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                命ありて

                          宮崎康子

 

 しばらく前にテレビのドキュメント番組を見ていたら、現在、原因不明の激

しい痛みに苦しんでいる人は、日本全国で約300万人いると言っていた。そ

れも並大抵の痛みではない。全身にガラス片が刺さっているような痛みだとい

う。

 私もその一人である。痛みは14、5年前のある日突然始まった。私が50

歳になる少し前だった。当時我が家ではシベリアン・ハスキー犬を飼っていて、

その犬が壮年期にさしかかっていた。ハスキー犬というのは、シベリアの雪原

で橇を引く犬だから、重い荷物を引いて1日8時間位走り続けられる体力を持

つ。そうとは知らず飼ってしまった私は、子供がいないこともあって可愛くて

たまらなかったから、止まるところを知らぬ運動欲求をいくらかでも満足させ

ようと毎日朝夕2時間ずつ小走りで散歩させた。

 その上私は、大学でフランス語を教える仕事をしていて、週に10コマ持っ

ていた。1コマというのは90分授業1回のことである。勤め先の大学に行く

には、満員電車で片道1時間半かかる。更に教師という仕事は、家ですること

が多い。授業の準備、レポート、小テストの採点等々、夜は2時間ほど机に向

かっていたし、休日も溜まった家事を片付け、翌週の食事の献立を考え、買い

物をして、野菜などの下ごしらえをしながら、細切れの時間を惜しんで勉強し

ていた。夫は朝7時には家を出て、帰りは10時、11時だったし、末っ子で

何でも人にやってもらうことに慣れていたから、家事はゴミ出しにいたるまで、

全て私がしなければならなかった。その上、食べることが何よりも好きな大食

漢で毎晩会社を出ると「今日は何?」とその日のおかずを尋ねに電話をかけて

きて、気に入った献立だと喜び、そうでないとがっかりした声を出すのが常だ

ったから、食事の支度にも随分時間と神経を使った。毎日睡眠時間は4時間く

らいで、年齢による衰えもあって、私はいつも重い疲労感に悩まされていた。

学校に行く電車の中で、朝からつり革に掴まって立ったまま眠ってしまったこ

ともよくあった。

 そんな日々をすごしていたある夕方、犬の散歩から帰ってきた時、なんの前

触れもなく、左足の膝から下に激痛が走った。ひどい痛みだったが明日になれ

ば治るだろうとそれほど気にせず、辛いのをこらえて食事の支度だけして、早

目に横になった。幸い横になると痛みは和らいだので、じきに眠ってしまった。

 翌朝起き上がってみると大分楽になっていたので、いつも通りの生活を始め

た。しかし、そのつけは夕方になってきた。痛みは前日よりひどくなっていた。

そんなことを2,3日繰り返した後、私は近くのかかりつけの医者のところへ

行った。医者は過労だと言い「年なりの生活をすれば治るよ」と付け加え、ク

リノリルという痛み止めと抹消神経に働くビタミン剤とをくれた。

 それまで痛み止めというものを殆どのんだことがなかったので、その薬を処

方通りに朝晩のむと痛みは殆ど感じられなくなり、私はそれまでと同じ生活を

続けた。近所の人にカイロプラクティックを勧められ、そこにも2週間に1度

ずつ行った。カイロの先生も過労が原因だと言い「過労が続いて、ある日突然

体が悲鳴をあげたんだ」と言った。カイロも良く効いた。そうして、時には痛

いこともあったが、鈍痛だったので我慢できないほどではなく、23年の間以

前と同じ生活を続けてしまった。

 すると加齢による為か、薬に体が慣れてしまった為か、かなり激しく痛む日

が多くなって来た。私は、学校に行く為に、1日2回の処方を無視して、3回、

4回とのむようになった。薬の足りなくなった分は、休日には犬の散歩を朝も

夕も夫にしてもらって、最低の家事だけして、あとは横になっていることで、

のまずに耐えた。カイロプラクティックも毎週にした。

 だがそれでも痛みは徐々に激しくなって来て、私は常に、痛くならないよう

に、痛くならないようにと、そればかり心がけるようになった。幸い犬も大分

歳を取ってきて、運動量が減っていたし、夫に頼んで朝は自転車で走らせるよ

うにしてもらった。睡眠時間にも気をつけるようにし、夕食は作ることは作っ

たが、皿に盛ってテーブルの上に並べて、夫の帰宅前に眠ってしまうことも多

くなった。

 こうして、以前よりは大分楽に暮らす様になったのだが、痛みは増す一方だ

った。特に、私はひどい冷え性で、足が冷えると痛みがひどくなるので、2月

の一番寒い時期は痛くて起きていられず、電気毛布にくるまって横になって呻

いているほかないようになってしまった。しばらく横になっていると痛みは和

らぐのだが、起きるとまた激痛がやって来る。テレビで語られていたように、

無数のガラス片が突き刺さるような痛みだった。幸い大学は2月はもう春休み

なので、私は寝たり起きたりの半病人のような生活を送った。それでも桜が咲

く頃になると大分楽になるので、学校は続けていた。

 そのうち犬が11歳半で死んだ。とても利口で、人の心が良く分る犬だった

ので、失ってしばらくの間は胸が張り裂けそうに悲しかったが、一方ではこれ

で歩くことが減って足の痛みも治まるかも知れないと期待する気持ちもあった。

 だが、この痛みはそんな生易しいものではなかった。犬の散歩がなくなり、

家事も大幅に手抜きをするようになっても、じわじわと増してきた。やむなく

私はその翌年度からの授業数を7コマに減らした。そんなこんなで随分楽にな

った筈なのに、痛みは増す一方で、もうクリノリルはほとんど効かなくなり、

痛みの激しい時には、患部と脳の中に何本ものナイフを突き刺されたままで生

きているような感じだった。

 私は何かもっと抜本的な治療法はないものかと、大病院で検査をしてもらう

ことにした。最初は、私の勤務している大学に付属している信濃町にある病院

に、学校の診療所で紹介状を書いてもらって行った。しかし、そこの外来担当

の若い医師はMRIを撮っただけで、それを見て、骨格も神経の通り方も全て正

常なので、痛みの原因は分らないと言っただけで、現実に激痛に苦しんでいる

のに、次ぎの方法を考えてくれようとはせず、23分で私を追い返した。

 それを聞いた夫が、知人で血管が詰まった為に激痛に襲われ、バイパス手術

をして治った人がいるから、一度血管の検査をしてはどうかと言ったので、私

は例のかかりつけの開業医に頼んで専門の医師を紹介してもらい、板橋にある

大学病院の血管外科を訪れた。そこでは血管に造影剤を入れて写真を撮る検査

のほかに、下半身のエコー、神経伝達速度の検査、皮膚温度の検査、足の指の

血流検査など、もう忘れてしまったが何日もかけて色々なことを調べてくれた

が、すべて異常なし。つまり原因不明で、手の施しようがないということだっ

た。

 そうこうしている間にも痛みは増す一方だった。生きているのが嫌になるよ

うな痛みだった。夜は早く横になって楽になりたいという思いだけで、何もか

も投げやりに片付け、朝は目覚めると同時に、ああ、今日もまた痛みに苦しめ

られのかと、起き上がるのがためらわれた。死んでしまえば、この痛みから解

放されると何度思ったことか分らない。

 そして遂に私は授業を1コマに減らした。3月のことで、時間割はもう全部

決まっており、講義要項も書いて提出してあったが、あまりの痛さに、もうこ

れ以上はどうしても頑張れない、あとは野となれ山となれだ、という気持ちだ

った。残した1コマは私の生きがいとも言える授業だった。私は学部、修士、

博士と、19世紀のフランス詩を専攻したが教職についてからは、語学を教え

ることが多く、学生たちは可愛かったが、30年もやっていると飽きたと感じ

ることもしばしばあった。唯一何年続けても、毎年新しい発見があり、それを

語ることが出来るのがこの19世紀の詩人に関する授業だったので、たとえ往

復タクシーということになってもこれだけは続けるつもりだった。

 それにしても毎日痛かった。私は大学病院でいくら検査しても原因不明なら

ば、対症療法しか行えないのではあろうが、ともかくこの痛みを何とかしても

らえるかも知れないと期待して、ペインクリニックと言うところへ行ってみる

ことにした。そしてインターネットで半日かけて調べて、極めて有能らしい女

医さんが院長であり、家から左程遠くないところにあるクリニックを見つけ、

そこへ行ってみる事にした。

 初診の時、長年アメリカで勉強して来た経歴を持つ院長は、じっくりと私の

話を聞いてくれて「神経ブロックで治るでしょう。でも、するかどうか、すぐ

に決めなくても良いですよ。受付に神経ブロックについて書かれた本がありま

すから、それを読んで考えて下さい」と物静かに言った。神経ブロックとは、

私もあまりはっきりとは知らないが、背骨、あるいは喉に麻酔薬を注射するこ

とによって痛みを止めるものらしい。従って麻酔が切れないように定期的に行

わなければならない。

 私はそんなに絶えず麻酔薬を体内に入れて良いものだろうかと、恐ろしい気

もしたが、受け付けで借りた二冊の本には、治った症例が沢山出ていた。治れ

ば注射を止めることも出来るようだったし、副作用も無さそうだった。治った

人の喜びと感謝の言葉も載っていた。とりわけ、それらの言葉が私の胸を打っ

た。私も治りたい、痛みから解放されて、何処へでも行かれるようになりたい。

それは切実な心の叫びだった。どんな病気でも、長患いとなれば誰でも、心底

治りたいと思うであろうが、特に、絶え間ない激痛でしかもそれが足となると、

例えようもない辛さで、この療法で治るかも知れないと思うと、喜びが胸に湧

き上がった。足というのは、たとえ寝て暮らしていても、トイレに行くにも、

顔を洗うにも使わなければならず、いくらか調子が良くて、起きて仕事をして

いるような時には本棚へ本を取りに行くにも使わなければならない。そこに何

