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続・命ありて

 

宮崎康子

 

 前作、「命ありて」を書いてから一年半が経った。そのうちの一年間は、春分、夏至、秋分、冬至に訪れる痛みのリズムの時を除いては随分楽な日が続き、歩き過ぎないようにとの注意が念頭を離れたことは無かったが、週に二日は所々タクシーを使いながらも学校に行き、休みの日は、午前は、最近ごく近くに出来たプールに三輪自転車で行き、早目の昼食を取った後昼寝をして、午後は授業の準備その他の勉強をして、夕方は短かくではあるが犬の散歩にも行かれるような平穏な日々が続き、神戸の先生も「無理をしなければ、このまま治るかも知れない」と言われるほどだった。

 そうして、今年の三月、六十五歳で定年を迎えた。二十歳にしてフランスの一人の天才詩人に魅せられ、その足跡を追って来た自分の生き方を詩人の作品の解釈に重ね合わせて,観念の魅力に捕らえられて現実を否定し勝ちな、文学好きな若人たちに、観念と現実の相克の中で苦悩しながら、最後には現実を選んだ詩人のテキストを読ませながら、地に足の着いた人生を生きることの大切さを語ることは、張り合いがあったし、学生たちも良くついてきてくれたので、定年を迎えても、何の悔いもなく、自分は良い職業生活をまっとうしたと思うことが出来た。そして、今度は、そのフランスの詩人と彼の影響を受けた日本の詩人たちとの差異について調べようと意欲に満ちていた。

 ところが、一月末から再び痛み出していたが、寒さのせいだろうと、さして気にしてもいなかった足が、段々にひどく痛むようになって来た。毎年、寒さのピークである二月には、寝たり起きたりの生活になってしまうほど痛むのだが、今回は例年よりはるかにひどく、以前のように無数のナイフが突き刺さっているような痛さである。

 私は神戸に電話をして、予約を早めてもらった。先生は丁寧に治療して下さった後で、「僕の予想もしていなかったことが起こった」

と言われた。悪い方の足の神経が再生し始めたそうだ。そして神経の再生にはひどい痛みが伴うもので、今の私はその真っ最中なのだそうだ。普通、神経の再生は三十代位までの人にしか起こらず、子供やスポーツ選手なら一週間で治ってしまうが、六十五歳では、例が無いので、完治までどれほどかかるか予測が出来ないとも言われた。「それだけ体が若いんだよ。50歳の初産のようなものだから、陣痛がいつまで続くか分らないけど、一緒に頑張りましょう。これが終ったらマラソンだって出来るようになるよ」と言って下さった。

 体が若いのは嬉しいが、痛いのは適わない。しかもそれがいつまで続くか分らないとあっては、参ってしまう。

 それでも最初のうちは、たかをくくっていて二、三ヶ月で再生するだろうと思い、絶え間ない激痛にも、希望を失わず耐えていた。横になっていれば、いくらかは楽だが、立ち上がると剣山の上にいるような痛さだった。だが神経の成長を促すためには、歩かなければいけない。歩けばひどい痛みに襲われるが、それに耐えなければ、いつまでも治らない。

 私は毎日、杖にすがって、のろのろと十分位の散歩をした。神戸にも月に二回づつ通った。だが歳のせいか神経はなかなか育たなかった。激痛は続き、朝目を覚ますとまず思うことは「今日もまた痛みに耐えなければならないのか」ということだった。痛みのひどい時は、起き上がる気力さえなかった。当然、夫は不機嫌で、涙を流しながら呻いて起き上がれずにいる私に、「お前は治りたくないからいつまでもそうやっているんだろう」などという冷酷な言葉を投げつけた。それでも夫は仕事に出かけてしまうから良い。家に一人残され、身動きもならず呻いている私の頭の中では、投げつけられた言葉がどんどん膨らんでいって、それ以前にも幾度も心無い言葉によって味わわされた悲痛な想いが芋づる式に思い出されて自己増殖して行く。

 夫も長患いの私を抱えて、疲れていたのだろうが、それにしてもひどすぎる言葉を、しばしば浴びせられた。

 そして、症状は五月に入っても全く改善されなかった。あまりにもいつまで続く痛みのために、私の心の中に、それまでは絶対に信頼していた神戸の先生の言葉に対する不信感が生じ始めた。「先生は、必ず治るとおっしゃった。だがそれは単なる気休めの言葉で、私はもう治らないのではないか。」という疑念だった。私は神戸の先生の携帯に電話をかけた。「先生、私は本当に治るのでしょうか?」先生は何のためらいもなく「治るよ」と答えられた。それでも、その言葉すら信じられなかった。激痛は絶え間なく続き、回復の見通しは立たず、夫との仲は険悪になる一方だし、最後の頼みの綱である神戸の先生に対する信頼も薄れてしまった。

