第27回■テーマ 〜能「砧」(きぬた)を探る〜

平成12年2月5日の「能を知る集い」では講師をお迎えし、興味あるお話をうかがいました。
第一部として、能「砧」を探る、砧と本田秀男というテーマで、能楽研究家 清田弘氏、
第二部では、能面師岩崎久人氏を講師にシテの本田光洋氏と対談をお願いしました。


■第一部 「砧と本田秀男」 清田 弘 氏 (能楽評論家)

(清田)金春の謡本での前付けですが、ツレ(侍女・夕霧)が先に出るわけです。
囃子が座につくと何事もなくツレが出て、地謡前に静かに座る・・・「出し置き」とも言いますが、それから始まって、前からツレがそこに居たという約束になります。芦屋の某(シテの夫)の、都の仮住まいということがはっきりするわけです。

宝生流は同様ですが観世流ではツレはワキに従って登場します。 この能は2段構成で、前シテの死が中入り、後シテは幽霊ですが、先のワキの段は前場とは別に一段あると理解した方が劇的にはっきりすると思います。省略される流儀もありますが、この場面あればこそ都と芦屋との距離も実感され、妻を思いやる夫のワキの性格も印象づけられます。 

世阿弥の言葉を元能が筆録した申楽談儀に、「後の世に知るまじ」という予言のとおり各流とも能としては中絶し、後に復活しました。かつて三宅襄氏(能楽評論家1897- 1965)は「この能に限って諸流の演出が悉く別の行き方であり、これは珍しいことで、中断後に各流で工夫し復活した証拠であろう」と言われた。

金春でも昭和38年、本田秀男氏によって復活初演されましたが、いかがでしたか?

(光洋)私の20歳のころでツレを致しました。面は型付けでは「曲見」ですが、「深井」で舞いました。いくらか若い感じがあるのだと思います。

(清田)さて、ツレは芦屋へ行きシテを呼び出します。夫は若い侍女を連れて都で三年過ごしていた。単なる召使であったか、疑いが当然あった。

(光洋)「いかに夕霧。珍しながらうらめしや」とか「なに都住まいを心のほかとや。思いやれ げには都の花盛り」などうまい文句ですね。これは静岡県で亡くなった観阿弥を見ても、旅興行の多かった世阿弥が奥方に言われたのでは? よしこれは使える、と。

(清田)実感が入ってますね。ツレとは対立的であるのが、あと砧を打つ段に至り「夕霧立ち寄り主従共に、恨みの砧うつとかや」とシテとツレが同化されてゆきます。

(光洋)放りっぱなしの男ってわがままですよね、と同化してゆくのですね。そして二人共舞台に入る段になり、砧が聞こえるということになります。

(清田)砧の作り物を出す。簡素なもので各流少しづつ違います。紅(いろ)ナシですよね。

(光洋)父の初演はそうでした。私は紅(いろ)イリでしたことがありますが、イロナ シのほうが落ち着くようです。砧の槌は見ることありますが、下の台はどのような物ですか? 丈夫な木であれば良いのでしょうが。

丁度金春月報の作り物の連載に今月号で、羯鼓台と砧がでています。「三井寺」の鐘楼も舞楽の太鼓もミニチュア化し、砧は美しく飾る、そこに能の考え方が表れているということです。そう思ってイロイリにしたのですが。


(清田)観世流はイロナシですが他の流はイロイリだったか?観世は切戸から、他は橋掛りから出します。後見の大事な役ですね。手間取ってもいけないし。

(光洋)置く場所ですが、初演とその後では違い父も迷ったようですが。

(清田)観世流は通常ワキ前、宝生はきざはしの前、観世寿夫さんが正面に置いて一人で打ちましたが、今は多く演じられてます。
金剛流はワキ前ですが斜めです。観世元正さんもなさったことがあります。 真っすぐだと脇正面から見るとシテの背中しか見えないからとおっしゃって。

名人といわれ、本田秀男さんも尊敬されてた観世華雪という方の、私は脇正面から拝見してて、打つところは見えないのだけれどもほんの僅かの身体の動きで、見えるもの以上のものが伝わってきました・・・。だからそんなに観客サービスする必要はないんじゃないかと。 
さきほどの作り物ですが金剛流では槌をだして、これはリアルな感じになりますが実際に打ちます。 