本ものナイフが突き刺さっているというのは、経験した者でなければ、決して

分らない辛さである。

 私は、翌週またそのクリニックに予約を取り、すぐに院長に神経ブロックを

して下さるよう御願いした。こうして毎週1回の治療が始まった。待合室には、

いつも大勢の人がいたが、みんな段々に回復していく喜びを語り合っていたし、

受付の人もとても親切で、歩くことさえ出来なかった人がゴルフに行かれるよ

うになった話などして、力づけてくれた。私は希望を持って、杖を片手に通い

続けた。

 だが症状は一向に改善されなかった。院長は併用するようにと、ボルタレン

という強力な痛み止めの座薬をくれた。しかし、それも全く効かなかった。そ

れで注射の場所を色々なところに変えたり、2本1度に打ったりしながら、週

に一度ずつ、1年半の間続けた。だが私には、この治療が効いているとは思え

なかった。痛みが緩和されないので、院長はボルタレンの他に鎮痛補助剤とい

う薬を加えた。それでも症状は全く変わらなかった。そしてある日、院長は独

り言のように「治らないのかもしれない」と言った。それを聞いて、私の目か

らは思わず涙がこぼれた。「それではどうすれば良いのですか?この痛みを一

生抱えていくしかないのですか?」私は涙声で問うた。すると「麻薬を上手に

使って行くほかないでしょう。まずリン酸コデインを使ってみましょう」と言

った。

 実は私は30年ほど前にアルコール中毒になったことがある。それはアルコ

ール・アノニマスという一種の断酒会のようなものに参加することによって治

ったのだが、アルコール中毒になったということは、私に依存体質があるとい

ことである。従って麻薬を使うことは恐かった。そこで、アルコール中毒の治

療の専門家であるが、いまではほとんど友人のように親しくさせていただいて

いる、私と同年輩の女性の精神科医に相談した。

 彼女は「私は麻薬の免許を持っていないのではっきりした返事は出来ないけ

れど、勧めることは出来ないわね。でもそんなに痛いのだったら止むを得ない

かも知れない。ペインクリニックの先生にアルコール中毒のことを話して、今

までそういう人でその薬の依存になった人がいないか良く伺ってごらんなさ

い」と答えてくれた。

 私は言われた通りにした。ペインクリニックの先生は、私の質問に「これは

子供の咳止めにも使う極めて安全な薬で、今まで依存になった人はいません」

と答えた。それで私もこわごわながら、のんでみることにした。先生はそれを、

1日3回2錠ずつのむように処方され、さらに痛みのひどい時にのむようにと

10回分追加を下さった。

 しかし熟慮の結果のみ始めたそれも、定量では目覚しくは効かなかった。私

は、すぐに追加分に手を出すようになった。1日5回、6回とのむとかなり楽

になった。それでも時折は、以前と変わらない激痛を覚えることがあった。

 麻薬系の薬は、投与量に法律の枠がある。だがその枠内の量ではどうしても

痛みが治まらない時には、医師の裁量で増やすことが出来るらしい。私の場合

も激痛が収まらないので、あまり効かないと訴えると、先生は「この薬は痛く

なくなるまで、いくらのんでもかまわないのですよ」言われて少しずつ増量し

てくれた。私は毎週それを全部のんでしまい、それでようやく、週1回の学校

と家事とをこなし続けた。

 その頃夫は、それまでの暴飲暴食がたたって糖尿病になり、厳しい食事制限

を受けるようになっていたので、毎日食べた物を書き出して、栄養士さんに見

せなければならなかった。買ってきたものを使うことも出来なければ、外食し

て来てと頼むことも出来なかった。私は毎日献立に頭を悩ませ、台所に立つ前

には必ず薬をのんで2時間くらいかけて食事を作り、終るとまた薬をのんで、

しばらく横になった。

 そんな無理も良くなかったのだろう。学校以外の外出はほとんどせず、極力

動かないようにしていたのに、痛みはひどくなる一方だった。カイロプラクテ

ィックも殆ど効かなくなっていた。夫は毎夜のようにマッサージをしてくれた

が、それもその時だけは痛みが和らいだが、翌朝になればまた激痛が戻ってい

た。

 リン酸コデインも量が増えて行くだけで、はかばかしく効かないということ

が分ったので、今度はそれに加えて、抗鬱薬と抗不安薬との大量投与をしてみ

ることになった。抗鬱薬はパキシルが良いと言われたが、これは以前のんだこ

とがあって、私には合わないらしく、ひどく眠くなるので、トレドミンを1日

3錠から始めて、1週間毎に1錠ずつ増やしていって1日6錠までのむことに

なり、抗不安薬はコンスタンを1日3錠、さらに多量のトレドミン摂取の副作

用である手の振るえを抑えるために、アキネトンという本来はパーキンソン病

の治療に使う薬を1日3錠のむことになった。

 まさに薬漬けだったが、この大量投与は比較的効き、それにリン酸コデイン

の追加分をのむとかなり楽になった。しかしそれでも激痛は完全には治まらず、

時折は息をするのも苦しい痛みに襲われた。その上いつも頭が朦朧としていて

考えをまとめることが出来なかった。

 夫は、毎晩のようにマッサージをしてくれるような優しいところもあるのだ

が、幼児性が強くいつも私に寄りかかっていたい人なので、私の長患いに耐え

切れず、大声で怒鳴ったり、物を投げたりし、その度に私は脅え、激痛は更に

ひどくなった。

 2ヵ月後、ペインクリニックの先生は遂に神経ブロックによる治療を諦め、

五反田にある大病院のペインクリニック科で、難治性の痛みを押さえるために

脊髄に電極を入れる手術をしているから、そこへ行ってごらんなさいと紹介状

を書いてくれた。

 6月のある朝、私は早起きをして、杖をついて、五反田駅から2,3分の

ところをバスに乗り、その病院へ行った。8時には着いたのに、待合室は既に、

痛みに苦しむ人たちで溢れていた。皆自分の苦しみを心置きなく語り、他人の

話にも良く耳を傾けて同情し合い、他の場では見られない打ち解けた雰囲気が

あり、それだけでも癒される感じだった。

 昼近くなって、私の名前が呼ばれ、中年の男性の医師はペインクリニックの

先生からの手紙を読んで、椎間板ヘルニアの疑いもあると判断して、腰のMRI

とCTスキャンと何枚ものレントゲンを取った後、電極を埋め込む手術は無効

だからしない、そのかわり痛みを押さえるためにリボトリールという癲癇の薬

を加えようと言った。手術に期待していた私は少々がっかりしたが、リボトリ

ールは目覚しく効いた。ただ困ったのは、ひどく眠くなることだった。たださ

え、抗鬱薬と抗不安薬の大量投与とリン酸コデインとで朦朧としているところ

へそれが加わったので、私は一日中眠気に苦しめられるようになった。呂律も

回らない時があった。

 家で授業の準備をしようと机に向かっても、すぐにうとうとしてしまい何も

出来ず、それでも授業には行ったが、行きの電車の中から眠りこけてしまい、

教室に入って教卓の前に座るとまた眠ってしまい、はっと気づいて話し始めて

も自分が何を言っているのか分らなくなって、学生に「今、私なんていった?」

と尋ねなければならないという惨憺たる有様だった。しかし学生たちには、足

が痛むので強い痛み止めをのんでいるので、頭が朦朧としていることを言って

あったので、皆いぶかしみもせず親切に教えてくれた。

 そんな状態になっても、痛みがなくなったということは何にも変えがたい有

難さで、リボトリールを止めようとは思わなかった。

 そのうち、それでもかなり痛む日が出てくるようになった。医師にそのこと

をいうと、今度はさらにガバペンという薬を追加してくれた。しかし、これは

確かに痛みには効いたが副作用があまりにひどかった。視線が定まらなくなり、

足元がふらつき、呂律が回らなくなったので、さすがに止めてしまい、リン酸

コデインをさらに追加してなんとか耐えた。

 五反田の病院の先生は、痛みの治療の大家でテレビにも出たりしているよう

だったが、家から遠い上に、患者さんが多いので、3時間、4時間と待たされ

たあげくに薬を処方してもらうだけだったから、私は先生に通うのが辛いこと

を言って、もう手術のことも、追加の薬のことも決まったことだし、元のペイ

ンクリニックに戻って薬だけもらうことにした。

 神経ブロックを専門とするペインクリニックの先生は、出戻りの私を歓迎し

ていないようだったが、受け入れてくれた。もう、何処へ行っても治らず、た

らいまわしにされている感じだった。

 抗鬱薬の大量投与を始めたのは5月だったが、7月に入るとひどい不眠が始

まった。リボトリールの副作用で眠くてたまらないのに、毎夜、判で押したよ

うに1時間半眠ると目覚めてしまい、もう眠れないのである。眠くてたまらな

いのに、どうしても眠れないというのは辛いものである。たださえ眠いのに、

不眠による眠さが加わって、昼間中ごろごろしている日が続いた。昼間ごろご

ろしているから、夜眠れないのだと思って、なんとか起きていようとするのだ

が、眠くて眠くてどうしても起きていられない。かと言って本当に眠るわけで

もなく、ただ机にうつぶせになり半醒半睡の状態で時を過ごしているだけだっ

た。

 幸い学校はすでに夏休みに入っていたので、毎日そんな状態で過ごし、ただ

夫が在宅する休日は、私のそんな姿をみると夫は不機嫌になるので、それが恐

くて幾らか緊張したが、それでも長時間起きていることは出来なかった。私も

一緒に暮らしている相手がこんな風ではさぞ鬱陶しかろうと、彼の心情を察し

はするのだが、どうしてもしゃんとしていることは出来なかった。

 鏡で自分の顔をみると、真っ黒で皺だらけで、老婆のようだった。

 8月になると、不眠のせいか、薬のせいか、認知症のようになってしまった。

まず日付が何度聞いても分らない、自分が何を言っているのか、夫が何を言っ

ているのか分らない、3分前のことも忘れてしまう。夫は心配のあまり、ただ

無闇と私を怒鳴りつけ、私は萎縮して、ますます何も分らなくなってしまう。

