妄想展示室:「矛と盾」
すこし前の話であるが、さる10/27に元浅草の人形専門展示場マリアクローチェ(2003年2月に閉鎖、2009年新春現在「マリアの心臓」として渋谷で営業中)で行なわれた創作人形作家(故)天野可淡(あまの かたん)の作品展を見に行って来た。
天野可淡と言えばその筋では超有名な作家であるが、私に関して言えば「多関節の可動人形」という存在を知ったのは前世紀に見たこの人の人形写真集(絶版、現在復刻版が出版されている)が最初であり、今思えば人形の「種」を蒔かれた作家と言っても良いかもしれない。
既に故人となって12年弱(当時)が経過し、現存する作品は各オーナーの元で大事に保管されている。今回のような企画でもなければ現物を見る機会はまずない。
いわゆる「ゴシック風」−様式化された人間の暗黒面をモチーフとした※薄暗い会場のなかで蝋燭の明かりに照らしだされる人形はグラスアイの反射が炎の揺らめきに連動して怪しい光を放っていた。作品の幾つかには年月に伴なう損傷が明らかに見られるが作者亡き今となっては作品性を落とさず修復するのはほとんど不可能であろう。蝋燭照明には演出以外にも損傷を目立たなくする意味も含まれているのかもしれない。とりあえず手近な、本体全高1m程の薄絹を纏い椅子に座っている人形に目をむける。
作品周囲には広くスペースが取ってあり全周から観ることが出来るようになっている。方向によって2つ3つと変わる表情。最後に視線に正対し本来表現されている表情を、人形から反射するミラーイメージ※※を感じ取れないものか意識を合わせて※3みる。・・・・・・
戻って来たのは「衝撃」としか表現しようの無いものだった。
作家の注ぎ込んだエネルギーがそのままぶつかって来るような、これまで見て来たいかなる人形とも異なる感触である。2体3体と繰り返すうちあまりの事に頭がくらくらして来るが、折角の機会に見られるもの感じられるものは出来るだけ得ておきたい。
そのうち目線の衝撃にも慣れて来て個々の人形から伝わるイメージが掴めるようになって来る。
こちらの視線を倍ぐらいの力でまっすぐ見返して来る意思の強そうなもの、さらりと受け流してしまうもの、あるいは全く無視してはるか先を見ているもの。
人形から想起する感情イメージも様々である。哀しみを湛えたもの、激しくエロい−身体的なものでなく、脳と意識だけが溶けて行くような−もの、物腰の柔らかそうな落ち着いたもの。ただ市販品や普通のカスタム人形に見られるような澄まし笑顔はどこにも見られない。CD写真集で作品のもの凄さについては承知していたが、いざ本物を目の前にするとそんな予習は軽くふっとばされてしまった。
一番心惹かれたのは会場の1番奥、1角だけやや明かるく照明されている所に展示されていた人形である。
紅の和服を緩く着流し人力車に乗った、全高1.5m程の細面の乙女。一番強烈な意思を放つ「彼女」は、こちらのことはお見通しとでも言いたげな表情で逆に訪問者たちを観察しているようだった。変な話であるが、存在としての「格」は向こうの方が上であると強く認識させられる人形である。
もう1体、少し離れた暗い箇所でガラスケースの中に佇む全高40cmほどの固定ポーズ人形も強い印象を残した。自らの放つイメージで潰れてしまいそうな切ない哀しさを抱えた流し目の表情。あえて不自然なほど細く作られた四肢がそのイメージをさらに増幅する。抱きかかえて何があったか聞きたくなってしまうような、そんな感じの人形であった。
ざっと済ませば30分かからずに全て見て回れるような会場を、気付けば1時間半以上掛けて回っていた。他に用事もある為もう1度各人形を見て回ってからこの場に別れを告げる。帰途の間も「人形酔い」とでも言うべき感覚は残っていた。※4
すっかり圧倒された私であるが、もし万一入手のチャンスが有ったとしても手許に置くことはできない。あの人形達には自分でふさわしい持ち主を選ぶだけの衿持が備わっている様に感じられる。そこで静かに時を過ごし、ときおり衆目の前に姿を見せてくれればそれで十分である。残像だけでお腹一杯になってしまうような、そんな恐るべき人形達に出会ったことは貴重な体験であった。
その後、マリアクローチェ最後の展示会で私はもう1度だけこれらの人形の幾つかに出会う事ができた。最初ほどの衝撃こそないが、頭を鷲掴みにして振り回されるような激しい感覚はそのままである。「彼女ら」を見て以来、私はSDに対する評価を落とさずにはいられないでいる。
さらにその後、映画「イノセンス」記念展示会の会場にて、今度はCD写真集に収録された人形たちの現物を目にする機会に恵まれた。いわば旧知の存在であり、可淡の人形作品としては更に以前の作品になるのだがその独特な世界は健在であった。
固定ポーズフィギュアに対して可動フィギュアの評価が低いのはどうしてか?