 私には縋るものが何一つ無くなってしまったのである。ペインクリニックで出された麻薬によって一度中毒になっているから、痛み止めは二度とのめず、どうしてこれほどまでに痛めつけられねばならないのかと神を恨み、痛みの塊のようになってしまった体を抱えて、ただ耐えるだけだった。

 そんな日々が続くうち、私の心の中に、もういいじゃないか、もう充分に耐えた、定年まで働き通して若い人たちに伝えるべきことは全て伝えたのだから、社会的責任も果たした、もう楽になりたい、という想いが生まれてきた。

 楽になるためには、再び麻薬をのむか、あるいは自ら命を断つかのどちらかしかなかった。大量の麻薬をのめば一時的には楽になるが、最終的には痴呆のようになってしまう。私は人間らしく死にたいと思ったので「自死という生き方」という本をインターネットで買って読みふけったりした。この絶え間ない痛みから解放されて楽になりたい、楽になりたい、望みはただそれだけだった。

 そして五月の連休のある日、天気は晴れ渡っていたが、足の痛みは常よりもひどく、私は床に伏せったまま呻き続けていた。この痛みには妙な特徴があって、空腹になるとひどくなり、食事をすると

多少は和らぐのである。私は、東京で西洋医学の、痛み治療の名医といわれる医師たちにかかっていた時に、その理由について尋ねたことがあったが、誰もが「分らない」「そんな話は聞いたことがない」と答えた。しかし神戸の先生にも尋ねてみたところ「それはおなかが空くと体内の熱量が減り、体温が下がり、血行が悪くなるからだよ。おなかが空くと痛くなるのならば、一日に五度でも六度でもご飯を食べればいい」と明快な返事が返ってきて、それ以来学校に行く時には必ずカバンの中にカロリーメイトを入れておき、休み時間毎に一本ずつ食べるようにしていたし、家にいる時にはおなかが空く前に、食事をするようにしていた。

 しかしこれも、夫のいない週日は難なく出来ることであったが、食事は一緒に取りたがる夫がいる日には、揉め事の種になったが、結局空腹になると涙を流して苦しむ私を目の当たりにして、夫の方が折れ、朝食は私一人、起きるや否や、寝巻きのまま、前夜用意しておいた物を食べ、夫は犬の散歩、猫の世話などをしてからゆっくりと食べ、昼食は出来れば十一時ごろなるべく一緒に食べ、夕食は五時頃一緒に食べるという習慣になっていた。私は、食間でもおなかが空きそうな予感がするとカロリーメイトを食べてしのいでいた。

 そんなわけで、連休中のその日、私は万年床に臥せっていたので、夫が十一時前に、おそうめんを茹でて「出来たよ」と声をかけてくれた。私は「どうも有難とう」と答えて、隣室にある食卓へ向かおうとした。しかし、体中が痛みの塊になっているのだから起き上がるのも、まず腹這いになって両手をついてからでなくては起きられない。そして、そうやってまず半身を起こしてから両肘をついて、右の足、左の足と膝を立ててからようやく立ち上がれば、針の山の上に立っているような痛さが襲ってくるのだから、柱や壁に掴まってのろのろと這うように進むしかない。それで隣室へいくのに何分かかっただろうか。突然夫が「この野郎、またはめやがった」と罵声を浴びせた。私は何を怒られたのか分らず「何のこと?」と尋ねた。すると彼は「そうめんなんか、すぐのびちゃうじゃないか」と怒鳴り返した。しかし私は精一杯の気力で立ち上がり、歩いているのだ。彼の心遣いを無にしようなどという気は爪の垢ほども無いが、これ以上早くは動けないのだ。長年一緒に暮らしていながら、何故そんなこと分ってくれないのだ。私が人の気を惹くために仮病を使っているとでも言うのか!「またはめやがった」とは何と言う罵詈雑言だ!