それでも夫は、自分に出来ることはこれだけだからと言って、毎夜長時間足の

マッサージをしてくれた。

 私は、自分が壊れて行くのを感じ、このままでは廃人になってしまうと思っ

た。それを認識する能力は残っていたので、じりじりと色々な能力を失って痴

呆のようになっていく自分を見ていることは例えようもなく恐ろしかった。し

かし、あの激痛がぶりかえすのだけは、何としても避けたかったので、薬は全

部のみ続けていた。

 そして8月も終わりに近づき、後期の授業の準備を始めなければならなくな

り、私は机に向かった。しかし、壊れた頭では勉強など全く出来るものではな

く、机に向かっても、すぐうつぶせなってしまうだけだった。日本語でもフラ

ンス語でも、簡単な文章すら理解出来ず、アルファベットの順序が分らないの

で、辞書を引くことも出来なかった。

 私は、完全に廃人になったと思った。そして、もうどう頑張っても授業など

出来ないから、学年度の途中であり、多くの人に迷惑をかけるではあろうが、

もう止めるしかないし、夫も私の長患いにはうんざりしているのだから、本当

の廃人になる前に死んでしまおうという考えも頭をよぎった。しかし、心底死

にたかったわけではないらしい。ただ治りたいという願望がそのような形で現

れたのであるらしい。その証拠に、いつも親身になってくれる前述の精神科医

に電話をし、心情を訴えたのだった。

 幸い日曜日だったので、彼女は大宮から車を飛ばして、家の近くまで駆けつ

けて来てくれた。そしてまず不眠は抗鬱薬ののみ過ぎで躁状態になっているた

めであって、これがつづくと鬱になるから、とにかく睡眠薬をのんで眠るよう

に、そして抗鬱薬の副作用を緩和するために、リーマスという気分を安定させ

る薬を1日3錠と鬱の予防にデプロメールという薬を1日1錠のむようにと言

って、すでに持参して来てくれたそれらの薬を私に渡し、これをのんで状態を

改善し、学校は辞めないようにと、じっくりと話してくれた。なぜなら、その

授業は、観念的理想を追い求めて現実との相克に悩み、挫折しながらも立ち直

り、大地に足をつけて生きることを選んだ詩人の生き方と、同様な体験を経て

今日に至った私の生き方とを重ね併せて、詩人のテキストを読みながら語って

いくもので、これから人生の荒波に揉まれて行かなければならない若い人たち

に大きな力を与えるであろうからと言ってくれた。

 私にとっても、その授業は生き甲斐であったから出来ることなら続けたく、

いただいた薬をすぐにのみ始めた。しかし不眠は頑固で、私は若い頃不眠症で

睡眠薬をのんだこともあったが、アルコール中毒から快復すると同時に一切や

止めたので、もう30年間睡眠薬とは縁が切れていたのだから効く筈なのに、

のんでも、やはり1時間半眠ると目覚めてしまうので、2度ほど薬を変えても

らい、ようやく5時間くらいは眠れるようになり、随分楽になった。同時に私

は、ペインクリニックの先生に訳を話して、抗鬱薬と抗不安薬の大量投与を止

めてもらった。リン酸コデインとリボトリールとボルタレンは続けていたので、

相変わらずいつも朦朧としてはいたが、それでも以前に較べれば、いくらかは

っきりしてきて、これならどうやら後期の授業が出来そうだと思えるまでにな

った。

 そして、前期よりはましだったが、相変わらず授業中に眠ってしまったり、

自分が何を言っているのか分らなくなったりしながらも、休まず授業に通った。

そんな私に学生たちは寛容で、辞めていく者もあまりいなかった。恐らく、精

神科医の言った通り、脈絡のない私の言葉の端々に、人生にとって大切なもの

を見出してくれていたのであろう。有難いことである。

 しかし、痛みは続いていた。私は授業に行くのに必ずリン酸コデイン3袋と

水を入れた小瓶をバッグに入れ、痛くなると電車の中でもそれをのんだ。もう

完全に依存になっていた。

 そんな時、芦屋に住む、私と同い年の遠縁の女性、S子ちゃんが私のことを

聞いて、朗報を届けてくれた。神戸に、薬を使わず整体によって痛みの治療を

してくれる、「神の手を持つ」と評判の中国人の名整体師がいるということだ

った。彼女自身背骨の頑固な痛みを、そこで治してもらったそうだった。勿論、

東京から神戸まで通うのは経済的にも、体力的にも、時間的にも大変だが、そ

の時の私は、この苦痛から逃れられるものなら、例え家屋敷を売っても構わな

いという気持ちだったので、すぐにその話に飛びついた。

 そして10月のある日の朝早く、二階に住む妹と夫に見送られて、私は神戸

へ向かった。三の宮の駅で待ち合わせて、彼女は私をその整体師さんのところ

へ連れて行ってくれた。

 そこは小さな整体院で、50歳くらいの先生と数人のお弟子さんがいて、治

療用のベッドが二つあるだけで、機械類は一切なく、全て触診だった。私は前

もってS子ちゃんに、今までの経過と、のんできた薬のリストを送っておいた

ので、彼女はそれをコピーして先生に渡しておいてくれた。

 先生は私の左足の脛を握るとすぐに「肝臓が弱っている。でも必ず治ります」

と言われ、しかし私の年齢、痛みに耐えた期間の長さとその間にのんだ薬の量

の多さ、そして東京から通う疲労などを考えると少し時間がかかるかも知れな

いが、あなたの体は非常に回復力があるから、必ず治ると付け加えられた。

 帰り道で、S子ちゃんは「あの先生は初診で、ご自分が治せるかどうか見極

められて、駄目な人には駄目とはっきりおっしゃるから、先生が治るとおっし

ゃったからには必ず治るから頑張ってね」と言った。しかしペインクリニック

でも必ず治ると言われて散々な目にあった私は、そう言われても半信半疑だっ

たが、ともかくやってみないことには分らないので、先生の言われる通りに治

療を受けてみることにした。

 1回目と2回目は、間は空いても構わないから、10日ずつ続けて来るよう

にとのことだったので、11月の学園祭の休日を間に入れて、最初の10日間

の治療を受けに行った。治療は30分くらいだったが、その後、食事や生活の

ことについて細々とした注意をしてくれた。驚いたのは、タバコもコーヒーも

いけないと言われなかったことだ。両方とも、今までかかった病院では止める

よう勧められ、特にタバコは、血管を収縮させるから絶対にいけないと言われ、

禁煙パッチを張って苦労して止めたのだった。びっくりした私が「東洋医学で

はタバコはいけないと言わないのですか?」と尋ねると「東洋医学ではという

ことではないよ。僕の勘だよ」と事も無げな答えが返ってきた。

 家で仕事をすることが多く、アルコール依存症の過去があるから飲酒は出来

ず、散歩に行くことも出来ない私にとって、タバコは唯一の息抜きだったが、

痛みには絶対いけませんと言われて止めたのが、この一言で1週間後にはまた

吸い始めてしまった。

 しかし治療の効果は目覚しく、第1日目から、治療後の痛み止めは必要なく

なった。2日目からは、ホテルから整体院への10分の道のりをタクシーに乗

らず、杖をつきながらゆっくりとではあるが歩いて行かれるようになり、その

うちには、行きは杖を突いて行っても、帰りは忘れて整体院を出てしまい取り

に戻ることさえあるようになった。1週間後には、何年ぶりかで、駅に隣接し

たデパートに短時間ながら寄ってみることも出来た。治療は1日30分なので、

あとの時間は退屈でたまらず、こわごわ近くを散歩したりもした。私は有頂天

になり、毎日先生に昨日はこんなことが出来ました、あんなことも出来ました

と報告したが、先生は渋い顔で聞いているだけだった。

 そして、その通り、この痛みはそんな生易しいものではなかった。

 10日後、私は颯爽と帰京し、仕事と家事に精を出したが、先生に、楽にな

ったからといって、くれぐれも動き過ぎないようにと良く良く言われていたの

で随分セーブはしていた。それでも弱った足には過重な負担だったのか、帰っ

て半月後、もう痛みがぶり返し始めてきた。それでもその時はまだ鈍痛だった

し、全然痛まなく杖なしで歩けるような日もあったが、次第に痛む日が多くな

り、年末には以前と同じ状態になってしまった。

 神戸の先生は、急に痛くなった時、ストレスが溜まった時のために、「何時

でも電話を頂戴。話すだけでも安心するでしょ」とご自分の携帯の番号を教え

て下さっていた。私はあまりの痛さに、その携帯にかけた。

 しかし携帯がつながらないので、治療院の番号にかけると、中国の大学の教

授でもいらっしゃる先生は、集中講義のために帰国中で、1月13日にお帰り

になるとのことだったので、止む無く私は14日に予約を取った。その間は又

薬漬けの日々だった。ただ泳ぐと血行がよくなるせいか、痛みが和らぐことが

多かったので、暇さえあれば近くのプールに三輪自転車で行ったし、あいだに

冬休みがあったことも幸いだった。夫も少しずつ食事の支度をしてくれるよう

になって来ていたので、あまり痛い時は、頼んでしまって横になっていること

も出来た。

 1月14日、私は再び10日間の治療に出かけた。寒い真っ盛りで、私の足

は冷えきっていて、それだけでも痛みが増した。先生は「こういう寒い時は、

治りにくいんだよね」とおっしゃりながら、まず痛む方の足を両手でくるんで

暖めてから、治療にかかって下さった。すると足がぽかぽかに暖まり、それだ

けでも楽にはなったが、確かに前回のように、はかばかしくは効かず、治療後

にも痛み止めをのむ日もあった。血流のために、治療が終ったら、すぐにホテ

ルに帰って横になるようにと、むつかしい顔でいわれたこともあった。

 今回の連続治療は、前回と同じく10日間だったが、間で何日か休みが入っ

たので、その度に東京に帰った。ホテルに一人いても退屈なだけだからである。      

治療の効果が前のようにあらたかでないので、私はがっかりし、藁にもすがる

想いで通いはじめた神戸だが、ペインクリニックの時のように、やはり治らな

いのではないかと思い始めていた。夫にそう言うと、夫も気落ちしていたから

