目次へ  小説「残像」前編へ、  随筆「極私的ランボー論へ」 母からの手紙へ

 

 

             母へのレクイエム       

                

                            宮崎康子

 

 ガラスのはまった格子戸の鍵穴に、今の物と較べると短くて幅広の鍵を差し

込んで、力を入れて回すと、カチャッと手ごたえを感じたので鍵を抜き、外側

になっている方の戸を両手で力一杯横に引いてみるが、建て付けの狂った戸は、

一気にはとても動かない。少しづつ、押したり引いたりを繰り返してようやく

半分まで開けると、長い間締め切っていた家に特有のむっとする匂いが、真夏

の湿っぽい熱気と共に流れ出て来る。

 昔は、真冬でも毎朝早く、着膨れたお手伝いさんが、水を張ったバケツに雑

巾を入れて傍らに置き、赤く膨らんだ手でこの格子を洗っていたものだったが、

今では埃だらけになっている。

 格子戸がどうやら動いて人一人通れるだけの隙間が出来たので、私はそこか

ら、黄色いタンクトップと地薄の夏用のGパンをはいた体を斜めにして入れ、

かぶっていた白いつば広の帽子を上がりかまちに置き、一足の履物もない広い

玄関のたたきにサンダルを脱いで、板の間に上がった。足の裏にざらっと埃の

感触がある。「帰りに足を洗わないと、新しいサンダルが汚れちゃうな」と頭

の隅っこで思い、「駄目だ、水道も止めてあるんだから」と思い返す。

 額から頬を伝って首へと流れ落ちる汗を掌で拭いながら、手探りで茶の間を

通り抜けて、玄関の反対側にある廊下に出て、そこの長い雨戸の桟を外し、板

戸を一枚一枚、これもまた、がたぴししているのを、押したり引いたり叩いた

りしながら繰り始める。雨戸がなかなか開かないので家の中は真っ暗だが、生

まれてから三十代後半まで住んでいた家だから、何でも手探りで出来る。しば

らくがたがたと雨戸と格闘した末に、ようやく外の空気を入れ、蚊の大群が人

間の気配を察知して押し寄せて来ない様に網戸にする。とは言え八月始めの真

昼のこと、流れ込んでくる外の空気も内の淀んだ空気より涼しいわけではない。

電源が切ってあるので、クーラーも入れられないし、明かりも点けられない。

それでも、雨戸を全部開けると、緑深い夏木立が屋根からかぶさっているので

薄暗くはあるが、物を見るのに不自由はしない程度の光が差し込んでくる。

 私は、本や衣類が雑然と積み重ねられた座敷に入り、じっとしていても滴り

落ちる汗を拭いもせずに、埃だらけの座敷の真ん中に立って、あたりを見回し

た。無意識のうちに深いため息が出た。これを全部片付けるのか・・・・・・

それも一部屋だけではない。座敷が四つ、それらを取り囲んでいる廊下、茶の

間、台所に四畳半一部屋、十八畳もある応接間、さらに我儘だった祖母が、家

族に気を使うのが嫌だと言って、父に頼んで建ててもらって兄と二人で暮らし

ていた六畳二間に台所がついた離れ、どこもかしこも、こんな風に納戸状態に

なっているのだ。それだけではない。庭には、不要の物をぎっしり詰め込んだ

物置が三つもある。これが八人の人間が通算六十年余りの間(あいだ)暮らした

残骸なのだ。

 母の三回忌が済んで半年経っていた。同居していた父方の祖父母はずっと以

前に亡くなり、父は十年前に長患いの後に亡くなって、子どもたちは皆独立し

ていた。だから、その家は母の死と同時に、住む人を失った。

 私たちは五人兄弟だった。だが上の姉二人と兄は、私と妹と腹違いだった。

父の前の妻は、第二次大戦中に、兄を産むとじきに病で亡くなった。そして乳

飲み子を抱えて困っていた父が、私の伯母の仲介で再婚したのが、私と妹の母

になる人だった。母は四人の子供をもうけたのだが、上の二人、男の子と女の

子は戦争末期に、恐らく栄養失調でもあったのだろう、肺炎で続けて亡くなっ

た。

 母は上の三人の子達とは養子縁組をしていなかったので、母の没後残された

財産は、私と妹が相続することになり、私たちは二人ともマンション暮らしだ

ったので、古い家を取り壊して、庭つきの二世帯住宅を建てて、一緒に住むこ

とにしたのだった。だが、私たちの母への想いは、母の送った人生が不幸なも

のであっただけに、簡単には断ち切れず、妹と話し合ってすぐに計画は決まっ

たものの、母のゆかりの品々や、小さい時からの母との思い出が詰まっている

家を処分することはなかなか出来なかった。その為ようやく実際に行動を始め

たのは、三周忌が終ってからだった。そして、各種学校で専任教員として働い

ている妹には、なかなか長い休みが取れないので、大学で非常勤講師をしてい

る私が、夏休みを利用して、取り壊す家の片付けをすることになったのだった。

勿論、休日には妹も来た。

 それは大変な作業だった。私は毎朝、麦茶を筒型のタッパウェアーに入れて

凍らせたものと簡単な昼食を持って、当時住んでいた板橋のマンションから、

練馬のその家に通った。家の中のありとあらゆるものを、粗大ごみに出すか、

古道具屋に売るか、自分たちの新しい家に持って行くか仕分けなければならな

い。

 どこから手をつけたら良いのかも分らず呆然と家の中を眺めていたが、とも

角まず茶の間や食器棚の中を点検することから始めた。ここは比較的簡単そう

だ。我が家には、家具とか食器に特に趣味のある人はいなかったので、取って

おきたいような物はあまり無かった。私や妹が使いそうな物を少しと、父の全

盛時代の到来物である高級品の一部を残して、あとは古道具屋に売れば良い。

台所にも大した物は無いから同じ様に処理する。私と妹がこれから建てようと

しているのは、こんなだだっぴろい家ではなく、今風のこじんまりしたプレハ

ブ工法の家だから収納場所も少なく、そんなに色々なものを持って行くわけに

はいかず、大部分の物は古道具屋に二束三文で売り払うことになるだろう。

 茶の間と台所の始末の付け方が大体見当がついたので、次に、母の物が沢山

置いてある隣の座敷に移った。

 まず部屋の隅に積んであるのは、母が家で着ていた洋服類で、母は大変小柄

で体重34キロしかなかったから、リサイクルショップは引き取ってはくれな

いだろう。古着屋も同様だろうから、くくって、不燃物の収拾日に出すしかな

い。

 次に押入れを開けてみる。上段には寝具類が入っている。客用の物などもあ

るが、新しい狭い家に持って行く気にはならないので、これは、そういう物を

専門に扱っている店を電話帳で探して売る。あとの普段用のものは、全部粗大

ごみに出す。

 下段には、お茶箱がぎっしり並べてある。手近なのを一つ、なかなか重いが

一生懸命引っ張り出す。そしてきっちり閉められたふたを力をこめて開けてみ

ると、一番上にむき出しで入っていたのは、何と、それまで見たこともない、

明るい空色の地に朱色で大輪の花が描かれた、鮮やかな紋様の和服だった。私

はその瞬間まで、そんな派手な着物が家にあることさえ知らなかったので、驚

いて目を見張った。興味津々で、その箱の中身を全部引っ張り出して見ると、

どれもこれも、同様に若々しく華やかな和服だった。隣のお茶箱、その隣のお

茶箱と次々引っ張り出して開けて見ると、どれにも負けず劣らず目を打つばか

りに鮮やかな色合いの着物がぎっしり詰まっていた。

 これは一体何なんだろう。母の物なのだろうが、何時作って、何時着たのだ

ろう。

 私は全然和服を着ないから、ものの良し悪しは分らないが、どれもこれも、

未だかって目にしたことのないほど鮮やかで華やかなものだった。勿論、母が

着ているのを見たことは一度もなかった。

 

 母方の祖父は俳人で子規の弟子であったが、極めて自由な考えの持ち主で、

三人の子ども誰にも型にはまった教育をほどこそうとはせず、各人に自らの歩

む道を選択させた。

 母の姉である長女は、日本女子大を出てから、東北帝大に進み、家庭裁判所

に長く勤めた。キャリアウーマンのはしりであり、結婚もして子供が一人いた

が、自分の母親と一緒に暮らしていたから、家事も子育ても母親任せで仕事に

没頭し、極めて実行力のある人だったから、家裁では大分出世したようである。

ただ夫が裁判官で転勤が多かったので、単身赴任などという言葉さえない時代、

妻が自分の仕事のために夫と別居するなどということは誰も思いも及ばず、伯

母も夫に従って職場を転々とせねばならず、そのために出世の道を随分閉ざさ

れたと、後年嘆いていたのを聞いたことがある。定年退職後は、日本女子大の

同窓会である桜楓会の理事長になり、後進の活躍のために道を開いた。

 次女が私たちの母になる人で、姉とは全く異なる感性の持ち主で、小さい時

から日本画や和歌、俳句を好んだ。まだごく幼い頃に、祖父に連れられて向島

の百花園に行った時に作ったという俳句を、祖父が得意げに教えてくれたこと

がある。

 

 百花園 花のトンネル 汽車ぽっぽ

 

 別に上手くも何ともない句だが、四歳頃の時のものであり、その頃から俳句

に興味を持っていたことの証であり、祖父にとっては大変嬉しいことだったら

しい。

 母は大学には行かず、大正十年に、各人の個性を大切にし芸術的感性を養う

ことを目的に、与謝野寛、晶子らを中心に設立された文化学院という各種学校

に進んで、リベラルな考えの祖父の下で、家事は殆どせず、好きなことのみに

打ち込んで青春を謳歌した。母が結婚した時に祖父が贈った歌の中に「慣れて

居ぬ 厨仕事に 親心 大根切りて 指を落とすな」というのがある。勿論お

手伝いさんはいたのだろう。

 三番目は男の子で、祖父の家が代々薬屋で、祖父も俳人になる前には薬屋を

営んでいたのを継承して、薬学を学び、そのまま大学に残った。男として、生

活の糧を確保する必要も感じたのであろう。

 三人の兄弟のうちでは、この叔父が一番穏やかで、抜きん出たところはなか

ったが、優しい良い家庭人だった。しかし、祖父が一番高く買っていたのは、

才能豊かな私たちの母であったと聞いたことがある。

 