@nifty模型フォーラムがWeb化される前、フィギュア会議室で私が発した最後の質問である。もう3年前の話であるが、いくらカスタマイズドールをも含むとはいえ模型フィギュアを扱う場でこれは愚問である。この問いにフォーラム常連の有る方から頂いた意見は下記の通りだった。
可動体は関節部が美観に悪影響を及ぼすほか、固定体のような繊細な塗装技術が使用しづらいためどうしても評価は辛くなる。(要約)
これ以前にも別のスレッドにおいては可動体に対してこのような意見もあった。
造形的にみて、人体とは素立ち状態の体をただ関節で分割して動かせばいいような単純なものではない。また、固定ポーズフィギュアのポーズには作品上の意味があるのだ。(要約)
どちらもしごく全うな回答である。が、私はこれらの意見に落胆してスレッドを放棄した。
造形イベントが増えるこの時期になると、決まってこの時の事を思い返す。
私の愚問にコメントを寄せて頂いた方々には失礼だが、今思えばこれらは愚答ではなかっただろうか。
可動体である以上動かすための何等かの構造を持つのは当然で、それが硬い素材製ならブロック別の関節という事になり分割線の発生は避けられない※。そんなことは可動重視の人形使いとしてわかりきったことである。それを承知であえて挑んだ質問に結局その通りの答えしか返って来なかった事、可動フィギュアの側に立つ意見を引き出せなかった事、さらにこのような回答を誘導する愚問を発した事がなんとも悔しい。
模型フィギュアの魅力に立体造形物としての魅力が強く出ているというのならそれで納得もするだろう。だが実際にはまさに造形力勝負のヒストリカルフィギュアやオリジナル造形のフィギュアに対して、漫画アニメ等原作のある「誰かの似姿」としてのキャラクターフィギュアだけが突出している。つまり元の「誰か」による魅力が主になっているのが現状である※※。
「誰か」の力を借りなくては見向きもされないというのでは可動体への造形力批判をすんなり受け入れるわけには行かない。そもそも、フィギュアを無視できる程度の段差や隙間の範囲内で破綻することなく綺麗に可動させるには関節構造や各部のバランスを綿密に計画する必要があり、固定体以上に造形力が必要とされるのだ。
固定ポーズフィギュアにない可動体の魅力とは「可動すること」、もっと広く言えば「変わりゆくこと」である。所有者の意思に応じてポーズを変えることで、可動体は固定体と比較して個々のポーズの表現力は限られる代わりに多くの表情を得ることが出来、長い間飽きられることなく存在し続けることが出来る。また手に取って動かすという行為の持つ玩具的魅力も可動体の大きな特徴である。
そして本体の可動性のみならず衣装・ヘアスタイル・小物など広範囲に渡る、しかも容易に変更可能な可変要素を持つ着せ替え人形のフォーマットは「変わりゆくことの魅力」を最大限に追求したものともいえる。
いまなお増え続ける人形系Webサイト、人形系イベントの地方への拡大などは可動フィギュア、特に人形系の「変わりゆく魅力」が固定ポーズフィギュアの「固定された故の魅力」に迫る勢いになったことを示しているとは言えないだろうか。
niftyのフォーラムサービスが終了して何年も過ぎた今、この考えを問う場はすでにない。しかし、これを読んでいる方々、特に固定ポーズフィギュア関係者(製作者・購入者・etc )にあえて問う。
それでもまだ可動フィギュアの評価は低いのだろうか?