か、激怒し、私のことを、悲観的、否定的な物の見方しかしないと怒鳴りつけ

た。しかしこれだけ長い間、激痛を抱えて幾つもの病院をたらいまわしにされ、

ここなら必ず治してもらえると縋った整体院での治療もはかばかしく効果があ

がらなかったのに、楽観的、肯定的であることが出来るためには、余程強靭な

精神力が必要であろう。私はただの弱い人間である。たださえ落ち込んでいる

ところへ、そのような批判をされて私の心はどん底から這い上がれなくなって

しまった。夫はそれでも毎夜丁寧にマッサージをしてくれたが、私はそのこと

への感謝よりも、痛みと夫に対する恨みとで心身共に疲れ果ててしまった。こ

んな難病に取り付かれた人間と暮らす夫は、さぞや大変なことだろうといたわ

りの念が湧くこともあったが、生来健康であった私がこんな風になったのは、

同じように仕事を持っていたのに、すべての家事を私に押し付けて、長年過労

に耐えさせた夫のせいだと恨むことのほうが多かった。それはいくら拭おうと

しても拭うことの出来ない感情であり、懸命に抑えようとしても抑えきれず私

の言動に現れて来て、その度夫は怒鳴り、物を投げ、夫婦仲は次第に険悪にな

って行った。それでも夫はマッサージを続けてくれた。

 次回の予約は、2週間後で2泊して3回の治療だった。今度は幾らか楽にな

ったが、やはり痛み止めは手放せなかった。それから7月までこのペースで通

ったが、3月に入ると春めいてきた気候のお陰もあるのか、大分楽になり、そ

れまでずーと家に閉じこもっていた私は陽気に誘われて、先生に毎回「歩き過

ぎないようにね」と言われているにも係わらず、つい散歩に行ってしまったり

して、その度に後で痛み後悔した。しかし3月の治療の時先生は、足はきれい

に治って来ている、この調子で行けば心配はいらないと言われ、「今、絶対に

無理をしては駄目だよ。まだまだ痛くなるかも知れないからね」と付け加えら

れた。しかし私の耳に入ったのは「もう心配はいらない」という嬉しい言葉だ

けで、それではもう、あの激痛に襲われることはないのかと大喜びし、また少

しデパートを覗いてから、春の陽光を浴びながら心楽しく大通りを回り道して

ホテルに帰った。

 しかし、そのつけは翌日すぐ来た。朝から激痛に襲われたのだった。デパー

トに寄ったといっても、15分くらいしか居なかった筈だし、大通りを回った

といっても2,3分長く歩いただけである。私は痛み止めをのみ、タクシーに

乗って整体院に行った。先生は、私の手の甲をぎゅっと握って「そこなんだよ。

みんな楽になると嬉しくて無理をする。ある人なんか痛まなくなってきたら、

家の階段を昇って良いですか?って聞くから、いいよ、と言ったら夜になって、

先生、痛くって、痛くってと電話がかかってきたから、何かしたのと聞いたら、

家の階段を200回上り下りしましたって言うんだ。200回だよ。痛くなく

なるとどうしても動き過ぎるんだ。良く気をつけなければいけないよ」。だが、

普通の人は当たり前のことと思っているであろうが、歩けるということ、しか

も天気の良い春の日に歩けるというのは、心の底から喜びが沸きあがってくる

ほど嬉しいことなのである。200回も階段を上り下りしたというのも、喜び

の表現だったに違いない。

 「絶対に無理をしてはいけない」と言われても、家に帰れば、動かないわけ

にはいかない。家事だけでも、1日3,4時間は立っている。帰京して4,5

日は鈍痛があるだけだったが、じきに激痛が蘇ってくる。また痛み止めに頼ら

なければ、何も出来なくなる。夫との仲も一触即発の状態が続いている。夫に

怒鳴られるたびに、痛みは激しくなった。私は、この人と一緒に暮らしている

限り、痛みは取れないのではないかとすら考えるようになった。夫は男の子ば

かりの4人兄弟の末っ子で、物の言い方がひどく荒っぽく、すぐに怒鳴るのだ

った。それに対して私は、男一人、女4人の兄弟で、圧倒的に女の多い家庭で

育ったから、怒鳴られたことは殆どなく、大声を出されると胸が苦しくなるほ

ど恐ろしかった。だから夫が芯は優しい人であり、私の苦しみにどう対応して

良いか分らないために無闇と怒り散らすのであることは分っていたが、その物

の言い方は恐ろしかった。特に週末で夫が家にいると、私は朝から緊張して、

痛み止めを更に多くのみ、極力明るく振舞って、夫を怒らせないように、怒ら

せないようにと神経を使った。

 それでも治療が週末に当たると、夫は日頃忙しくて疲れているのに、神戸ま

で一緒に来てくれた。4月の治療の時は、土日だったが、夫はその土曜日は出

勤だったので、仕事を終えてから夕方来てくれることになっていた。それで土

曜日の治療の時は夫がいなかったので、私は先生に、私の長患いのために夫婦

仲に不和が生じていることを話した。怒り、恨みは痛みの母とどこかで読んだ

ことがあるが、そのため先生が多くの患者さんたちのカウンセラーの役も果た

していらっしゃることを知っていたからである。先生は「明日ご主人が来られ

るなら、僕がご主人に話してみよう」と言って下さった。

 その夜、夫は夜遅くホテルに着き、翌日二人で整体院へ向かった。そこの整

体院では、来ている物を全部脱いでパジャマ1枚になって治療を受けるので、

私は奥の小部屋で着替えていたから、先生が、待合室の椅子に腰掛けた夫の傍

らに立たれて何をおっしゃったのか良く聞き取れなかったが、「今が一番大事

な時なのだし、奥さんもこらえ切れない時があるんだから、奥さんが突っかか

ってきても、我慢して・・・・・」というような事をこんこんと諭していらっ

しゃるようだった。そして、着替えて出てきた私にも「あなたも我慢しなくち

ゃだめだよ。もし、怒りが湧き上がりそうな気がしたら、すぐに僕のところに

電話をしなさい」と言われた。有難かったが、私はその件で電話したことはな

かった。しゃべり出したら止めどなくなってしまいそうだったからである。

 それからしばらくの間、心なしか、夫は少し変わり、怒鳴りたくても我慢し

て、低姿勢に出る時もあるようになった。しかし生来の性格は簡単には変わら

ないし、夫は何でもすぐに忘れてしまうたちなので、些細なことで癇癪をおこ

す癖は、数日後には元通りになった。しかし、休日には夕食を作ってくれたり、

掃除、洗濯もしてくれたりと、私の労力を省くため一生懸命努力してくれるよ

うにはなった。その姿を見ていると、私も、こんな難病の伴侶を抱えて大変だ

ろうに、彼なりに精一杯力を尽くしてくれているのだ、そこにもっと目を向け

て感謝しなければいけないと反省する時もあった。とは言え、お互いに疲れ果

てていたので、普段なら気にも留めないようなちょっとした言葉尻から、相手

の全存在を否定するような言葉のぶつけ合いに発展してしまうことは毎日のよ

うにあった。そのせいかどうか、激痛は続き、薬も手放せなかった。夫は唸り

ながら物に掴まって、そろりそろりとトイレにいく私の姿などを見るとさすが

に哀れになるのか、どんなに喧嘩した日でも、マッサージを欠かさず、丁寧に

してくれた。二人とも機嫌の良い時に、「どうしてそんなにしてくれるの?」

と尋ねたら「君が今まで僕のためにしてくれたことを考えれば当たり前だよ」

という返事が返ってきたこともある。

 痛みが続き、大量の薬をのんでは、長時間台所に立っていることがもう心底

嫌になったので、私は夕食を作ることを止め、夫には糖尿食セット、私にはお

かずが3品ついている冷凍食品のセットを取ることにした。ハイチェアという

下半身に障害がある人のための調理用の椅子も買ったが、下にキャスターがつ

いているので不安定な上に、家の調理台との高さがどう調節しても合わないた

めか、肘が動かしにくくて疲れるのだった。朝食の支度だけはしたが、夕食は

痛みが軽く、気の向いた時に1品作り足すくらいにすれば良くなったので、随

分気が軽くなり、夫への恨みも半減した。掃除は夫が2、3週間に1度、簡単

にしてくれるだけなので、家の中には綿ぼこりが舞っていたが、目をつぶって、

空いた時間は授業の準備をしたり、書き物をしたり、痛みがなければプールに

行ったり、短い散歩に行ったりした。

 そのうち新学期が始まった。頭が朦朧としていて、絶えず眠いことは相変わ

らずだったが、抗鬱薬と抗不安薬を止めて中和剤をのんでいたので昨年度より

はましだったと思う。それでもしばしば学生に「私、今何の話していた?」と

尋ねなければならないことは変わりなかった。そうして今自分が言ったことを

教えてもらうと、しばし沈黙して考えの糸を懸命にたどり、ようやく話を進め

始めるのだった。しかし学生たちには学期の始めに事情を話してあったので、

みんな親切だった。

 5月の治療は、ちょうど連休と重なったので、(この整体院は年中無休なの

である)妹も一緒に行って、夫が観光船の上での昼食を計画してくれ、バイキ

ングを楽しんだ後は車椅子を借りて甲板に出て、五月晴れの空の下で大好きな

海を眺め、久しぶりに晴れ晴れとした気分になった。

 しかし、せっかくの行楽だから3人楽しく過ごせるようにと、何度も薬をの

んだのに、足はかなり痛み続けたので、夕方整体院に行った時に先生にそう言

うと、新しい神経が出来始めているからで、予定通りのことだから、少しも心

配はいらない、と言われた。そして何やら分厚い本を持っていらして、あるペ

ージを開いて見せて下さった。そこには、治療を始めると、一時以前より悪く

なることがあると書かれていた。それで一応安心はしたものの、痛いものは、

痛く、学校へ行くにも家から最寄の駅までは三輪自転車で行き、電車は杖のお

陰で席を譲ってもらい、駅から学校までは往復タクシーという、駅の構内さえ

歩けば済む行き方をしていた。

 夫との仲は、再び険悪になり始めていた。それでも家事はかなり手伝ってく

れるのだが、言葉の暴力がひどく、朝出際にひどい言葉でののしられると、一

日一人で家にいる私の心の中では、与えられた傷が肥大し続け、夜になっても