 古い家の押入れのお茶箱の中から出てきた、目を打つように鮮やかな和服類

は、恐らく文化学院時代のものであろう。文化学院の教育方針は、その頃の女

子教育の主流をなしていた良妻賢母の育成を目指すのではなく、一人一人が持

っている芸術的感性を磨き、個性を伸ばすよう力を注ぐことだった。一流の多

彩な芸術家たちを講師陣に招き、おしゃれや遊びも奨励し、ジャーナリスムを

賑わすことも多いユニークな学校だったと聞く。母もそこで心ゆくままお洒落

をし、優れた講師たちの指導の下に幼い頃からの憧れの実現を目指して、張り

のある、楽しい学生生活を送ったのだろう。

 しかし私は或る会合で、与謝野晶子さんの血を引く中年の女性にお目にかか

り、親しく話をさせていただいたことがあるが、その時、与謝野さんが、晩年、

「私は女性たちがのびのびと個性を伸ばすように導いてきた。しかしそれは果

たして彼女たちを幸福にしただろうか?」と語られたという話を伺った。その

ような教育をうけた女性が当時の日本社会の生活にうまく適応出来ただろうか

という心やりである。

 とはいえ、青春時代の母にとって、文化学院で過ごした日々は余程楽しかっ

たらしく、そこでの友人たちとの文通は晩年にいたるまで続いていたし、その

頃の思い出を語る時には、頬はほころび、目が輝いた。これらの着物も、父が

若かったころには何度か転勤もあったのに処分することもせず、大切な思い出

としてしまいこんでいたのだろう。

 だが、時代は昭和の初期である。自活するほどの経済力もなく、芸術家とし

て一家を成すだけの能力も処世術も持たない女が、いつまでも一人身でいられ

るわけはない。

 母の行く末を案じた祖母は、母に文化学院を二年ほどで止めさせて、日本女

子大学の家政学科に入れた。良妻賢母の教育を受けさせ、いわゆる?まとも”

な女にするためである。しかしそこの校風は、自由と個性の尊重を大切にする

教育を受けてきた母には、どうしても馴染めなかったらしく、祖父の許しを得

て、二年行った切りで退学してしまった。祖父は

「もう良いだろう」

と許可してくれたそうである。

 しかし後年、よく母は「私は何をしても中途半端だった」と述懐していたが、

それは芸術家として大成しなかったことだけでなく、他の兄弟たちと違って大

卒の資格を得なかったことも含んでいたらしい。大学中退後嫁ぐまでの間何を

していたのかは定かではないが、アテネ・フランセに通ってフランス語の勉強

をしたり、和歌や俳句を作ったり、絵を描いたりして楽しく過ごしていたらし

い。とはいえ、才能を磨こうと厳しく精進していたというほどでもなく、通常

の生活感覚の持ち主であった、祖母や姉にとっては、危なっかしくて見ていら

れない暮らし方だっただろう。祖母や姉は、母の先行きを心配して、次々と結

婚話を持ち込んできたが、どの話にも耳を貸さずに夢を追っているうちに、三

十歳近くなってしまった。その時代三十近くまで独身の女というのは珍しかっ

たのではないだろうか?恐らくもう、いわゆる条件の良い話はなかっただろう。

結局母はキャリアウーマンである伯母の紹介で、幼子を三人抱えて妻に死なれ

て困っていた父のところへ嫁ぐことになった。そして、すぐに男の子を、次い

で女の子をもうけたが、二人とも幼児の時に肺炎で亡くなり、その後(のち)に

生まれたのが私と妹だった。六十年以上前のことである。

 父方の祖父は漢文の教師だった。質実剛健を旨とし、母が独身時代に送って

いた生き方など、軽佻浮薄と一言(いちごん)のもとに片付けてしまいそうな人

だったらしい。らしいと言うのは、私は生前の祖父を知らないからである。

 一方祖母は、鼻筋の通った美人で、もともとは女優になりたくて、故郷富山

の田舎から女一人で上京してきた人だった。だから元来は、人目を惹く華やか

なことが好きだったのだが、儒教精神によって色濃く染め上げられた婚家の家

風に馴染むためにか、あるいは、当時の女に課せられた生き方の枠の中には収

まらない、自らの内に潜むエネルギーが外にあふれ出るのを抑えるためか、本

性を捻じ曲げて生きていた。

 祖父と祖母がどうして結ばれたのか私は知らない。全く通ずるもののないよ

うな二人だが、男と女のことは分らないし、あるいは昔の風習に従ってお互い

に顔を見たこともなく結婚したのかも知れない。それにしても、それならばな

おのこと、周囲の人が相性を調べると思うので、不可解である。

 祖父は病弱であって、私が生まれる直前に亡くなった。従って、私は祖父の

生前の姿に接したことはないけれど、姉たちの話によると、吝嗇で細かいこと

にうるさい人だったらしい。剣道もしていて、朝はいつも四時に起きて真冬で

も井戸端で冷たい水をかぶり、素振りをして、すぐに机に向かって漢書の勉強

をしていたという。「己を律すること厳しく」という言葉が好きで、何かにつ

けてそう言って周囲を諭したそうだ。

 一方祖母は、極めて頑健な人で、私が三十歳近くなるまでの間に、八十八歳

の時一度肺炎で高熱を出し、三日ほど寝込んだほかは病気らしい病気をしたこ

ともなく、九十三歳まで生き老衰で死んだ。頑健であっただけでなく、その時

代に、女優を目指して単身上京するような積極性の持ち主で、進取の気性に富

んでいたので、片言ながら英語も話せ、手すさび程度にタイプも打てたそうで

あるが、そうした積極性は押し殺して、従順で倹約家の妻という仮面をかぶっ

て、夫に従って生きていたようだ。だが、その気性の激しさは、ヘビースモー

カーであったのがタバコを止めた時、今度は仁丹中毒になり、生涯多量の仁丹

を呑み続けたことからも片鱗が窺われる。

 

 従って、祖母と母は芯には、自分を活かしたいという共通の欲望を持ってい

たが、発現の仕方が逆であったために、事ある毎に衝突した。そして、当時の

ことで姑の嫁に対する権力は絶対であったから、母は、あらゆる言動を見張ら

れ、こうるさく批判され続けた。祖母自身が、本当は華やかなことが好きなの

に自らの言動に漢文教師の模範的妻という枠をはめて、心に染まぬ地味な生き

方をしているのに、当時としては思い切り大胆な個性尊重の教育を受け、その

香りを未だに身辺に漂わせた母が、嫁としてやってきたのだから憎んだのも当

然であろう。そのうえ祖母としては、嫁を家風に合うように仕立て上げるとい

う口実もあった。彼女は、母が身の回りに漂わせていた優雅さに対するあてつ

けのように、いつでも黒っぽい襤褸切れを綴り合わせたような着物を着て、何

十年も身に着けているような前掛けをして、いつも台所で這いずり回るように

働いているか、繕い物をするかしていた。たまに買い物などで近所まで出かけ

たりする時も、そのままの格好だった。たまたま私が下校する時などに出会う

と、すれ違う人たちが袖を引き合って、祖母のぼろの塊のような身なりについ

てささやき交わすのが分った。母好みの洒落た服を着ていた私は、近所の人た

ちの嘲笑をかう祖母を恥じて、「ただいま」も言わず、俯いて、大急ぎでその

場を離れたものだった。祖母にとって、そんな身なりで外出をすることは、母

への挑戦であると同時に、倹約の美徳の実践を世間に見せつけることでもあっ

たのだろう。

 私が小学生の頃から既に父には、ベンツではなかったが、黒塗りの中型車が

迎えに来るようになっていて、父が出勤する時は家中で見送るのが仕来りだっ

たが、父は、そんな祖母の姿を運転手さんに見られることが嫌だったのだろう。

「俺の車の回りに来ないでくれ」

と言ったのを聞いたことがある。

 祖母は、いつも家に閉じこもって家事ばかりしていたが、それは「女はそう

あるべき」という価値観で自分を縛っていたからであって、本当は、賑やかな

ことが好きで、外出好きだったようである。母に聞いた話だが、或る時親戚の

集まりがあって、勿論祖母は欠席の予定だったが、行く筈だった家人が一人急

用で行かれなくなり、やむなく母が付き添って祖母が行ったことがあったそう

だ。その時祖母は、外出を嫌がるどころか、実に楽しそうで、出かける前から

浮き浮きと着ていくものを選び、集まりの席では、良く話し、良く食べ、お酒

も呑み、ほろ酔いで口三味線まで歌ったそうである。

「だから、おばあさんは本当は人の集まるところへ行くのが好きなのよ」

と母は行った。

 それが自らに外出を禁じていたのだから、当然、母にも厳しく外出を禁じた。

母は、父の仕事での集まりに同席せざるを得ない時だけは出ることを許された

が、自分の楽しみのための外出は、友人たちとの集まりは無論のこと、和歌や

俳句の会にも、どんなにか行きたかったであろう文化学院の同窓会にも、子供

たちの父母会にすら行くことを禁じられた。文化学院の同窓会には余程行きた

かったのだろう。死後、引き出しの中から、会の通知状が何十通も紐でくくっ

てしまってあるのが見つかった。たまに用事があって実家から呼ばれても、行

かせてはもらえなかった。

 