飽きによる寿命に関して、実際問題として固定ポーズフィギュアがいかに立体造形物としての魅力に富んでいても、それを立体ならではの全方位観賞が出来る状態で展示できる環境は限られている。例えば棚にポンと置いてしまえば、掃除などの機会で手に取らない限り別角度からそのフィギュアを見るということはなかなか無いのではないか。
可動フィギュアの持つ玩具的魅力は、動かすために手に取られることで立体物としての魅力を再認させる効果があると思うがいかがだろうか。
この項目の本題とは離れるが、「誰か」の力を借りていることの弊害が良くわかる事件がつい最近人形界で発生した。古くからの著名カスタマイザである白虎かなめ氏のカスタマイズドール「ひな子」(この人形も前世紀からの存在で、それなりに人気があった)をアゾンインターナショナルが製品化しようとしたのだが、もともとこの人形は実在の芸能人をモデルにしたものであり、その所属事務所から肖像権侵害の申し出を受けたのである。結果製品化中止のみならず白虎氏自身のサイトからもこの人形は排除を余儀なくされ、いわば公的には存在を抹殺された形になった。
私的なカスタムとして実在有名人の人形を製作所有すること自体はさほど問題ではない。重要なのはそれを公に出すに当たってその出自を認識していたのか(この点メーカーのみならずオリジナル作成者にも責任がある)という点である。
「誰か」の力を借りている以上その運命は関係者の意向次第、いわば首根っ子を押さえられているのだ。
2008年のフィギュア界の特徴として、小型可動フィギュアの隆盛がある。MMSとfigma、リボルテックの市場的成功、Q-joyやアトリエ彩系可動フィギュアの登場など、「可動すること」をその魅力の大きな要素とする製品は従来の価値観に変動が起きている事の証明のようにも感じられる。
人形は弄ぶもの
・・・と言ったのは某漫画のキャラクターであるが、オークションサイトや即売会場で高額取引される高度なカスタム人形達の様相に、時にそう言いたくなることもないではない。
これらハイエンドな人形はフェイスやヘアデザインは勿論、衣装小物に至るまで完全にセットされた完成体で、その出来は言うまでもなく素晴らしいものである。※
ふと思ったのだが、これらを入手した人はどのように使っているのだろうか。
全体としての完成度故にそのバランスを崩すようなこと、たとえば何等かの理由で衣装を替えるなどしたくても本体のレベルに見合うものがない、あるいは写真化するにもシチュエーションが限られるなどそのまま展示する以上の扱い方が難しい、極端に言えば着せ替えでない普通の人形や無可動フィギュアと同じ存在になってしまわないだろうか。コレクションはそれで1つの楽しみ方ではあるだろうが、何かもったいないような気がする。
歴史的意味のあるアンティークドールや作家性の強い創作人形ならばともかく、いやそれらでさえもし私の手許にあれば他と同じくあれこれ動かされいじくり回され弄ばれることであろう。人形に人型物体としての魅力だけでなく変わり行く魅力を求める者としては、弄ぶことで生じる新たな表情を見出だすことが正しいつきあいではないかと考えている。
ある程度年季の入った人形使いなら既にご存知の通り、2002年頃から急速に普及している人形がある。
(株)ボークス製の60cm級人形「スーパードルフィー」(通称SD)および縮小版の40cm級人形「ミニスーパードルフィー」(同ミニSD/MSD)。
前世紀末(’98年頃)の発売当初はさほど見かけることはなかったが、現在では1/6界を追い抜かんばかり・・というか、イベント会場における出品数や持ち込み数においては既に抜きさったと言える勢いである。
ここで2つの疑問がある。