立ち直れず夫が帰って来る前に、睡眠薬を多目にのんで眠りに逃げ込んでしま

うこともしばしばだった。

 そうしている間に、足の痛みはどんどんひどくなり、続けざまに薬をのんで

も、涙が滲んでくるような痛さになったので、私は神戸の先生の携帯に電話を

したら、すぐ来るようにと言われ、翌日行くことになった。新幹線の切符は夫

に電話して買って来てもらった。

 先生は痛む場所を丁寧に時間をかけて揉みほぐして下さり、これは育ち始め

た神経が固まってしまって痛くなり、痛いためにまた固まってしまうという悪

循環が起こったのだと説明して下さった。そして治療費は要らないとおっしゃ

った。驚いた私が「どうしてですか?」と尋ねると「予約の日より前にひどく

痛くなった時は、僕の見立て違いで、僕の責任だから、そういう時は誰からも

治療費はもらっていないのだよ」といわれた。後にお弟子さんに聞いたところ

によると、先生は赤ひげ先生のようになることを目指していらっしゃるという

ことだった。治療が終ると痛みはすっかり消えていて、私はすたすた歩いてホ

テルに向かった。

 次の予約は、その1週間後だったが、その間にも何回か激痛に襲われたが、

先生の見せて下さった本にあった、治療を始めると、一時前よりも悪くなるこ

ともあるという文章を思い出してこらえた。しかし薬は規定量以上にのみ続け

た。

 5月末の予約の日、先生はいつものように「どうですか?」と聞かれたので、

私が自分の状態を話すと、厳しい顔で「これからも、まだまだ山はあるよ」と

言われたので、がっかりしてしまった。もう痛いのは沢山!薬も嫌!早く治り

たい!しかし、痛みをこらえた時間の長さ、その間に使用した薬の多さなどが

大きな災いとなっているようだった。

 その日は土曜日で、夫も一緒に来てくれて、先日のクルージング・バイキン

グを私が喜んだことから、今度は夜の六甲のバスツアーを計画してくれていた。

私は、治療が終った時には全く痛くなくなっていたが、ツアーの途中で痛くな

ってせっかくの夫の心遣いを無にしてはいけないと、用心のため、痛み止めを

のんで行った。それでも夜間長時間バスに乗り、立食のバイキングを食べてい

るうちに、疲れと相俟って、どんどん痛みがひどくなり、食事の途中からは、

早くホテルに帰って横になることばかり考えていた。

 痛みは翌朝も続いた。私は、私を楽しませてくれようとせっかく計画してく

れたのに、そのために、治療の効果がふいになったと夫に知られては申し訳な

いと思い、こっそり痛み止めを倍量のんだが、痛みは治まらず、当然笑顔など

作れなかった。夫はそれを私の不機嫌と解釈して、楽しかった筈のバスツアー

の後、なぜ不機嫌になるのかと彼も不機嫌になって私を責め、二人はそのまま、

あまり口も利かずに帰ってきた。

 その痛みは数日続いた。授業をするのも辛く、椅子に座ったまま体を捻じ曲

げて板書したりした。そして、私は夫に手紙を書いた。あなたの好意は本当に

有難いのですが、疲れると痛みが激しくなってしまうのです。そうすると、痛

みに耐えるだけで精一杯になってしまい、機嫌の良い顔など出来なくなってし

まうのです。といった内容のものだったと思う。前述の精神科医に、以前「そ

んなに痛い時に、にこにこなんて出来る筈がないわよ。そんなに自分に無理を

させては駄目よ」と言われたことが頭に残っていたからである。

 それ以来、夫は行楽の計画を立てなくなった。治療は1日1回30分だから、

2回してもらうにしても、2泊すると随分時間が余るのだが、一人で街をあち

こち歩いたり、デパートで買い物をしたり、六甲の山歩きをしたりして時間を

過ごすようになり、私はその間ホテルのベッドで足を投げ出して、本を読んだ

り、テレビを見たりしていた。私は治療に来ているのだから、痛みが取れるこ

とが目的なので、退屈だとはいえ、それで充分だった。

 数日後には痛みは随分和らいだ。そしてまた神戸に行く日が来た。今度はウ

ィークデイなので、私一人だったうえ、雨が降っていた。私は2泊分の荷物を

リュックに入れて、傘と杖を持って出かけた。車中や寝る前に読む本まで入れ

たので、だだっぴろい東京駅の構内を歩いているうちに、もう足が痛くなって

しまったが、治療は大変良く効き、肝臓もとても良くなっていると言われ嬉し

かった。

 それから2週間後の次回の予約まで、相変わらず痛み止めをのんではいたも

のの、左程激しい痛みには襲われず、薬も処方量を越えることはなかった。た

だ、抗鬱薬の大量投与以来の頑固な不眠が、なぜかぶり返してきて、睡眠薬を

のんでも毎夜判で押したように1時間半しか眠れず、昼間睡魔に襲われ机にう

つ伏せて眠ってしまったり、朦朧として何もせずに時を過ごしたりしていた。

それで、これまでになかったほど、疲労困憊していて、これで神戸まで行かれ

るかと不安だったが、どうやらたどり着いて先生に不眠の対策を伺ったら、こ

れはご専門ではないようで、昼間寝ないこと、興味のない本を読むこと(面白

くないから眠くなる)という忠告を下さったが、毎晩1時間半しか眠れないの

に昼間寝ないことというのは無理な話で、何をしていても気がつくと眠ってい

る。そして毎日疲れて疲れてたまらない。学校へ行った日など、帰って来ると

もう腰が抜けたように座り込んでしまう。

 そんな体調の悪さに梅雨時のじめじめした気候が重なって、先生には「痛み

を感じることはあるかも知れないが、綺麗に治ってきているよ」と言われたが、

かなりの痛みが続き、痛み止めも効かなかった。不眠、疲労感、いつまでも続

く痛み、そしてうっとおしい気候にもう、うんざりしてしまって、睡眠薬を倍

量のんでしまったことも何度かある。何もかもどうでも良くなってしまったの

だ。

 私のそんな様子を伝え聞いて、先生を紹介してくれたS子ちゃんが、私の回

復の今後の見通しを先生に聞いてくれて、その返事をメールで知らせてくれた。

それによると、痛みに耐えた時間が長過ぎること、その間に大量の薬を使って

いること、と初診の時に私に言われたことのほかに、治療後に長時間乗り物に

乗って帰ることも回復を遅らせていると言われたとあった。

 そこで私は考えて、もうすぐ夏休みに入るので、1ヶ月間神戸にマンション

を借りて毎日治療していただいたら良いのではないかということに思い至った。

そして次の予約の時に先生に相談してみたところ、すぐに「集中治療ね。それ

は一番良い方法だ」と答えられたので、帰り道に不動産屋を2,3軒訪ねて、

マンスリーマンションを探したが、どこも狭くて高い。私は芦屋出身の兄嫁に、

何か良い情報を知らないか尋ねた。すると、何とS子ちゃんが芦屋から少し離

れた海辺に新しいマンションを持っていて、治療のためなら1ヶ月間5万円で

貸してくれるというのだ。この上ない有難い話で私は飛びついて貸して下さる

よう御願いした。

 その間も痛みはひどかったが、先生のところへ電話して訴えると「大丈夫、

僕の予定通りだ」と言われたので、安心すると同時に、なかなか治らないもの

なのだなと知ってがっかりもした。

 7月半ば学校が終わり、私は急いで採点を済ませて、採点表を提出して、7

月25日、神戸に向かった。先生は、すぐにその日の夕方から治療を始めて下

さり、治療後S子ちゃんが駅まで迎えに来てくれて、芦屋のマンションへ私を

案内してくれた。彼女の還暦のお祝いとしてご主人からプレゼントされたもの

だというそのマンションは、明るく美しく、インテリアにも細やかなセンスが

行き届いていた。ベランダからは海が見え、窓を開けると爽やかな海風が吹き

込んできた。彼女は私に、広いマンションを一通り案内すると、全てはきっと

良いように運ぶだろうから、ここを心置きなく使って、治療に専念するように

と、全く知らない土地でのこれからの日々を思ってやや緊張気味だった私の気

持ちを優しくほぐしてくれ、しかも今日は疲れている筈だからと、夕食まで用

意して来てくれていた。

 翌日からは、毎日治療に通った。マンションから整体院までは、バスと電車

を乗り継いで、さらに7,8分歩いた。神戸の気温は東京より3度高い。その

上治療はお昼頃のことが多かった。しかし私はこの集中治療に賭けていたので、

暑さなど感じなかった。一人暮らしも、誰にも、何の気兼ねもすることなく寛

いで暮らせて、のびのび出来、夜も良く眠れるようになった。夕暮れ時、ベラ

ンダに出て、いつまでも海をみているのも何とも言えぬ開放感があった。マン

ションにケーブルが来ていないので、パソコンが使えず、持って行かなかった

ことも、仕事をしなければという追い立てられるような気持ちになることがな

くて、良かったのかも知れない。市営のプールも近くにあり、治療とはいえ、

思いがけない素晴らしいヴァカンスだった。

 集中治療の効果は目覚しかった。それでも私は、恐怖感から痛み止めはのみ

続けていたし、先生も止めろとはおっしゃらなかったが、麻薬系の痛み止めは

神経を分断することによって痛みの伝達を防ぐので、長い間続けていると当然

脳の神経も分断されて、記憶力が減退し、最後は痴呆のようになると言われた。

以前抗鬱薬の大量投与によって痴呆状態になったことのある私は、慄然とした

が、止めることは出来なかった。

 薬は東京のペインクリニックから2週間毎に処方箋を送ってもらって、それ

を持って薬局に行き入手することになっていた。芦屋に着いて4日目に、1回

目の処方箋が届いた。私はそれを持って大きな薬局に行ったが、一番執着して

いたリン酸コデインは特別な薬だから置いていないと言う。私はパニックにな

って、あちらこちらと5,6軒の薬屋を回ったがどこにもない。ただ1軒、取

り寄せてくれるという店があったので、やむを得ずそこで頼んだが、取り寄せ

には2日かかると言う。今日こんなに歩いて、明日は必ず痛くなるだろうに、

もう薬は残っていない。あの激痛が来て、薬が無かったらどうしたら良いのだ

ろう。しかし、どうしようもない。私は暗澹たる気持ちで帰途についた。