 私は以前、家裁に勤める伯母に、どうしてこんなに家風の違う家との結婚を

推したのか尋ねてみたことがある。この結婚話を持って来たのは彼女だったか

らである。伯母の返事はこうだった。「母は三十歳近くなっていて、いわゆる

条件の良い結婚は望めなかった。そこで前妻に死なれて、三人の幼子をかかえ

て困っていた父が候補に選ばれた。しかし、文化的な意味合いでの、家の格と

しては、母の家のほうがはるかに勝(まさ)っていたから、なにも父を選ばなく

とも良かったのだが、漢文の教師という地味な仕事の親を持ちながら、全く係

わりのない経済界に独力で入り、なんの後ろ盾も無いのに、ぐんぐん出世して

いく父その人の姿には、余人にはない魅力があったので、私は父を勧めた」。

しかし、これは伯母の価値観であって、母自身は、後に取り上げる日記の中で

「この生活的圧力に私は嫌悪さえ感じる。浮世の波を乗り切ろうとする猛々し

い努力の前に、その荒さの前に当惑とためらいを感ずる。私は滅びるとも、

『美』と『真』を護りたいという並外れた要求を捨て去ることがどうしても出

来ない」と書いている。従って、母自身は父に伯母の感じていたような魅力は

全く感じなかったのだが、結局は、伯母や母方の祖母、そして三十近い独身の

女に加えられる世間の圧力に屈したのである。

 父は職業人としては有能であり、独力で大銀行の頭取にまで昇りつめたが、

家庭人としては優れていなかった。「男は外に出れば七人の敵がいるのだ」と

いうのが口癖で、仕事に全力を注いで、家でも暇さえあれば経済書、哲学書を

読み、男の遊びごとは一切せず、人に後ろ指を指されるようなことも決してし

なかったが、家族には自分を寛がせてくれることのみを要求し、祖母と母との

不和は耳に入れることさえ嫌がった。あるいは家庭内のいざこざから逃れるた

めに、故意に仕事に打ち込んでいた面もあるかも知れない。それでも、そのよ

うな社会的地位のある夫の妻であることに誇りを見出し、幸せを感じる女性も

少なくはないだろう。だが母は、そういう種類の人間ではなかった。あでやか

な装いで、黒塗りの大型ベンツに乗って、一流ホテルでのパーティーに出かけ

る時でも、母の顔から憂愁は消えなかった。

 

 片付けの手を止めて、そんな様々な追憶に耽っていた私は、ふと我に帰り、

家の取り壊しの日がもう間近に迫っていることを思い出し、そうだ、こんなに

のんびりしてはいられないと現実に戻った。そして、一応台所の片付けは目途

がついたことにして、次に母の持ち物類がしまってある座敷に移り、押入れの

中のお茶箱に詰められた着物類の処分は妹と相談することにして、次はタンス

の中味の整理を始めた。

 まず一番上の大きな引き出しから手をつける。そこには見るからに豪奢な和

服類が詰まっていた。父と共にパーティーなどに招待された時に着た金糸、銀

糸の入った着物であり、畳紙にきちんとくるまれて、沢山重ねてあった。同様

に豪華なハンドバッグ類も入っていた。

 そういう高価なものの処分は一存では決められないので、これも妹と相談す

ることにしてそのままにしておく。

 その下の段には普通の外出用のものが、やはり畳紙にくるまれて、しまって

あった。これはあの時に着ていたなあ、これは一緒にあそこに行った時に着て

いたなあ、などとまたしても追憶に耽りながら一枚一枚ひっくり返して眺め、

大半は処分する決心をしていく。とはいえ、母はあまりにも小柄だったので、

通常よりはるかに安く叩かれてしまうことは承知のうえである。

 一つの引き出しが終わりに近づいた時、底の方から、デパートの昔の包み紙

にくるまれた、薄べったい本のようなものが出てきた。そっと開けてみると、

茶色い和紙で表紙をつけた一冊のノートだった。

 何だろう、こんなところに隠すようにしまい込んであるなんて・・・・・・

ノートの角は擦り切れていて、よほど古いか、あるいは度々読み返したかした

ことが見て取れた。頁を繰ってみると、それは母の結婚前後のことを綴った古

い日記帳だった。何が書いてあるのだろう?ぱらぱらとページをめくりながら、

それを読むことは母の秘密に触れる行為であるような予感がして、胸が高鳴っ

た。私は畳の上にじっと座り込んで、読もうか、読まずに焼き捨てようか、か

なり長い間考え込んでいた。暑さのせいばかりでなく、汗がわきの下をつるつ

ると流れていった。

 母は、その二年半前のひどく寒い日、お風呂で急死した。何度電話しても出

ないので、近くに住む妹が心配して様子を見に行き、浴槽の中で亡くなってい

るのを見つけたのだった。そんな亡くなり方でなく、心の準備をする時間があ

ったならば、きっとこのノートも処分してしまっていたに違いない。母はその

後も途切れ途切れながらずっと日記を書き続けていたが、それらは全部書棚の

隅の誰にでも見えるところに置いてあった。それが何故、これだけが、こんな

ところにしまい込んであるのだろう?このノートには、余程人に知られたくな

いことが、記されているに違いない。どうしたものだろう?それほど秘めてお

きたいことが載っているならば、このまま焼き捨ててあげるのが、死者への礼

儀であるに違いない。

 だが私には勿論好奇心もあったし、それ以上に、幼少の頃から日々感じてい

た祖母と母の陰湿な争いについて、もっと詳しく知りたいという気持ちがあっ

た。それは、祖母に苛め抜かれて、心に染まぬ生涯を送った母のために、何時

の日か鎮魂歌を書いてあげたいという密かな願望を抱いていたからである。そ

のためにも、母の心の奥底の動きを知っておきたいと思い、胸が苦しくなるよ

うな緊張感の中で、頁を繰ることに決めた。表紙を開けるとき、私は心の中で

母につぶやいた。

 「おかあさん、今から、おかあさんが生涯秘密にしてきたおかあさんの心の

内を読ませてもらいますよ。でも、何が書いてあろうと、私は絶対にお母さん

の味方ですからね」。

 私は全身汗だくになりながら、夏木立を通して差し込んで来る薄暗い光の中

で、じっと座って、目を凝らしながら読み始めた。

 