最初の疑問への答えはおそらく「周辺装備の充実」であろう。販売当初、ボディ+デフォルト装備のドールアイと「づら」以外何も(衣装さえ)ない状態であったのが、ボークスサイドからの何度かに渡る衣装の提供や限定品とは言え衣装付きセットの登場、さらに1/6という小サイズでの活動に限界を感じた※※古残のカスタマイザや特に衣装製作者が流れて来たことでSDを運用する環境は急速に改善されて来た。このことが一般の消費者が購入する上でコスト面以外の敷居を低くし、今のような大攻勢に至ったと考えられる。
第2の疑問への答えは1つには「初期コスト」が上げられる。SDが1/6より高額とは言え極端な選択をしなければフル装備でも1体十万以下の費用で済むのに対し同サイズのビスクは十万単位、創作人形も作家によるがビスク並かそれ以上の値が張る。手軽に大きな人形※3を入手するに当ってSDという選択肢はかなり有力なものである。
もう1つの、さらに最初の疑問へのもう1つの答えとして造形面での差異が上げられるだろう。旧来の抱き人形やビスクと言った人形達はおおむね10歳以下の子供の姿をなぞって作られている。一方SDは例えばSD13シリーズのような「なんとなくの想定年齢」はあるものの現実の姿を真似たものではなく、「その辺りに年齢設定された漫画上のキャラクターの一般像」や、一部の創作人形(例えば恋月姫の一連の作品)を参考に造形されている。これがSDの主要購買層である漫画なれした世代に対し旧来の人形よりも強い訴求力を抱かせ、結果SDの独走を招いたのではないだろうか。
SDより更に大きい、例えばペーパームーンの等身大(150cm級)人形に一定のユーザー層が有ることも同様の理由と思われる。いわば人形界における新規ユーザー層の開拓といえるだろうか。
この場においてSDの突出に是非を問うつもりはないが、頭打ち感のある1/6界の最近の状況を思うに焦燥感を感じるのも事実である。
今年頭くらいから自分自身に頭打ち感が強く、突破のヒントを求めて創作人形写真集や欧米のカスタム本※を購入している。後者を読んでいて強く感じるのが日本と欧米でのカスタムワークの違いである。
欧米におけるドールカスタマイズ(Makeover・メイクオーヴァーと称される事も)はレストア技術の延長線上にあるようである。前記のカスタム本でもフリマや中古店、ディスカウントなどでなるべく安価に元人形を探す事が推奨されている。そのせいか、本中では染まった肌の漂白や煙草臭さの除去についても紹介されている(日本未発売の薬剤を使用するので適用は難しい。)
これに対し日本のドールカスタマイズは以前主張したようにガレージキットフィギュア製作にその祖を見ることが出来る。古い人形のリペイントよりもカスタム専用に作られた素材(これも日本の状況の特殊性を物語る。もちろんニーズとシーズの関係もあるが)を用いた、いわばキット作例的なカスタマイズドドールが大勢を占めるのはその1例であろう。カスタム用素体として高シェアを持つボークス製品も最初に発売されたのはウレタンキャスト製の「幻の素体」で、現行のEBBボディまで造形的にはほぼ同じラインであることを考えると、まさにガレージキットフィギュアの人形版と言った感である。
そのせいか、ドールメイクオーヴァーにおいてはリアルアイラッシュ※※の付加や生身を摸してきっちり入ったメイクなど細部のリアリティ表現が結構重視されている※3のに対し、日本ではそもそもリアル系フェイスのカスタムをあまり見掛ける事がなく、数も人気もキャラ物ちっくなフェイスの人形が上である※4。
日と欧米におけるカスタムワークの違いを象徴するものとして「カスタムヘッド」、つまりヘッドだけで流通されるカスタマイズドドールの存在がある。ヘッドだけで流通、という形態は海外オークションサイト※5ではほとんど見掛けない。フェイスリペイントのみの人形でも向こうではボディ付きで出ている。
これにはさきに書いた通り元人形の入手方法の違いもあるが、それにより「ヘッドとボディを別に入手して好きなように組み合わせる」という使い方が浸透していることも考えられる。
ヘッドとボディが別に入手される、ということはカスタマイズドドールにおいてどのような意味を持つだろうか?
