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母からの手紙

宮崎康子

 

当時、私は二十一歳、某新聞社の主催する留学生試験に受かって、単身パリに留学していた。学部の学生がヨーロッパに留学するなどということは、まだ極く稀であった時代で、遠藤周作の「留学」に描かれている程ではないにせよ、日本は未だ野蛮人の国のように見なされ、日本人とヴェトナム人は混同され、滞在のための手続きに行っても、たらい回しにされるばかりで何日もかかってようやく一つの事に決着がつく有様で、英語は通ぜず、試験に受かって行ったとはいえ、まだ心もとないフランス語で、居住するための手続きの一切を片付けるのは、それまでお嬢さん育ちで何もかも人任せで育って来た私には大変な苦労だった。

 その上、大家族の中で育ち、五人兄弟で賑やかに暮らしていた身であったから、パリの街の美しさ、道行く人々の装いの華やかさはいくら眺めても見飽きぬものであったとはいえ、異郷での一人暮らしの淋しさは、特に夕暮れ時など胸を締め付けた。そんな時にはよくノートルダム寺院に行って、みごとなステンドグラスを眺めたり、運が良ければパイプオルガンの演奏に聞き入ったりして、気を紛らわした。

 

 だが私には大望があった。世間知らずな若者にしか抱けない大望である。私は学部の卒業論文のテーマとして、ジャン・アルチュール・ランボーという十九世紀の詩人を選んでいた。ランボーという詩人は、ご存知の方もあろうが、十七歳にして、見者、すなわち宇宙の中に実在するのだが、通常の人間の目には見えない物を見て取る能力を持つ者となって、見た物を、物そのものであるような言語を発明して、いささかも歪めず写し取ることを企てた人間である。だがこの人間には不可能な企ては当然成就せず、理想に敗れた彼は詩を捨てる。そして大地に生きる人間となるためにアフリカに去り、武器の商人となった。

 私は、彼の手紙と作品を一読するや否や、人間の可能性の限界に挑もうというこの詩法に心を奪われた。普通の人間の中では眠っている可能性を全力で掘り起こす、なんと魅惑的なことだろう。私も、自分の認識能力を限界まで育んでみたい。私の場合、それは知性を磨くことに向けられた。私は、知性以外の全てを自らの内から排除して、純粋知性となって、人並みはずれた認識力を得たいと望んだ。

 それはランボーの影響ばかりだったとは言えない。私自身も彼同様、青春時代から絶対的認識力を得たいという欲望を持っており、高校時代の終わりからは座禅に通ったりもしていた。知性の偏重と禅とは矛盾するのだが、父が毎朝唱えていた「般若心経」の冒頭の「観自在菩薩」という言葉が私の心を捕らえ、私も観自在になれるよう修行したかったのである。

 だが大学に入って、自分と同じ資質を持つランボーに出会い、禅の修行は止めて、フランス文学科に進んだ。そして勉学に励み、留学することとなったのである。

 留学の奨学金は一年間しか出なかった。フランス語の勉強を始めて三年目の学生にとって、一年間の留学は、その国に慣れることと日常会話を習得することで手一杯であるが、私は大学の外国人用の講座の最上級に入り、猛勉強をした。ランボーを読む時間はなかったが、彼の目論見への賛同は私の心を離れたことがなかった。

 街路樹の葉の舞い散る秋がきて、幹だけになった木々が暗い空に浮かぶ陰鬱な長い冬がきて、突然陽光が降り注ぎ花々が一斉に咲き乱れる北国の春がきた時、母と妹が、私が居るうちにと、パリへ二週間遊びに来ることになった。

 私は、安いけれど、こ奇麗でお風呂も付いている宿を探して、3人で泊まることにし、昼間は授業の合間をみて、母と妹に、短い滞在を充分に楽しんでもらおうと、一生懸命色々なところを案内した。週末には一泊旅行もした。

 そんなある日のある夜のことだっただろう。私は、日本にいてはいつも忙しくてゆっくり話も出来ない母に、何時間もかけて、自分の将来の希望について話した。その時母がどう対応したかはもう覚えていないが、二人が帰国してから一週間ほどして、母から長い手紙が来た。