 母は昭和十六年の四月に結婚した。日記はその年の三月八日から始まってい

た。父の家に初めて行く前々日のことである。気の進まない結婚を承諾してし

まった自分を「明後日はMさんへ伺う事になっている。何と私は気が弱いのだ

ろう」と書いている。この結婚を承諾したことを、自分の気の弱さとする言葉

は、その後も度々出てくる。周囲の圧力に負けて、自分の願望をつらぬき得な

かったということであろう。だが父の前妻が残した三人の子どもたちについて

は、面倒だ、とか、煩わしいといった言葉は一切なく「子供達と考える時、何

とも言えない、豊かな、おおらかな気分が湧いてくる」と、お腹を痛めた子供

でなくとも、母になることに大きな喜びを感じており、この喜び、豊かな気分

についてもその後何度となく述べられている。そして、その日の日記は「子供

達は楽しい。唯つきまとう影が少々憂鬱を感じさせる。けれど確かに子供は、

私にとって、嬉しい豊かなものだ」と終っている。恐らくまだ祖母に会ったこ

とはなかっただろうが、祖母の気の強さ、周囲からの圧力によって心を捻じ曲

げられたが故の意地の悪さをまわりの人の言葉や態度から感じ、自分がその支

配下におかれ、それまでの、のびやかな生き方を阻まれるであろうことを予感

し、それをつきまとう影と言っているのだろう。

 その夜は、翌日のことが気になって、眠れなかったことが記されており、そ

の後日記は三日抜けている。この間(かん)に初めて父の家に行き、婚家の人々

と会ったわけだが、その模様についての具体的描写は全くなく、三日後の文章

には、会見後の心の状態のみが短く記されている。「自分自身に絶望してしま

った様な暗黒な気分で過ごしている・・・・・・ああ、暗黒だ。絶望だ。神よ、

護り給え 導きませ。あまり自分自身を見つめ過ぎない様に。豊かなのびやか

な心をお返しくださいませ。このみじめな尖った余裕のない私をお救い下さい

ませ」キリスト教の信仰を持っていたわけではないのに、神に救いと導きを求

める言葉は、その後幾度となく出てくる。それだけ絶望の極みにあって、誰に

も救いを求めることが出来なかったということであろう。

 翌日の日記には、前日のことが何も具体的に書いてないので推測するしかな

いが、恐らく散々に痛めつけられた心を、回復させようという努力がみられる。

「考えまい。考えまい。徒らに自分を苦しめるだけだ。・・・・・・私の持っ

ているのは、よいものだとの自信を持とう。ゆうゆうと生き得る優れたものな

のだと考えて、豊かな心を持とう。好んで自分からみじめさの中に入り込むに

は及ぶまい。豊かな、澄んだ、自信に満ちた心を持とう。それでこそ、私は救

われるのだ。他人をも楽しくする事が出来るのだ」

 翌日もその努力は続く。「暗きに過ぎては人生は楽しくなりっこはない。物

思いなく、明るく聡明に生きようではないか。世を見る瞳が明るくなければ、

世はその瞳に明るく映る事はない。・・・・・・漠然と、何物かを期待しつつ、

重く、悲しく、しかも物欲しそうに行き続けて行く事は、愚かの至りだ。神よ、

この愚かさから私を救いたまえ」

 翌日は結納である。「私は負担ばかり多く、少しものびのび出来ず嬉しくも

無い」しかし次の行ですぐに、その否定的な考えを正す。「だが、だが確かに

愚かだ。あまり考え、あまり重く苦しい心を持つという事は自らを汚すものだ。

もっと清澄なる自信を持って生きてよいのであろう。あるものはあるとして、

無いものは無いとして」そしてこの日の頁も、神への祈りで終わる。「救い給

え、ここから明るい冴え冴えとした世界に」

 だが何があったのか、ここも矢張り具体的なことは全く書いてないので分ら

ないが、翌日の日記には、それまでと同様に物事の明るい面を見ようとする努

力が書かれているが、同時にその努力も無駄であろうという予感が生まれ、初

めて死を望む言葉が現れる。「神よ 救い給え。軽く明るく美しい心を与え給

え。然らずんば死か。神よ 何れかを与え給え」しかしこの時はまだ強く生き

たいという願望の方が勝っている。「重く 暗く みじめな心を持たないで、

軽く豊かに 冴え冴えと美しい心の持てます様にお導き下さいませ」

 翌日も、この二つの相容れない心の動きは続くが、それでも父との間に何か

気持ちの和むことがあったらしく、愛に富んだ人間になりたいという願いの方

が強く表明されている。「幾分 多少 愛情の湧くような想いがして 漸く

少々救われる気持ちになった。何の愛情も 優しさも 和やかな感情ももてな

い相手では 困ると思っていたのだ。・・・・・・私の周囲に居る人を、幸福

に楽しくして上げられるように 人が安息を私に求めに来るように 人に豊か

に与えるものを持ち得るように 太陽のような心を失わないように 私の場合、

特にそれが必要であるように思う」

 この心の状態は翌日も続く。子供の一人が病気になったと聞いて心配したり、

子供たちの食事とかおやつはどうしたらいいのかとラジオを聞いたり、雑誌を

切り抜いたりし始める。「私も少々気乗りがして来たのだ。逃れ得ない運命な

ら聡明に切り開くべきだと考えるからだ。あまりにドリーマーでありすぎて、

自分を不幸にしてはならないからだ」。

 翌日は、結婚準備の買い物のために出かけ、電車の中で、小さい子供をつれ

た人を見かけたりすると、可愛くて目が離せず、その母親を観察して、自分も

あんな良い母親になれるだろうかと考えたりするのだが、次の行で突然調子が

変わり、「周囲の人の感情が小うるさくまつわりついて来るのが堪らない。

『この馬鹿野郎』と悪態を吐いてみたくなる位ヒステリックにされてしまう。

神よ 救い給え」と終る。驚くほど激しい気持ちの動揺である。

 翌日は、終日結婚のための衣類の手入れに追われる。だが、ふつうなら喜び

に満ちてするのであろうその作業をしながら、揺れ動く心に、喜びは湧かない。

「状態は益々悪化するとでも言い度い様な一路をたどるのだが、そうでもない

のかしら。私には自分乍ら解らなくなってしまった。神よ 護りませ。救い給

え。清く美しき人生を過ごさせたまえ」

 翌日は、一日、タンスや鏡台、及び小物類の入手の手配に追われる。祖母が

出かけて、お土産に沈丁花を持って帰ったので、その形と香りを細かく描写し

て楽しむ余裕がある。

 翌日も、衣類の準備。珍しくお裁縫をしている。だが心は「いらいらして落

ち着かない」とある。終わりに自作の歌が二首、載っている。

 

 我が心 安きにあらず 吾子ならぬ

 三人の子等を愛しみ得るや

 

 その母の自らなる愛情を

 持つ日疾く来よと切に願うも

 

 翌日は月曜日で、やはり結婚の準備のためであろう。母親と一緒に、三越と

白木屋へ買い物に出かけるが、当時の慣わしで、月曜日はデパートはみんな閉

まっていて全くの無駄足。帰って来るとすぐ父から電話があり、翌日、買い物

に行くから一緒に行って、食事をしようと誘われる。母は承知し、「諾の返事

は勿論の事だ」と書いているが、そのすぐ後に「止むを得ない」とある。

 翌日はよほど疲れたのだろう。日記も書いていない。そして、その翌日は

「昨日は疲れた、疲れた」と始まる。買い物だけでなく、父の家に寄り祖母と

会い、それから新婚旅行のために旅行会社にも行ったらしい。相変わらず具体

的なことは何も書いてないので解らないが、祖母に何か言われたのだろうか。

それとも、ただ何か、自分の生き方を完全に否定される雰囲気を感じ、逆らい

得ないことを知ったのか、明るく、心豊かに生きようという努力を一切放棄し

てしまっている。「今日は又、死にたい 死にたいと思っている。死ねたら 

死ねたらと思っている。どんなに幸福であろうと。あらゆるものが嫌だ。何に

もまして自分自身が嫌だ。厭わしくて式などもしたくない。何事も嫌だ。この

まま スポリと死ねたらと思っている。子供たちは可愛い。おとなしい 可愛

い子供たちだ。・・・・・・紅い草履袋を欲しがっていた子供たちは可愛い」。      

子供たちを可愛いと思う気持ちは残っているものの、それ以外のあらゆるもの

への愛も希望も失い、ただ運命を逃れたいという望みしかない。これからの人

生への期待を全て断たれて、死のみを求める心は、あまりに痛ましい。

 私は、母が、自分の望む生き方の前に立ちふさがる人生に対して、深い怨念

を抱いていたことを、種々の言動から常々察していた。だが、何も知らない、

二番目の姉の夫も

 「お母さんて、ときどき、ふっと、すごく淋しそうな顔をするね」

と言ったことがある。

 それにしても、結婚する前から、将来の生活に、ここまで深く絶望していた

とは誰も知らなかった。ここを読んだ私は、芸術的才能を持ちながら、それを

全く活かすことが出来ず、逆に故意に踏みにじられ続けた母の、その時代に女

と生まれたが故の哀れさに胸が締め付けられる想いがして、汗を拭って、居住

まいを正さずにはいられなかった。

 この日の文の、先ほど引用した部分の後に書いてあることを、少し長くなる

し、正常な精神状態で書かれた物でないので、意味のつながりが不明瞭なとこ

ろもあるが、母の絶望の深さを示すために全文写させていただこう。「私はあ

の家庭のユトリのない感情を好ましいものとは思わない。ノーブルな豊かさに

乏しい。

 神 我を死なせ給え。願わくば 我を死なせ給え。

 何もかも私はもういらない。欲しくない。ああ この世の中の何もかも私は

欲しくない。死が欲しいだけだ。死にまさる平安はない。唯 死の幸いあるの

み。死の安けさあるのみ。弱弱しい善良さなどは不善だ。なにはともあれ、自

分を活かすことだ。自己の感情を殺し過ぎないことだ。死だ。熱烈に死を欲す

る。でなければ、今突然重い病気になってしまえ。あんな所、嫌だ。今まで相

手を影ながらいたわるがために書かなかった事も、もう書いてしまおう。上品

さのない、好ましくない人だ。あの家へ行くのなら死が良いだろう。死ねよ、

死ねよ。死病に取りつかれ度い。唯一つの望みは、死ぬ前に一寸会ってみたい。

あの話の面白いTに。それだけだ。願いは。

 神よ この最後の、最大の切羽詰った祈りを聞き入れ給え。神よ、ああ、死

を、死を。」

 この日を境に、母の心は、周囲がどうであろうと、優しく、豊かに、自分を

大切に生きようというそれまでの努力を完全に捨てて、ぐんぐん死に傾斜して

いく。そして死ぬ方法を考え始め、翌日は、決行することを具体的に考えてい

る。「ああ 私は今死にたい。無価値なるものから心をいためられる事ももう

なくなるであろう。死にたい。今死にたい。

 毒か?何か?方法は?見る人をあまり恐怖させない方がよいのではあろうが。

同じことではあるにしても。私は唯 清く 美しく 死に度いばかりだ」

 だが自殺を実行することは、容易いことではない。私も青春時代に、観念的

な悩みから、自らの命を断つことを決めて、一番確実で苦しみの少ない方法と

して、鉄道自殺をすることにしたが、深夜、何度か線路の上に身を横たえなが

ら、恐怖心に負けて起き上がってしまい、線路沿いに、新宿から自宅のある練

馬まで歩き通したことがあるから、これ以降に書かれた気持ちは良く分る。

 翌日の日記には、生きたがる若い体と死にたがる心の相克が描かれている。

「昨日も今朝も、もうすっかり気持ちを決めていたのに、羊羹で濃いお茶を飲

んだら又元気になって生くること亦善きかなと思うようになってしまった。困

ったことだ。急ぐ事はない。その前夜でも良いではないかと悪魔が私に囁いて

いる。出来るだけ周囲の迷惑を縮める為に、一時も早く決行した方がよいのに

と思っている心はどこかへ吹き飛ばされてしまった。まだ三日でも、四日でも

人生を楽しんでからでよいではないかと思い始める。昨夜から今朝まで、色々

考え用意したのに。もう二、三日待とうかしら。・・・・・・死は少々むつか

しい仕事だ。」

 翌日の日記は短いが、切羽詰った人間の心を端的に現している。「どうした

らよいのか。どうしたらよいのか。死にさへ出来ない。日は迫る」

 翌日は家族が皆出かけて一人であれこれ考え、数日前に言われた時には分ら

なかった祖母の言葉の底意地の悪さに気づいたりするが、最後の一行で、何を

望んでいるのかを簡潔に明らかにしている。「もっと豊かな情感の世界が欲し

い」。母が望んでいるのは、この一事(いちじ)のみなのである。そして、それ

こそが、婚家に欠けていたものなのである。

 

 こうして、結局死ぬことも出来ず、流れに屈して、母は嫁ぐ。その正確な日

付は不明である。戸籍によれば昭和十六年十二月一日とあるが、日記では三月

三十日から4月二十八日の間となっている。恐らく何らかの事情で婚姻届を出

すのが遅れたのであろうが、だらしないことを嫌う父の性格を考えると不可解

である。

 ともかく、次の日記はずっと飛んで、四月二十八日に書かれている。その前

が三月三十日だから、一ヶ月近く書かなかったことになる。

 この日の文には、新しい生活が母にとってどれほど辛いものであったか短く

記されており、相変わらず具体的なことは何も書いていないが、それでもその

痛々しい心持はよく伝わって来るので、全文写してみよう。「長い間書かなか

った。その間に何と言う色々な事を経験したものであろう。胸のつまる様な、

頭のつかへる様な、際限の無い苦しみと悲しみと邪しまな想いに悩まされ、エ

ネルギーを消耗し、生命の終わりさへ感じさせられる程だった。厳しく、騒が

しい生活であった。そして尚、今も又」

 一読しても信じ難いことかも知れないが、これは一人の女性が新婚生活につ

いて語った、偽りのない言葉なのである。そして、数日後の日記で父のことを

「M自身は非常に善良な人なのだが・・・・・・」とあるところをみると、こ

の読むだに辛い苦しみが、父との関係に由来したものでないことは明らかであ

る。

 ここから日記は飛び飛びになる。いままでの経緯から察せられる通り、決し

て楽しい生活ではない。数日後には「全体としてよい調子に行っているとは思

うけれど 折々、自分がこの様に全エネルギーをそそいで 努めているその努

力の価値を疑わずにはいられない。果たして、この努力に値するものであろう

か。この努力は正当に報いられるであろうかと危ぶむのである。それだけの値

打ちのあるものであるだろうか」とあるが、ここを読むと、母が、死んだ方が

ましだとまで思いつつした結婚ではあるものの、新生活が始まってからは、与

えられた義務を果たすべく、精一杯努力をしていたことが分る。しかし、努力

をしつつもその価値には疑問を抱いている。人それぞれに事情は異なるであろ

うし、これほど悲劇的ではないかも知れないが、こうした努力の価値に疑問を

持つ女性は教育の傾向の変化と共に現代ますます増え、そのために精神を病む

人も多くなってきているのではないだろうか?

