演者の独り言■

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見所からは窺い知れない、面の内側から覗いた世界を、シテが語ります。
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4月29日 円満井会定例能「葵上」 2007/4/7 本田布由樹

 女性の嫉妬というテーマにおいて、この「葵上」と「鉄輪」という曲は似たところがあります。
「鉄輪」では、シテの女性は夫が新しい妻を得て自分を捨てたことを恨み、ついに鬼女と化して夫に恨みを晴らそうとしますが、安部晴明の加持祈祷に妨げられて終わります。しかし最後、シテは「時節を待つべしや。まずこの度は帰るべしと。」と再び現れることを予言しています。「葵上」で六条御息所が法力により我に返り、「成仏得脱の身となりゆくぞありがたき」とあるのとは大きな違いです。
 果たしてこの違いはどこから来るのでしょうか?

 葵上という女性は、精神的に幼くてプライドの強さが目立ち、源氏にはあまり愛されていなかったようです。光源氏の愛を得られなかった(失った)という点では、彼女と六条御息所とはむしろ同じ側に立つ人間です。六条御息所の苦悩は、葵上の苦悩でもあったのかも知れません。
 この「葵上」という曲は、タイトルに葵上とついていても、葵上自身は舞台に置かれた小袖としか登場しません。むしろシテの六条御息所に焦点があてられている訳ですが、それはかえって鏡のように、葵上の姿を描き出しているのかもしれません。
 そしてその葵上の存在があるからこそ、六条御息所は「成仏得脱の身と」なれたのかな、と考えたりもしています。


半蔀「立花」を舞う  2007/3/2 本田光洋  

 半蔀は何回か舞っていますが、立花の小書キははじめて舞います。この小書キの特徴はなによりも舞台に生花が出される点にあります。このたびは遠州流の十一世宗家本松斎山本一得師にお願いいたします。

 私どもは生け花と言うことが多いですが、元来、常盤木を「立てる」ことに意味があったといいます。門松、能舞台の松、など同様に神仏の霊が宿る「よりしろ」だと考えられます。若桑みどり著「薔薇のイコノロジー」の中にそのような記述を見たとき、「立花」の小書キの本来の意味を理解できました。近頃はたいそう華やかな花が舞台に出されることもあるようです。そのような装飾的効果だけではわざわざ生花を出す意味があるのか疑問です。

 半蔀のシテの性格は花の精なのか、夕顔ノ上の霊なのか曖昧なところがあります。前シテとワキの僧との関係がはっきりしないからです。
 この立花がそのシテとワキの仲人をしてくれます。今回、常緑の木に季節の花を添えた花となります。その花に引かれて舞台に出ることができれば、と考えています。


清経をめぐるはなし  本田芳樹 <後援会通信より>

能では清経の死後に形見が届けられることになっていますが、源平盛衰記などではまだ清経存命中に送ったものとなっています。
こちらの方が形見を送り返すと言うことから考えるとつじつまが合うのですが、運命の流れに引き裂かれた夫婦の対面という事から能では死後の形見としているのでしょうか。

清経は清盛の長男、重盛の子ですから、平家の中でも清盛の嫡流といえます。 長兄の維盛も八島を出奔の後、高野山で出家して最後は入水して果てています。 平家物語では父の重盛をはじめ、公家的な性格の強い一族として描かれているようです。
大原御幸に「緒方の三郎心変わりせしほどに」とでてきます緒方三郎はもともと清経の父重盛の家人であり、その緒方三郎の離反で太宰府を追われたということが、宇佐八幡の託宣と共に清経が世をはかなんで身を投げる大きなきっかけになったのではないでしょうか。

実は清経が身を投げたのは一ノ谷の合戦の前年で、清経の死後平家は義仲の軍勢を打ち破ってかなり押し戻しています。平家が壇ノ浦で滅ぶのはさらにその一年後ですから、清経の入水はかなりはやまったものだったようです。
都を追われ、太宰府を追われたとは言っても西国一帯はまだ平家の影響力が強かっただろう中で、ひとり静かに身を投げた清経。
そのような状況でしたから、清経の妻が夫の自殺を不実と恨むのもわからないことではないようにも思えます。
「今は恨みを晴れたまえ」と語る最後の有様にも、かえって「聞くに心もくれはどり。うきねに沈む思いの海の。恨めしかりける契りかな」と悲しみを深くする。

しかし、その後一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く一門の没落を見ずに、華やかなりし頃の平家の有様をまだ心にとどめたまま静かに死ぬことができたのは、清経本人にとっては幸いだったのかもしれませんが。


「求塚」への思いさまざま  本田光洋 <後援会通信より>

前シテとツレ二人、いずれも白の水衣を着、若菜の籠を下げて出で立った姿は楚々として大層美しいものでした。何流であったか記憶にはないけれども、そのうちに金春流にも復曲され、心の内の念願叶って私としてはじめて舞ったのは今から十二、三年前になります。調べてゆくにつれ爽やかとばかり言えない曲柄の難しさ、奥行きの深さを知ることとなりました。

さてその前シテの姿ですが、私の初演ではシテツレとも白の水衣でした。名古屋での再演ではシテのみ唐織として、シテの「位」のちがいを視覚的変化によって出すようにしてみました。また唐織の右肩を脱ぎ下げる仕型もあります。
水衣(ミズゴロモ)も右肩脱ぎ下げも、外出の姿、または若菜摘みなどの作業することを表す装束付けです。シテのみ唐織着流しとするのは、あとの二人は侍女という待遇になるといえるでしょう。同装ならばさしずめお友達同志と考えても良いのです。

その女、菟名日乙女(うないおとめ)は、このところに流れる生田川にまつわる昔話を語りだします。一人の乙女をめぐり二人の男が争いついに三人とも死んでしまったのでした。よそ事として話していた女は突如「その時わらわ思うよう」と言い出します。実は自分自らの身の上だと言うのです。古来ここがこの曲の大事な転換点だといわれています。私も謡いの古典的決まりごとのなかでの情景描写力には興味と魅力を感じて日ごろ心がけているのですが、ここはなかなか難しい。舞台の空気の温度がすこしでも変えられるようでありたいと思っているところです。

後シテは砧などと同様、痩女の面姿です。夫の供養によって成仏してゆく砧の女と異なり救われることなく再び地獄へと消えて行く菟名日乙女についてはまた何かの機会にお話しできればと思います。


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