1886年(明治19年)9月
東京府官吏(農商務省)・戸川為継(ためつぐ)の四男三女の三
男として、東京府牛込区(現:新宿区)若松町に生まれた。愛日
小学校在学中に、祖父の生家を継いで「野田姓」を名乗ることに
なった。
|
1899年(明治32年)4月
高等一年生の時、水戸から中村彜が転校してきて、住居が近い
事もあり、大の仲良しになった。
|
1900年(明治33年)4月
私立早稲田中学校二年に編入した。中村彜も同じ年に同中学校
に入学したが、二年生の時名古屋地方幼年学校に転校した。又、
早稲田中学校の同級には、鶴田吾郎もいた。
|
1904年(明治37年)3月
同中学校を卒業。中学高学年の時から三宅克巳の門下に加わり
水彩画を勉強していたが、同年設立された太平洋画会研究所で
も学んだ。この頃、中学幹事、増子喜一郎の感化によりキリスト教
に接し市ケ谷教会の植村正久師より洗礼を受ける。
|
1905年(明治38年)冬
路上で久しぶりに中村彜に出会い、彜が病のために学校を退き
家で画などを描いていることを知った。それから以前の親友の仲
に戻り、写生に連れだったり、火鉢を囲んで夜更けまで語り合っ
たりした。彜は翌年白馬会研究所に入り、次いで太平洋画会研
究所に移った。中村彜は野田半三のことを「半ちゃん」と呼んでい
たという。
|
1908年(明治41年)10月
第二回文展に水彩画「郊外」を出品し、入選した。中村彜も出品
したが、落選した。しかし、彜は翌明治42年に太平洋画会に「自
画像」を出品して奨励賞を受け、第三回文展に「曇れる朝」及び
「巌」を出品して後者に褒状を受けたのを皮切りに、翌年から次々
に優れた作品を発表するようになった。
|
1910年(明治43年)4月
東京美術学校に入学。一年後輩の曾宮一念と親交を結んだ。
|
1915年(大正4年)3月
東京美術学校西洋画科を首席で卒業。大阪のミッションスクール
の絵画講師になった。(奈良の高畑に住んだ)
|
1922年(大正11年)2月
美術研究の為、パリ及びロンドンへの留学に出発。この間イギリス
フランスの他、ベルギーにも滞在し、作品を描いた。、1924年10
月に帰国した。この2ヶ月後に中村彜が、急逝した(37歳)。
|
1925年(大正14年)4月
東京市神田区のYMCA会館で滞欧記念個展を開催した。
|
1926年(大正15年)4月
曾宮一念の後を受け、旧制静岡高等学校の絵画講師になった。
この絵画講師は、戦争が始まるまで勤めた。またこの頃、太平
洋画会の会員になった。
|
1940年(昭和15年)10月
皇紀二千六百年奉祝美術展に太平洋画会会員として、油彩画作
品「野尻湖の朝」を出品した。
|
1945年(昭和20年)5月
東京大空襲により、現新宿区若松町の家屋・アトリエが全焼、同
年7月、当時絵画講師をしていた東洋英和女学院の農園(現小平
市花小金井)に移住した。満州の親戚宅での作品や東京(自宅)
作品の大半が失われたが、親しみ易い画風の作品が多かった。
|
1946年(昭和21年)12月
写生中にひいた風邪をこじらせて、急性肺炎の為上記仮住まいで
急逝した。敬虔なキリスト者で、野田聖人とあだ名されたと言う。
享年60歳。
|