ボディの選択はサイズ的な問題から衣装の選択、ひいては人形全体のイメージに大きな影響を与える。したがって、ヘッドだけで流通するカスタムヘッドは着せ替え人形としてのアイデンティティを新たなオーナーに委ねている、いわば半完成品と見ることができる。この背景にはカスタマイズドドールを創作人形の一種−アートとして見るか、あくまでも着せ替え人形−玩具として見るかという価値観の違いがあるように思われる。
ところで、現在カスタム向けに単体売りされている人形ボディのほとんどは関節構造を持つ可動体である。可動体ボディを持つ人形は本家たる女玩としての着せ替え人形では傍流に過ぎず、既に生産中止されているものも多いにも関わらず、である。これは何故だろうか。
歴史的に見ると、ドールカスタマイズが世に知られる少し前にリアル等身のキャラもの人形が登場したが、ボディとしてSAJを使ったものがあり原作シチュエーション再現に必要なポーズを限定的ながら取る事が出来た。これらの購買層はガレージキットフィギュアの購買層と重なっており、たまたまSAJが同じ技術で加工できるABS製であったため更なるポーズを取らせるため、あるいは元キャラとの外見上の相違点をより近付けるため改造に走る事も見られ、その延長でフェイスの自作からドールカスタマイズへ進んでいったと思われる。
彼ら新興人形オーナーはおおむねメカ物キャラクタープラモデルの経験を踏んでおり、旧来の人形好きが嫌う関節構造ゆえの隙間には慣れている(「見ないことにする」事も含めて)。美観と可動によるプレイバリューを秤に掛けた時、可動が下がったというべきか。このような状況に呼応する形でガレージキット系の企業から可動体ボディが発売されたのは以前主張したとおりである。
可動体ボディの単体発売は、別方面からも需要を喚起した。イラスト描きを趣味とする者がポーズ人形代わりに可動ボディを購入※6し付属するヘッドに自分で顔を書いてみる、という形でドールカスタマイズへ踏み出すケースが発生したのである。
このような経緯から現在のような可動ボディの隆盛は起こったものと思われる。
古くからの人形好きと異なる方向、いわば「カラダ優先」「動き優先」から始まった日本のドールカスタマイズであるが、マイナー趣味の1つとして認知される※7程度に広まった今、はたして欧米のような美観・アート性重視の方向へ流れて行くのか、それとも現在の状況が続いて行くのだろうか?
現在カスタムドール界ではサイズの大型化が進行している※8。SDやオビツ60cmボディなど、在来のビスクや創作人形のサイズに近づいて来ると同時に衣装やフェイスの高精細化も進んでおり、一見アート性重視のようにも思われる。
しかし、例えばSDオーナーのWebサイトをみると丁寧に扱われてはいるものの決してケース入りで展示しっぱなし、ということはなくあちらこちらに持ち出しては写真を撮り、また1/6クラス同様に特定場面を再現するなど玩具的使われ方、あるいは衣装はもちろん「づら」やドールアイをも時折換装するなど模型的使われ方はそのままである。
おそらく日本においては人形の玩具的側面、変わりゆく魅力は全体的な美観と両立していくのだろう。
最近気付いたことであるが、当時1/6が隆盛した原因の1つにカスタマイズという新しい遊び方を呈示したことが挙げられるのではないだろうか。だとすれば、技術・資材面で一段落した感のある現状を越えるにはさらなる新しい遊び方の呈示が必要と思われる。ちなみにSDに関しては、後発ということもあってそこまて到達してはいないが将来的に同じ事になる可能性は十分有りえる。
本文に記載した状況は、現在では大きく様変わりした。ボークスやオビツ(現地ショップ経由で)の海外進出や、日本のサブカルチャーが注目された影響もあって、今はカスタマイズの内容も作品の流通形態も日本とさして変わらない状況になっている。