 私は、もう耐えられないと思った。食卓の上を見ると、ガラスの大きな器に氷水が張ってあり、そうめんが浮かんでいた。そのほかに、厚揚げの焼いたものと大根おろし、歯の悪い私のために皮を剥いたトマト、そして夏みかんもちゃんと薄皮までむいてフォークをそえて並んでいた。私が寝ている間に買い物に行って、これだけの支度をしてくれたのだ。そして全部揃えて私に声をかけたのに、私がなかなか出て行かれなかったので、癇癪を起こしたのだ。この人はいつもこうなのだ。以前高速道路を運転していた時に、無理な追い越しをかけようとして、後ろの車に激しく警笛を鳴らされ、カッとなって車線を無視してジグザグ運転を始めたこともある。当然すぐに数台の車に囲まれて動けなくなり、あやうく袋叩きにあいそうになった。私はすぐにドアを全部ロックして、窓を開けて、皆に平謝りに謝った。夫は憮然として見ているだけだった。

だから私は夫が家に居る時には、彼がいつ癇癪を起こして、訳の分からないことで、口汚く罵り始めるかと脅え続けていなければならない。

それでも折角の好意を無にしないために、用意されたものを半分ほど食べた。しかし心の中では、「またはめやがった」という言葉が鳴り響きつづけ、どんどん膨らんで行った。そしてそれは、数日来の楽になりたいという願望と結びつき、もうこれで全て終わりにしようという決心のようなものに変わっていった。

夫は黙って、昼食はそのままに、どこかに行ってしまった。私は住所、氏名、電話番号だけ書いた紙切れをズボンのポケットに入れて、相変わらず這うようにして玄関を出て、三輪自転車に乗った。三輪自転車は安定はしているが、大変重いので乗ると翌日必ずひどい痛みがくるため、最近はほとんど乗らないようにしていたが、その時ばかりは「あしたはもう無いのだから、痛みを恐れる必要もない」と思って乗り、近くの鉄道の駅に向かい、そこから鉄道自殺をするにふさわしい場所を探した。それはじきに見つかった。

小さな踏切からあまり離れていない所で、線路がカーブしており、線路沿いに小さな茂みがあった。この踏み切りの端に自転車を置いて、あの茂みの所まで行けば良い。そしてそこにしゃがんで姿を隠していて、電車が来たら飛び込むのだ。その時の私には、死ぬ楽になるは同義語だったから全く恐くなかった。

 しかし、五月晴れの休日の昼時で、通りには大勢の人が繰り出しており、踏み切りで自転車に腰掛けたままじっと線路を眺めている私の姿を不審そうに見ていく。これでは駄目だ。線路沿いに歩き始めたりしたら、すぐに見咎められてしまうだろう。私は、夜、暗くなって人通りが絶えたころ又来ることにして、いったん帰宅した。

 そして、また少し横になった後、遺書を書き、庭で日記の一部を焼いた。痛くて立っていられないので、全部は処分できず、床に両足を投げ出して座ったまま、読まれて差し障りのありそうなところだけちぎって破り、テラスで燃やした。

 どこかに行っていた夫が帰ってきたが、何も気づかないようだった。ただテラスに紙類を燃やした跡があるのを見つけて「何を焼いたの?」と尋ねたので「人に見られたくないもの」とだけ答えた。焼くだけは焼いたものの、後片付けまでは出来ず、脇にある水道栓のホースを引っ張って水をかけただけにしておいたからである。

 そのうち夕方になり、何時もの通り宅配の冷凍物がセットになっている食事をレンジで暖めて、二人で口も利かずに食べ、私はまた横になって、暗くなるのを待った。八時頃、夫が犬の散歩に行ったのを見計らって、目立たぬよう黒っぽい服に着替えて、再び三輪自転車に乗った。

 だが目指す場所についてみると、薫風薫る宵のそぞろ歩きか、人の出は昼間より多くなっていた。私は少し待つつもりで、自転車を道の脇に止め、しばらくその上に座って様子を見ていた。行き交う人々がジロジロと好奇の目で見て行った。また駄目だ!小一時間、人の往来が減るのを待っていたが、楽しげに散策する親子連れや恋人たちの数は一向に減る気配はなかった。その上、いくら黒っぽい服を着ているとはいえ、街灯はあたりを皓々と照らし出していたから、線路内に立ち入ればたちまち止められてしまうだろう。深夜でなければだめだ、今日は疲れたからあきらめよう、そう思った途端、それまでは緊張のあまり薄らいでいた激痛が戻ってきた。私は悄然と家に帰った。