 同日、母方の祖父から葉書が来て、翌日の午後、家族がみんなそれぞれの用

事で出かけるので、留守居にきてほしいと頼まれ、母は喜んで行きたいと思う

が、祖母に禁じられ、行くことが出来ない。「私は、一寸家へ帰って息抜きを

したいと思っていた。絶えず何物かがあたまの上から覆いかぶさってくる様な

此の頃の生活に言い難い心の渇きを感じている。静けさの中に息づき度い欲望

を感じる。静かさを、しみ通る様な 静かさを 切に 切に 欲する。そして

豊かな情感をたたえた、若々しい、柔らかな生活感情が欲しい」

 その数行先からは、母個人の問題であると同時に、一般論としても通ずる、

現代でも或る種の女性にとっては大きな悩みである、女としての義務と人間と

しての自己実現の願望の欲求の格闘が述べられているので、少し長くなるがほ

とんど全文写してみよう。走り書きの様な文であるから分りにくいところもあ

るが、大体の想像はつく。「監視と、圧迫と索制との間で、私は疲れ切ってし

まい、自分を見失って醜悪にさえなってしまったのではないかしら。率直に言

って、私はこの生活に巻き込まれ、浸り切る事に幸福を感じ得ない。私はまだ 

自分を活かし度い要求を絶ち得ず、又 自分を犠牲にし尽くし、自分を捧げ尽

くして悔いないと思う程のものをこの生活から見出し得ない。

 そのどちらかがあったらよいのだ。私の情熱のすべてをそそる様なものが、

あったら、幸福を見出し得るであろうが、自分を犠牲にして生涯を過ごして悔

いないと思うものを見出し得ない限り、絶えず心の底で 私は自分を活かした

い要求を持ち乍、それを満たし得ないという不幸な生涯を終るのであろう」

「周囲はわたしに、すべてを捧げよと要求する。私が全自己を犠牲にしないこ

とが不満なのであろう。けれど私は、その価値を疑うのだ。この様なものに、

と思わずには居られない。私の愛情の泉も枯れそうだ。それは監視の重圧が、

私の自由を奪うからである。邪推される怖れで、行動をも 言葉をも いちい

ち振り返り乍ら、考え乍らする事によって、極端に興味をそがれてしまう。精

神を浪費もする。気力が奪われて、中心がぐらついて、面白みがなくなり、生

活に対して、無力で、無責任な事しか出来なくなる。

 この生活から飛び出してしまおうか。ああ、出てしまおうか。この生活的圧

力に私は嫌悪さえ感じてしまう。浮世の波を乗り切ろうとする猛々しい努力の

前に、その荒さの前に、当惑とためらいを感ずる。私は、滅びるとも『美』と

『真』を護り度いという並外れた要求を捨て去ることがどうしても出来ない。

結局、実際生活に甚だしく不向きな人間であり、夢多く夢を生かせぬ不幸な人

間であるのだ。

 神様 私はどうしたらよろしいのでございましょうか 一度しか持ち得ない

生涯を 心ゆくばかりに生きて見たいとも思う。智に於いても、情に於いても

自分を押さえなければならない不幸ばかりを感じる事なしに、思うままにのび

のびと、満足を感じるまでに生きて見たい・・・・・・私をして自ら 自分を

忘れて夢中で動き得る程に私の情熱をそそってくれるものがどこにあるのであ

ろうか、この生活の中から 見出し得るならば実に私は幸福である」そして婚

家での生活を「私の気分を揺るがし、中心を見失わせ、私の全精力を吸い取り

つくすあまりにも下らないいざこざ。たくましく愚かな生活力のまえに、私は

苦笑と不快を禁じえない時がある。これ程までにガサガサと、絶えずガサガサ

と生きなければならないのであろうか」と結んでいる。

 数日後にも「私のこの日々の努力は根のない、中心まで泡のようなものでは

ないであろうか。・・・・・・この現実の生活は、くだらない重みではちきれ

そうである。その重圧の下にひしがれそうである」とあるし、そのまた数日後

には「毎日、毎日、どうしたらよいかしらと考え、考え、あくせくと過ごして

いて心ののびる暇もない。わずらわしくて堪え切れなくなってしまった」と書

いている。

 だが、この状況の中でも、重圧に負けず、強く明るく生きようと思い定める

日もある。

 そのしばらく後、配給を取りに行くのに子供たちを連れて行って、祖母の不

興をかうことがあった時のことである。「子供たちを連れて行くのが、お気に

召さないのか、少々険悪な情勢のように感じられたが、あまり気にかけずに相

手になる事にしている。尖ってゆとりのない感情に 寒々と血の引くような気

のする時もある。私のリベラルな方法と封建的な考え方との相違が出る争いな

のだ。出来るだけ荒立てないようにして、しかも卑屈にならずに強く自分を信

じて生き度いと思っている。自分が悪いと思えない限り、何物にもこびる必要

はないと思う。そのような卑しさを自分から追放してしまいたい。強く明るく

生きる事によって、周囲の人たちをもその様に導き育てられると思う」そして

三人の子供たちに対する愛情を語るが、ここにも祖母の干渉の暗い影が射して

いる。「幼い人たちに対しては、日毎に愛情が増して来る。然し時々ふと投げ

やりになる。薄れて来るのは、不当な圧迫と侮辱を敢てされる時である。もし

私が子供たちを愛さない時が来るなら、それは全く他の人の罪であると信じて

いる。子供と共に居る時の、豊かな、暖かい、光ある感情を私から取り除くも

のは、寒々しく、尖った、私への誰かの態度である」

 そして、数日後には、祖母と、空襲で焼け出され戦後しばらく同居していた

小姑とへの反感が、それまでになく、顕わに述べられている。鉛筆の走り書き

で、読みにくいし、説明がないので具体的にどんなことがあったのかは分らな

いが、この二人がどれほど母にとって生き難さをもたらす存在であったかは伝

わってくる。

 祖母については「彼女は実に我がままだ。私は、強く、誇り高く生きるのだ。

誇りなき者のみにくさに陥り、・・・・・・(判読不能)豊かさが追々に失せ

て来るのを感じる。ギスギスとして、ネズミの様にセカセカと動き回るのがご

満足な、彼女の監視の下で。彼女の笛に連れて踊ることのあまりの悲しさよ」

 小姑については「よい時はよいが、時折、気まぐれな嵐が怖ろしい。寸時も

ゆるがせに出来ないし、僭越極まるY女史に手も足も出ない。私をそのように

する城壁をめぐらして置いて、私を非難するとしたら、相当自分勝手なやり方

で、私の方はまだ多くの言い分を持っている。ただあまりきたない争い、醜い

やり方をするまいと思うからこそ、沈黙するだけの事だ。時々一人で考えて、

色々のことを思い出すと滅茶苦茶にくやしくなる事がある」と述べている。

 そして日記は、その数日後、極く日常的な事を書いた文章の途中で終ってい

る。書いているところを誰かに見られて、急いで隠しでもしたかのように。そ

してノートの残り半分以上は空白である。

 しかし、結婚前後の母の胸の内を知るにはこれで充分である。恐らく母もそ

う思って、これ以上書かず、タンスの奥にしまい込んだのであろう。

 読み終えた私は、母の苦悩の想像していた以上の深さ、その結婚生活のあま

りの過酷さに心打たれて、しばらくは汗だくのまま正座し続け、数々の思い出

にひたっていた。

 

 この日記が中断されてから間もなく、母は二人の子供を産んだ。上は男の子、

下は女の子である。自分のお腹を痛めたのでない子供たちをも、あれほどいと

しんだのだから、自分の子供が産まれた時には、どれ程の幸せを感じたことだ

ろう。しかし、時は第二次世界大戦の末期で、栄養失調もあったのだろう。二

人とも、続けざまに肺炎で亡くなってしまう。不幸な結婚生活に加えてこの悲

しみ。しかも亡くなった赤ちゃんの枕元で泣き崩れている母に対して、祖母は

「蝿が来るから早く埋めてしまいなさい」と言ったという。当時の母の歌に

 

 甲斐は山 山めぐらせて しずかなり

 あの山向こうに 吾子はおらずや

 