 翌朝、目覚めてみると、なんと痛くない。それでも恐いので、夕方の予約の

時間まで、なるべく動かないようにはしていたが、全然痛くならない。翌日も

痛くないので、治療の帰りにプールに行ったが、それでも痛くならない。もっ

とも、私は高校時代水泳部に所属していて、様々な競技に出たこともあり、還

暦を過ぎた今でも2キロくらいは続けて泳げるのだが、先生に泳ぎ過ぎも良く

ないと言われ、休み休み500メートルしか泳がないことにしているので、疲

れはしないのだが、それにしても全然痛くならない。

 翌日、やっとリン酸コデインが入手出来た。しかし2日間薬なしで過ごせた

ことで、多少の自信がついていたので、薬は我慢出来ない時だけ頓服としての

むことにして、それでもバッグの中に2回分入れて、あとは引き出しにしまっ

た。

 しかし、その翌朝起きると、以前に戻ったかのようにひどく痛いし、寒い。

はっと気づくとクーラーがかかったままになっている。私はまずクーラーを止

めて、痛み止めをのんだ。それでも無数のガラス片が刺さったような痛みは取

れず、しばらくして再び薬をのんだが、まだまだ痛い。

 冷え性の私は、クーラーが嫌いで汗をかいているくらいが調子が良いのだが、

寝る時だけは29度で2時間くらいタイマーをかける。昨夜は恐らくタイマー

をかけ忘れたのだろう。私は激痛に耐えかねて何度も薬をのみ、どうにかその

日の治療に出かけた。先生は、私の話を聞くと軽く足に触って「冷えだ。大し

たことじゃない」と言われた。また元の状態にぶりかえしてしまったのかと朝

から気に病んでいた私は「大したことじゃない」と言われて安堵した。先生は

続けて、肝臓はとても良くなっているが、足の神経はまだ赤ちゃんだから、僅

かなことでひどく痛むので、寝る時はクーラーを消して寝るようにと言われた。

治療が終ると痛みはすっかり消えていた。

 それから数日間は、治療の帰りに、芦屋の駅に隣接したデパートの地下で、

食料品を買って帰ったりしても痛むことはなく、薬ものまなかったが、それで

気を許して、果物や野菜など少し重いものを買って帰ると、すぐに激痛に襲わ

れ、立て続けに薬をのまずにはいられなくなり、本当にまだまだ常に気をつけ

ていなければならないのだと痛感させられたものだった。

 その頃のある日、治療中に先生が、お小水の出具合はどうかと尋ねられたの

で、「あまり出ません」と答えると、腎臓は肝臓の母と言われていて腎臓をき

れいにすると肝臓も良くなるので、もっとたくさん水を飲むようにと言われた。

私は、先にも書いたがクーラーが嫌いなので、昼間家に居る時にはクーラーを

入れず、タオルを首にかけて汗を拭き拭き暮らしているので、水分は充分とる

のだが、全部汗になって出てしまう。しかし先生にそう言われたので、すぐに、

意識して多量の水を飲むようにすると、たちまちお小水の量が多くなった。翌

日先生は、私の背中に触れるや否や「お水を飲んでくれたね。有難う」と言わ

れた。

 またある時は泳いでから治療に行ったのだが、天気の良い日で、燦燦と降り

注ぐ日光の下で泳いでいたら、つい少し多目に泳いでしまった。その時も先生

は、私の足に触れるや否や「泳ぎ過ぎだ」と言われた。しかし私が「駄目です

か?」と尋ねると「いや、いいよ」と答えられた。

 そんなことが重なって、ある時先生に「どうしてそんなに色々なことが、す

ぐにお分りになるのですか?」と問うと、事も無げに「僕の指が感じるんだよ」

と返答された。一種の超能力者であると言えよう。

 週末には、毎週夫が来た。その時はデパートの地下を少し歩き回って、食料

品を買い込むのだが、それでも足は疲れはするが、痛まないようになかった。

夫は、新しい綺麗なマンションが汚れてはいけないと、せっせと掃除をしてく

れた。私は掃除をすると足が痛くなるので、ソファに座って見ているだけだっ

た。

 そうして段々に、痛み止めをのまない日が増えて行った。そうなって来ると

多少痛くても、ここが頑張りどころ、という気持ちが湧いてきて、滅多なこと

ではのまなくなった。ただ、動き過ぎないように、重い荷物を持たないように、

とは常に気をつけていた。それでも、あまり痛い時はリン酸コデインだけのみ、

リボトリールやボルタレンはのまず、のんだ時は先生に報告するようにし始め

た。先生は、それほど痛まないが恐怖心からのんでしまうようなときには、ビ

タミンCDをのむと血行が良くなり、痛みが和らぐから、そうするようにと

言われた。私は帰り道、薬屋によってそれらを買った。

 それから間もなくして、先生は「治療に来る前だけは、薬をのまないで来て。

そうしないと痛いのか痛くないのか分らなくて、どう治療したら良いのか分ら

ないから・・・」と言われた。それはそうだと納得し、言われた通りにした。

痛い時は治療後のんだこともあるが、数えるほどだった。数日後、先生は私に

「良く頑張ってくれて有難う。僕の方からお礼を言うよ」と言って下さった。

 私は、この思いやり深い言葉に感動し、決定的に薬を止める決心をした。だ

が、この痛みは生易しいものではなく、その後も何度となくぶり返したが、そ

のつど先生の言葉を思い出し、歯を食いしばって耐えた。しかし、東京へ戻っ

て学校が始まり、そのとき耐え難い痛みに襲われたら困るという恐怖心から、

薬は捨てなかった。

 8月9日の夜、お盆休みで夫が来て、一週間滞在していった。その少し前に

先生は私に、そろそろ散歩などするようにとおっしゃったので、私は毎朝、杖

をつかずにマンションの近辺を10分くらい、ゆっくり歩くようにしていた。

長い間かばっていたので左の足は力が入らなくなっていて、10分歩くと疲れ

たが、しばらくソファに横になって、疲れがとれるとプールに行き、早目の昼

食をして治療に行き、帰りは食料品を少し買って帰るのが日課になっていた。

 夫は私のその生活振りを見て、回復の早さに驚き、喜んだようだった。最初

の朝は、二人で散歩をし、少し離れた海辺まで足をのばした。空が広かった。

青々とした海から立ち昇る潮の香りが私を包んだ。私たちは浜辺に下りる階段

に腰掛けて、海を眺めながら深呼吸して休憩し、またゆっくり歩いて帰った。

両方の足が大地を踏みしめているのが感じられ心地よかった。

 だが、それで喜んで歩き過ぎると、すぐ痛みがきた。先生は、私の足は赤ち

ゃんから子供になったといわれたが、確かにまだまだ子供で、動き過ぎないよ

うに絶えず気をつけていなければならなかった。散歩、プール、治療、少量の

買い物というのが日課で、それ以上のことは出来なかった。夫もその日課に付

き合ってくれ、さらに彼は「こんな綺麗な新しいマンションを借りたのだから、

元通り綺麗にして返さなくては」と言って大掃除をしてくれた上、私がまた1

人になった時のために、大きなリュックに一杯食料品を買い込んできてくれた。

 夫がいる間に妹も来た。妹は外国人に日本語を教える各種学校で働いている

のだが夏休みがとれたと2泊していった。楽しいヴァカンスだった。妹も私の

変わりように驚いていた。歩けるようになったことには勿論だが、薬を止めた

ことで話に辻褄が合わないことがなくなったと言った。私自身、頭がはっきり

してきたことを感じていた。

 私は1晩目は久しぶりでちゃんとした料理を作った。2晩目はみんなで外食

に出かけた。しかし、いつもの日課以上にこれだけのことをしただけで、翌朝

は再び激痛がやってきた。私はソファに横になり、妹が一生懸命マッサージを

してくれた。薬がのみたかった。しかし、のんでは、先生を裏切ることになる

ような気がして、じっと耐えた。痛みは治療していただいても1日ではとれず、

2日続き、その間は散歩もプールも止めて、ベランダから海を見て過ごした。

夫は1人でマンションを磨き、買い物に行き、長い散歩に行った。マンション

をお返しする時のために、シーツまで新しいものを買って来た。そして翌日帰

京した。幸いその日は痛みがなくなっていたので、少しは安心したことだろう。

先生は「痛みを感じることはあっても、綺麗に治っているよ」と言って下さっ

たので、私は、どうして治っているのに、痛い時があるのだろうと不思議に思

ったが、ともかく、調子が良いからといって、決して有頂天になって動き過ぎ

てはいけないということだけは、身に染みて分った。

 そのあとは快調だった。毎朝、杖なしで海まで歩き、階段に座って休みなが

らさざ波の打ち寄せる海原、東京では見られない広い空をゆっくり眺め、帰途

についた。プールも殆ど毎日行った。先生は、ここにいる間は、疲れても良い、

痛くなっても良い、毎日治療しているのだから治して上げる、だから少しずつ

運動量を増やしていきなさいと言われ、散歩も15分休憩なしで歩き、途中セ

ブンイレブンに寄ったりもするようになった。

 そして1ヶ月が過ぎ、集中治療の終る日がきた。私は、もう少し回復するま

で続けたかったのだが、S子ちゃんとの約束もあったし、私自身も9月一杯に

終えなければならない仕事があったので、止むを得なかった。

 S子ちゃんはご主人と一緒に見送りに来てくれた。プロテスタントである彼

女は、私の滞在中に数回、1人で、あるいは同じ信仰を持つ友人と共に、美味

しい仕出し弁当を持って訪れてくれ、その度に私のために祈ってくれた。私は

縋る想いで、祈りに耳を傾けていた。痛い時に当てるようにと、牧師先生に祝

福していただいたハンカチを持って来てくれもした。

 芦屋滞在中の私は、みんなの溢れるような愛に包まれて暮らしていたのだっ

た。しかし、いつまでも居座っているわけにはいかない。後ろ髪を引かれる想

いで、最後の集中治療を受け、新幹線に乗った。先生は、もう以前のように痛

むことはないだろうから、なるべく恐怖心を脇に置いて、別のことを考えるよ

うにと忠告して下さり、次回の予約については「10日後くらいが良いのだろ

うが・・・」と独り言のように言われた後、結局3週間後と決まった。そして

今後は毎回1度の治療で良いと言われた。

 