 帰宅すると、私の態度から何か感づいていたらしい夫が飛び出してきて「よく帰ってきてくれました。有難とう」と言ったが、私の耳には白々しく響いただけだった。私はそのまま睡眠薬を倍量のんで眠ってしまった。眠りだけが救いだった。

 

 以前、私は不安神経症にかかったことがあり、人に勧められて森田療法を受けたことがある。森田療法の中心は集談会(今の言葉にすればミーティング というような意味で、神経症に苦しむ人のための自助グループの集まり)にある。私は家から近いので練馬集談会に入っていた。それは、参加者の誰もが心置きなく自分の苦しみを訴えられる場所だった。練馬集談会はまた「明翔」という機関誌も発行していた。

 私は、足が痛くなって以来、集談会には出られずにいたが「明翔」には時折、その時々の随想を綴って投稿していた。特に定年になってからは暇があるので、毎月何か書いていた。

 死に損なった翌日、私はもう自殺する気迫を失っていた。しかし夫には何を話しても馬の耳に念仏だし、うっかり同じことを二度言おうものなら「それはもう聞いた」とやられてしまうし、虫の居所が悪ければ「お前は自分に出来ないことばかりあげつらって、否定的なことしか考えない」とか病身だった自分の母親と私を並べてあげへつらい、「お袋のような女とは絶対に一緒になるまいと思っていたのに、そっくりなのを選んでしまった。失敗した」とか言われるのがおちなので、口も利きたくなかった。連休なので夫が家にいることが疎ましかった。

前日のことなども誰かに話したり、あるいは外出して買い物をしたりすれば、幾らかは気持ちを発散することが出来るのだろうが、夫が電話のあるリビングに居座っているので、電話もかけられず、買い物など夢のまた夢に過ぎないのだから、ただじっと横たわって痛みと向き合っているしかない。前日二度も自転車に乗ったつけが回ってきて足の痛みは更にひどい。床の中で、痛みに加え夫への恨みで悶々としていた私は、「そうだ、この顛末を明翔に書こう」と思いついた。それは私にとって必要な排泄作業だったのかも知れない。

それで、痛みの和らいだ時を見計らってはパソコンに向かい、B5の用紙五枚の文章をかくのに一週間かけて、その日一日のことを綴り、編集の任に当たってくれている人に添付で送った。その人はすぐに「あまりに重い内容なので何も言えないが、とも角生きていてくれて良かった」という言葉を添えて、原稿を受け取った旨を伝えてくれた。

 集談会は毎月第四日曜日に行われ、「明翔」はその時出席者たちに配られる。出席出来なかった人にはメールで送られる。私はさしたる期待もせずにその日を待っていたが、添付で届いたのを開いて見ると、私の文章が巻頭に載っていた。そして、編集後記には、私に対する励ましのメッセージを送ろうという読者への呼びかけが書かれていた。

 その翌日から、メッセージが次から次へと届いた。どれもこれも本当に親身になって私に同情し、生きる意欲を回復させようという真心のこもった、優しさに満ちたものだった。それらを読んで私は、自分が優しさに飢えていたことを知った。夫も根は優しいのだが、難病の妻を長期に渡って抱えていて、心が荒んでしまっているのだろう。その上、動作も言葉も生来荒っぽい人なので、その優しさはもう私には伝わってこなくなっているのだろう。それに元々体は頑健で痛みなどほとんど経験したことがないし、性格は単純で忘れっぽいので、私のように複雑で嫌なことをなかなか忘れられない人間とは通じ合うところが無いのだろう。

 それに較べると衆談会の仲間たちは皆、神経症になったことがあり、そのため人には理解されない苦しみを体験していたから、本当に優しかった。

 更に、練馬集談会には掲示板というものがあって、パスワードを持つ人なら誰でも、その時々の自分の問題を書き込み、それを読んで何らかの共感、あるいはいたわりを感じた人がフィードバックをすることが出来るようになっていた。