 ここにその一部を写しておきたいと思う。何故なら、その後いったん帰国した私はランボーの歩んだ軌跡を自らのものとして追い続け、完全な認識力を培うという漠然とした目的の為に修士、博士と進み、当然のことながら挫折し、生きる望みを失いかけた。理想に到達し得ない自分自身を憎み、自ら命を断とうとしたこともある。それでも何故か、何物かに引き止められて、その試みは成功しなかった。そして、失意の中で生き続け、再び三年間留学し、帰国後一応博士課程は満期退学し、偶然の機会から、幾つかの大学でフランス語を教えるようになった。後にはランボーについての授業も持つことになった。そして、多くの文学好きの学生たちと触れ合うことになり、その中には当然、私同様、過剰な生の欲望を持つ者たちもいて、40年近い教師生活の間には私の授業に出ていた学生の中の何人かが、観念的理想と現実の相克に敗れて自殺した。私はその度に自分の教師としての無力を感じた。私自身が、挫折感の中で死を想いながら生きていたから、前途有望な学生があたら若い命を散らしてしまうのを看過しているしかなかったからである。

だが50歳を過ぎたころから、私のランボー観は変わった。と言うよりも、それまでは、自分の体験に引き寄せて読み違えていたのが、正しく読めるようになったのである。確かに若年のランボーは、人間には到達不可能な理想を抱き、その実現のために渾身の努力をしながら、結局は挫折し、死を考えたこともある。しかし、そうした精神の葛藤の歴史を「地獄の一季節」という一冊の詩集にまとめることによって挫折を乗り越え、死を希求する心を捨て、大地を踏みしめて生きる方向へ向かった。観念の呪縛から解放されたのである。

私は次第に死を選ばなかったランボー”に惹かれるようになり、その姿を若い人々に伝えることを自分の使命と感じるようになった。

その時思い出したのが、かつて母が私に、心を込めて書いてくれた手紙である。四十年以上前に書かれたものであるが、最初に読んだ時から心に残っていたので、数度の引越しにもかかわらず今も手元に大切に取ってある。

原口統三という詩人が、やはり純粋精神に憧れて自殺した時、その遺稿集「二十歳のエチュード」に森有正が「立ち去る者」という序文を寄せているが、私は以下に引用する母からの手紙は、学識という点では勿論比べ物にならないが、若人を思いやる心の深さという点では匹敵すると言って良いのではないかとすら思っている。一介の主婦として毎日家事に身をすり減らしながら、母は娘に対する愛情によって、こんなにも深く物事を考えていたのだ。

以下に主要な部分だけ写す。

「・・・・・・思考の世界は概して人間性の本質よりもろいものです。純粋を求めすぎ、最高を求めすぎて、現実を否定する方向に近づかない様に。あるがままの人生をあるがままに眺めましょう。ゆったりとね。

人生に、自分にきびし過ぎない様に。客観視して気楽に行きましょう。

考える世界に自分を投げ込むのは痛々しい。その世界に自分が安住出来ると思わないで

下さい。絶えず迷いと支えが必要でしょう。下らないと思う事が若しかすると大切な事

(勿論自分にプラスになる)なのかも知れない。

個人がどの様にあろうとも、空は青く、山は緑に、河は流れ、海は洋々と、人間など

には無関心で存在するでしょうね。そこにうごめく人間の悲喜劇は、過去も未来も同じでしょうね。科学は進歩しても人間性と云うものはあまり変わりませんものね。時代の特色はあるでしょうが。自分は「人間喜劇」の外に居よう、又居られる、居て見せ様などと思わないで下さい。

気を張って生きる事はありません。一生懸命になる事もありません。何時か自然にそこに引き込まれた時、一生懸命におなりなさい。そうしたら楽しいでしょう。

つきつめ過ぎると平衡を欠きます。バランスを失うと判断はきっと浅くなるでしょうね。

人生に即して物事を考え、呉々も考え上げた世界へ自分を投げ込まないように。

 何か「書きたい」と確か言っていた様に思いますが、哲学、宗教ならぬ文学では、色々なものが美しくミックスされなければならないし、逃避的傾向は作品を貧しいものにするのではないでしょうか。(一年位禅寺にこもるとか言っていたから心配でね。悪い事ではないけれど、私としてはね、あまり変わった人生を送って貰い度くないのですよ)