というのがある。上の子が亡くなった時、一家は父の転勤で甲府にいたのであ

る。

 私は和歌、俳句の素養は全くないが、この歌には心惹かれる。愛する者を失

った時の、ただひたすらに、もう一度会いたいという気持ちがよく現されてい

る気がして、私自身も辛い別れを経験する度に、自然とこの歌を口ずさんでき

た。

 さて母はこれらの重なる苦しみに、どう耐えたか?死ぬことが出来ないのは

経験済みだし、三人の子供もいる。残された方策は、たとえ一時(いっとき)の

みにせよ、何もかも忘れさせてくれる死の代替物、お酒であった。私が産まれ

る前のことで、はっきりとは分らないが、父は晩酌を欠かしたことがなく、台

所にはいつも一升瓶があったから、昼間それをこっそり呑んだのだろう。

 母の死後、タンスのなかにしまってあるのが見つかった文箱の中に、母が描

いた一枚の絵があった。可愛い女の赤ちゃんが布団に寝ている絵で、その下に

「これは節子です」とある。節子というのは亡くなった下の子の名前である。

その字がひどく乱れている。これは恐らく節子が亡くなった直後に描かれたも

のであろうから、母の隠れ酒は、その頃すでに始まっていたのである。

 その後、私と妹が産まれた。そして私自身も二十代でアルコール中毒になっ

たが、母は節子が死んだ時だけでなく、その後もずっと、何か辛いことがある

度にお酒に手を出していたから、私は、自分は胎児性のアルコール中毒なのだ

と思っている。

 母は、お酒が入ると別人のようになった。普段は、私の友人やその家族の人

たちから「なんて優しいお母さんでしょう」と言われるほど、穏やかで優しく

上品で、毎朝子供たちが学校に行く時には門の外に出て、微笑みながら、姿が

見えなくなるまで手を振って見送ってくれたし、夜はどんなに忙しくとも、添

い寝をして、読み聞かせをしたり、歌を歌ってくれたりした。私たちは皆、そ

れがとても楽しみだった。荒い言葉を吐いたり、大きな声を出したりしたこと

など、普段は一度もなかった。

 それが、突然般若のような顔になり、目を吊り上げて、口の端に白い泡をた

めてぶつぶつと呪いのような言葉をつぶやき始めることがあった。何を言って

いるのかは、はっきりとは分らなかったが、祖母そして人生そのものに対する

呪詛であることは、所々聞き取れる言葉、声音、顔つきから大体理解できた。

私はまだ幼かったので、その変貌の理由は全く分らなかったが、普段が優雅で

あるだけに、変わり振りの大きさが怖ろしく、ただ脅えた。

 一つ、今も記憶から拭い去ることの出来ない思い出がある。それは、私が小

学校に入るか入らないか位の頃だった。最初のところで書いたが、私の家は、

座敷が並んでいて、周囲を廊下が囲んでいて、その端に手洗いがあった。昔の

ことで、廊下に電灯はなかった。後に祖母は、恐らく年齢的に母を支配できな

くなったと感じたからであろうが、母とは暮らせないと言って、父に頼んで自

分用の離れを建ててもらう。そして、長男であり、一人きりの男の子である兄

を、母には育てさせられないと言ってその離れに引き取ってしまうのだが、そ

れは大分経ってからのことで、当時は私たち子供は、二つの座敷の間の襖を開

けて、五人並んで寝ていた。父と母はその隣の座敷で、襖を閉めて寝ていた。

 ある夜、私は尿意を感じて目覚めたが、真っ暗な長い廊下を通って行くのが

恐くてじっと我慢していた。しかしついに我慢出来なくなったので、申し訳な

いと思いながら襖越しに小さな声で「おかあさん」と呼んだ。母は、「おかあ

さんて全然眠らないのかあ?」と妹と不思議がったほど、私たちが呼ぶと、ど

んな夜中でも、どんな小さな声でも、すぐに返事をしてくれた。それだけいつ

も、子供たちの事を気にかけてくれていたのであろう。あるいは、母親という

のは、誰でもそうなのかも知れないが、私は子供を持ったことがないので分ら

ない。

 それで、その時もすぐに「なあに?」と返事があり、私が手洗いに行きたい

と告げると、すぐに起きて連れて行ってくれた。手洗いには薄暗い小さな裸電

球が一つぶらさがっているだけだった。私はそこで用を足しながら、暗闇の中

に白く浮かんでいる母の顔を見ているうちに、これは本当に母なのだろうか、

お化けではないだろうかと、言い知れぬ深い恐怖感を覚え、「おかあさんて本

当に人間なの?狐じゃないの?」と尋ねた。母は勿論即座に「何を馬鹿なこと

言ってるの」と私をたしなめたが私は「本当に?本当に?」としつこく尋ね、

ついに「いい加減になさい」と言われて、その場はそれで終った。しかし、そ

の時の恐怖感は長い間私の心に染み付いて離れなかった。後になって考えると、

それは恐らく、当時はまだ理由が分らなかった、しらふの時と酔った時の母の

変貌振りに由来していたのであろう。私は三十代で不安神経症にもなるが、こ

んなことも、その遠因であるかも知れない。

 その頃のことだったと思うが、或る日、父は私を散歩に連れ出した。一緒に

歩いていても、普段共にいることがほとんど無いから話題もなく、無言で並ん

で歩いていると、父がぽつりと

 「女は子供を亡くすと気が狂うことがあるんだよ」

と言った。だが、幼かった私には父が突然なぜそんなことを言ったのか、皆目

見当がつかなかった。今考えるとそれは、常日頃は家庭を顧みないように見え

ながら結構色々なことに気を配っていて、その頃の私の精神状態の変調に気付

き、原因を推察した父の、母をかばい、私の恐怖心を癒そうとする、不器用で

はあるが精一杯の思いやりから出た言葉だったに違いない。ようやくその真意

を理解出来るようになったのは四十代になってからだったと思うが、遠い存在

のように感じていた父の愛情に気づくよすがとなった。

 私は学校に行っていたので、昼間の母の行状は良くは知らなかったが、私と

十二歳離れていて、もう大学生で家にいることが比較的多かった長姉の話によ

ると、かなりしばしば呑んでいたらしい。家中暴れ回ったり、祖母と取っ組み

合いの喧嘩をしたりしたこともあったようで、近所の人たちにも知られていた。

しかし近所では、父の前妻は祖母にいじめ殺されたという評判があったほどな

ので、皆、母に同情的で、母を批判する言葉は私の耳に入ったことはない。

 そのうちに祖母は、先にも書いたように、離れを建ててもらって、兄を引き

取って暮らすようになった。勿論、日に何度も往復はあったし、離れにお風呂

はなかったので、お風呂に入りには来たが食事は別だった。これで顔を突き合

わせていなければならない時間が大分減って、母の生活は随分解放されたよう

だった。だが、祖母は兄に、母の悪口を色々と吹き込んだ。その上、しばしば

「この家のものは、かまどの下の灰まで、お前のものなんだよ」といって聞か

せた。この言葉は、母の面前でも言われ、私も聞いたことがある。これを年中

聞かされて育った兄は後年父が亡くなった時、母の相続分まで自分のものにし

ようと、独自に弁護士を頼んで訴訟を起こすと言い出し、母を苦しめることに

なる。

 だがそれは、ずっと先のことで、祖母と距離が置ける様になったお陰で、母

のお酒は随分回数が減り、私たちも怖ろしい変貌振りを目の当たりにすること

が少なくなった。それでも、今のように家事の電化が進んでいなく、家は練馬

の田舎にあったから水道も来ていなくて、当時はそういう家が多かったろうが、

朝は井戸水を汲んで台所の桶に入れることから始まり、朝食の支度と同時に子

供たちのお弁当を作り、それが終るとすぐ井戸端にしゃがみこんで、たらいと

洗濯板を使って、昼近くまでかかって大家族の汚れ物を洗い、昼食が済めば、

スーパーも冷蔵庫も無かったから何軒もの店を回って夕食の材料を買い、風呂

の水は井戸からバケツで運んで汲み入れ、配給をとるにも並ばなければならず、

という生活だったから、自分の時間などとても持てず、そのストレスや、また、

祖母がやって来て意地悪い言葉を吐いて行くこともあったりして、時たまは呑

んでいたようで、呑めば以前と同じく、般若の顔になって「女なんてつまらな

い」と恨み言を言っていた。

 それでも母はしっかりと自分の義務をこなし、家庭の歯車は順調に回り、年

月を経て父は出世し、五人の子供たちは皆大学、あるいは大学院に進んだ。そ

の頃には、家事の電化も進み、お手伝いさんも雇うことができるようになって、

母の生活は大分楽にはなっていたが、相変わらず祖母は日に何度もやって来て、

母の生活に干渉して行ったし、祖母の感化を受けた兄も嫌味を言いに来ること

がよくあったので、母は頭を押さえつけられる感じから解放されることはなか

ったようである。それでも、その頃は、お酒は止んでいて、比較的穏やかな生

活が続いた。

 次に母が乱れるのは、兄が結婚した時である。恋愛結婚で、父は新婚夫婦の

ために、敷地内の祖母の離れの隣に二階家を建ててやった。兄嫁は、社会に出

たいとか、自分を活かしたいという欲望は二義的なものとしっかり仕分けして

いて、女の第一の義務は家庭を守ることと心得、豊かな家の専業主婦になった