 私は勤めていた間は忙しかったので、掲示板の存在を知ってはいたが書き込んだことは無かった。しかし「明翔」の編集者は、そこにも書き込むようにと勧めてくれた。そこなら、すぐにフィードバックがもらえるからである。少しでも早く、私の心に支えを与えてくれようという思いやりである。私は、その勧めに従ってすぐに掲示板に痛みの辛さと夫のデリカシーの無さとを書き込んだ。すると、もうその日のうちに、次から次へといたわりと励ましの言葉が書き込まれた。私は、自分が孤独でなくなったことを知った。痛みとは本来他者には決して理解出来ないものであるが、それでも苦しんでいる私に何とか心を寄り添わせ、苦しみを共有しようとしてくれる人たちがいるということは、なんと心安らぐことだろう!「気の毒でただ涙することしかできなかった」というメッセージもあれば、様々な痛み治療を紹介してくれた後に、「絶望的にならないでほしいなーと思います、本当に何も言えないのが申し訳ないです」と書いてくれた人もいるし、「何とか持ちこたえていただきたい、と祈る気持ちです」と書いてくれた人もいる。分った振りをして、余計なことを書いてきた人など一人もいなかった。のたうちまわる激痛とは、本人以外には決して分らないものであるから、親身になって考えれば、何も言えないというのが最も誠実な言葉であろうし、言われて最も心安らぐ言葉である。

中には、自分も線維筋通症で苦しんでいると告げ、二十四歳にして同じく線維筋痛症で激しい痛みに苦しめられ、モルヒネを常用せずには生きて行かれない早瀬さと子という人のブログのアドレスを教えてくれた人もいた。私は早速そのブログを読んだ。そこには私以上に壮絶な痛みの世界が展開されていた。それを読み進んでいくうちに、どうして私だけがこんな目に逢わなければならないのだろうという悲壮感が消え、世の中にはもっと苦しんでいる人もいるのだ、さぞ辛いことだろうという労わりの気持ちに変わった。

私はみんなの善意が嬉しくて、翌日もまた辛さを訴える書き込みをした。また大勢の人が親身に答えてくれた。三回ほどそんなことをして、ようやく大分気が晴れて、こんなにみんなが気にかけていてくれるのだから、神経の再生が終るまで、もう一頑張りしようという前向きな気持ちになることが出来た。言葉は人を活かし、人を殺すとは昔から言われていることだが、私は掲示板に書き込みをしてくれた人々の温かい言葉によって、孤独感から開放され生きる気力を取り戻したのだった。

 そして、こうした心境の変化は、体にも影響を及ぼすもののようで、心なしか、痛みも少し和らいだようだった。

 次の週末、また神戸に行った。先生は私の背中をすーっと撫で下ろして「痛みのひどい時は精神的にも不安定になるものだけれど、案外落ち着いているね」と言われた。私は「新しく良いお友達がたくさん出来たのです」と答えた。

 治療の後で、先生は今の私の状態について説明して下さって、新しい神経が大分育ってきたので、損傷を受けて固着してしまった古い神経とぶつかって、両方が闘っているのでとても痛いのだと言われた。そして、新しい神経がもう少し伸びて古い神経の中に入っていけば、古い神経は自然に壊れ落ち、新しい神経がどんどん育っていくということだった。私は、最大の関心事、それは何時頃のことになるかを尋ねた。先生は「それは、あなたがどれくらい歩くかによってだ」と答えられた。新しい神経は歩くことによって成長するのだ。

 しかし、これが難しい。そう言われて、では一生懸命歩こうと頑張り過ぎれば、翌日はまた恐ろしい激痛が来る。調子を見ながら、杖にすがって、ゆっくりゆっくり、三分歩いてはしばらく道端に座って休み、痛みが楽になったら立ち上がって、またのろのろと帰ってくる。そんなことを一日一回するのが一仕事だった。あまり痛い日は、全く家から出られない。少し楽な日は五分くらい行って戻ってくる。それだけでクタクタになった。しかし、多くの仲間に支えられているという意識のおかげで、精神的には落ち込まなかった。孤独でないということは、人間にかくも大きな力を与えてくれるのか!

 そうこうしているうちに、次の第四日曜日がきて、「明翔」が届いた。すると何と、それは私に対する労わりと励ましの文章で一杯だった。なかには、何年も音信不通だった人からのものもあった。また、自殺する人の心理的特徴の第一は孤独であるという大原健士郎の言葉を引用して、自分も死にたいと思う時には孤独感を強く感じると、共感の意を表してくれた人もいた。

