妄想展示室:「矛と盾」

妄想放談(旧文書2)
The delusive talking / Old documents selection #2

戦慄のミラー・イメージ(サイト開設時)
The horrible mirror image

 人形にはまって以来何度も浮かんだ疑問。
 なぜ自分はこうしているのか? それは『正しい』ことなのか?

 購入品にしろ自分のカスタム品にしろ、人形と向き合うその時、自分は本当は何を見ているのか。
 時に人形好きは対象である人形をあたかも独自の意思や感情を持つ存在であるかのように表現するが、生物でもAIでもないただの物体にそれらがある訳もない。モノに人間性を見るとき、それは実際にはモノを鏡として映し出された自分の理想像、ミラーイメージを見ているに過ぎない。そのことに自分のナルシズムを目の当たりにしたような戦慄を覚える。

 そもそも今流行の人形とは厳密には着せ替えである。元々は女児が着せ替えで遊ぶための玩具、更に歴史的な起源を求めれば人間用衣装のデザインを伝達する手段として造られた木製人形になるという。つまり主役はあくまで衣装にあり、人間のファッションモデルがそうであるように人形本体は衣装を引き立てるための存在に過ぎない。
 私を含む今の人形使いが本体にキャラクター性を認めそれを愛でるのは本末転倒、邪道の行ないではないのか? それは着せ替えのフォーマットを借りるのではなく例えば作家名付きで展示される創作物としての人形、もしくはキャラクター模型が担うべき役割ではないのか?
 確かに現在では本来の着せ替え人形にも固有のキャラクター性、周辺設定が付与されている事がほとんどである。しかしそれは玩具としての必然性、子供が玩ぶための手掛かりとしてのものではないのか。いわゆるコレクション・ドール、収集を目的とした大人の為の人形においてそのような話は余り聞かない。

 今や何百もある人形使いのWeb サイトには『俺設定』を付与された人形達が1個のキャラクターとして存在し、時にそれらが物語を紡ぐこともある。かくいう私も例外ではない・・・・が。
 造られたものが所有者の理想のミラーイメージなら、それが語る話も当然ミラーイメージであろう。自己満足の連鎖。内部では納まりきらず、外部へと溢れだして行く。そこにいる他者が受け入れる・入れないを気にもせず。
 自己の行ないに思い巡らすとき、その内容に時に吐き気すら感じることもある。

 人形に映し出される自己満足とそれへの戦慄、両方を抱えながらなお夜中に部品を組み立て、耐水ペーパーを掛け、顔を与えている自分、その行為を楽しんでいる自分がいる。それは正しいことなのだろうか?

 理性と欲求、ともに納得行く回答はいまだに見つからない。

 そして一番恐れているのは、これらの人形が自分の意識下にある女性(あるいは男性)の理想像を体現しているのではないかと言う疑惑である。