ことに充分満足している人だった。それ故、芯には祖母と似たところのあった

母と違って、祖母とぶつかるところが無かったからか、あるいは単に母を苦し

めるためにか、祖母はこの兄嫁を非常に可愛がり、兄嫁のすることには一切干

渉せず、家事の手伝いまでしてやったので、兄嫁はしばしば外出して、友人と

会ったり、買い物をしたりしていた。帰りが遅くなっても、祖母が洗濯物を取

り込んで、畳んでおいてくれるので安心して暗くなるまで遊んでいた。

 これを毎日見せ付けられて、母が穏やかな気持ちでいられるわけがない。母

は再び酒浸りになり、家の中で怨念をつぶやいたり、暴れたりするだけでなく、

兄嫁のところへ怒鳴り込んだりもした。兄嫁も驚いて、とんだところへ来てし

まったと後悔したこともあっただろうし、母を嫌悪したこともあっただろう。

 当時私は大学に入ったところで、もう色々なことが分る年齢になっていたか

ら、自分が小さかった頃の母の飲酒による変貌振りと、今またその時と同じ般

若の顔を見せるようになって様になってしまった彼女の心情とを重ね合わせて

考え、深い深い哀れみの念を抱くと同時に、思春期特有の潔癖感から、その酔

態に激しい嫌悪を覚えた。この愛と嫌悪の葛藤は、母のお酒が止んでからも長

い間私を苦しめた。

 その時、母のお酒がどうして止んだのか、理由は定かではないが、もう祖母

も年を取り、何から何まで母を押さえつけることは出来なくなっていたので、

母も少しづつ自由になり、カルチャーセンターに通ったりし始めて、心境が変

わったからではないかと思う。あるいは逆で、これではいけない、人は人とし

て、自分はせめて残りの人生を心豊かに過ごそう、とお稽古事を始め、それで

お酒が止まったのかも知れない。

 ともかく、この頃から、母の生活は多少変わった。勿論家事はあるし、父の

関係の雑用は山ほどある上、祖母の世話にも手がかかるようになって来たので、

暇な時間というのはほとんど無かったが、それでも遣り繰りして、和歌や日本

画の教室へ通い始めた。

 父も、長年共に暮らしているうちには、特にそんなことを話し合ったことは

なくとも、母の積年の苦労や、押し殺し続けた願望は、薄々ながらも理解して

いたとみえて、母の絵の展覧会が行われたりすると、必ず見に行くようになっ

た。

 こうして生活が多少なりとも変わったことで心がほぐれて来たのか、母は私

たちに、自分の父親のこと、娘時代のこと、文化学院時代のことなど、ゆっく

りお茶を飲みながら話してくれるようになった。和歌や俳句を新聞に投稿して、

掲載されると喜んで切り抜いて取っておいたりもしていた。六十近くなって、

ようやく手に入れたささやかな幸せだった。

 だが、それは長くは続かなかった。祖母の衰えが激しくなってきたのである。

先に述べたが、元々頑健な人だったのが八十三歳の時に始めて病気になり、そ

れは肺炎だったので高熱が出て、高齢ゆえ皆最悪の事態を覚悟したが、持ち前

の丈夫さから、三日寝ただけで体はすっかり回復した。しかし、これがきっか

けで、ぼけが始まった。最初は火の始末が出来なくなり、それでも頑固に離れ

で暮らしていたので、ボヤを出し、消防車が来る騒ぎになった。それ以来、離

れのガスは止めて、母は三度の食事を作って運ばなければならなくなった。そ

してそれからは、お決まりの痴呆への道を辿っていった。夜中の徘徊も始まっ

た。昭和五十年代の事である。行政による介護サービスなどは全くなかった。

老人病院もあるにはあったが、東京から遠く離れた山の中にあったので見舞い

に行くのも大変だし、今のように行き届いた介護をしてくれるわけでもないの

で、可哀相で入れることが出来なく、母はせっかく始めたお稽古事を全て止め

て、家事の上に介護をしなければならなくなった。

 勿論私たちも手伝ったが、上の姉二人はすでに結婚して小さな子供たちがい

たし、兄嫁は、それまでの経緯から当然、祖母や母に近づく事を嫌っていたし、

私と妹には学校があったし、父は頭取としての激務に追われていたし、結局負

担の大部分は母の肩にのしかかった。介護生活は十年近く続いたと思う。

 母は祖母の寝室に花を絶やさず、食事にも工夫をこらして私たちの物とはち

がう献立を考え、運んで食べさせた。体も毎日のように拭いてあげた。

 祖母は一度、母に向かって

 「こんなにしてくれるのは、あんたしかいないよ」

と言ったそうだ。母の長い苦しみを思えば、あまりにささやかな報いであった

が、それでも母は嬉しそうだった。

 その後、以前触れた小姑も

「お姉さん(母のこと)には悪いことをしてしまったわ」

と昔の仕打ちを謝ったと言う。

 この話をしてくれた時も、母は満足げだった。

 

 介護生活は或る夜、誰も知らぬ間に徘徊に出た祖母が交通事故に遭い、すぐ

に病院に運ばれたがじきに息を引き取った事で終わりを告げた。

 祖母が亡くなった時、母は私にしみじみと言った。

「おばあさんは本当に可哀相な人だったと思うわ」。

 共に、自分を活かしたいという願望を持った人間であったから、女と産まれ

たが故にそれを実現出来ず、様々な掟に縛られて、そして掟に従うべく、自分

で自分を縛ったため心が捻じ曲がっていったことが良く分るのだろう。先に述

べた文箱の中には、俳句や時折思い浮かんだ事を記した小さな雑記帳も入って

いて、第一頁目に大きな字で「男の子産まれよ。女の命は悲しきもの」と書い

てあった。上の子が産まれる前のものだろう。

 祖母が無くなってからの母は、見違えるように活き活きとし、活動的になっ

た。父の関係の雑用と食事の支度の仕上げだけはしていたが、あとの家事はす

べて放擲し、お手伝いさんに任せてしまったが、田舎出のこのお手伝いさんが

全く気の利かない人だったので、家の中は、綿ぼこりが舞い、普段着の洋服や

読み終えた本類はどんどん部屋の隅に積み重ねられていった。私より上の兄弟

たちは皆結婚して、私は大学院生、妹は大学生になっていたから、母はようや

く子供たちの世話からも、忍従の生活からも解放され、ついでに主婦業も止め

てしまったのだった。そうして出来た時間と心のゆとりを活かして、お稽古事

の数を増やし、文化学院時代の友人たちとの交友を復活させた。家中のふすま

を白い無地の紙で張らせ、そこに大胆な筆遣いで花鳥風月の日本画を描いたり

もした。俳句を作ってはそれを短冊に筆で書いて、いたるところに吊るした。

床の間の掛け軸まで描いたことがある。額に入れられた母の絵が家中にあふれ

た。父は「おかあさんが芸術家だからいいね」と喜んだ。誰も家が全く片付け

られていないことで文句を言ったりしなかった。まだ六十代の始めだった母は、

元気一杯飛び回り始めたのだった。

 しかし、それは二ヶ月しか続かなかった。今度は父が、脳梗塞で倒れ、半身

不随、言語麻痺になってしまったのである。昭和51年の事である。やはりま

だ、行政による介護サービスは一切行われておらず、何から何まで家族の負担

で行わなければならなかった。おまけに言語が不自由になった父は、すぐに癇

癪をおこすようになった。まだパソコンなどなかったから、意志の疎通は大変

にむつかしく、父の苛立ちをなだめ、何を欲しているのか察するのも、家族に

しか出来ない仕事だった。母はまた、四六時中家に閉じ込められ、介護に専念

せねばならなくなった。しかし、芯から優しい人であったし、父にそれなりの

愛情で愛されていた事を知っていたから、夜中に度々起こされても嫌な顔もせ

ず、下の世話まで献身的にし続けた。

 それは六年半続いた。その間母は、せっかく取り戻した活動を全て停止し、

昔の友人たちとのつきあいは電話だけ、買い物はテレビの通販だけになってし

まった。

 父はほとんど寝たきりだったが、母はそんな父を起こして、毎日少しでも庭

を散歩させたり、夏には山中湖にあった山荘に、春、秋には江ノ島にあった海

の見えるセカンド・ハウス用のマンションに、寝台車を頼んで連れて行った。

お風呂も、子供用のビニール・プールのような簡易風呂を買って、父のベッド

のわきに置き、お湯を沸かしてはバケツで何度も運び込み、週に三回入れてあ

げた。勿論、私たちも手伝ったが、母は三十四キロ、父は食事制限で大分痩せ

たとはいえ七十キロを越す体だったから、それは大仕事だった。しかし、おか

げで、六年半もほとんど寝たきりだったのに、亡くなった時には床擦れ一つな

かった。食事もまた、医師に渡されるメニューを元に、野菜料理を中心に、幾

品も時間をかけて作らなければならなかった。

 長く辛い闘病生活だったが、母にとっては、生涯激務に追われ続けて留守の

多かった父が、ようやく家に帰って来たようだったのだろう。子供をいとおし

むように大切にした。だがそれでもやむを得ないことで、父は次第に弱って行

き、爪などパラフィン紙のように薄くなり、最後は痰の吸引のために、拒み続

けていた入院をせざるを得なくなった。当時はまだ、尊厳死というような考え

方はなくて、一秒でも長く生かすことが医療であると考えられていたから、父

は思い出すのも辛い延命治療の果てに亡くなった。

 