 私は、心の底から有難いと思った。そして、死にたいという気持ちは、どこかへ吹っ飛んでしまった。掲示板にも、自分のことばかり書かず、人の悩みにも心を込めて返事を書くようにした。親身になってもらえた体験が、人の苦しみに対して親身になれる心を育ててくれたようである。病気で入院しなければならなくなった一人暮らしの人の書き込みを読めば、素直に辛いだろうな、心細いだろうなと思える。反抗期の男の子を抱えて、夫が単身赴任しなければならなくなった人の書き込みを読めば、自分は子育てをしたことはないけれど、さぞ大変だろうなと思える。痛みと、夫との葛藤だけの暗い世界に生きていたのが、他の人と真のつながりを持てるようになったのである。こうして掲示板は私の生活の一部となり、私は孤独でなくなった。

 

 その月の「明翔」の原稿の一つは、私を励ますために、正岡子規のことを紹介してくれていた。子規は、誰でもしっている有名な俳人であるが、晩年、と言っても三十五歳で亡くなったが、結核に罹り、全身カリエスに冒され、骨は次第に溶け、体のいたるところに穴があき、そこから絶え間なく膿が出る。包帯をかえるたびにガーゼとともに皮膚がはがれ、穴は空洞のようにひどくなり、起き上がるどころか寝返りを打つことさえ出来ないという状態の中で、四冊の病床随筆「松玉液」、「墨汁一滴」、「病六尺」、「仰臥漫録」を書いた。

 私は、モルヒネを使っていたとはいえ、激痛に耐えながら、それだけの仕事をした子規に興味を持ち、早速それらの本をインターネットで探し、注文した。

 そこに繰り広げられていたのは、やはり壮絶な痛みの世界であった。「病六尺」で子規は自分の苦痛を「病勢が段々進むに従って何とも言はれぬ苦痛を感じる。それは一度死んだ人かもしくは死に際にある人でなければ分らぬ」と書き、「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と繰り返し絶叫し、次々と希望を失っていく。「人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。我病における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四五年前の事なり。その後一、二年を経て

歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉からんと思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言いて笑いしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず座るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなおここに止まらず。座る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり」と病苦に責めさいなまれての心境の変化を語る。これは十数年来激痛に苦しめられてきた私には実感として良く分る。

そして遂には「もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。しかし死ぬることも出来なければ殺してくれるものもない」と嘆く。病六尺から出ることすら出来ぬ身には自殺も出来ないのである。一度、枕元にあった原稿を綴じるための千枚通しと二寸ばかりの鉛筆削りの小刀で心臓を突き刺そうかと思うが、そんな道具では苦しむだけ死ぬ事は出来ないだろうと思って、じっとこらえる。隣室に行けば剃刀があることは分っており、それを使えば死ねると思うのだが、隣室に行くことさえ出来ない。

 線維筋痛症も体のどこも悪くないので、ただ絶え間ない激痛があるだけで、この病気で死ぬことは絶対にないそうであるが、同様に子規も、自殺する自由さえ奪われて、生き地獄を生きるしかないのである。

 だが子規の人生にとっては、病苦が全てではなかった。彼は痛い時には大声で泣き叫びながらも、痛みが和らげば、あまたの俳句、和歌を作り、他の俳人、歌人たちの作品を批評し、古今の詩歌や絵画を論評し、自らも果物帳、草花帳と名付けた写生帳を作り、枕辺の果物、草花を写生して楽しんでいる。その他、当時はまだ世に知られていなかったベースボールを図入りで紹介したり、女子教育、家庭教育について言及したり、はては雨戸の作り方を説明したりと、その好奇心は止まるところを知らない。

 そして、彼はそれらを執筆することを心から楽しんでいるのである。彼の文章のなかには「面白かった」「楽しかった」「笑った」等々の言葉が幾度出てくることか。例えば、隣家の六歳になる女の子が墨絵を描いて見せにくる。子規はそれに朱筆で彩りをつける。そして「さてこの合作の画を遠ざけて見ると墨と朱と善く調和して居る。うれしくてたまらぬ」と述べている。そして「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない」とまで言う。勿論これらはモルヒネを服用して、痛みの和らいだ時に書かれているのだが、なんという前向きな姿勢であろうか。私のように、軽い痛みの時でも、いつもっと痛くなるか、いつもっと痛くなるかと、常に予期不安で一杯の人間にとっては、まさに驚愕に値する。

 では子規のこの明るさはどこからきているのだろう?私は、それは一つには生来のものであると同時に、彼が自分の仕事を本当に好きだったからであろうと思う。

 子規は明治十七年に予備門入学の試験を受け、カンニングのおかげでどうやら入学することが出来るが、勉強は全然しないで、暇さえあれば、俳句の本や小説を読んだり、同好の士たちと語らったりしている。