一般論になりますが「小道具」ってありますが、砧のように小さくても小道具じゃないんです。「作り物」というのは各演能の当日作る、終われば解体してしまう、今は少し事情が変わってきているかもしれないが。それに対していつも常備するものが小道具で、金剛の砧は「作り物」、槌は「小道具」といえる。


(光洋)その区別というのは我々にも非常に大事でして。 
作り物は大概能楽堂にあってこわして置いてあるんです。小道具は各人が持ってくるので、「紅葉狩」の脇のように狩りに出てきたというので、弓矢、太刀を持って出ると言うときは、弓矢は作り物ですから当然舞台になくてはいけない。でも、太刀は小道具なので自分で持ってくるんです。薪能など臨時の舞台の時はっきりしていないと困ったことがおこったりします。


(清田)このごろは作りっぱなしではないですか?

(光洋)大体は解体するでしょう。

(清田)それから、面白いので「絃上」の琵琶も作り物なのですが、金剛流の「楽入」などという小書キでは琵琶を弾きますから本物の琵琶を出すわけです。これは小道具です。

(光洋)話はかわりますが小道具で本当に音を出すのは「道成寺」の「鐃鉢」と「角田川」の鉦鼓だけかと思ってましたが。

(清田)観世流の「道明寺」の笏拍子、これも音がでます。だけど「角田川」のあれは近ごろ鳴らしますよね? だけど観世華雪さんの時代は、打っても鳴らないように中に和紙を張って。鳴るようにやったのは割りとあとですよ。橋岡久太郎さんが打って鳴らしたというので話題になった。

あと「絃上」の「楽入り」ですよね、楽のところで。曲は弾きませんよね、越天楽ということになってますが。その時大鼓の手を休んで、そのかわりにボロンボロンと。


(光洋)羯鼓など打ちますが当てませんね。面白いお話ですね。

(清田)それと(舞台上の)物着。これは着るばかりでなく、脱ぐのも物着です。原則としてですが、女の場合にムードを出す囃子のアシライが入ります。男の役にはアシライません。

(光洋)このあとは名文で良い謡のところになってゆきます。「宮楼高く立って」など

(清田)一番高い調子で謡うとされてます。音程ではありません、調子ですが。本来は囃子がずっとアシライを打つんですけれども、じっくり謡を聞いてもらいたいというんで手を休みます。面白いところです。

(光洋)次の「隣砧ゆるく急にして、月西に流る」の所、私がツレをしまして20才位でしたか、父に直されまして。ゆるくにユリ節があるのですが。(謡ってみる)多分、今の息子共を稽古してあんな風だったかと思うのです。謡い方ひとつでゆるくも聞こえるというわけです。

たとえば月のツからキへの移り方とか。シテの「風 北にめぐり」で当時の学生の友人が本当に北風が吹き抜けたように聞こえたと言うんですね。それ以来プレッシャーで、風吹いたかな、と気になって。


(清田)秀男先生は名人だったけれどもあまりに調べすぎちゃって、こういう場合見る方からすると、こう言うと失礼だけれど余裕がなくて。

(光洋)父の舞台の評に「努力も稽古も充分なのは解るが、見る方はただただ疲れてしまって面白くない」とかあります。
「卒塔婆小町」の謡の録音があるんですが、隅から隅まで工夫して、是れ以上やることないという位考えに考え尽くしていて。でも私などが聞いても面白いとはどうも・・・。


(清田)そうそう、だけど先生がそうやったそのあとにね、そこから脱した時の素晴らしさというものが。だから晩年の芸は素晴らしかった。それだけの努力があった、その結果だと思います。

(光洋)「砧」の録音などを聴くと、初めての復曲とは思えないくらい工夫するところは工夫されているし、金春らしい力強さと繊細さの良さを兼ねあわせて、いいな、と思いました。体質的に合っていた曲なんではないかなと。

(清田)河野由さんも書いていられたけど、だからこの上の境地を、と。この上というのがあるかどうかはわからないけれども皆さん期待していた。「芸に遊ぶ」という、その遊び方をもう少し先まで遊んでもらえればという、そういう期待だったと思うのです。



第二部 「面の魅力」  岩崎 久人 氏 (能面師)