 今日は疲れも少々なおったので思いついたまま書きましたが結局世間並みになって欲しいと云う事になってしまいました。世間並みな常識を否定しないで下さい・・・・・・」

 

 吉原幸子という1932年生まれの詩人がいる。彼女は自殺した詩人、原口統三、長沢延子とほとんど同世代であり、自らも強く死に惹かれ「遺書を書くように詩を書く」と言い「私は常に引き裂かれていた。幼年と成熟。肯定と否定。日ざしと嵐とに」と言いながら、生存の側に居止まる生身の肉体と死を希う心との拮抗を、あるいはこの世界を、この人生を愛さずにはおれない心と死を希う心との相克の葛藤の中で七十歳まで生き続けたという。そして、晩年になって、人生の痛みや悲しみのただ中にも否定し難い生の輝きや美しさがあることを見出した、というよりも人生に痛みや哀しみがあるからこそ、それが生のただ中にひしめき輝く美しさとなって滲み出てくるような人生の美しさであることを見出した、と鯉渕史子という詩人は書いている。(江古田文学 第28巻 第一号より)

 若い頃は理想を重視するあまり現実を否定し、生をも否定することが往々にしてある。だがそこを乗り越えることが出来れば、それぞれに合った新しい世界が開けて来るものなのだ。

 

 「海の瞳」という作品の中で、清岡卓行は原口統三の死の一因として、彼がかつての植民地、大連で育ち、敗戦とともに帰国するが、それは彼にとってはふるさとを失ったことに他ならず、日本には感覚的にどうしても馴染めなかったにも係わらず、言語上のふるさとは日本語であったため、痛切な矛盾を生きなければならなかったことを挙げている。これは詩を書く人間にとっては生死に係わる問題である。

 長沢延子は四歳のときに母を失い叔母に引き取られた。多くの人が、その喪失を彼女の自殺の遠因として挙げている。大島渚は、この母の死について、「長沢延子は『母が死んだことを友達に告げながら、何の悲しみもない自分の心をのぞきこんで』というふうに書く。これは嘘だ。『何の悲しみもない』はずはないのだ。ただ、その悲しみを押し殺したのだ。『母を見送って来た火葬場の玉砂利に無心にたった一人きりで遊びたわむれた』のではない。「無心」にではなく必死で悲しみを押さえていたのだ。」「幼い者にとって心の傷を押し殺し、無感動の鎧をまとうことは、実は小さな自殺である。「生命を賭ける」ことだった。「生命をかけて捨て身になるということ」だった」と書いている。(前述「江古田文学」)

 一方吉原幸子については、石原吉郎は「彼女を詩へおもむかせたものが、どんないたみであったにせよ、それを安んじてささえたものは、ながい国語の歴史のなかで摘々相承された、ことばとうたへのゆるがない信頼ではなかったかと私は思う」と述べている。

 ランボーの母親が偏狭な心の持ち主であり、極めてエゴイスティックな愛でしか子供を愛せなかったことは、つとに知られている。だがそれでも、この母子の間にはそれなりの愛情が存在し、ランボーがアフリカに行ってからは二人の間で膨大な量の手紙が取り交わされているし、詩人が三十七歳で病に倒れ南仏の病院に運ばれた時には、母親が北フランスから駆けつけ、つききりで介護している。この母はこの母なりに息子を愛していたのであり、息子にもそれは伝わっていたのである。

 

 こう見てくると、死を希求する人間は少なくないが、実際に命を断つかどうかは、その人が根こそぎになった体験を持つか、持たないかに係っているような気がする。何物かによって、生との絆が保たれている人は、たとえそれがか細いものであれ、生きることを止めない。

 そして私は先に引いた手紙にも明らかなように、母の深い愛に包まれて育ち、母は青春の葛藤を生きる私を黙って見つめていてくれ、必要な時にはあのように心に染み入る手紙もくれた。

私が、今日、還暦を過ぎながらようやく、生きることに喜びと意欲を見出し始めているのは、今まで労を惜しまず私を支えてくださった何人かの方々のおかげであると同時に、母の深い愛のおかげである。

 私もすでに、この手紙を書いてくれた母の年齢をはるかに過ぎた。だが私に心を寄せてくれる若人(わこうど)たちが精神の危機に瀕した時に、こんなにも心のこもった手紙を書いて与えることが出来るだろうかと時折考えてしまうのである。