 試験が近づくと、勉強するために、まず身辺から俳句に関するものを一切片付ける。すると、いつもは乱雑だったところが綺麗になって「何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思うと何だか俳句がのこのこ浮かんでくる。ノートを開いて一枚も読まぬ中に十七字が一句出来た。何に書こうもそこらには句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。また一句出来た。また一句。余りの面白さに試験なんどの事は打ち捨ててしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた」

 その結果、子規は落第し、学校を止めてしまう。俳句は子規の体の中から、のこのこ出てくるのである。努力してではない。

 これほど好きなものがある時、その人の生き方は、必ず前向きになる。その意味だけに限れば、子規は幸福な人だった。従って病を得てからも、時には病苦から解放されんがために閻魔大王に命を縮めてくれるよう願うことがあったにもせよ、死の二日前まで数知れぬほどの俳句、和歌を作り続け、心の奥底では、楽しみを失わずして生きることが出来たのである。

 「病六尺」の後書きで上田三四二氏は子規を評して「子規の子規たる所以、言いかえれば手記の骨頂はこの病苦のさまの真摯な表白にのみあるのではない。一歩、半歩の歩行はもちろん、病床六尺の空間をさえ広しとして身動きならぬ重病の人は、またしばしば心を病苦の外、病床の外に遊ばせることのできる人であった」と書いておられるが、まさにその通りである。本当に好きなものを持つ人間の強みである。

 先に名を挙げた早瀬さと子も、十五歳で最初の詩集「虹色の夢」を出版しながら、十八歳の時に線維筋痛症という病にかかる。繊維筋痛症と言う病名はあまり知られていないが、内臓も含めて体中が絶え間ない激痛に襲われる病気である。全国に二百万人いるといわれるが、原因は不明で従って治療法もなく、ただ痛み止めや抗鬱剤、抗不安薬を投与されるだけである。軽いうちなら治ることもあるが、ひどくなるとモルヒネを使う以外に手は無い。しかも残酷なことに、この病気で命を落とすことはない。

 早瀬さと子の場合は、特に難治性のものだったようで、「治療困難者」の刻印を押され、早くから大量のモルヒネを使っている。

 その痛いことは私すら息をのむほどのもので、彼女は闘病記の中で「痛む。とにかく痛む。背中をナイフでグッサグッサ刺されているみたい。ほんの少しの光や音も痛みに変換されてとにかく痛む。失神してしまいそうだ。内臓痛も激しく胃がちぎれそうに痛む。こんなに痛いのに死なないなんて神様は残酷だ」と書いている。本当にナイフが刺さっているのではないかと背中に手を回して確かめてみる事すらある。

その上、その後しばらくして、更に新しい別種の痛みが加わり、常の激痛の上に一層激しい痛みが時折襲ってくる様になり、オピオイドという新しい薬を処方されるが、それも服用する時期を逸すると全く効かず、ただ意識を失うことを願うしかないほどの痛さに苦しむことになる。医師は命を保てるギリギリの量のモルヒネを処方する。

 それほどの痛みの中でも、彼女は毎日ブログと闘病記を書き、さらに彼女本来の仕事である詩及び小説、脚本、児童文学の創作と多彩な文学活動に励み、個展を開いてはそれらを発表し続ける。これら全ての活動を、彼女は十五歳の時から続けている。その上、自殺防止キャンペーンも行っている。

 勿論、若い女性であるからには、結婚もしたい、赤ちゃんも産みたい。「ドクターに尋ねてみたい。私は痛みのお陰でこれから、どれくらいのことを諦めなければならないのかと」

 だが、その嘆きは長くは続かない。なぜなら、彼女には、やりたい事が山ほどあるからだ。一つの個展が終るとすぐ次の個展に向けての活動を始める。「いつものことだけど時間がない。時間をお金で買えるなら、いまの私は家を売り払ってでも時間が欲しい」「オフもあと三日で終る。それが過ぎればまた嵐のような毎日だ。人目につかないようにオピオイドを服用する生活。私が選んだ生きる方法だから仕方がない」「今夜私の身に何も起こらなければ、美しい朝が来るはず、美しい朝の先には慌しい業務が待ち構えているけれど、それでもそれが私の選んだ道」。

彼女には、美しいものを美しいと感じ、それを表現せずにはいられない詩人としての天賦の才が備わっているのだ。だからどんなに痛くとも、どんなに悲しくとも、病に打ちひしがれることは無い。