 帰京するや否や、山のような雑事が待っていた。それで動き過ぎたのか、2

日目にはもう痛くなり始め、数日後には以前と同じ耐え難い激痛が始まり、先

生の「よく頑張ってくれてありがとう。僕からお礼をいうよ」という言葉に支

えられて我慢に我慢を重ねたが、結局、また痛み止めをのんでしまった。夫は、

芦屋での元気な私の姿を見ていたので、がっかりしたのだろう。癇癪をおこし

て怒鳴りちらし、挙句の果ては「結局お前は治りたくないから、自分で病気を

作っているのだ」とまで言った。私は痛い上に、そのような暴言を吐かれて、

もはや耐え難く、夫の顔を見たくないので、彼の帰宅前に睡眠薬を倍量のんで

眠りに逃げ込んだ。そして翌日、神戸の先生に電話して、ひどく痛むことだけ

を言うと、とにかく無理をしないこと、掃除などしなくても良いから、今日は

机の上を拭くことが出来たらそれで良しとする気持ちで暮らすように、と言わ

れた。

 それから数日、休養に心がけたが激しい痛みは続き、夫とのことと相俟って

疲れ果てた私は、再び痛み止めを立て続けにのんだ。それで幾らか痛みが和ら

いで、やけになっていたような気分が治まると、今度は後悔して、また神戸に

電話して、痛み止めを沢山のんだことを告げた。すると先生はビタミンCとD

は1日何回のんでもよいから、痛み止めがのみたくなったら、それをのむよう

にと言われた。それでも、そんなものの効く痛さではない。しかし私は耐えた。

横になれば楽になるので、また寝たり起きたりの生活になってしまい、夫は毎

夜1時間マッサージをしてくれた。

 数日後、長引く痛さに耐えかねた私は、痛み止めをのむ前に、また神戸に電

話した。先生は「横になっていれば楽になるなら、幾らでも横になっていなさ

い。痛み止めをのまないでくれて有難う」と言われた。この最後の一言が、私

に、痛み止めを止めようという最終的な決心をさせ、私はそれまで後生大事に

しまい込んでいた、スーパーのレジ袋一杯の痛み止めを全部捨てた。

 しかし、その翌日、今まで経験したことが無いほどの痛みが襲ってきた。今

までが無数のガラス片が突き刺さるような痛みだったとすれば、今度は、患部

と脳に何本ものナイフが突き刺さったまま生きているような痛みだった。ちょ

うどその日、S子ちゃんからメールがあり、今日治療に行ったついでに私の今

後の見通しを尋ねてくれたところ、足はもう本当に良くなっているのだけど、

痛みと付き合ってきた期間が長いので、痛みの感覚が残っており、しばらくは

相当辛い思いをするだろうと先生が言われたと知らせてくれた。ちょうど腕を

切断した人が、無い腕が痛むようなものらしかった。そして、プロテスタント

の祈りのリクエストの機関のメール・アドレスと、痛み、苦しみを取り除いて

下さるよう神様に御願いするお祈りもFAXで送ってきてくれた。私はカトリ

ックだが、プロテスタントもカトリックも詰まるところは同じだから、早速教

えていただいた祈りのリクエストの機関にメールを送った。しかし、聖書にも

「癒すに時がある」とあるではないか。私の時はまだ来ていなかったのである。

 ソファに横になって、涙を流しながら、唸っているしかなかった。夫は会社

に遅れてまでマッサージをしてくれ、妹も出勤前に毎朝、私の気が紛れるかと

飼い犬のチワワを連れて来てくれた。だが誰が何をしてくれても、今度の激痛

は和らがなかった。治療の予約は翌々日だったが、私は、あまりの痛さにそれ

まで待てず、また神戸に電話して「5分と立っていられません。どうしてこん

なに痛いのですか?」と半ば怒りを込めて尋ねた。集中治療の直後に何故?と

いう怒りだった。先生は「治療の効果がどれだけもつか試してみたんだ。これ

からは、もっと間隔を短くするから・・・」と宥めるように答えられた。

 そして翌々日、夫に伴われて、また神戸に行った。タクシーを呼んで中野の

駅まで行き、後は中野駅も、東京駅も、新神戸の駅も、無料のレンタルの車椅

子を頼んだ。新神戸からはタクシーに乗った。

 ようやくの思いで整体院にたどり着き、私の足元にかがんでじっと私の目を

見ながら話を聞いてくださる先生に、どんなに痛いかを訴えていたら思わず涙

がこぼれてしまった。先生は、「分るよ、どんなに辛いか良く分る。この痛み

は精神が作り出す痛みで、現実の痛みよりはるかに痛い。この痛みに耐えられ

ないで死んでしまった人も沢山いる。生きていてくれて有難う」と、私の頭や

背中をさすりながらおっしゃり、丁寧に慎重に治療して下さった。面白かった

のは、痛いのは足なのに、頭のつぼを中心に治療して下さったことである。治

療後、立ち上がってみると、大分楽になっていたので、先生にそういうと「良

かった」と感情のこもった声で言って下さった。それから、この痛みについて

説明して下さったが、痛みに耐えた期間があまりにも長いので、その記憶が脳

に刻み込まれていて、時折蘇り、そうすると薬がのみたくなり、のみたさが頂

点に達した時、あの形容し難い痛みが起こるのだが、それは別のことに興味が

向くと消えてしまうということだった。確かに、痛い、痛いと転げまわりなが

ら、ふっと友人からの面白いメールのことを思い出したり、論文の注を書き直

すことを考えたりすると痛みが消え、メールの返事を書いたり、注に手を入れ

たりしていた。

 そして先生は言葉を次いで、「この痛みには何回も山があって、1万人に数

人の割合でこのまま治る人もいるけれど、大抵は何回も繰り返される。けれど、

それは、次第に間遠になり、痛みも弱くなって完治する。でも何時痛みが来る

か、どれだけ続くかは分らない」とぞっとするようなことを言われ、これを痛

みのリズムと呼ばれた。私は、願わくばその1万人の内の数人に入りたいもの

だと切に願った。

 次回の予約は一応1週間後となったが、これは流動的なもので、痛くなかっ

たら来なくて良い、我慢出来たら来ない方が良いというものであった。しかし

翌週の前半はまだかなり痛みが強く、そこへもってきて学校も始まるので不安

も強く、私は新幹線の切符を買った。ところが週の後半になると痛みはどんど

ん薄れて行き、予約の前日には軽い鈍痛が残るだけになってしまった。そこで

私は行こうか、行くまいか迷った。我慢出来たら来ない方が良いと言われてい

るが、翌週からの仕事を控えて不安は強い。考えあぐねて、また神戸に電話し

た。答えは簡単明瞭だった。「心配ならくればいいさ」

 そこで私は翌日神戸に行った。先生は、治療に入る前に丁寧に脈をとって診

て「おめでとうございます。痛みのピークは終りました」と言われたが、続け

て、勿論これからも痛みのリズムは繰り返し来るだろうが、先日のような激し

いものではないだろう、但し1回でも痛み止めをのんだら元の木阿弥になって

しまう、と付け加えられたので「痛み止めは全部捨てました」と答えた。私は

一応痛みが去ったことは嬉しかったが、まだまだ痛みに耐えなければならない

のかと思うと、気が滅入った。痛み止めはもう全部捨ててしまったし、ペイン

クリニックも止めて診察券は破り捨ててしまっていたからそのことは問題ない

が、いつ痛みから全面的に解放されるのか分らないということが恐ろしかった。

しかし先生は10分の9まで回復したとも言って下さったので、それが救いだ

った。

 そしてともかく、今回の痛みのリズムはこれで終ったらしく、軽い鈍痛は残

っていたものの、大変楽な日々が続いた。学校も始まったが、もう薬をのんで

いないので、頭がはっきりしていて、授業中に眠くなったり、呂律が回らなく

なったりすることもなく、自分で納得のいく講義が出来るようになっていた。

ただ、重い荷物を持つと痛くなるので、教科書はその日の分だけコピーして行

き、お財布も重いので小さな小銭入れだけにし、携帯も持たず、使えるところ

はタクシーを使うようにした。運動不足は泳ぐことで解消した。

 こうして細心の注意をはらって暮らしていたのだが、それでも痛くなくなる

と、つい立って授業をしたり、前に書いた通り夕食を作るのは止めていたが、

朝食だけは作っていたので、その支度や皿洗いなどをハイチェアーを使わず立

ってしてしまい、すぐに後悔することになった。学校の帰り、天気が良いとつ

い歩きたくなり駅まで12,3分の道のりを、両方の足が地面を踏みしめてい

る快感を味わいながら歩いたりもしたが、やはり翌日後悔した。とはいえ、そ

れほど激しい痛みではないので、自分のホームページに載せる新しい作品を書

き始めることも出来た。従って、時折痛くて横になることがあるとはいえ、痛

み止めなしでこれだけのことができるようになったのだという喜びの方が大き

かった。時には、冷凍食品には飽き飽きしていたので、簡単な物ながら夕食を

作ったりもした。

 そして、次ぎの予約の日が来た。私は先生に「お陰様でとても楽になりまし

た」と報告し、こんな事、あんな事ができるようになったと細々と話した。先

生は「よかったね」とは言って下さったものの、左程楽観的ではなく、痛みの

リズムはきっとまた来る、「そうしたら、また一緒に頑張ろうね」とおっしゃ

った。そうか、やっぱりまだ痛みからは解放されないのか、私は再び奈落の底

に突き落とされたような気がした。

 東京に帰って妹に、神戸の先生が「一緒に頑張ろうね」と言って下さったと

話したら、怒ったように「みんな一緒に頑張っているのよ」と反論されて、家

族とは有難いものだと、感謝すると同時に自分の痛みのみにかまけて、家族の

気持ちなど考えもしなかった自分の身勝手さに気付かされた。

 次回の予約の時も、先生の見通しは甘くなかった。私は比較的楽な日々が続

いていたので、上機嫌だったが、先生は、痛みのリズムは大抵の場合繰り返さ

れると言われて、私が調子に乗るのを押さえようとしていらっしゃるようだっ

た。それでも私は治療の帰りにデパートに寄って、本当に何年振りかで洋服を

一着買った。嬉しくてわくわくした。

 その後も調子の良い日が続き、私は、自分は以前先生の言われた,これ切り

で治ってしまう1万人の内の数人に入っているのではないかなどと思い始めて

いた。

 11月の最後の週は、その月の2回目の予約日だった。週末だったので夫も

同行してくれたが、痛みはしつこい鈍痛があるのみで、辛いという程ではなか

った。治療後先生は、ショッキングなことを言われた。中国の大学での集中講

義のために、12月半ばから1ヵ月半帰国されるということだった。しかし、

その時の私は痛みが軽い日が続いていたので、比較的心穏やかにその日程を聞

いていた。それでも用心のため、出発前に2日続けて治療して下さることにな

った。

 そんなに調子の良い日が長く続いていたのに、先生の予言は当たり、12月

に入って10日程した頃から叙々に痛み出し、中頃には以前と変わらぬ激痛が

戻ってきて、こたつで横になっている時間が多くなった。急激に戻ってきたあ

まりの痛みに、私はまた先生に電話した。すると、やはり痛みのリズムが戻っ

てきたのだろうが、今回は前より軽いから安心するようにとのことだった。

 幸い予約は3日後だった。先生は、やはり痛みのリズムが来たのだ、とおっ

しゃりながら丁寧に治療して下さった。それでも1回では痛みが残ったが、翌

日もあったので、すっかり楽になり、これで先生が帰国なさるまで大丈夫と心

安らかに、夫とおしゃべりしながら帰った。先生はご出発の前夜「大丈夫です

か?」と電話を下さった。その時はまだ治療の効果が残っていて痛くなかった

ので「大丈夫です。痛くありません」と答え、先生は「でも呉々も無理をしな

いようにね」と釘を刺された。私は「はい、先生のお留守の間はなるべく歩か

ないようにします」と言って電話を切った。

 ところが、その翌々日から再び猛烈な痛みが襲ってきた。それまで元気だっ

たので、久しぶりに友人たちと出かける約束をする気になって、友人の配慮で

家からほとんど歩かずに行かれるフランス料理店で会食していたら、急に痛む

方の足だけが冷えてくるような嫌な感じを覚え始めた。それでも次々出てくる

話題が全て興味あるものだったので気が紛れていたが、食事が終わって、散会

して1人になって、家に帰る途中から猛烈な痛みが襲ってきた。恐らく先生が

いらっしゃらないという不安と相俟っていたからであろうが、前よりは軽いど

ころではなかった。

 お正月が近づいていたが、夫がデパートで出来合いのおせち料理を買って来

ただけで、あとは掃除もせず、唸りながら涙を流して寝ているしかなかった。

麻薬がのみたかった。捨てておいて良かったと思った。

 なまじその前に調子の良い時があって、希望を抱いていたせいだろう。夫は

再び不機嫌になり、私の唸り声を聞くのが嫌だ、と言った。それは嫌だろう。

しかし、私だって唸らずにはいられない程痛いのだ。さらに夫は追いかぶせる

ように「口を開けば愚痴ばかりだ。お前のような奴は誰とも一緒には暮らせな

いよ」と冷酷な言葉を投げつけて、出勤してしまった。しかし私の全身は痛み

で満たされているのだ。それでもなるべくそれを口に出さないようにしてはい

る。だが時として、本当に治るのだろうかという疑念が湧いた時など、つい辛

さを言葉にしてしまう。仕方がないではないか。それを愚痴と言うのか、それ

は自分ではどうしようもない弱さだ。その時の私には、難病の伴侶と一緒に暮

らす夫の苦労を思いやるゆとりは無かった。

 1人家に残された私は、布団の中で、このような痛みと不和がこれからも繰

り返されるなら、生きていることは辛すぎる、もう充分に耐えた、これ以上は

我慢できない、もう終止符を打ってもよいのではないか、神様も許してくださ

るのではないか、と考え始めた。そうすれば、この地獄絵のような生活から解

放されて、夫も健康な女性と再婚し、楽しく暮らすことも出来るだろう。今度

は本気だったから、誰にも電話しなかった。命を断つなら、まず想いのたけを

綴ってある日記を焼いてしまわなくてはと起き上がった時、脳裏に浮かんだの

は先生の「生きていてくれて有難う」という言葉だった。その言葉は、どん底

の精神状態にあった私の心に、ほっかりと染み込んで来た。そうだ、先生は必

ず治るといっていらっしゃるのだ、それならその日まで生きて、両足で大地を

踏みしめ、行きたいところへ行かれる喜びを味わわなければ。しかしこの苦し

みの中で、生き続ける為には何か楽しみがなくてはならない。物を書くことは

私の大きな楽しみであるが、こんなに痛くては、とても頭を使うことは出来な

い。散歩、水泳も大好きだが、どちらもこう痛くては出来ない。何だろう、今

の私に出来る楽しいことって何だろう?

