
男性・・・・。ああ、ここの居間の人口密度っていったい。
とにかく娘たちがかわいい。ここで娘っ子の紹介をしよう。
長女は町で別暮らし。
ソナム・チョデン次女。社交的。
クンザン・デマ三女。はにかみ屋。
ツェリン・ラァデン四女。ほとんど話せなかった。
ツェリン・パルデン五女。いつもニコニコしてた。
クンザン・チョデン六女。すぐに慣れた。
ツェリン・チョデン長女の子ども。たぶん3歳くらい。みんな「コドモ」と日本語で
言ってたのが笑えた。
区別がつかん名前やのぉー。名字がないとはいえ、わたしも困った。
ツェリンだけでも3人おるやないの!
ちなみにRの奥さんも息子もツェリン。
この国の名前はユニセックスなのだ。
・・・・ほんと、常識なんてすてなきゃだめです。
さて、円陣を組んであぐらをかき、でてきたお料理をいただくことに。
わざわざスプーンを用意してくれたけど、
郷にいれば、郷に従えと郷ひろみも言ってた
ことだし(?)みんなと同じように手で食べてみよう。
まずはちょっとだけゴハンをつかみ、コネコネして
手のひらのヨゴレを落とします。なるほど、水がいらないね。
その後、右手できゅっとごはんをつかみ、ぎゅうぎゅうと
片手だけで丸め、スープやおかずなどに漬けていただくのだ。
ポロポロとこぼしながらもんまい!んまいね、みなさん。
今夜のメニュー
・レッドライス(赤米)
・ノルシャ(牛の煮込み・まさに角煮)
・エマダツィ(トウガラシのチーズ煮込み・激辛)
・クレ(そばパンケーキ・ブムタンの名物)
・プタ(そば・太麺のそば)
・ダル(豆だっけ?わすれた)
・ジャナペツィ(水菜のおひたし・うまくてたいらげてしまった)
・マ(バター)
・オムン(牛乳)
ここで注目、なのはそば。
この地方の名産品であるそばは、ほとんど日本と同じ製法、
同じ食べ方で食卓にのぼる。伝統的な料理なのだ。
そば粉をこねこねし、押し出し機に入れ、うえから人がのる。
その重さで麺がおしだされる。かなり太いが味はまさにソバ。
ただ、あまりにも自然そのまますぎてジャリジャリなのね。
そばの実がじゃりじゃりに残っているので、けっこう食感はすごい。
私はまるで石を食べてるような気分になったので、
歯触りがダメということであまり食べられなかった。

円陣で食う。戦国武将の気持ち
|

ケツ圧でそばを押し出す娘
|
みんなにこにこしながら、生のとうがらしをバリバリ
食っている。しかも塩をつけながらだ。
エマダツィも、チーズの部分はなんとかイケるが、
さすが家庭料理、もう辛さに手加減はない・・・いいの。これでいいの!(泣きながら食う私)
食事の後はワイワイとのんびりしたひととき。
とにかく愉快だ。何をしてるかと言うと何もしてない。
テレビもファミコンもなんにもない。でも楽しいのだ。
薪ストーブのまわりには、猫が二匹心地良さそうに寝ている。
おとうさんやおじいちゃん、Rはお酒をのみそれぞれいろんな話をする。
私はがむしゃらに?絵を描き、
けさんはみんなに日本語を教えたり。
なんだろうな、この雰囲気。あったけー。
その後、階下の娘たちの部屋にいき、アルバムを見せて
もらう。部屋はこざっぱり。壁にはインドのスターや
アメリカのアイドルのキリヌキがベタベタ貼られている。
洋服だってもっている。かなりおしゃれだ。キラばかり
着ているわけじゃないらしい。
西洋文化の流入は、もうとめられないのだ。
どんなに政府がきめていても、一般人レベルでは、
ちいさなちいさなところから、西洋の文化は入り込んでいる。
外国人が入らない方が、ブータンの文化が
このままずっと守れるから、このままでいてほしいね
という意見をちらほらと聞く。
でも私はその意見にうなずくことができない。
自分でもうまく言えないけど、なんか違うような気がするのだ。
それって「外国人の一時的な感傷」に過ぎないのではないか?
長女のソナムがこうつぶやいていた。
「アメリカで勉強がしたいの。でもお金もないしビザがおりないの。くやしいけど、いつかきっとね」
ものすごく印象に残った言葉だ。
文化を守ることと、国の門を閉ざすことは違う。
私は通りすがりの旅人だ。ただの異邦人だ。
だから、これ以上のことは語れないけれど、ただひとつ。
ブータンにきたら、世界観かわる。価値観かわる。
自己啓発セミナー行くくらいなら、ブータン行け。
まじで。
5月10日/5月11日/5月12日
>>TOP
|