 子規同様、これほど打ち込めるものを持っている者は、むごい言い方かもしれないが、幸せである。彼女自身、そう語っている。

 「朝がきた。ありふれた朝の一コマがいまくりぬかれている。愛犬はすでに起き、私を見つめる。何て美しい光景だろうか。何人の人がこの美しさに気付いて生きているのだろう。何度も意識を失いながら訪れた朝はやはり愛おしい。また慌ただしい一日が始まろうとしている私は、それらが始まる前の少しの穏やかな時間をベッドで楽しむ。幸せだ」

 これほどの痛みの中で、自分を「幸せだ」と言える人が、どれだけいるであろうか?努力して出来るものではない。好きなものを持つということは、人間にこれほどの力を与えるのだ。

 

 翻って我が身を省みる。私も物を書くことは好きだ。言葉を探し、文章を構築していくことは、一つの快感である。しかし、それは上記の天才的な二人のように、強烈なものではない。一つには痛み止めを使うことができないから痛みがとぎれることがないせいでもあるが、それ以上に、湧き上がってくる創作意欲が彼らのように大きくないために、痛みに捕らわれ、痛くない時でも、あれをしたら痛くなるから止めておこう、これをしたら痛くなるから止めておこうというようなことが、頭の半分を占めているからである。だから実際の痛み以上の痛みを感じてしまう。

 どうしても前向きになれず、ただひたすらに、この痛みさえ無くなれば、あれも出来る、これも出来ると、全てを痛みのせいにして悲観し、無為に時を過ごすことも多い。朝になれば、それを美しいと感ずるよりも、ああ、また今日も痛みに耐えなければならないのかと、暗い気持ちになる。要するに凡人なのである。それでも、書くことが好きということで、随分救われている。痛みの和らいでいる時には、パソコンに向かっていれば、痛みのことなどすっかり忘れてしまうこともある。

 神様は、足の痛みという方法で、私から色々なものを取り上げられた。旅行も出来ない、デパートで買い物をすることも出来ない、家事も出来ない、展覧会に行くことも出来ない等々、数え上げれば切がない。勿論、車椅子を使えば行動範囲は随分広がる。だが今の私は近所の人の好奇の目にさらされるのが嫌なのでそれには踏み切れず、神戸に行く以外は出かけない。神戸に行く時は、乗り換え駅は全て車椅子を頼んでいる。知った人に会う可能性が少ないからだ。             

だが神様は一つの扉を閉められる時には必ず別の扉を開けておいて下さると言う。私は、痛みのお陰で、集談会の人々の心の底からの優しさを知り、人の輪の広がっていく喜びを知った。それと共に、あるがままの自分を、弱みも含めて、受け入れてもらった体験によって、物を書くことも、以前より自由な気持ちで楽に楽しく出来るようになったし、そのための時間もたっぷり与えられた。

 これが神様から私へのプレゼントなのだろうか?

 人はみな、神様から与えられた役割を生きていると聞いたことがある。それでは、痛みに耐えること、そしてこれほどの痛みのなかでも希望を失わず生きている人間がここにも一人いると、同じ苦しみの中にいる人々に伝えることが私の役割なのだろうか?

 私の痛みはいつ終るとも知れない。年齢を考えれば、神経の再生が始まりはしたものの、中途で終ってしまい、痛みだけが残るかも知れない。神戸の先生は「これが終ったらマラソンだってできるよ」と言って下さったが、それだって、単に私を励ますための言葉かも知れない。

 でも今、私の後ろには、親身になって私のことを考えてくれる多くの人がいる。そして、上述の二人ほどではないが、好きな仕事もある。再び痛みに耐えかねて、死を想うようなことがあったとしても、実行に移す前に衆談会の掲示板にSOSを出せば良い。

 私は、人に支えてもらわなくては生きていかれない、心の弱い人間である。でも今は多くの人の輪の中に身を置いているから、たとえ一日中一人で家にいても孤独ではないし、むしろ充実した生活を送っている。私の自殺未遂事件以来、心なしか夫も少し変わってきたような気がする。荒い言葉を吐かないように気をつけているように見受けられる。でも、これは、生来のものだからあまり期待せず、むしろ私が、それに捕らわれないようにすることが必要なのだろう。

 痛みとの闘いは恐らくまだまだ続くだろう。でも孤独感から解放された私は、もう自ら命を断とうとはしないだろうと思う。