(本田)このつどいで能面師をお招きするのははじめてですが、岩崎さんの面は以前から使わせて頂いております。はじめに、面に対する思いなどをお聞かせ下さい。

(岩崎)従来の能面師は師匠につき各家に伝わる本面(ほんめん)を忠実に写すことを仕事にしています、しかし私自身は新しく打つ面はすべて創作面ではないかと思っています。

本面と全く同じ様に打つ技術はもちろん必要です、しかし、本面が打たれた時とは、周囲の環境や時代のテンポ、食べるもの自体違う現在ではそっくり同じ面は出来る筈がないと思っています。
これは装束付けにも言えることでしょうが、高々数十年のあいだに随分変わっています。

たとえば鉢巻止めの竹釘も昔は額の高い所にありますが、今は眉の辺りに着用していますね。面だけが変わらない訳はないので、現代に合った面があっても良いのではないかと思いながら毎日面を打っています。


(本田)今回の砧の後シテには岩崎さんの面を使わせて頂きますが、一般に砧の前は曲見(しゃくみ)です、父(秀男)は深井を使ったこともあります。後は観世流では泥眼、金春流では痩女を使います。曲見、痩女と言いましても表情に幅がありますが、その辺のところからお話頂きたいのですが。

(岩崎)曲見も深井も中年の女性で用途も同じ様ですが、違いといえば曲見の方が「位」が上です。深井では道成寺は舞えません。深井はより生っぽい様に思います。

(本田)演者からすると深井は激しい動きには向かないですね。曲見の方が構成的に鋭角的というか。岩崎さんはあまり深井をお作りにならない様ですが。

(岩崎)私としては深井はあまり上手くいかないんです。あまり好きではないからかも知れません。しかし今は各流とも道成寺以外の曲はあまり区別をせずに曲見と深井を使っている様です。

(本田)後は、岩崎さんの痩女を使わせて頂きますが、痩女は求塚の菟名日処女(うないおとめ)、定家の式子内親王などに使われます。世阿弥が砧を作った時はまだ痩女は無かった様で、後に日氷(ひみ)により痩女、痩男は創作されたと言われます。

世阿弥が砧でどのような面を使ったのでしょうね。泥眼、姥、あたりを使ったのでしょうか 。
今日は痩女と老女もお持ちいただきましたが、今回はこちらの痩女、三井家蔵の日氷の型ですね、これを使わせていただきます。よく似ていますがどこが違うのでしょうか。


(岩崎)老女も日氷により作られましたが、一番違う所は「位」ではないでしょうか。もちろん髪の毛は白いです。

(本田)私は、老女物はまだ舞っていませんが痩女の方が「位」が上ですか。

(岩崎)難しいのですが表情的には「品」かもしれません。痩女の方がより精神性が高いように思います。


(本田)難しいことですね。痩女の砧の妻の方が老女を使う小野小町より社会的地位が高い訳ではありませんが。能面としての精神性と言うことなのでしょうか。痩女、痩男がなければ能の魅力も半減すると言ってもよいと思っています。

(岩崎)姥なども非常に広い役に使われます。漁師の妻、神仏の化身、伯母捨とか。老女のかわりにも使いますね。

(本田)姥の難しさはどこですか。余り表情を作りすぎてはいけないでしょうし。

(岩崎)品のある姥は非常に少ないんです。私は面を打つ時、第一番に気を付けるのは力強さと品のないものは使い物にならないと、思っています。

(本田)我々に言われている様な気がします。能も同じです。

(岩崎)小面などもそうですが、よく年齢を10代、純真無垢と定義付けられますが、実際には年齢も品位も表情も色々な小面があります。こう作る、というのではないけれど、気持があればそのように出来る、作っている内に面が教えてくれるのです。

しばしば展覧会でこの面は何才位なのですかと聞かれます。何才に見えますかと聞くと、何才位と答えてくれますね。そう、それがこの面の年なのです、と私は言うのです。清純な小面、色気のある小面、三十才位の小面など、舞台で演者に使われることで分類を超えたそれぞれの面の魅力を引き出す事が出来ると思います。

能面は美術品ではなくて道具なのですね。面打ちは美術家であるより職人でありたいと思っています。

以 上

平成12年2月5日
国立能楽堂

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