 その後、祖母に育てられ、「この家のものはかまどの下の灰までお前のもの

だよ」と日夜聞かされてきた兄は慾に目が眩み、長男ということで、すでに生

前贈与というかたちで多くのものをもらっていたのに、さらに母や私たちに与

えられるべき遺産まで掠め取ろうと、独自に弁護士を立てて訴訟を起こすと言

い張り、母を苦しめた。兄の態度は想像以上にひどく、毎朝出勤前に母のとこ

ろへやって来て、罵詈雑言を投げつけて行った。可愛がって育てた子供のあま

りの仕打ちに、消耗しきった母は、上の三人の子供たちと養子縁組をするつも

りでいたのを止めてしまった。それで、母の遺産は私と妹のものになり、二人

で古い家を取り壊し、二世帯住宅を建てて、一階と二階に分かれて住むことに

したのである。

 結局、兄にも多少の良識は残っていたとみえて、二、三ヶ月の間、毎日母を

苦しめた後、自分の言い分が通りそうもないことを知って、法律通りに分割す

る事に同意しようやく事は収まった。

 その時の母は、夕食時に睡眠薬代わりに少量のワインを呑むだけで、毎日兄

に恩をあだで返すようなことをされていた係わらず、大酒を呑んで荒れること

はなかった。祖母に感謝され、小姑に謝られ、父の愛を感じ、そして父をいつ

くしむことで、もう怨念から解放されていたのかも知れない。

 しかし父の死後半年以上の間、母は魂が抜けてしまったように家に閉じこも

ってぼんやり座っているだけになり、姉たちも私たちも、今度は母が参ってし

まうのではないかと心配し、三度の食事を作って運んだり、毎日誰かが様子を

見に訪れたりしたが、時間の持つ癒しの力は偉大なもので、次第に元気を取り

戻して行った。

 父が亡くなったのは、昭和五十六年の十月で、その冬の母は完全に冬ごもり

で、家から一歩も出なかったが、年が開け、相続問題も片付き、初夏の陽射し

が眩しくなって来ると、外へ出てみたいと言い出した。しかし半年以上の蟄居

生活で足が弱っていて遠出は出来ないので、或る晴れた日の午後、私は母を、

家から歩いて二、三分のところにある停留所からバス一本で行かれる中野に連

れて行った。バス停を降りると目の前に大きなビルがあるので、私たちはそこ

の最上階にある喫茶店に入り、窓際の席に座って、母の好きなコーヒーを頼ん

だ。外が良く見晴らせる席で、ちょうど正面に広い駐輪場があった。そこには

沢山の自転車が並んでいて、それらのハンドルの金属が、きらめく陽光を浴び

て目を射るように輝いていた。母はしばらく黙ってじっと見とれていたが、ふ

っと

「何て綺麗なんでしょう」

とつぶやいた。

 たかが自転車のハンドルとはいえ、美しいと感じられるものを見たことが生

きる意欲を与えたのか、それから母はめきめき元気になっていった。

 その時はもう、妹は結婚し、私は就職してローンでマンションを買って一人

で暮らしていた。兄を除く兄弟たちは皆、母に一緒に住まないかと言ったが、

母は、もう自由に一人で暮らしたいと言い、どこが不自由というわけでもない

ので、一人暮らしを楽しむことになった。

 それは、母が始めて手に入れた気儘な生活で、もう七十歳を過ぎていたから

無理はきかなかったが、毎日のようにお稽古ごとや、時にはお芝居に出かけた。

「源氏物語」を読み直し始めたり、電話でしか話したことの無かった文化学院

時代の友人と五十年振りで会ってお茶を飲んだりした。仏文を専攻していた私

が、当時かぶれていた書物の翻訳まで、分ったのか、分らなかったのか、とも

かく目を通してみたりもした。

 私と妹は、土曜日には必ず母と会って、数時間を共に過ごした。中野で会っ

て一緒に食事をしてから、何かちょっとした買い物をする時もあったし、母の

家に行って御寿司をとってもらい、ゆっくり食べながらおしゃべりして、庭掃

除や落葉掃きをして帰って来る時もあった。母にとって、こうした作業はもう

大仕事になっていたので、大変喜ばれた。ウィークデイには必ず毎朝、ほんの

一言でも電話して無事を確かめた。

 母の顔はそれまで見たことがなかったほど明るくなった。父の遺産はたっぷ

りあったし、毎日のようにカルチャーセンターに通い、その上兄と兄嫁以外の

子供たちは皆精一杯時間をさいて、色々なかたちで親孝行したのだから、傍目

には、この上なく幸せな楽しい老後と見えただろうし、事実、毎日を楽しそう

に過ごしてはいたものの、胸の奥底には、俳人だった祖父や文化学院の先生方

の嘱望に応えられなかったという無念の想いが常にあったようだ。

「わたしは何もまとまったことが出来なかった」

「おじいさん(俳人だった祖父のこと)は私に期待していたのに、私はそれに

を裏切った。そのことを思うと、今も胸がギクリと痛む」

と何度か言っていた。

 また晩年の日記にも、どこそこへ行った、楽しかった、子供たちがご馳走を

作って持って来てくれて、食べながらおしゃべりをした、美味しかった、楽し

かった、図書館で本を借りて来て読む、面白かった、というような、幸せな日

常生活の記録の合間に「粉々に打ち砕かれ、その上すりつぶされ、ふと気付い

た時には、これで自分は生きて行かれるのだろうかと、解決の答えも出ないま

まに過ごした自分を拾い集める事に努力している日々である」

とか、美濃部元都知事の死に関連して「老いれば世を去る。淋しい事ではある。

未練たらしいが、抑えに抑えて生きて来た者にとっては、終わりの何年かは思

いのままに生きてみたい」

というような、願望を達成出来なかったことを、死ぬまで無念に思っていたこ

とを明らかにする言葉がはさまっている。母は最期まで芯からは幸福になれな

かったのである。それは勿論状況のせいが大きいが、母の資質の問題でもある。

 母は七十五歳を過ぎた頃から、当然のことながら段々に弱っていき、あちこ

ち悪いところが出て来た。しかし父の死の時の過酷な延命治療のことが頭にあ

ったからか、決して病院には行かないと言い張り、七十八歳の二月の或る極寒

の日、お風呂で急死した。古い日本家屋だったので、脱衣所など隙間風で凍え

るように寒かったのだ。御通夜の晩、私は母が哀れで哀れでたまらなく、泣き

通した。その頃の私はまだ、大方の人にとって、人生は、思い通りにいかない

ことの方が多いものであることが、本当には分っていなかったのである。

 

 現代でも、女が自分を活かす生き方をするのは、大変なことである。その意

味で母が舐めてきた辛酸は、現代女性が抱えている生き難さと通底するもので

あろう。しかし母は現代よりはるかに男尊女卑の傾向が強かった明治時代の生

まれで、その上同じような欲望を持ちながら、それを逆の方向に発現していた

祖母と共に暮らし支配されてきて、老境に入ってやっと少し自由を得た途端に、

祖母と父の介護に追われることになったのだから、老後皆で大切にしてあげて

も、心の底の無念の想いは本当には癒され得なかったのである。

 私は、物心ついてからずっと、母が不幸であることを感じてきたが、何をし

てあげることも出来なかった。ただいつも胸の中で「おかあさん、ごめんなさ

い。私には、おかあさんを幸せにしてあげることは出来ません。私に出来るの

は、ただ精一杯あなたを大切にしてあげることだけです」と思っていた。そし

て、母を幸せにするには、その期待に応えることだと考え、普通の人が自分探

しをする時期に、ただひたすら母を喜ばせようと努力し過ぎて神経を病み、か

えって心配をかけてしまった。その時の母の気持ちを想像すると、今も私の胸

は激しく痛む。

 しかし、亡くなって二十年経ち、私も色々な経験を積んで来た今、目を閉じ

ると、浮かんでくるものは、祖母に嫌味を言われての暗い顔でもなく、醜い酔

態でもなく、晩年の明るくにこやかな顔とはずんだ声である。

 人は皆孤独で、それぞれの幸不幸を抱えて生き、大体が沈黙のまま死ぬ。母

が私に残した姿が、明るい笑顔だということは、母にも幸せな時があったとい

うことだろう。救われる想いがする。

 また、母のアルコールの問題も、私の幼い日々に大きな影を落としたし、思

春期になってからは不気味な酔態に激しい嫌悪感を覚え、私は、愛と嫌悪の葛

藤で随分苦しんだが、今は、母にアルコールがあって良かったと思っている。

アルコールで、悲しみ、苦しみを麻痺させることが出来たからこそ、生き延び

ることが出来たのである。もし常にしらふでいなければならなかったとしたら、

あまりにも辛い生活に耐えかねて、いつの日か、今度は本当に、自らの命を断

っていたことだろう。生き延びて来たからこそ、晩年の、心の奥底に深い悲し

みを秘めていたとはいえ、一応穏やかで楽しい生活があったのである。

 

 私が、母のレクイエムを書こうと思い始めてから、もう二十年近くなる。ず

っとフランス語の非常勤講師として多くのコマ数をこなし、子供は居ないが、

子供のような夫と、莫大な運動量を必要とする犬とがいて、仕事と家事と彼ら

の世話に追われ続け、果たす事が出来なかった。しかし私も六十三歳になり、

犬は死に、仕事は大幅に減らし、夫は、私との長い戦いの末、ようやく少し自

立心を持つようになり、念願を果たす時間が取れるようになった。そして、自

分もこの年まで生きて来るうちには、様々な辛い体験も経てきて、母に対する

気持ちも、ただ哀れさに溺れるのではなく、多少は冷静な見方が出来るように

なったので、今なら書けると思い、筆を取った。

 自分を活かすということは、勿論、昔の女性にとっては極めて困難なことで

あったろうし現代も解消はされていないがこれは女性だけの問題ではなく、男

性にも通ずることである。フリーターが増えているのも、この願望と無縁では

あるまい。

 その上、母の場合は夢を追いすぎるという資質の問題もあった。勿論、あの

ような状況の下で自分を活かして生きることは不可能ではあったろうが、現実

への適応性がもう少しあったならば、あれほど苦しまずに過ごすことも出来た

であろう。母自身そのことに気付いていて、前述した古い日記の中で「あまり

にドリーマーでありすぎて自分を不幸にしてはならない」と反省したり、自分

のことを「結局、実際生活に甚だしく不向きな人間であり、夢多く、夢を生か

せぬ不幸な人間であるのだ」と、その年齢にしては極めて鋭い省察をしたりし

ている。しかし、芸術家を父として産まれ、生来の感性を育む様に育てられ、

その上更に、それを助長する高度な特殊教育を受けてしまったのだから、実際

生活に不向きな人間になってしまったのは当然である。それでも、それを活か

すことの出来る生活力さえ併せ持っていれば、才能を発揮して、充足した人生

を送ることが出来たかも知れないが、母には芸術家として生きる生活力はなか

った。心が優し過ぎたのかも知れない。といって、困窮に耐えて芸術に身を捧

げるにはあまりにお嬢さん育ちだった。

 世の中には、現実に達成不可能な夢など持たず、自分の置かれた現実をその

まま受け入れ、日々、なさねばならぬことに力を尽くして生きて満足感を得て

いる人も沢山いる。だが祖母も母もそういう種類の人間でなかったし、その血

は私にも流れていて、その為に、私も随分苦しんだ。母も私がその点で母に似

ていることを心配して、折に触れて、現実を大切にしなければならないと忠告

してくれ、長い手紙を書いてくれたこともあったが、母自身そのようには生き

ておらず、それを見て育った上に、若かった頃は、自分の頭脳の力に絶対の自

信を持っており、父の地位にも誇りを持っていた私は、いわば傲慢の塊だった

ので、母の忠告に耳を貸さなかった。お陰で後(のち)になって、人生から手ひ

どいしっぺがえしを食らわせられた。         

 だが性格というのは、宿命のようなものなので、たとえ母の言葉に耳を傾け

たとしても、恐らくその忠告に私を変える力はなかっただろう。そして私は矢

張り観念的理想を追い求めて、現実を否定し、不毛な闘いを行ったことだろう。

 もし来世というものがあるならば、願わくは、現実にどっぷり漬かって生き

ることの出来る人間に生まれてみたい。