 私はまた横になって、色々と思い巡らせた。そうだ!犬を飼おう!前の犬が

死んで6年経っていたから、新しい犬を飼うことに抵抗はなかった。しかし、

犬は散歩させなければならない。私の足では無理である。かといって、今あち

こちで見かけるリボンをつけたおもちゃのような犬は欲しくなかった。前の犬

も狼の血が50%入っていると言われるシベリアン・ハスキー犬だった。私は、

野性味のある犬が好きなのである。

 ペットショップに出かけて、色々な犬を見ながら考えることは出来ないので、

私はインターネットの前に釘付けになって、2日間、沢山の犬の映像を見なが

ら考え続け、よし、豆柴にしようと決めた。ちょうど福井県のブリーダーのと

ころに5ヶ月で2キロという特別に小さい犬がいた。犬の成長は8ヶ月くらい

までだから、5ヶ月で2キロなら成犬になっても4キロくらいだろう。それな

らば散歩に行かなくとも、庭に放しておけば良い。夫も犬は好きだから、その

幼児性の強い性格には無理な努力を長年続けてきて、荒んだ心も和らぐだろう。

 私はすぐにそのブリーダーに電話して、健康状態、性格、そして何故5ヶ月

まで売れなかったのか等を聞いた。全て問題無さそうであった。5ヶ月まで売

れなかったのは、いくら豆柴とはいえ珍しい程小さかったので、最初に高い値

段をつけ過ぎて買い手がなく、5ヶ月にもなってしまったので、値を下げたと

ころだということだった。私は、その犬を買うことに決めた。

 犬は12月28日の早朝、常盤台の西濃運輸の事務所に陸送されて来ること

になった。夫と私は一晩トラックに揺られてくる子犬を、待たせては可哀相だ

と4時に起きて、タクシーに乗って迎えに行った。すると犬はすでに着いてい

て、豪胆にもいびきをかいて眠っていた。帰りのタクシーの中でも平然と眠り

こけていて、家に着くとすぐに、猛烈な食欲でドッグフードを食べた。そこへ、

2階に住む妹が自分のチワワを抱いて新しい犬を見に来た。すると新参者は、

臆することなく、チワワと遊ぼうと飛びついた。びっくりしたのはチワワの方

で、逃げ回り、すぐに妹の膝の上に逃げてしまった。こんなに元気で物怖じし

ない犬は見たことがない。私たちはこれなら飼いやすいだろうと安堵した。名

前は極く簡単に、小さいからチビとした。

 チビは体は小さくとも元気一杯のきかんぼうで、絶えず動き回り、至る所に

いたずらの種を見つけ、転げ回って遊んだ。それを見て、夫と私は声をあげて

笑った。2人で笑うなど、何年ぶりかのような気がした。笑いは痛みを和らげ

るというが、夫との間に和やかな時間が生まれ、犬の仕草に大笑いすることが

あるようになってから、確かに痛みは耐えがたいものではなくなってきた。

 天気の良い日の昼間、私は濡れ縁に座ってボールを投げ、犬に持って来させ

た。犬は嬉々として走り回り、ボールが草むらの中へ入ってしまったりすると、

懸命に探し、見つけると胸を張って持って来た。私は両手で体中を撫ぜて褒め

てやった。そんな時、足のことは忘れていたように思う。

 そして、2月2日、待ちに待った予約の日が来た。ウィークデイだったので、

また駅ごとに車椅子をレンタルして、寝巻きなどは宅急便で送り、小さな手荷

物一つ持って、1人で出かけた。チビはペットホテルに預けた。

 先生は、私の話をじっと聞いて下さり「痛みのリズムがきている時に間隔が

開きすぎたね。僕のせいだね。ごめんね」と言われた。その優しさだけで私の

心は癒されたが、足の痛みは少々楽になっただけで、相変わらずかなり痛んだ

ので、次回の予約は5日後となった。その間も痛みは続いたが、例年2月とい

うと、薬をのんでいても痛くて起きていられなかったことを思えば、随分良く

はなっているのだと自分を慰めて過ごした。

 次回の予約日は土曜日だったので、夫も一緒に来てくれて、チビもキャリー

バッグに入れて連れて行った。夫はリュックを背負って、キャリーバッグを持

って、私の荷物まで持ってくれて大奮闘だった。しかしチビは新幹線の中でも、

ホテルでもおとなしくしていて、手はかからなかった。ただ知らない町を散歩

するのが嬉しいらしく、夫は長時間歩かされて疲れたらしかった。豆柴とはい

え元は柴犬だから、なかなか体力があるようだ。

 今度の治療は良く効いた。2回目の痛みのリズムが殆ど終ったおかげもある

ようだった。ところが数日後、私は風邪をひいてしまった。熱もなく寝るほど

ではなかったのだが、体の不調がすぐ痛みとなって現れることは、すでに何回

となく経験済みだ。また激痛がやって来た。しかし幸いことに、風邪は3日で

治り、それと共に痛みも和らぎ、晴れた日は1人で短い散歩に出られるように

なった。水泳も再開した。ただ雪が降ったりするとかなり痛んだし、10分以

上歩くと、あとで痛くなった。散歩の途中で近所の奥さんに会うのも嫌だった。

向こうは善意で、杖を手放せない私の容態を聞いたりしてくれるのだが、立ち

話は足に辛かった。しかし総体的にみて、かなり楽な日が続き、2回目の痛み

のリズムは完全に終ったようだった。

 次の予約は2週間後だった。やはりチビを連れて行った。先生は、胃が痛く

てあらゆる検査をしたが異常なしという結果が出たが、それでもとても痛むの

で抗鬱薬を投与されたが痛みは治まらず、結局先生のところへ来るようになり、

触診したところ原因は胃ではなくて背骨にあることが分り、その治療をしたら

治ったという人の例を挙げられて、「何でもかんでも抗鬱薬を使用するのは、

人間に対する侮辱だ」とまでおっしゃった。抗鬱薬の大量投与で認知症寸前ま

で行った私には、この言葉は身に染みて理解出来た。

 治療が終って、次回の予約をする段になって、私は調子が良いので3週間後

でも良いのではないかと思ったが、先生は2週間後とおっしゃり「そのあいだ

に痛みのリズムは来ないだろうな」とつぶやかれ、「痛くなったら電話を頂戴」

と付け加えられた。私はぎょっとし、まだまだ痛みとは縁が切れないのかと落

胆した。この、精神が作り出す痛みとはそれほど根深いものなのだ。だが幸い

その時は帰京してからも、確かに、寒さと天候次第では随分痛む日もあったが、

神戸に電話して駆けつけることを考えると面倒になる程度の痛みだった。

 調子の良い日は、朝プールに行き500メートルゆっくり泳ぎ、帰ると庭で

チビとボール投げをして遊び、午後は読書や書き物をした。横にならずに、そ

んな生活が出来る日が増えてきている。

 次の予約の日、先生は私の脇腹に触れて「精神的に随分安定してきたね」と

言われた。先生がそんな言葉を口にされたのは始めてだった。私は「犬を飼っ

てから楽しくて、楽しくて・・・」と答えたが、後で考えてみると、抗鬱薬の

大量投与による脳の損傷も回復してきているのではないかと、嬉しくなった。

 そして、この次の予約も2週間後に決まった。その後、しばらくは鈍痛だけ

で治まっていたが、1週間後3回目の痛みのリズムが来た。しかし今回は涙を

流しながら唸るほどの激痛は半日だけで、あとはコタツを入れっぱなしにして

おいて、ひどく痛くなったら横になるだけで済んでいる。ただ動くと激痛にな

るので、プールも行かないし、外出もしないが、チビがいるので随分気が紛れ

ている。先生の言われた通り、痛みのリズムも弱まっているのだ。しかし、何

時になったら、これが来なくなるのかは分らない。それでも、まだ何回か山は

あるにしても、痛みは確実に弱まっているのだから、いつかは必ず治るという

希望がある。

 先生の見解によると、私の痛みのリズムは、秋分、冬至、春分という季節の

リズムと一致しているそうである。だからこの分でいくと、今回の痛みが治ま

ったら、恐らく夏至まで来ないだろう、ということである。人によっては月の

満ち欠けと一致することもあるそうである。現代医学は忘れているかも知れな

いが、人間の精神も大自然の中の1部分なのである。そして、4回目、5回目

になると気付かない人もいるほど楽になる、と嬉しいこともおっしゃった。

 西洋医学によって、廃人寸前にまでなった私が、中国5千年の歴史の中で培

われた医療によって、人間として立ち直り、痛みから解放される希望を与えら

れたのである。

 

 また4月になると学校が始まる。今学年度は、もう1日出かける日を増やし

た。学生たちと触れ合っていることは楽しいからである。しかし、その代償と

して、痛む日が増えるかも知れない。週に2日出ることについては、随分迷っ

た。しかし、私は、もうじき来る定年の時まで、出来る限り、多くの学生たち

の、未来を見据えた輝く目を見ていたい。

 神戸通いはまだまだ続くだろう。しかし私は、私という人間を、人間として

大切にして下さった先生を心から信頼している。その先生が「必ず治る」とお

っしゃるのだから治るのだろう。

 夫には多大な迷惑をかけ、今もかけ続けている。幼児性、依存性が強く、癇

癪もちの夫にとって、伴侶がこんな病気になったことは青天の霹靂のような災

いであったにちがいなく、共同生活を続けるには並外れた忍耐心が必要だった

だろう。それでも彼は、たださえ短い睡眠時間を削って、マッサージを続けて

くれている。

 妹も、忙しい仕事の合間を縫って、簡単な食事を作って届けてくれたり、今

度は一緒にお芝居に行こうと切符をプレゼントしてくれた。お芝居なら往復を

上手にタクシーを使えば、歩かないで、楽しめるからである。

 犬を飼ったことも良かった。家中に和やかな雰囲気が生まれた。アニマル・

セラピーである。

 私には一つの願望がある。それは、1日家で机に向かっていた日には、夕方、

小1時間散歩できるようになりたいというささやかなものである。神戸の先生

は、出来るようになると約束して下さった。それが犬と一緒に出来るようにな

れば、一層楽しい。

 

 現在の私は、まだ何時来るか分らない痛みのリズムに脅えながら、動き過ぎ

ないように恐る恐る暮らしている状態である。家事もしていない。しかし、綿

ぼこりにまみれながらも、気持ちは明るい。先が見えているからである。

 神戸の先生は私の命の恩人である。また廃人になりかけていた私の電話を受

けて、すぐに車を飛ばしてやって来て下さった精神科医の先生も、私を絶望の

淵から救って下さった。その他、自分も使いたかったろうに、ただのような値

段でひと夏海辺のマンションを貸して下さり、私の快癒をいつも祈ってくれた

S子ちゃんとそのお友達。数え上げれば切りがないほどの多くの方たちのご恩

によって、私はここまで回復した。2年前のことを思えば奇跡的と言える。

 まだまだ痛むことはあるだろう。しかし、私の心の中に根付いた希望はもう

失われることはないだろう。

               完